Tiny garden

スタートライン(2)

「安井さんにお付き合いしてる人がいるって噂は、前からあったんですけど」
 霧島夫人は、かつて営業課の男どもを一網打尽にしたとびきりの笑顔で語り始めた。
「きっと社内恋愛なんだろうとは言われてたんです。でもお相手が誰なのかは誰も知らなくて」
 長らく秘密にしてきたのだ、当然だろう。

 とは言え俺も、何もばれていないと思っていたわけではなかった。
 あの石田も俺の言動から何かを察して様子を窺っていたようだったし、同じように疑いをかけてくる人間が他にいてもおかしくはない。自分で言うのも何だが『三十過ぎて未婚の人事課長』というのが同じく未婚のご婦人方の興味を引く存在であることは十分すぎるほどわかっている。伊都と同棲を始めてからは自分でもわかるくらい毎日浮かれていたから、気づく人間だって他にもいたに違いなかった。
 だがそこから伊都に行き着いた人間はいたのだろうか。
 噂になるということは、彼女にも俺と同じような気の緩みがあって露呈したのだろうと推測できるが――俺と違って奥ゆかしく恥ずかしがり屋の伊都が、昔付き合っていた頃はそういう空気を一切匂わせなかった彼女が、今になってそれを悟らせてしまうようなことがあるのだろうか。

「私も他の子から話聞いたりして、誰とお付き合いしてるんだろうって気になっていたんです」
 そこで霧島夫人は目を細めた。
 同時に、俺の隣に立つ伊都がごくりと喉を鳴らすのが聞こえた。今の彼女はまるで、探偵に犯行の一部始終を言い当てられた真犯人のような顔つきをしている。
「そしたらある子が、広報課の園田さんじゃないかって言い出して」
 夫人が続ける。
「私はほら、秘書課時代の園田さんを知ってますし、親しくお話もしてましたから、噂を聞いてもぴんと来なかったんですけどね。でも今はびっくりと同時に少しだけ腑に落ちた気分です」
「噂ってどんなの?」
 俺は聞き返しつつ、傍でそわそわしている伊都に目をやる。彼女は落ち着きなく俺と霧島夫人を見比べていた。
「些細なことですよ」
 霧島夫人がくすっと笑う。
「『安井課長は広報の園田さんと話す時だけ距離が近い』って、それだけです」
 言われた瞬間は腑に落ちなかった。
「距離が……? それは物理的にってことか?」
「そうです。お二人が話をしているところを見て、そう感じた子がいたみたいで」
 子と評するからには、それを言ったのは若い社員なのだろう。
「安井さんは目上の方と話す時でも、あるいは部下の方と話す時でもちゃんと一定の距離を保って接するでしょう? でも園田さんにはそれがないって言ってる子がいたんです」

 どこの誰だか知らないが、よく見ている人間がいるものだ。
 一定の距離を保つのはマナーとして当然のことだろう。俺は石田みたいにフレンドリーな上司ではないから、その辺りは確かに親しい相手とそうでない相手とで差が出る部分かもしれない。言われてみれば、社内で伊都と話す時もわざとらしく距離を置くようなことはしてこなかった。

