Tiny garden

運命は時が連れてくる(1)

「三島さんすみません、俺、そんなつもりじゃ……」
 江藤くんのその言葉で、私の恋は粉々に砕けた。

 舞い上がってるって自覚はあった。
 でも同じ職場の子を好きになったら誰だって多少は浮かれるはずだ。毎日会えるんだから。
 私も江藤くんの優しさ、温かさに惹かれ、その笑顔を見られることを何よりの楽しみにして日々働いてきた。江藤くんが一緒なら残業も苦にならなかった。それどころか残業を終えてネオンも消えかかった街を二人で歩いて帰った夜なんかは、残業に感謝したい気持ちでいっぱいになったほどだった。
 だけどそれも、たった今全て壊れてしまった。

「三島さんには仕事でお世話になってますし、ここまでしていただくのは悪いです」
 こちらを立てる物言いで、江藤くんは私の誘いを断ってきた。
 私はプラネタリウムのチケットを引っ込めるに引っ込められず、ただ立ち尽くしている。今日、彼に渡そうと買ってきたものだった。
「今までにも奢っていただいたことありましたし、そう何度となると……」
 そうだ、デートもした。二回くらいご飯を食べに行った、二人で。
 私はデートのつもりだったけど、江藤くんはそうじゃなかったんだろう。
「それに俺の彼女、やきもち焼きで……こういうの、知れるとまずいんですよ」
 彼女持ちだったという事実さえ、今、この瞬間に初めて知った。
 結局はその程度の間柄だったというわけだ。
「誤解されちゃまずいよね、ごめんね」
 ようやく発した私の声は、悪い魔女みたいにしゃがれている。
「いえ、こちらこそすみません」
 江藤くんが詫び返してきた。
 私が引いたからか、少しほっとした様子に見えた。
 皮肉なことに、彼が安心してみせたら私の方までほんのちょっと気が楽になってしまった。本来なら楽も何もない、打ちひしがれるべき局面だというのに、彼の表情が和らいで嬉しいと思ってしまう私がいる。
「じゃあ、これ……」
 仕方ないから、せっかく買ってきたチケットを江藤くんに譲ることにする。
 もともと彼が見たがっていたから取ったチケットだった。就職でこの町に来て三年目の江藤くんは、生まれてから一度もプラネタリウムを見たことがないのだという。それならと私はここの科学館を紹介してあげて、
『試しに一度行ってみない? 結構設備がよくて見応えあるよ』
『いいですね、行ってみたいです』
 そんな会話を交わした記憶も、まだ真新しく残っていた。
 その時の『いいですね』だって、私と行きたいと言ってくれたわけではなかった。肝心なところで臆した私が曖昧な聞き方をしたのがいけなかったんだろう。
「チケット、あげるよ。彼女と行けば?」
 私が再び差し出そうとしたチケットを、だけど江藤くんは受け取らない。
「そんな、悪いですよ」
「でも無駄になっちゃうし、デートで行けばいいじゃない」
「安くないんですよね? 三島さんこそデートで行かれたらどうですか?」
 江藤くんはいつも通りの優しく、温かい笑顔でそう言った。
 その言葉が私の恋心にとどめを刺したことを、彼は知らないようだった。

