Tiny garden

やさしい夜

 窓を開けた。
 途端に強い風が吹き込んできて、白いカーテンが膨らむ。
 外はすっかり暮れていた。すみれ色の空に、ちらちら星が見えていた。そのせいか風が涼しい。汗ばんだ身体には心地いい。
 やっぱり、夏は終わったんだ。私はそう思った。風の匂いが違うもん。夏の匂いがしてない。
 季節が変わってしまったんだって、はっきりとわかった。

「もうこんな時間か……」
 呟きが聞こえて、私は窓際から振り向く。
 ベッドの上で、静司くんが目覚まし時計を見ていた。目を凝らしながらぼやいた。
「やばい。もうすぐあいつが帰ってくる」
「あいつって、酷い言い方。おばさんに言いつけちゃうよ」
 私が言うと、静司くんがしかめっつらになる。電気をつけていない、薄暗い部屋でもわかった。
「いいんだよ。どうせあれこれうるさいんだ」
「おばさんはうるさくないと思うけどなあ。うちのお母さんなんてすごいよ」
「そりゃお前のいるところではな。猫被ってんだって」
 静司くんがいかにも恐ろしげに声を潜める。
 でも、それを言うなら静司くんだって猫被りだ。うちのお母さんは静司くんのことをずっと、真面目で素直な優等生だと思ってるもん。ちょっと意地悪なところや、ずるいところは知らないはずだ。私は知ってるけど。
 これからは、――私も、猫の被り方を学んだ方がいいのかな、と思う。
「静司くん」
 私は窓際に立ったまま、まだ寝転んでいる静司くんに呼びかけた。
「何?」
 寝返りを打つ静司くん。汗で、前髪が額に張りついている。
 その顔に尋ねてみる。
「静司くんは、言う?」
「何を?」
「おばさんとか、うちのお母さんとか、お父さんに」
「だから、何を?」
「……私たちのこと」
 付き合ってる、っていうのかなあ。何かこの言い方も、まだ慣れない。
 でも間違ってない。そういうことだ。静司くんを彼氏と呼ぶのはものすごく不思議で、だけどうれしくて、やっぱり慣れないことだけど、事実だ。
 このことを知ったら、お母さんやお父さんや、静司くんのおばさんはどう思うだろう。どんな顔をするだろう。想像出来なかった。頑張って想像してみようとしたけど、十秒と持たなかった。恥ずかしい。
 静司くんは大きな手で、張りついた前髪をかき上げた。それからぼそりと、言った。
「言いたくない」
 やっぱり。予想通りの答え。
 私の顔を見た静司くんは、慌てたように言い添えてきた。
「あ、そうは言っても『今は』ってことだからな、あくまでも」
「そうなんだ。今だけ?」
「そうそう、今だけ。今言ったら、散々からかって冷やかして根掘り葉掘り聞かれた挙句、最後には責任は取れるかだの、あんたが希ちゃんをかどわかしたんでしょだの言われるに決まってる」
 早口でまくしたてた静司くん。すらすらとおばさんの口真似が出てきたので、もしかするといつも言われてるのかもしれない。
 ……だけど、かどわかしたって何のことだろう。帰ったら調べてみよっと。
「文句言われないようになってから言う。もう絶対反対されないようにな」
 静司くんは宣言するように拳を振り上げる。
「経済的に自立して、この家も出て、母さんにあれこれ文句を言われないようになってから――」
「そんなに後なんだ」
 思わず、私は笑ってしまった。よっぽど文句を言われ慣れてるのかな。
 一方、静司くんはきょとんとしていた。
「そんなにって? たった五、六年ってとこだろ」
「五、六年ってすっごく先って感じがするよ」
「別にそんなに先じゃない。今までだってずっと一緒にいたんだし」
 そう言われると、そうかもなって気もするけど。
 五、六年後かあ。今はまだちっとも想像出来ない。静司くんはどんな風になってるのかな。私はどうかな。ちゃんと大人になれてるかな。
 きっと大丈夫だよね。静司くんと一緒にいれば。私たちは一緒に、大人になるんだもん。
 あとは五、六年も、秘密を保ち続けていられるかどうかってことだけど――何とかなるかな。

