Tiny garden

運命は時が連れてくる(2)

「じゃあ思い切って、やっちゃおうかな」
 背中まである髪を片手で束ねつつ、私はそう口にしてみた。
 するとクロノくんは頼もしげに頷いてくれた。
「任せてください。お姉さんを最高に可愛く仕上げてみせます」
「嬉しいな。なら、クロノくんにお願いしようかな」
 最高に可愛く、だって。リップサービスだとしても嬉しかった。
 思えばここ数年。行きつけにしたいヘアサロンも見つけられなくてジプシー状態だった。これも何かのご縁だろうし、クロノくんの勤務先に行ってみるのもいいかもしれない。それでよさそうなお店だったら、そのまま常連になったっていい。
 そこまで考えて、そういえばまだどこのお店か聞いてなかったなと思いつく。
「クロノくんってどこのお店で働いてるの?」
 その質問を、彼は待ち構えていたようだった。
「よかったらこれも、貰ってください」
 懐からさっと名刺を取り出して、また防火壁越しにこちらへ差し出す。
 名刺を持つクロノくんの手は、思わず目を奪われるほどきれいだった。指が長く、すらりとしていて、夜の景色の中では真っ白な石像の手みたいに見える。芸術品のように美しいのも、彼の商売道具なのだから当然なのかもしれない。
 私は見惚れてしまったことに罪悪感を覚えつつ、その手から名刺を受け取った。さっき貰った箱は脇に抱え、名刺を眺めてみる。"Hair Salon Chronus"――そう記されているのはお店の名前だろう。
「ヘアサロン……クロノス、で合ってる?」
「はい」
 住所はこのアパートからほど近い辺りのようだけど、店名に覚えはなかった。新しいお店なのかもしれない。
 店名の下には彼の名前があった。『店長 黒野翔和』――えっ、店長?
「黒野くん、店長さんなの?」
 驚いて聞き返す私に、彼はいたずらっ子みたいな顔をしてみせる。
「見えません?」
「うん、まあ……だって若いでしょ? まだ二十代そこそこって感じで」
「俺、二十八ですよ」
「一個下!?」
 私と一つしか違わないのに、店長さんなんだ。言われてみれば大物感はあるけど、でもまさか二十八には見えない。
「よく言われますよ、見えないって」
 垂れ目の顔に甘い微笑を浮かべて彼は言う。
「ところでお姉さんのお名前は? 聞いとかないと、ご予約承れないですよ」
「私、三島といいます。漢数字の三に島根の島です」
「三島、何さん?」
「三島都です。京都の都で『みやこ』」
「都さんね。クロノトワです、これからよろしく」
 黒野くんは軽く頭を下げた後、更に続けた。
「ご予約、明日だったらいつでも空いてますけどどうします?」
「明日? いえ、予定はないけど……」
 そんな急に予約を入れても大丈夫なんだろうか。
 戸惑う私の不安を払うように、黒野くんは愉快そうに笑った。
「大丈夫ですよ。偶然にも明日はほぼ空いてるんです」
「じゃあ、お願いできる? 時間はいつでもいいから」
「かしこまりました。ではお客様、午前十時はいかがでしょう?」
「それでいいです」
 本当はこの後、一人で自棄酒でもしてから寝ようと思っていた。だけど涙は夜風で乾いてしまったし、明日は午前中に用事が入ってしまった。泣いてる暇も、お酒を飲んでる暇だってない。
「では明日の午前十時に、三島都様。お待ちしております」
「お願いします」
 初めてのショート。試すとなると、今からちょっとどきどきした。
 それを今日会ったばかりの隣人に頼むというのもどきどきものだ。
「じゃあ都さん、今日は早く寝た方がいいですよ。ここにずっといたら風邪引きます」
 黒野くんの言葉に、私も納得して応じた。
「それもそうだね。いろいろありがとね、黒野くん」
「どういたしまして、都さん」
 そう言うと黒野くんは二十八には見えない顔でまた微笑んで、
「ではおやすみなさい、また明日」
 挨拶を残して一足先に部屋へ戻ったようだ。彼の姿が消えたかと思うと、ベランダの戸が静かに閉まる音が、防火壁越しに聞こえた。
 私も深呼吸を一度して、冷たい夜風をいっぱいに吸い込んでから室内へ戻る。
 これから玄関の靴を揃えて、着替えて、お風呂にも入って、軽くだけ何かつまんでから寝よう。
 明日は早いからもう泣かない。それどころか私、思ったよりも元気だ。