 勤務時間中は、すんでのところで泣かなかった。
 珍しく残業もせず、必要最低限の仕事だけ片して退勤した。家までの道は足だけが勝手に動いて運んでくれたようだった。
 アパートの二階、東端の部屋に駆け込んで、靴も揃えずベランダへ直行する。この部屋には狭いながらもベランダが設置されていて、小高い土地に立ったこのアパートからの眺めはそれなりに悪くないものだった。夜景が見える部屋という触れ込みに惹かれて住み始めてから七年、いつか誰かを招く日がくるんじゃないかと思っていたけど、そんな日は未だ訪れていない。
「はあ……」
 着替えもせず、スーツのままでベランダに出る。夜風が冷たい。
 束ねていた髪を解き、ベランダの手すりに肘をつく。ここから見下ろす住宅街の夜景は家々の明かりばかりで、ひっそりと地味だった。だけどその温かみのある灯に、一人暮らしの寂しさを慰めてもらったこともたくさんある。
 果たして、失恋の痛みも癒えるだろうか。
「彼女持ちなら先に言ってよね……」
 次第に夜景が滲んできたので、私はぎゅっと目をつむる。
 それが勝手な言い分であることはわかっていた。江藤くんは仕事をする為に会社へ来ているのだし、わざわざ彼女がいることを公言して回る義理なんてない。
 だけどもっと早くに知っていたら、私の傷はもう少し浅かったかもしれない。
 最悪だ。一人で舞い上がってチケットなんて買って――向こうは私と、あくまで仕事上の先輩後輩として接してくれていただけに違いない。もしかしたら以前ご飯に誘ったのも迷惑だったかもしれない。先輩だから断れなくて、でも明らかに好意あるっぽいし――などと思った江藤くんが彼女さんに助けを求めて、それで今回彼女の存在を明かしたという可能性も考えられる。
 失恋の痛みを引きずる心はどこまでも落ちていく。どうしよう、迷惑がられていたならもう江藤くんに合わせる顔がない。と言うかこれもパワハラに該当するんじゃないだろうか。一番なるまいと思っていた、立場を利用して後輩に言い寄る先輩になってしまったなんて最悪だ。そんなつもりじゃなかったのに、本気だったのに、好きだったのに――。
「好きだったな……」
 呟いたら涙が零れてきたから、ベランダの手すりに突っ伏した。
 明日が土曜でよかった。泣き腫らした顔で出て行ったらますます江藤くんに迷惑をかけてしまう。もうかけた後だろうけど。
 いっそこのまま思いっきり泣いたら、少しは気分が晴れるだろうか。軽くお酒でも飲んで、酔っ払いながら一人で泣き続けたらこの気持ちもいくらか楽になるだろうか。
 夜風に吹かれながらそんなことを思いかけた、その時だった。
「――あ、ようやく会えた」
 すぐ近くで、聞き慣れない男の人の声がした。
 私は顔を伏せていたから、どこから聞こえたものかもわからなかった。誰かが外で喋ってるんだろうか、疲れた頭でぼんやり考える。
「お姉さん、初めまして。隣に引っ越してきた者です、どうぞよろしく」
 次の言葉で、もしかしたら私宛てかもしれないと思った。
 だけどこっちは打ちひしがれて泣いてるところだ。そう声をかけられても返事はしづらい。顔を上げるのさえ抵抗がある。
「昨日今日とご挨拶に行ったんですけど、ずっとお留守で。お隣さんにやっと会えて嬉しいです。俺は一人暮らしでうるさくしませんから安心してください」
 顔を上げない私に構わず、彼は喋り続けている。そういえば隣室はここ一年ほど空室だった。ようやく店子が入ったということなんだろうか。
 それで私は仕方なく、声のした方へ顔を向けた。

 狭いベランダは二階の四部屋一続きになっていて、部屋と部屋の間は防火壁で仕切られている。
 新しい隣人はその向こうから顔を覗かせており、涙が滲む目を手でこすると、その顔がはっきり見えた。
 声の通り、男の人だった。髪は染めたアッシュブロンドで毛先が軽くパーマがかっており、やや長め。夜風が吹いて髪が揺れるとようやく耳が覗くくらいだった。垂れ目の顔に、女の子達が喜びそうな甘い微笑みを浮かべている。一見してリーマンではない雰囲気だ。
 この人、いくつくらいだろう、とまず思った。
 私より年下なのは確実だろうけど、二十三、四くらいに見える。

