Tiny garden

君の熱で溶かして

 静司くんの部屋は、昔の面影すらなくなっていた。
 ミニカーがいっぱい飾ってあったはずの机の上はきれいになっていたし、漫画が多かった本棚は、今は辞書と参考書がメイン。ラグマットはキャラクターものじゃなくなってたし、おもちゃなんて一つも置かれてない。余計な物の全くない、すっきりした部屋だった。
 ハンガーに掛けられた制服がぴしっとしていて、私は急に我に返る。――私もハンガーに掛けては来たけど、こんなにぴしっとはさせてなかった。お母さんが『希の掛け方は駄目!』と口うるさく言う理由が、ようやくわかった気がする。
 そうでなくても、この部屋は私の目を覚ますのに十分過ぎるくらい、きれいだった。静司くんは私の部屋を見て、おもちゃ箱みたいだと言っていたけど、確かにそう。静司くんの部屋と比べたら、私の部屋なんてまるで子ども用のおもちゃ箱みたいだ。でもってこの部屋は、大人の人の部屋だと思う。
「きれい過ぎてびっくりしただろ」
 静司くんが冗談っぽく言った。
 悔しかったけど、素直に答えた。
「うん」
 それから思った。私ももうちょっと、きれいにしようかな。ぬいぐるみもそろそろ整理整頓しないと、いつまで経ってもおもちゃ箱みたいな部屋のままだ。十六にもなってそんな部屋は似合わない、のかもしれない。
「とりあえず、座れば」
 そう言って、静司くんは床の上に腰を下ろす。ラグマットの上をぽんと叩いてみせたから、私も慌ててそこに座った。
 窓が開いている。風が吹き込んでくる。白いレースのカーテンが揺れている。この部屋も、静かだった。

 私はまた黙った。口が上手く利けそうになかった。
 膝を抱えて座っていると、何だか妙にそわそわした。
 さっきの、無性に泣きたくなる気分がよみがえってきて、どうしたらいいのかわからなくなる。何も言えなくなる。
 今更、不安なんてないのに。
 怖いことも多分、ないのに。
 久しぶりに入れてもらった静司くんの部屋は、落ち着かなかった。久しぶりだからか、随分変わってしまったからか、それとも――。

「希」
 静司くんに名前を呼ばれて、おっかなびっくり顔を上げてみる。
 私を見下ろす静司くんは、少しおかしそうにしてみせた。
「そんな顔するなよ」
 そんな顔って、どんな顔になってるんだろう。知りたいような知りたくないような、複雑な気持ち。笑っていられたらいいのに、そう出来ない。
 まだ口を噤んでいると、静司くんが低い声で続けた。
「俺さ、お前に言ってなかったことがある」
 言ってなかったこと。心当たりがなかった。
 私は黙って瞬きをする。
「今更って感じだけどな。改めて言うのも何か……妙だ」
 静司くんはそう言って、照れたように笑った。
「だから、やっぱ、普通には言わない」
 普通には、言わない? どういう意味?
 また瞬きをした。ちかちかとシャッターを切るような視界の中、静司くんがじっと私を見ている。目を、どこへ向けていたらいいのかわからなくて、私は瞬きだけを繰り返した。
 一呼吸置いて、静司くんは言う。
「希。お前は、いつから俺が好きだった?」
 何気ない口調だった。
 それでいて、力強く響いてくるような言葉だった。
 私は息を呑む。びっくりした。びっくりしていたけど、それよりも途端に溢れ出した考えで頭の中がいっぱいになってしまった。
 いつから。
 私は、いつから静司くんが好きだったんだろう。

 考えたこと、なかったような気がする。
 当たり前だったから。静司くんが好きなこと。斜向かいの、二つ年上の幼馴染みが好きってことは、私にとって当たり前のことだった。他の人を好きになるなんて考えもしなかった。静司くんじゃなきゃ駄目だった。静司くんがよかった。
 一度だけ、違う風に考えたこともあった。――好き、じゃなくて、『好きだった』って。静司くんが私を置いてっちゃって、遠い人になってしまった時にそう思った。その時、私は黄色いゴムのあひるちゃんを恋人にしようとしていた。それでも他の人のことは考えもしなかった。静司くんかあひるちゃんか、どっちかだって思った。
 いつから、なんてわからない。はっきり記憶はしていない。ただ、全部好きだった。子どもの頃、一緒に遊んでくれた静司くん。私の手を引いてくれた静司くん。ゴンが死んでしまったことをただ一人、私に教えてくれた静司くん。急に、私と一緒に遊んでくれなくなった静司くん。あの日、あの庭に戻って来てくれた静司くん。それからずっと、今まで一緒にいてくれてる、また一緒にいてくれるようになった、静司くん。全部大好きだった。
 泣きたくなる気持ちがまたぶり返す。でも奥歯を噛み締めて堪えた。泣いたら言えなくなっちゃう。言いたいことが言えなくなるのは嫌だ。そうしたらまた夏休みより前の私たちに戻っちゃうかもしれないから、嫌。