 土曜日、私は貰った名刺に書かれていた住所を訪ねた。
「ヘアサロン、クロノス……ここかな」
 うちのアパートからほど近い、住宅街の一角にそのお店はあった。白レンガ造りの小さなお店はまるでカフェのような可愛らしい外観だった。窓が他のお店より小さめなのもヘアサロンっぽく見えない理由の一つだろう。
 扉には張り紙がされていた。それによればこの店は明日、日曜日の午前九時半にオープンするらしい。
 ということは、今日はまだ開店していないようだ。
「予約、今日だったよね……」
 急に心配になってきた。昨夜、黒野くんは『土曜の午前十時』と言っていた覚えがあるけど、私の記憶違いだったらどうしよう。最悪、昨夜の出来事は失恋の痛手が見せた幻覚という可能性だって――さすがにないか、素面だったし。
 私が戸惑っていると、不意にドアベルの音が響いた。
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」
 そして扉が開き、見覚えのある顔が目の前に現れる。
 黒野くんだ。毛先がパーマがかったアッシュブロンドの髪、垂れ目の顔に浮かべた甘い微笑みも記憶にある通りだった。
 私は恐る恐る聞き返してみる。
「おはようございます。あの、今日の予約で間違いなかった?」
「合ってますよ」
「でも、ドアに明日開店ってあるけど」
「だから予約空いてたんです。偶然でしょう?」
 黒野くんは平然と言うと、私を店内へ招き入れた。
 お店の中は壁も床も木目調で、温かみのある内装だった。店内はそれほど広くなく、スタイリングチェアは三脚、シャンプー台も二つしかない。各備品はどれも真新しくぴかぴかで、鏡はもちろん床まで姿が映りそうなくらい磨き上げられている。
 店内には、黒野くんと私以外に誰の姿もなかった。
「都さんがこの店の初めてのお客様ですよ」
 私をスタイリングチェアへ案内しながら、黒野くんが言った。
「そうなの? あ、オープン前だから?」
 聞き返すと彼は頷き、
「今日は午後からスタッフと招待客を呼んで、リハーサルの予定なんです」
「へえ、開店前日ってそういうことするんだ」
「そちらに来ていただいてもよかったんですけど、どうせなら俺が切りたかったから。リハより先に都さんをお招きしてみました」
 そして私を座らせた後、椅子をぐるりと回して鏡の前に向き合わせた。
 目の前の鏡にはスタイリングチェアに座る私と、その後ろでブラシを手に取る黒野くんが映っている。私は少しだけ腫れぼったい目をしていた。
 ダンガリーシャツの袖をまくった黒野くんが、優しい手つきで私の髪にブラシを入れる。心地よく髪を梳いていく。昨夜見たのと同じように、彼の手は芸術品のようにきれいな、すらりとした手だった。この手が私の髪をどんなふうに変えてくれるのか楽しみだった。
 同時にほんのちょっと、気後れする気持ちもあったけど。
「お客様第一号が私でよかったの?」
 鏡越しに尋ねると、黒野くんが顔を上げて目を合わせてくる。
「都さんがよかったんです」
 あっさりそんなことを言われて、反応に困った。
「縁起とか気にしない? 最初のお客様が失恋した人なんて」
「お客様はお客様です、理由は関係ないですよ」
 黒野くんはすらりとした手で私の髪を一房、軽く持ち上げてみせた。髪を見る時の目つきは真剣だ。
「それに、昨日言いましたよね。都さんは絶対にショートが似合います」
 リップサービスとは思えない、熱のこもった口調に聞こえた。
「俺が都さんを最高に可愛くしてみせます。信じて、任せてください」
 私も髪を短くするのは今回が初めてだ。下手に自分で決めるより、黒野くんに任せた方がいいと思った。
「じゃあ、お願いします。好きなようにしてくれていいから」
 そう応じると、黒野くんは一瞬目を瞠ってから笑った。
「思い切りいいですね、都さん」
「失うものがないからね」
 鏡の中の私も笑う。この長い髪も見納めだ。

