Tiny garden

スタートライン(1)

 石田に報告を済ませた後、お盆休みの間に伊都の実家へも足を運んだ。
 初めてお会いする伊都のご両親はとても明るく、そして温かい方々だった。初対面の俺が申し込んだ結婚の挨拶にすんなりと承諾をいただけたばかりか、園田家名物の豆腐料理で盛大にもてなしてもいただいた。先方の事情でとは言え挨拶が遅くなってしまっていたし、それ以前に同棲を始めていたことをよく思われなくても仕方ないくらいだというのに、全くありがたいことだ。伊都のお母さん手作りの料理もとても美味しくて、特に豆腐の味噌漬けの美味さが印象に残っている。
 何度か話に聞いていたお姉さんの実摘さんともお会いした。お姉さんの前では妹の顔になる伊都が可愛くて、いいものを見たと思った。
 お姉さん曰く、小さな頃の伊都は何かと言うと姉の後をついてくる大層な甘えん坊さんだったそうだが、その片鱗は今でもしっかりと残っていて、俺の前では時々見せてくれる。
 短い滞在ではあったが、伊都のルーツを知ることができたとてもいい機会だった。

 いいものを見たと言えば、伊都の昔の写真もそうだ。
 何でも俺が訪ねていくことを知った伊都のお父さんは、わざわざ納戸から伊都の昔の写真やら卒業文集やらを探し当てて用意してくれていたのだそうだ。もちろん俺に見せる為だ。伊都は慌てふためき最後の最後まで抵抗していたが、俺の実家へ行った時は俺の写真を見ていたのだからお互い様というやつである。無論、しっかりと拝ませてもらった。
 高校時代の伊都は、白いセーラー服を着ていた。昔から髪は短くてさらさら柔らかそうで、奥二重で丸顔で、そこに浮かべたあっけらかんとした笑い方も何ら変わっていなかった。脚がきれいなのも同じだ。高校時代は今よりも肉づきがよくなくて少し骨張って見えたが、それでも確かに伊都の脚だった。この頃から陸上をやっていたらしく、アルバムには賞状を手にはにかむ女子高生の伊都がしっかり記録されていた。
 そしてそれを見た俺の心の中にもしっかりと焼きついた。
「伊都のセーラー服姿、可愛かったな……!」
 帰省を終えて二人の部屋へ戻ってきた後も、俺はしばらく思い出しては反芻して楽しんだ。

 もちろん今だって可愛いが、あの頃の伊都もきらきらしていて眩しかった。今、二十九歳の伊都みたいな色っぽさや落ち着きこそなかったが、あどけなく笑う顔は屈託がなく、まだ見ぬ未来に瞳を輝かせているのがありありと見て取れた。
 当時の彼女はどんな夢をその胸に抱いていたのだろう。今みたいに会社勤めするつもりでいたのだろうか。俺みたいな男と出会って恋をして結婚して、などというような想像はしていたのだろうか。そんなことを考えてみるのが楽しくて、だが同時に少しだけ切ないような、悔しいような気分にもなった。
 俺の知らない彼女がいる、という事実には大人げなく嫉妬したくなる。できればあの頃、一度会っておきたかった。あの頃の伊都が高校時代の俺と出会ってどんな反応をするかは考えもつかないが――。