「私……わかんない」
 正直に答えた。声を振り絞った。
「いつから、なんてわかんないよ。はっきりさせられないくらい、ずっと昔からだってことは確か」
 昔、って言うほど生きてないけど。まだ十六だけど、でもその十六年間はずっと、静司くんのことを考えてたように思う。二年先に生まれて、私よりも先を歩いてる静司くんを追い駆けてきた。十六年間ずっとだ。
「ずっと好きだったよ」
 これも、正直に言った。言えた。
「途中、いろいろあったけど」
「いろいろって何だよ」
「静司くんよりも、やっぱあひるちゃんかなーとか思ったりとか」
 正直に言い過ぎたのか、静司くんはむっとしたみたいだ。すぐに言い返された。
「馬鹿、あんなおもちゃと比べんな。俺の方が絶対に、希を幸せにする」
 うん。
 私は頷く。私も、そう思う。
「俺は、前にも言ったけど。――ゴンのことがあってからずっと、思ってた。どうしたらお前を泣かせずに済むのかって。どうしたらお前を、笑わせたままでいられるのかって」
 静司くんは私の目を見て、言う。
「大人になりたかった。嘘をつくのが上手くなりたかった。あの時は、本当にそう思った。だけど、今はちょっと違う」
 窓から吹き込んでくる風に掻き消えそうなくらい、低く、抑えた声。
「お前には、嘘をつかない方がいいと思った。その方がお前を不安がらせずに済むし、泣かせずに済むだろうし、ずっと笑わせていられるだろうって、そう思うようになってた」
 珍しく素直な笑い方をした静司くん。今日は何だかとっても優しい。
「現に、今日はそうしてた。お前にも、俺自身にも嘘をつかないようにしてた。そうしたらお前がちっとも不安そうにしてなかったから、やっぱりこれでいいんだって思った」
 また、泣きたくなってきた。
 目の奥が熱くて、じんとする。悲しくないのに。うれしいのに泣きたくなってくる。
「希」
 私の名前を呼んだ瞬間に、静司くんは私を抱き寄せた。腕で包むように抱き締めてくれた。心臓の音がする。髪の触れる、かさりという音もする。
 熱かった。腕と手のひらと頬と、服越しの体温と。触れたところ全部が熱かった。溶けてしまいそうなくらい。
 でも、嫌じゃない。夏の日とそう変わりない気温でも気にならない。溶けるならそのまま溶けてしまいたい。
 離れたくなかった。離されたくなかった。
「お前にはもう、嘘はつかない。お前は俺が幸せにするからな」
 静司くんは囁く声でそう言った。
「だから、これからも一緒に」
 その言葉に、私は頷く。何度も頷く。静司くんに抱き着く。抱き締め返す。
 一緒にいよう。絶対、絶対に。離れる必要なんてないし、嘘をつく必要もない。私たちは素直になるだけで、こうして幸せでいられるんだもん。私たちの間には嘘なんて要らない。本当の気持ちだけでいい。
 私も本当のことだけ言おう。嘘なんてつかない。

 静司くんの熱がごく近くに感じられて、伝わってきて、私は大きく息をつく。
 そうして、素直に告げてみた。
「ね、静司くん」
「何?」
「キスの続き、しよっか」
 私の声を聞いた静司くんは、ほんの僅かに腕を緩めた。顔を覗き込んできた。不思議そうな表情が見えて、私は笑う。
「教えてくれる? 私に」
 知りたい。そう思う。多分それを知ったら、私はもっと静司くんの、近いところにいられるんじゃないかって思うから。
 もっともっと近くにいたい。
 溶けてしまうくらいに。
「いいけど」
 静司くんはちょっと、微妙な答え方をした。
「暑くないか? 今日」
「別にいいよ、私は」
 今だってこんなにくっついてる。暑いけど、構わない。
「後で、やっぱ暑いから止めるとか言うなよ」
「絶対言わない」
 私が答えると、静司くんは照れたように笑った。
 それから、白いカーテンのはためく窓を見た。
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