 風に当たり続けていると、頬っぺたが冷たくなってきた。
 私は窓際を離れて、静司くんのいるベッドにすとんと座った。寝転がったままの静司くんが手を握ってきた。温かい手。
「そういえばさ、静司くん」
「ん?」
「学校の友達には、言う?」
 それも聞いておきたかった。友達には言ってもいいか。別にどうしても言いたいって訳じゃないけど、恥ずかしいし。でも話しておいた方がいいこともあるだろうし、一緒に帰ってるところを見られたら、説明もしなきゃいけないし。
 静司くんは少し考えて、それから言った。
「聞かれたら言う」
「ふうん」
 言うんだ。そっか。そういう静司くんってあんまり想像出来ないけど、どんな感じなのかなあ。
「……もしかしたら、自慢したくなって、自発的に言うかもしれない」
 後にぼそっと付け足された言葉が、更に意外だった。
 恥ずかしくないのかな。私なら打ち明けるのがやっとで、自慢なんてとてもじゃないけど無理だと思う。自慢の出来る彼氏だ、とは思うけど――やっぱりこの呼び方、まだ慣れない。そのうち慣れるといいんだけどな。
「自慢、したくなる?」
 聞き返したら、静司くんははにかむような顔になって、
「そりゃ、なるだろ。受験受験で余裕のない時に彼女が出来たなんて、さぞやっかまれるに違いないし」
「やっかまれたいんだ?」
「まあな。やっかまれたいしひがまれたい、大いに」
 静司くんらしい、かもしれない。とりあえず性格はよくない。
「お前も聞かれたら、ちゃんと言えよ。俺がいるって」
 水を向けられて、私は繋いでいた手を握り返した。ぎゅっと。
「言ってもいいの?」
「むしろ言え。学校では隠すな」
「でも、噂になったりしない?」
「その方が好都合。これから構ってやれる時間も減るだろうから、そういう隙を突かれないようにしないとな」
 隙って何の?
 聞こうと思ったけど、静司くんがさも当然みたいな言い方をしたから、結局聞けずじまいだった。まあ、一番聞きたかったことを聞けたからいいや。
 私も言おう。今はまだ恥ずかしいけど、いつか、そのうちに。友達にも言うし、この先いつかはお父さん、お母さんにも言う。その頃には静司くんが私の恋人だってことが、ごく当たり前になってるかもしれない。あまりにも自然で、恥ずかしいなんて思うこともないくらいになってるかもしれない。

「送ってく」
 帰り際、静司くんはそう言ってくれたけど、私はもちろんかぶりを振った。
「いいよ。すぐ斜向かいだもん」
 靴を履いて玄関を飛び出したら、十数える間に着いてしまう。たったのそのくらいだから、心配要らない。
「気を付けて帰れよ」
「この辺りで気を付けることなんてないでしょ」
 昼間、私がそうメールしたら、同じようなこと言った静司くん。だけど今は不満げに、私の顔をちらと睨んだ。
「せっかく心配してやってんのに」
「大丈夫だよ」
 私は笑って、答える。
「また明日ね、静司くん」
 静司くんも笑った。素直になって、優しく笑ってくれた。
「明日も、迎えに行くからな」
「うん。一緒に学校行こうね」

 外の風は冷たいくらいだった。秋の夜の風。夏の匂いはもうしない風。
 それでも、十数えるくらいで帰ってしまうのはもったいない気がして、私は道の真ん中で立ち止まる。
 静司くんの家と私の家の、ちょうど間。家の前を通る道路の途中で、足を止める。見上げてみる。
 静司くんの部屋には電気が点いていた。窓は開けっ放しで、白いカーテンが揺れていた。私の部屋からは見えなくなってしまうから、最後にちょっとだけ眺めておく。
 空には星がちらちら、瞬いている。
 静かで優しい夜だった。ずっと忘れずにいられたらいいなと思う、夜だった。
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