「私は直接見たわけじゃないし、園田さんのことも安井さんのことも個人的に知っていましたから、噂通りにお二人を結びつけられなかったんです。そんなに親しいんだったら私にもわかるんじゃないかと思って、でも――」
 そうして今度は霧島夫人が、並んで立つ俺と伊都を見比べるように眺めた。
「実際に見てみたら、確かに近いですね。自然と隣に立ってるし」
 言われて初めて気づいたが、後からロッカールームを出てきたはずの伊都が、いつの間にか俺のすぐ隣に立っていた。そこが自分のポジションであると言わんばかりに。
 恐らく伊都もこの時まで気づけなかったのだろう。途端にびくりとして俺を見上げた。
「ごご、ごめん、つい習慣で!」
「別に謝らなくてもいいけど」
 彼女が慌てふためくのがおかしくて、俺は笑いを堪えきれなかった。
 確かに物理的距離は近い気がする。今みたいに自然と並んでくれるのもそうだし、伊都は話をする時にちゃんと俺の目を見る。くいっと顔を上げて、俺達の間にある身長差をカバーするみたいに俺を見上げてくる。人目につく物理的距離の近さとは、例えばそういう何気ない仕種のことを指すのかもしれない。
「だけど本当にびっくりです。私のよく知っている人同士が実は仲良かったなんて」
 霧島夫人は伊都より落ち着いていたものの、驚いたという言葉に嘘はないようだった。時々目を瞬かせて俺達を見ている。
「報告が遅れてごめん。石田にはお盆休みの間に話してて、霧島にも、それに奥さんにも近々打ち明けようと思ってたんだ」
 俺がそう告げると夫人は微笑んで、
「なら、その日を心待ちにしています。馴れ初めとか、園田さんからもいろいろ聞きたいですし」
 と言った。
 彼女の宣言に伊都はいくらか臆したようだ。
「お、お手柔らかに頼むね、長谷さん」
 恐る恐ると言った様子で頼み込んでいる。
「えっ、どうしようかな」
 霧島夫人が愉快そうに小首を傾げると、慌てて縋りつきだした。
「わ、ちょっと長谷さん! なんでそんな楽しそうなの!」
「楽しいよ。園田さんとこういう話ができるって思わなかった」
 声を弾ませた霧島夫人に、伊都が言葉を詰まらせる。
 その顔を見た夫人はやはりとても楽しそうだったが、直後はっとして腕時計を見た。
「そろそろ着替えないといけないから……今日はもう、びっくりしすぎてお仕事が手につかないかもしれないです。お二人とも、また是非じっくりお話聞かせてくださいね」
 そしてそう言い残し、至ってにこやかにロッカールームへ入っていった。
 ぱたん、とドアの閉まる音が廊下に響き、それに紛れ込ませるように伊都が深く息をつく。
「……どうしよう」
「何が?」
 何を今更、途方に暮れることがあるものか。思わず俺が聞き返すと、伊都は困った様子で俺を上目使いに見た。
「噂になってるって言われたら、急に恥ずかしくなってきた」
 その困った表情も可愛かったから、俺は込み上げる笑いを噛み殺しながら応じる。
「別にいいだろ。ここでばれてなくても結婚したらどうせ噂になったよ」
 遅いか早いかの差しかない。どちらにせよ一度は噂に晒されるしかないのが社内恋愛のさだめだ。それならいっそ開き直ってしまう方が楽しめるかもしれない。

 俺達はロッカールーム前を離れ、それぞれの職場へと歩き出す。
 その間も伊都は俺の隣にいて、口を開く度に顔を上げ、しっかりと俺を見る。
「そんなに距離、近いかなあ。このくらい普通じゃない?」
 社内を並んで歩く時、俺達はほどほどの距離を保っている。手がぶつかり合わない程度の距離だ。ぶつかってしまうと手を繋ぎたくなるからだが、噂になっていることを聞いた今となっては、それがかえって意識しているような不自然さに思えた。
「わからないけど、岡目八目って言葉もあるからな」
 俺は肩を竦めた。

 隠すつもりはもうないと言っても、自分のあずかり知らないところで噂になっていたというのは複雑なものだった。霧島夫人はその噂に半信半疑だったようだが、中には確信的な目で、あるいは真偽のほどを突き止めてやろうと躍起になって俺達を観察していた者がいたかもしれない。
 そういう人達の目に、俺達はどんなふうに映っていたのだろう。

 隣の伊都を見やる。
 彼女は階段を下りる時でさえ俺の隣を離れず、同じ速さでついてくる。こんなふうに並んで歩くのがいつの間にか当たり前になっていた。
「長谷さん、楽しそうだったな……」
 小声でぼやく伊都が、その後で恥ずかしそうに言ってきた。
「どんなこと聞かれちゃうかな。何て答える? 全部正直に言っていいの?」
「いいよ。俺も霧島夫妻には包み隠さず話すつもりだった」
 先に奥さんに話してしまったことを、霧島には突っ込まれそうな気がする。これは早いうちにフォローしておくべきか。今夜あたり連絡を取ってみようか。
 俺の答えを聞いた伊都は小さく頷いた後、ふと物思いに耽るように俯いた。
「夫妻、かあ……」
 それからぼそりと呟いたかと思うと、あたふたと面を上げ、
「わ、私達もそう言われるようになったりして……普通になるのかな」
 照れながら、聞き取りづらいほどの小声で言ってきた。
 考えるまでもなく当然の話なのだが、それでも伊都の口から聞くと妙に新鮮で、可愛く、幸せな事柄に聞こえてくるから不思議だ。こっちは休み明けで頭を無理やり仕事モードで持ってきている状態なのに、休日へ引き戻そうとするような甘くとろける台詞だった。
「そうだな。安井夫妻、なんて呼ばれるのかもしれない」
 俺がわざと言葉にしてみると、自分で水を向けておきながら伊都は真っ赤になってもじもじし始めた。
「名字が変わるってどんな気分なんだろう。長谷さんに今度聞いてみようかな」