「あの可愛い女子高生時代にも一度出会っておきたかった。惜しいことをしたな」
 それを当の伊都に告げたら、彼女はいつものように唇を尖らせてみせた。
「もう忘れてよ、すっごい恥ずかしいんだから!」
 残念ながらその要望には応えられない。
 伊都は今の自分が十代の頃の顔とさほど変わっていないことを自覚しているようで、俺に写真を見せるのを酷く恥ずかしがっていた。伊都のお父さんは『何なら嫁入り道具として持ち帰りなさい』と言ってくれていたのだが、伊都の猛反対で実現しなかった。実に残念だ。
 彼女としては俺が写真について思い出すのも禁止したいらしい。俺が思い出し笑いでにやにやすると、決まって唇をつんと尖らせる。それで俺がその唇にキスすると、今度は恥ずかしそうに俺を睨む。
「ばかばか! 巡くんの馬鹿!」
「ありがとう、嬉しいよ」
「喜ぶところじゃないから! もう思い出すの禁止にしようよ!」
 残念ながらそれも却下だ。というより無理だ。
 それならこっそりと思い出せばいいのだろうが、俺に思い出されて恥ずかしさにじたばたしている伊都もたまらなく可愛いので、要は半ばわざとやっているようなものだ。
「今でもまだいけると思う。どうかな、伊都」
 俺が持ちかけると、伊都はとんでもないことだと言いたげに奥二重の目を瞠った。
「いや無理だから! 私もう二十九だから!」
「でもあんまり変わってなかったよ。笑った顔なんて今のまんまだし、照れた顔もそうだ」
 そう言って彼女の柔らかい髪を撫でてみる。
 伊都は毛並みを撫でられた猫みたいに目をつむった。その顔はくすぐったそうでも、少し拗ねているようでもあった。
「私としては、もうちょい変わってたかったんだけどなあ……」
 だがもちろん、何にも変わってないというわけでもない。
 最もたる変化は今のその髪の長さだろう。昔のアルバムや卒業文集のどれを見ても、伊都の髪はずっと短いままだった。今ほど伸ばしたことは一度もなかったらしい。
 ようやくポニーテールができるようになった彼女の髪は、長さの分だけ撫で応えがあった。俺は前より一層、伊都の髪を撫でるのが好きになっていた。
「大丈夫だよ。結婚式で写真を撮ったら、伊都がどれだけ変わったかわかる」
 俺は彼女の髪に触れながら囁く。
「きっと今までで一番きれいな伊都が撮れるよ。楽しみにしてるといい」
 すると伊都は目を開けて、少女時代はしなかったであろう笑い方をした。
「だといいな。巡くんに誉めてもらいたいし」
 そのご要望には最大限お応えしよう。時が来たら俺は花婿として、花嫁を誉めることに全力を尽くす次第である。

 かくして、慌ただしくも充実したお盆休みはあっという間に過ぎ行き――。
 迎えた休み明け初日は、朝からぐずついたあいにくの天気となった。
「夕方から一雨来るかも、だって。自転車駄目かなあ」
 天気予報を見た伊都は残念そうにしていたが、俺は雨の日も決して嫌いではない。特に今日はお盆休み気分が抜けきっておらず、彼女を助手席に乗せて出勤したい気分だった。だから今日の雨は都合がいいくらいだ。
「土砂降りになりそうだから車で行こう」
 俺は彼女を誘い、ついでにこう持ちかけておく。
「時間合わせて、帰りも一緒にしよう。どうせ休み明けてすぐだ、残業なんてしたくないだろ?」
「確かにそうだね」
 伊都は声を立てて笑うと、すぐに頷いた。
「いいよ、一緒に帰ろ。今日は家で晩ご飯食べよう」
 彼女もまた、お盆休み期間を引きずっていたのかもしれない。でもそれはいいことだ。それだけ俺達がこの休みを堪能し、楽しんだという証だ。
 俺達は共に部屋を出て車に乗り込む。助手席に座った伊都はスーツ姿で、俺もワイシャツネクタイのビジネス仕様だというのに、上手く気持ちが切り替わらない。これから仕事に行くのではなく、どこか遠くへ遊びに行く気分でエンジンをかける。
「お前といると、休みが短くてしょうがないよ」
 思わず零した俺に、伊都はまるで慰めるように笑いかけてくる。
「私も。お盆休み、あっという間だったね」
「もうあと一ヶ月くらい休みが欲しいな。伊都ともっといちゃいちゃしてたい」
 仕事に行きたくない、なんて俺の立場で言っていいことではないが、今日くらいはさすがに思う。お盆休みが終わってしまうのが名残惜しくて、辛くて仕方がない。ずっと伊都と一緒だったから離れがたくて困る。
 車を出す前に、俺は助手席に座る彼女を抱き寄せた。フロントガラスが曇っているのをいいことに唇を重ねると、伊都は困ったように苦笑する。
「口紅移っちゃうよ」
「ごめん、あとで塗り直して」
「私はいいけど巡くん、ついてる」
 伊都はハンカチでそっと優しく、俺の口元を拭ってくれた。それから俺を見て、少しだけ色が薄くなった唇を解いてはにかむ。
「今日の巡くんはなかなかお仕事モードにならないね」
「違うモードにギアが入っちゃったんだけど、どうすればいい?」
「駄目です。時間だからね、そろそろ出勤しないと」
 そう言う伊都の声も心なしか、休みの日みたいに明るく弾んでいるような気がした。
 しかし俺達の気分がどうあれ本日は出勤日。ギアを無理やり仕事モードに入れて、俺達は一路勤め先を目指した。

