Tiny garden

運命は時が連れてくる(3)

 シャンプー台からスタイリングチェアへ戻り、いよいよ髪に鋏が入る。
「男心って難しいね」
 銀色に光る鋏を持つ彼に、私は鏡を隔てて話しかける。
「そこまで、難しい相手を好きだったんですか?」
 黒野くんの鋏は速い。会話をしながら私の髪をためらわず切り落としていく。
「難しいって言うか、今になって考えれば、彼のこと全然わかってなかったんだ」
 江藤くんに彼女がいたこと、それでも私の誘いにはついてきてくれたこと、私によく懐いてくれた理由――客観的に見ればわかるものなのかもしれないけど、私にはずっとわからなかった。わからなくて、一人で舞い上がってしまった。
「懐いてくれたからちょっとは脈あるのかなって、期待しちゃった」
 切られたという感覚さえないくらいの速さで、私の髪が落ちていく。
 ケープの上に、床の上に、はらはらと降り積もる。
「いつもこうなんだよね……。好きな人ができる度、相手の気持ちを読み誤るの」
 二十九年生きてきて、今回が初めての恋ではないし、初めての失恋でもない。
 でも思えばいつもこうだった。好きな人ができて、相手のちょっとした態度に舞い上がって、突っ走った挙句に勘違いだって気づく。
「異性だからなのかな。男の人って何考えてるかわかんない」
 私がぼやくと、黒野くんは気遣うように小首を傾げた。
「傷ついたんですね、都さん」
 そうなのかな。一人で突っ走って傷ついてるんだから、誰を責めようもないけど。
「俺に言わせると、異性どころか他人は全員わかんないです」
 と、黒野くんが鏡越しに言った。
「男だから女だからってこともなく、何考えてるのかわからない相手ばかりです」
「え、そんなに範囲広げちゃう?」
 異性のみならず同性のことまでわからないなんて、と思いかけたけど。
 言われてみれば私だって、女友達の気持ちも一から十まで把握してるわけじゃない。ただ同性だから予想しやすいというだけで、本当にわかっているとは言えないのかもしれない。
「はい。それが悪いって言うんじゃなくて、そういうもんなんだと思います」
 黒野くんは言葉もまた潔かった。
「この世の中わかんない奴ばっかりで、そういうのが楽しいのも事実なんですけど」
 きっぱりと言い切った後、静かな声で付け加えた。
「だからこそ、わかりあえる同士って運命的ですよね」
 運命。その単語が少し唐突に思えて、私は目を瞬かせる。
「わかんなくて、一緒にいれば傷つくような相手は、運命の人じゃないんですよ」
 それが持論であるかのように、黒野くんの口調は自信に満ちていた。
「都さんの運命の人は他にいます、きっとね」
 運命の人、か。
 江藤くんじゃないのはもうわかったけど、一体どこにいるんだろう。私も二十九だし、ぼちぼち会えてもいい頃だ。
「黒野くんは運命って信じる人なんだね」
 私が聞き返すと、黒野くんは鋏を動かしながら、
「都さんは信じない人ですか?」
「ううん。むしろ好きな人ができる度に思ってる、この人が運命の人だって」
 毎回思ってて、毎回外れてる。
「だからつい暴走しちゃうんだ。尽くすって言うか、世話を焼きたくなる性分だから余計に。私が彼を幸せにするって思って、でも向こうには迷惑かけるだけで。そういうのの繰り返し」
 尽くす女なんてもう流行らないだろうし、男の人から見れば可愛い女ではないのかもしれない。でも好きになると止められなかった。いつだって、そういう恋をしてきた。
「そういう恋がしたい人も、いますよ。絶対」
 黒野くんが笑う声と、鋏が髪を切り落とす軽快な音が耳をくすぐる。
「焦らないで待っていれば会えますよ、都さんだけの運命の人に」
「そう、だといいな……」
 彼の言葉が信じがたいというわけではない。どちらかと言えば信じたい気分でいっぱいだった。さすがに失恋したての今日、次へ行こうなんて気持ちにはまだなれないけど。
 もう少ししたらまた頑張れそうな気がする。
 いつかは、私だけの運命の人と出会えるかもしれない。
「そうですよ。運命は、時が連れてくるんです」
 黒野くんがふとそう言った。断定的な口調とも相まって、神秘性のある言葉に聞こえた。
「それ、誰かの名言なの?」
「いいえ、俺の持論です。時には待つことも大事だって思います」
 鏡の中の私は長かった髪をばっさり切って、見慣れない顔をしている。黒野くんはそこで鋏を持ち替え、器用な手つきで毛先を梳き始めた。
「うちの店の名前、『クロノス』って、時間の神様の名前なんです」
「そうなんだ。神様の名前、かあ」
 聞いたことがある。時間を表す"chrono"という単語は、神様の名前から来ているんだって。
「それなら黒野くんは、待ってよかったって思ったことがあるんだね」
「ええ、今も思ってます」
 鏡の中で、彼が少しはにかんだように見えた。
 多分、黒野くんは焦らずに待ったからこのお店を持てたんだろう。彼も言っていたはずだ、『先輩が店を畳むことになって』――こんなによくしてもらったし、このお店、繁盛するといいなと思う。
 やがて、鏡にはショートヘアの私の姿が現れた。軽く洗ってからドライヤーで乾かした後の髪は、顔に沿うように、やや前下がり気味に揃えられている。首を動かすと毛先が無造作にふわふわと揺れた。前髪は少し厚めだけどトップがふんわりしているから重くは見えない。思ったよりも可愛い仕上がりに、鏡の中で照れ笑いを浮かべてしまう。
「わあ……何か、想像以上にいい感じ」
「似合うでしょう?」
 黒野くんが鏡を持ち、後ろ側も見えるよう映してくれた。襟足もすっきり短めで、首の後ろが露わになっている。肩も背中も軽くなって、生まれ変わったような気分だった。
「ご満足いただけましたか?」
「うん、とっても! 可愛くしてくれてありがとう!」
 私の言葉に黒野くんは得意の甘い微笑を浮かべ、
「喜んでもらえて俺も嬉しいです。ほら、耳を出しても可愛いですよ」
 サイドの髪を指先で持ち上げ、私の耳にかけてみせる。
 その時、指が耳に触れてどきっとしたことは、彼には秘密だ。