 ところで伊都が霧島夫人を旧姓で呼ぶのは、夫人が仕事ではまだ『長谷』を名乗っているからだ。
 社内で明確な規定があるわけではないが、結婚して名字が変わった社員が業務内で旧姓を使い続けることはよくあるケースだった。
 だから伊都も、結婚後も『園田』姓で仕事を続けるのかもしれない。彼女がそうしたいと言うなら俺は口を挟むつもりもなかった。

 それにしても、
「やすいいと、になるのはいいのか?」
 俺が尋ねると、伊都はおかしそうに吹き出した。
「それ、私も思ってた。初めて聞いたらびっくりする名前かな?」
「俺にとっては嬉しい名前だよ。お前が嫌じゃないならいい」
「嫌じゃないよ、お得感があっていいと思う」
 名前でからかわれたことがあるという伊都は、でもあっけらかんと笑って言ってくれた。
「買わなきゃ! ってなる名前じゃない? 高いよりはポジティブだよ!」
 そして俺は、彼女のこういう朗らかさに心底惚れ込んでいた。
 お得感とは言い得て妙だ。安井伊都、とてもいい名前だと俺も思う。
 早くそう呼ばれる日が来るといい。

 その日の晩、俺は霧島に連絡を取った。
 お盆休み明け直後とあってか、霧島も午後九時前には帰宅していたようだ。電話に出た霧島は開口一番、いつもの生真面目そうな口調で言った。
『先輩、この度はおめでとうございます』
「奥さんから聞いたのか。そういうことなんだ」
 一から説明する手間が省けたのはありがたい。俺が応じると、霧島は少しだけ笑ったようだった。
『聞きましたよ。妻が驚きのあまり興奮して、自分のことみたいに慌てていました』
 俺と霧島夫人も霧島を介してかれこれ五年ほどの付き合いになるが、慌てふためく姿をお目にかかったことはない。あの人はいつでもおっとりとマイペースだと思っていた。そうではない顔は夫の前でだけ見せるということだろうか。
『広報の園田さん、ですよね。結婚式にも来ていただきました』
 霧島がそう続けたので、リビングのソファに座っていた俺は、すぐ隣で自転車雑誌を読みふけっている伊都に目を剥ける。
 伊都も俺の視線に気づいたか、面を上げて怪訝そうに瞬きをした。
「ああ、面識あるのか。そうだよ、可愛いだろ?」
 だから俺が自慢げに言ってやったら、なぜか人差し指で肩を軽くつつかれた。照れているらしい。
『そうですね、愛嬌のある可愛らしい方でした。先輩が好きそうな方だとも思いました』
 電話の向こうでは霧島が喋っている。長い付き合いだけあって、奴の俺の好みは把握しているようだ。
「だろ? 脚もすごくきれいなんだ、特に膝上のラインが」
 俺が張り切って答えたら、隣から肩をぺちっと叩かれた。手加減されていたので痛くはなかった。
 霧島もなぜか困惑している。
『いや、そこじゃなくてですね……と言うか先輩、こんな時でも相変わらずですね』
「断じて外せない大事なポイントだからな」
『俺としては、先輩がいかに変態であるかはこの際どうでもいいんです』
 わざとらしい咳払いが聞こえた。おまけに後輩にあるまじき失礼な物言いだ。俺も霧島ももちろん石田も、変態度では大差ない。
『妻の話によれば園田さんはとても快活で明るい方だそうですね』
「ああ。とてもいい子だよ」
 頷く俺に、伊都も今度は何もしてこなかった。読んでいた雑誌を胸に抱え込み、恥ずかしそうに目を逸らしている。
『安井先輩にはそういう方が一番似合うだろうなと思ってたんです』
「わかるか?」
『ええ。安井先輩って変態な上に掴みどころなくて屈折した面倒くさい人じゃないですか』
「お前……めでたい話だからと言って俺が何もかも聞き流すと思ったら大間違いだぞ」
『すみません、おめでたい話ですから俺も控えめに言ったつもりなんですけど』
「今のでか!」
 全く、霧島も石田と同じようなことを口にしやがる。