 幹線道路が通勤ラッシュで混み合う前に駆け抜けて、会社の地下駐車場に車を停める。
 二人揃って車を降り、上階へ向かうエレベーターを待つ間、伊都は周囲を気にして落ち着かない様子だった。来年には結婚する予定だし、もうじき公にもするつもりなのだから、そうやって人目を気にする意味があるのかどうか。
 とは言え俺も、駐車場の隅に停まった石田のSUV車が視界に入った時は、奴が乗ってやしないかとつい運転席を窺ってしまった。幸いそこに石田の姿はなかった。営業課主任もお忙しいようで、休み明けは毎年同じように客先の対応に追われるに違いなかった。
 俺はまだお盆休みの気分を引きずっていて、石田と酒を飲んだ日のことを思い出していた。何もかも打ち明けた後だけに、あいつとはどんな顔を合わせていいものか――いや、そっちの方が今更か。だったらいっそ、次会った時にはこの間以上に惚気てやろう。
「巡くん、真っ直ぐ人事課行く?」
「いや、一度ロッカールーム寄るよ。伊都は?」
「私も。一緒に行こっか」
 俺達はエレベーターで五階まで上がった。ロッカールームは当たり前だが男女別だ。その前で俺達は足を止め、伊都が先に口を開いた。
「先に行ってていいからね」
「俺は荷物置くだけだし、すぐ済むから待ってるよ」
 そう告げると、伊都はちょっと申し訳なさそうにして、
「化粧直すから少しかかるかもしれないよ。大丈夫?」
「まだ時間に余裕あるし、いいよ。待ってたいんだ」
「そっか……なら、待ってて」
 途端に顔をほころばせた伊都は可愛かったが、唇に塗った口紅は取れかけていて、素の唇の色が覗いていた。
「口紅、塗り直しておいで」
 俺がわざとそれを指摘すると、一転して顔を赤らめた伊都がきつく睨んでくる。
「言わなくていいから! そろそろ本当に仕事モードになろうね、安井さん」
「はーい」
 間延びした返事なんてしてる時点で、俺の気分はちっとも仕事モードではない。

 それでもロッカールームに鞄を置き、手帳を開いて今日の予定を確認し始めれば、いくらかやる気にはなってきた。やる気というより『やらなきゃいけないのでしょうがなくやる気』みたいな心境ではあるが。
 廊下へ戻ると伊都の姿はまだなかった。約束通り待っていようかと、廊下の壁に寄りかかる。