 月曜日、出社した私は当然ながら髪を切ったことについて質問攻めを受けた。
 年上のおじさま方は揃いも揃って『どうして髪切ったの? 失恋?』なんて聞いてきた。だから正直に答えておいた。
「ヘアサロンが近所にできて、そこの美容師さんに薦められたんです」
 女の子達からは仕上がりのよさを誉められ、どこのヘアサロンかと口々に尋ねられた。これも正直に答える。
「日曜日にオープンしたばかりのお店で、クロノスっていうの」
 黒野くんにはお世話になったし、少しでも宣伝してお店に貢献できればと思った。ささやかな恩返しだ。
 そして江藤くんには、思っていたより普通に話しかけられた。
「三島さん、髪切ったんですね。可愛いですよ」
 いつもの優しく、温かい笑顔でそう言われて、さすがにちょっと複雑だった。
 彼にとっては私を振った自覚さえなかったんだろうか。それとも、あえて普段通りに振る舞ってくれているだけ?
 結局、江藤くんは最後まで、私にとって『わからない人』だったということだろう。

 残業を終えて帰途に着いたのは午後十時過ぎだった。
 アパートの裏の通りに差しかかったところで、
「お帰りなさい、都さん」
 こちらへ面した二階のベランダから、黒野くんが手を振っているのが見えた。
 お帰りなんて言ってもらったの、いつ以来だろう。私は嬉しくなって、手を振り返した後すぐにアパートの階段を駆け上がった。自分の部屋のドアを開け、靴を脱いで今日はちゃんと揃えて、でも着替えはしないままでベランダへ出る。
 防火壁の向こうから顔を覗かせ、黒野くんが微笑んだ。
「都さんを出迎えようと思ったんだけど、結構帰り遅いんですね」
「いつもじゃないけどね。私を待っててくれたの?」
「今日、会社行くって聞いてましたから」
 どうやら、気にしてくれていたみたいだ。
 私はベランダの手すりにもたれかかり、防火壁の向こうで同じように寄りかかっている黒野くんを見る。夜風は少し冷たくて、剥き出しの首の後ろが涼しかった。
「会社の皆に『どこで切ったの?』って聞かれたよ。宣伝しといたからね」
「ありがとうございます」
 黒野くんが嬉しそうに頭を下げる。
 せっかくいい報告をした後で、わざわざ湿っぽい話題を出すのもどうかと思った。だけど気にしてもらっている以上は黙っているのもよくない。私は何気ないそぶりで続けた。
「あと、彼にも『可愛い』って誉められた」
 そこで黒野くんが笑みを消したから、代わりに私が苦笑しておく。
「大丈夫。何もなかったって顔されて、かえって諦めついたから」
 私が髪を切ることで、江藤くんが気に病むんじゃないかって心配もしたけど、考えすぎだったみたいだ。
「都さんが元気そうでよかったです」
 黒野くんが、気遣うように言ってくれた。
「うん、元気。黒野くんのお蔭だよ、ありがとね」
「お役に立てて嬉しいです」
 役に立ったなんてものじゃない。黒野くんは私の心を救ってくれた大恩人だ。
 土曜日、私の髪を切ってくれた後、彼は私から代金を受け取ろうとしなかった。
『開店前のリハーサルですから、お代は結構です』
 微笑みながらそう言って、それでも私が食い下がると、その代わり常連になってくださいと会員カードを作ってくれた。私も当然そのつもりでいる。そのくらいしても尚、恩返しには足りない気がした。
「……そうだ。お礼の代わりになるかわかんないけど」
 ふと思い立って、私はスーツの内ポケットからお財布を取り出す。