 あいつらが俺を素直に誉めるとは思っていなかったが、こうも似たり寄ったりのことを言われると我が身を省みようという気に――いや、別にならないな。捻くれてるだの格好つけだの面倒くさいだの、どれも自覚はあるからだ。
 そしてそんな俺を、伊都はそれでも愛してくれている。だからいい。

『そんな先輩には、裏表のない明るい女性が似合うと思うんです』
 霧島はこうも続けたが、やはり石田にも似たようなことを言われていた。
 この先、何回くらい言われるだろうか。俺のことを知る人達は皆、同じように思うのかもしれない。そしてそれを聞く俺もその度に、伊都が傍にいることの幸せを噛み締める。
「そうだな、俺もそう思うよ」
 俺は頷いた。
 それから、ずっと言いたかった言葉を霧島に告げる。
「今度、彼女を紹介させてくれないか」
 五年前は、『近いうちに言えるだろう』と思っていた。
 だがそうはいかなくなり、俺は霧島や石田の幸せそうな姿を傍目に見ながら灰色の日々を過ごしてきた。こんなに時間がかかるとは思いもよらなかった。だが五年前と同じように伊都を紹介できることを、いつもの飲み会に連れていけることを嬉しく思う。
『もちろんです。俺も是非お会いしたいですし――』
 そこで一旦、霧島が言葉を切った。
 傍で奥さんの声がする。電話越しに何と言っているのかは聞こえなかったが、心なしかはしゃいでいるような声音に聞こえた。
『……うちの妻も是非にと言ってます。園田さんからはいろいろ伺いたいと』
「伝えておくよ。伊都、霧島の奥さんが今度いろいろ話したいって」
 俺は笑いを堪えながら彼女に告げた。
 伊都はうろたえ顔を赤くしていたが、とりあえず返事はしないとと思ったのだろう。やがて小声で言った。
「頑張ります、って言っといて」
「伊都が『頑張ります』だって。あんまりうちの彼女をつっつかないよう、奥さんには言っといてくれ」
『わかりました。つっつくなら先輩の方をと言っておきます』
 霧島がもっともらしく答えると、近くで奥さんのくすくす笑う声が聞こえたような気がした。
 もしかしたら向こうにも、俺と伊都のやり取りが微かに届いているのかもしれない。
『あとはいつ集まるかですね。先輩がたは来月ならお暇ですか?』
「俺は暇だけど、九月は石田が忙しいだろ。結婚式あるんだし」
 石田の結婚式まで一ヶ月と少しというところまで来ていた。式直前の当事者達が何をしてどんなふうに過ごすのかは俺もまだ知らないが、石田も小坂さんも大層忙しい日々を過ごすことになるのではないかと推測していた。
 だが霧島が言うには案外とそうでもないらしい。
『石田先輩は飲みに行くなら式の前がいいって言ってましたよ。来月あたり、また皆で集まろうかって』
 どこか怪訝そうにしてみせた後で、霧島は腑に落ちたように言い添える。
『多分、安井先輩のことがあるからそう言い出したんでしょうね』
「とっとと皆にも報告しろってことか……なら、来月にでも集まるか」
『ええ。楽しみにしてます』
 霧島がどんなつもりでその言葉を口にしたのかはわからない。
 幸せいっぱいの俺をしこたま冷やかし、からかってやろうと思っているのか、らしくもなく素直に、こういう時位くらいは本当に祝ってやるかと思って言うのか。

 でも答えがどちらだとしても、両方でも、俺も同じようにその日をとても楽しみにしていた。
 いつか、いつもの飲み会に、彼女を連れていきたいと思っていたんだ。
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