 微笑んでいたその人も、やっと私が泣いていたことに気がついたらしい。
「ああ、すみません。取り込み中でした?」
 目を瞠った後、なぜか部屋に引っ込んだようだ。
 かと思うとすぐに戻ってきて、防火壁の横から薄い箱を差し出してきた。
「よかったら使ってください。挨拶で配ってるタオルです」
「はあ……どうも」
 結構ですとは言いづらく、私はその箱を受け取る。挨拶で配っているとの言葉通り、空熨斗がかけられた箱だった。
 とは言えこの場で、くれた人の目の前で開けるのもためらわれて、私は手に持ったままでいた。
「俺、クロノっていいます」
 彼がまた顔を覗かせて、私に向かって微笑んだ。
「美容師です。お客さんの話聞くの得意なんで、悩み事なら相談乗りますよ」
 初対面の泣いてる女性に、いきなりそう切り出せる度胸はすごい。私は他人事のように感心してしまった。少し馴れ馴れしい印象があるのも職業柄なんだろうか。
「悩み、っていうんじゃなくて……」
 私は言葉に詰まった。
 あまりにも唐突な隣人の登場に忘れかけていたけど、こっちは本日失恋したてのほやほやだ。思い出すとまた鼻の奥がつんと痛くなるから、簡潔に答える。
「ただの失恋です。ちょっと泣けばすぐ収まりますから」
「へえ、お姉さんタフですね」
 クロノくん、というらしい彼は感心したように言った。
「失恋して泣きながらそう言える人、なかなかいないですよ」
「そうかな……」
 誉められたんだろうか。正直、複雑だった。
 もっとも言葉通りにいくかどうかはわからない。私は深く息をつく。
「まあ、多少願望込みですけど」
 クロノくんは怪訝そうに、
「願望って?」
「相手、同じ職場の後輩なんで。週明けまでに立ち直っとかないとまずくて」
「そりゃ気まずいですね」
「そうなんです。告ってないことだけが唯一の救いみたいな感じです」
「あ、もしかして相手に彼女いるって知っちゃったとかですか?」
「そのもしかしてです。前もって知ってたら期待なんてしなかったのに」
 いつの間にかぺらぺらと打ち明けだしてる自分に気づき、私はそこで愕然とした。
 なんでこんな話、初対面の隣人にしてるんだろう。相談乗りますよとは言われたけど、人に話したからってどうなるわけでもないのに。
 だけどクロノくんは優しい面持ちで私の話を聞いてくれた。そして聞き終えた後、また甘い微笑みを浮かべた。
「なら、お姉さん。いっそばっさりやっちゃいましょう」
「何を?」
「もちろん髪を。気分すっきりで心機一転ですよ」
 なるほど、そう来るか。
「営業トークに引っかかっちゃったかな」
 私は思わず笑ってしまった。
 泣いた後の笑顔はきっと酷いもんだろう。でも取り繕うのも今更だ。それにあれだけへこんでいたのに、もう笑えるようになった自分に驚いていた。
「お姉さんの笑顔、初めて見た」
 クロノくんもつられたように笑ってから、
「さっき会った時から、お姉さんはショートが似合うって思ってたんです」
 と言った。
「本当? ショートになんてしたことないですけど」
 学生時代からずっと、ある程度の長さは維持してきた方だ。
 自分でヘアアレンジをするのが好きだったから――そう言えば好きな人ができる度に新しいアレンジを試したりしていたな。江藤くんにはサイドテールが好評で、ここぞという時にはいつもサイドに結わえてた。それも私の空回りでしかなかったけど。
 ともかく、似合うと言われてもばっさり切るのには抵抗があった。もったいない気もするし、髪を切った私を見たら江藤くんは更に困るんじゃないだろうか。自分のせいで、なんて責任を感じてしまわないだろうか。
「絶対似合います、賭けてもいいです」
 クロノくんはいやに自信たっぷりだ。
 本職の美容師さんに似合うと言われれば、当然悪い気はしない。私にとっては冒険になるけど、今の気分が晴れるのなら試してみたい気もする。気分すっきり心機一転とは実に惹かれるフレーズだ。
「でもな……」
 一つだけ、踏み切れない理由があるとすれば。
「失恋して髪を切るとか、考えが古くない?」
 職場のおじさまがたはよく言う。誰か女子社員が髪を切ってくる度に『失恋したの?』なんて訳知り顔で聞いてくる。実際に失恋を理由に髪を切る女の子って、そんなにいないんじゃないかって気もするんだけど。
「そうでもないですよ。最近でも結構いらっしゃいます」
 クロノくんは私の疑問にそう答えた。
 そんなにいるものなんだろうか。
 だとすると皆、失恋したら気分を変えたくなるものなのかもしれない。重苦しい憂鬱を断ち切る為に、まず頭を軽くしたいって思って、髪を切るのかもしれない。
 もちろん私も、気分を変えたい。変わりたい。週明けにはまた江藤くんと顔を合わせるから、いつまでも泣いてなんかいられない。
 その気持ちが、私に大きな一歩を踏み出させた。
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