 そこにずっとしまっておいた、プラネタリウムのチケットを黒野くんに見せた。
「この辺でお薦めの場所が知りたいって言ってたよね。これはどう?」
 黒野くんの芸術品みたいにきれいな手がこちらへ伸びて、それを受け取る。二枚あることに驚いたようだ。見開かれた目でわかった。
「科学館……プラネタリウム?」
「そう。何回か行ったけどいいとこだったよ、ここのは音響も最高だし」
 全部一人で行ったけど、まあそれはいい。
「お友達とでもデートでもいいし、行ってみたらどうかな」
 チケットをしげしげと眺める黒野くんに、私は説明を添える。
 すると彼は裏面まですべて見た後、顔を上げて申し訳なさそうにした。
「いただいちゃっていいんですか? お値段、結構しますけど……」
「もちろんいいよ、使ってくれた方が助かるし」
 さすがに今、私一人で行く気にはならない。有効利用してくれる人にあげるのが一番いい。
 黒野くんは何かに気づいたように私をじっと見た。
 それから、
「都さん。俺の店、水曜日が休みなんです」
「うん、会員カードにもそう書いてあったね」
「都さんは土日がお休みですけど、水曜の夜は空いてませんか?」
「水曜の……夜?」
「プラネタリウム、夜十時までやってるそうですから」
「……えっ、わ、私と?」
 彼の言わんとするところを察して、私はうろたえた。
 まさかと思う。だって。
「駄目ですか? 俺、都さんと行ってみたいんです」
「な、な、何で?」
 私の声が裏返ったからか、黒野くんはくすくすと声を立てて笑った。
「都さんも、好きになるなら俺みたいなのがお薦めですよ」
 唐突に何を言うのだこの人は。こっちは失恋したばかりで、そりゃ思ったよりも浅い傷で済んだけど、次の恋なんて考えられる段階ではないはずで――。
 なのにちょっと、どぎまぎしちゃってる自分が憎い。
「俺は都さんにとって、わかりやすい男だと思うんです。どうですか?」
 そう言うと彼は、さっき手渡したばかりのプラネタリウムのチケットを私に差し出してくる。
 夜風が私の切りたての髪を揺らし、耳元をくすぐる。あの時の黒野くんの指みたいに。どぎまぎしてるのも、もしかしたらそのせいかもしれない。
 プラネタリウムは好きだった。一人で何度も行ったことがあるくらいだ。一緒に楽しんでくれる人がいたら嬉しいと思う。それがもし私の運命の人だったら、最高だと思う。でもまさか、それがこないだ引っ越してきたばかりのお隣さんだなんて偶然は、あり得るんだろうか。
「私で、よければ……」
 迷いながらも、私はチケットを手に取る。
「よかった。絶対一緒に行きましょうね」
 黒野くんの微笑はとろけるように甘い。頭がくらくらしてくるほどだ。
 いいのか私。ついこの間まで仕事の励みにするほど好きな人がいたのに。こんなにも早く別の人とデートだなんてもはや浮気みたいなもんじゃないのか。いや別に付き合ってたわけでもなんでもないし誰に義理立てする必要もないし倫理的にも何ら問題はないんだけど。
 私の運命を、ようやく時が連れてきてくれたんだろうか。
 それがわからないから私は戸惑う。いつもの恋の始まりとは違い、何だかすごく、うろたえている。

 そんな私を見て、甘く微笑んでいる黒野くんは――。
 そういえば時間の神様とよく似た名前だ。たった今、思った。
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