 ぼんやり手帳を眺めていると、不意に足音が近づいてきて、
「あ、安井さん。おはようございます」
 聞き慣れた声に振り向けば、現れたのは霧島夫人だった。真夏らしくノースリーブの白いワンピースを着ている。しかし彼女の剥き出しの二の腕を大好物とする霧島の姿はそこにはなく、俺は返事ついでに聞き返した。
「おはようございます。旦那は? 休みぼけで寝坊した?」
「いいえ、逆です。休みが明けたら朝一で来て欲しいって、お得意さんに呼ばれてるんです」
 霧島夫人は眉尻を下げて控えめに微笑む。夫のことが心配だと、口に出さなくてもわかる顔つきだった。
「だから今日は先に出勤しちゃったんです。営業は皆さんお忙しくなるようですね」
「だろうな。石田の車も俺より先に来てた」
「石田さんもですか……だったらきっと藍子ちゃんもですね。大変そう」
「あそこは客商売だからな、先方に言われたら飛んでくしかないんだよ」
 一時期は『戻りたい』なんて考えていた古巣に思いを馳せてみる。俺も営業にいたなら、今朝はもっと慌ただしい思いをしていたことだろう。伊都とお盆休みの名残を惜しむ暇すらなかったかもしれない。
 ということは、石田はもちろん霧島も小坂さんもしばらくは忙しいだろう。今度は六人で集まる機会をと思っていたが、もう少し先の話になりそうだ。
「じゃあ私、着替えるので失礼します」
 霧島夫人は軽く頭を下げると、ロッカールームのドアノブに手をかけた。
 しかしちょうどそのタイミングでドアノブがくるりと回ったかと思うと、
「ごめん、やっぱり時間かかっちゃって――」
 ドアが開き、飛び出そうとした伊都が、霧島夫人の存在に気づいて慌てて立ち止まる。しかし気づいた後で、別の意味で更に慌てていた。
「あっ、長谷さん……! お、おはよう……」
「おはよう、園田さん……」
 霧島夫人もどこか呆然として答える。突然現れた伊都に目を瞬かせた後、俺を振り返って小首を傾げた。
「安井さん、もしかして園田さんを待ってたんですか?」
 その問いの答えはもちろんイエスだ。

 しかし俺はどう答えていいのかわからず、伊都に視線を投げた。
 別に動じているわけではなく、俺はこの場で知られてしまってもいいと思っている。どうせ石田には打ち明けたのだ、霧島夫妻に知られるのも時間の問題だろう。
 ただ、伊都はどうだろう。霧島夫人と伊都はかつて同じ部署に勤めていた同僚で、それなりに繋がりもあるらしい。彼女がどうしたいのか、その意思を尊重すべきだと俺は思った。

 俺と目を合わせた伊都は、見るからに赤くなってあたふたし始めた。
「ま、待ってたって言うか……ほら、私達同期だから! ね!」
「園田さん、なんで慌ててるの?」
「慌ててないよ! 違うのこれは、暑いから! ちょっと汗掻いてるだけだから!」
「そっか。暑いから、耳まで真っ赤になってるんだね」
 霧島夫人は意外と鋭いツッコミをする人である。
 それを食らった伊都はひとたまりもなく、声も出せない様子で口をぱくぱくし始めた。見ていてかわいそうになったので、助け舟のつもりで口を挟んでおく。
「園田、どうせ霧島夫人には言うつもりだったんだ。正直に話そう」
「え……い、いいけど今? 私ちょっと心の準備が……!」
 狼狽しまくりの伊都とは対照的に、霧島夫人は落ち着き払っていた。最初こそいくらか驚いていた様子だったが今はむしろ腑に落ちた顔つきで、俺に向かって尋ねてきた。
「もしかして、園田さんなんですか?」
 何について聞かれたのか、今の質問だけでわかった。
 伊都が縋るような目を向けてきたから、俺はすかさず肯定しておく。
「そう。近々報告しようと思ってたんだけどな」
 すると霧島夫人の顔がぱっと明るく輝いた。
「やっぱり、そうなんだ! 噂になってた通りですね、安井さん」
「――噂?」
 飛び出してきた予想外の単語に、俺と伊都は思わず顔を見合わせた。
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