 その後、黒野くんは私をシャンプー台へと案内した。
 椅子に座った私の襟元にタオルを巻き、膝には毛布をかけてくれた後、黒野くんはそっと椅子の背もたれを倒した。
 ほぼ仰向けの姿勢で彼を見上げた時、どういうわけか少し緊張してしまった。天井にある照明からの強い光を背負い、黒野くんの顔は暗く陰って、別人のようなアンニュイさを覗かせていた。
 でも私の顔を見た彼は微笑み、ほの暗さはあっという間に掻き消える。
「都さん、緊張してます?」
「ご、ごめん。知ってる人に髪洗ってもらうの、なかなかなくて」
「リラックスしてていいですよ。顔にガーゼかけますから、目つむって」
 言われた通りに目を閉じる。数秒遅れて、顔に薄い布がかけられたのがわかった。
 頭上ではお湯の迸る音が聞こえる。
「熱かったら言ってくださいね」
 その声の後、黒野くんの手が私の髪に温かいお湯をかけ始めた。まずは生え際から耳の傍、つむじからうなじへと、大きな手でゆっくりと撫でながらお湯を馴染ませていく。湯温はお風呂の温度のようにちょうどよく、心地いい。
「都さん、熱くないですか?」
「ちょうどいいです」
 黒野くんのシャンプーは上手かった。指の腹を使って揉み解すように洗われるのがとても気持ちよかった。さくさくとリズミカルに泡が鳴るのもいい気分だった。汚れだけじゃなくその奥のもやもやした鬱屈やストレスまで全部溶け出していくような――ずっと洗われていたいと思うくらいの気持ちよさだった。
 それで私が思わず息をつくと、黒野くんがくすっと笑うのが聞こえた。
「気持ちいいですか」
「うん、とても……」
 もう少しリラックスしていたらこのまま眠りに落ちてしまったかもしれない。緊張しててむしろよかったみたいだ。
「黒野くん、シャンプー上手いね」
 言ってしまってから、店長さん相手にそれは失礼だと慌てて言い直す。
「ごめん、店長さんなんだから上手いのは当たり前だね」
「こう見えて、下積み長いですからね」
 指を動かしながら黒野くんは答えた。
「新人の頃は一日中シャンプー台担当でした。大抵のお店ではシャンプーは新人の仕事なんです」
 それなら今、店長の黒野くんに洗ってもらっているのはとても光栄なことなんだろう。
「そうやって頑張ったから、お店持てるようになったんだね」
 再びシャワーの栓を捻る音がした。
「運もよかったんですけどね。ここ、元は俺の先輩がやっていた店なんですよ」
 温かいお湯で私の髪から泡を洗い流しつつ、黒野くんが続ける。
「先輩が店を畳むことになって、誰かに譲るって話が持ち上がって……これはチャンスだと思って、俺が名乗り出たんです。ずっと独立したいと思ってましたから」
 一歳しか違わないというのに、黒野くんは随分としっかりしている。独立したい、自分の店を持ちたいって二十代のうちから思えるのはなかなか素晴らしい向上心だ。私も見習わないとな。
「ただ、こっちに住んだことないんで土地勘あまりないんです」
 そこで黒野くんは歳相応の笑い方をした。
「スタッフは皆この辺出身なんですけどね、俺だけ余所者で。早く馴染まないとって思ってるところです」
 そうだ、黒野くんは引っ越してきたばかりだっけ。この辺の人じゃないのか、って私もそうなんだけど。
「都さんは出身、ここなんですか?」
 髪を洗い終わった後、タオルで拭きながら問われた。
「ううん。でももう七年住んでるから、故郷より詳しいよ」
「七年もですか、俺の大先輩ですね」
 黒野くんが、私の顔を覆っていたガーゼを取り払う。
 ゆっくり目を開けると、私の髪を拭く黒野くんと視線がぶつかる。
「それなら、お薦めの場所、今度教えてもらえませんか?」
 その言葉を、かつて私は別の人からも聞いていた。
『この辺りのことまだ全然知らなくて。三島さん、よかったら教えてください』
 江藤くんの温かい笑顔が蘇り、ふと切なさがぶり返す。
 だから私、教えてあげたいなって思ったんだ。この町のこと。科学館のプラネタリウムのこと。
「……都さん?」
 名前を呼ばれて我に返る。
 顔を覗き込む黒野くんは怪訝そうだった。いきなり目の前で思い出に浸られたら、そりゃ変に思うだろう。
「ううん。お薦めの場所ならいつでも聞いて」
 私はできる限り明るく答えた。
 今はもう、自分の過去さえ笑い飛ばしたい気分だった。

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