Tiny garden

あかいいと(4)

 かつては俺が使っていたその部屋は、今や完全に客室仕様となっていた。
 あるのはクローゼットと本棚、それに並べて敷かれた二組の布団だけだ。

 明かりを点けてからドアを閉めると、伊都がふらふらと布団まで歩いていってその上に座った。
 直後、ぱたんと真横から倒れ込む。
「お布団冷たーい……気持ちいー……」
 気の抜けたような声で呟くのが聞こえ、俺は苦笑しながら彼女の傍に膝をついた。
「布団の上で寝るなよ。ほら、かけてあげるからちょっと避けて」
「えー……いいよこのままでも」
「よくない、風邪引くぞ」
「引かないよ、暑いもん」
 伊都は子供みたいに言い返しつつ、もう目をつむりかけている。
 埒が明かないので、俺は隣の布団をめくると伊都を一旦抱き上げそちらへ移した。
 くたりと身体に力のない彼女はされるがままだった。そっと寝かせて上から布団をかけてやると、やはり気持ちよさそうに伊都が笑う。
「こっちのお布団も冷たーい……」
「こりゃ相当酔っ払ってるな」
 俺も彼女の隣に身体を横たえ、彼女の前髪を手でかき上げた。
 額を晒した伊都は少しだけ眩しそうに顔を顰める。
「眩しい?」
「うん、ちょっと」
「電気消そうか」
 尋ねると、彼女は意外にも迷うように唸った。
「んー……。巡くんは眠いの?」
「俺は伊都ほどじゃないけど、頑張れば寝られなくもないよ」
 飲んだビールは一杯半、伊都が飲んだ量の半分以下だ。それでも何となく酔いが回りつつあるのはわかる。今はそれほど眠気を感じていないが、長時間ドライブの後でもあるし、布団に入ってしまえばすんなり寝入ってしまうかもしれない。
「巡くんも寝るなら消して。そうじゃないならいいよ」
 これだけ酔っ払ってもまだ俺を気遣う余裕があるのか。伊都の言葉がおかしくて、俺は笑いながら立ち上がる。
「じゃあ消そう」

 戸口にある照明のスイッチを切ると、部屋は一転して闇に包まれた。
 それから伊都を踏まないように、一歩一歩慎重に布団へと戻る。手探りで彼女の寝ている辺りに辿り着くと、盛り上がっていた布団が存在を示すみたいにもそりと動いた。
「巡くん今、脚触ったー」
「いつも触ってるだろ、今更騒ぐことじゃない」
「絶対わざとだー」
「まあな」
 布団は二組敷いてあったが、わざわざ離れて寝ることもない。俺は慣れない目を凝らしつつ伊都がいる布団に潜り込んだ。彼女もそれを予想していたみたいに、少し身体をずらして俺の侵入を許した。
 まんまと布団に入れてもらった後、俺は彼女を抱き締めた。布団が冷たく気持ちよく感じるほど、伊都は全身が火照って熱かった。
「伊都、すごく熱いな。本当に酒だけのせい?」
 俺が彼女の身体を手のひらで撫でると、彼女は鈍く身じろぎをする。
「熱はないと思うよ……って言うか、くすぐったい……」
 いつもと違い、気だるそうな声がなかなか色っぽくていい。
 彼女の肌の熱さが妙に心地よく、色気のある声にもう少し構いたい欲が生じて、こっちは眠る気になんて全くなれなかった。が、寝落ちしそうな伊都に無理やりちょっかいをかけ続けるほど鬼でもないつもりだ。ものすごく残念だが寝かせてやろう。
 俺は彼女の身体を撫でる手を止め、代わりに頭に添えてその髪を撫でた。
「明日、ちゃんと起きれるかな……」
 俺の胸に顔を押しつけてきた伊都が、くぐもった声で言う。
「起きれなきゃ起きなくていいよ。どうせ予定があるわけじゃなし」
 大分伸びた髪を弄びながら囁けば、すぐさま彼女が反論してくる。
「駄目だよー……飲むだけ飲んで朝寝坊する子って思われちゃうじゃない」

 伊都はうちの親の反応を気にしているようだが、その心配はないだろう。彼女が自発的に飲んだわけじゃないことは誰の目から見ても明らかだし、仮に明日、伊都が二日酔いで寝込むようなことになっても責められるのは兄貴と翔だ。
 ただ、こんなふうに酔い潰れた伊都を見るのは初めてで、正直に言えば少し嬉しいと言うか、どきどきしていた。彼女と酒を飲む機会は何度となくあったが、俺の方が酒に弱いせいで彼女が酔ってしまったところはほとんど見られずじまいだった。ここまで潰れてしまう姿は初めてで、新鮮だった。

 部屋の暗さにまだ目が慣れない。
 だが伊都がくったりと力を抜き、俺に身体を預けているのはわかる。たまにはこうして甘えられるのもいいものだ。
「思わないから心配しなくていい。それより旅先で倒れられる方が困るよ」
 道が混んでいたせいで予定より長いドライブになって、顔には出さなかったが道中だけで彼女も大分くたびれていたのだろう。いつもより早く酔いが回るのも無理はない。
「巡くんは優しいね」
 伊都の手が俺の服をきゅっと掴む。
「そういうところ、すごく好き……」
 その言葉と可愛い仕種に心臓まで掴まれて、俺は一瞬言葉に詰まった。
 酔いのせいなのか何なのか知らないが、そんなことをされたらこっちはますます眠れなくなりそうだ。
 だが伊都は俺がうろたえたことなんてまるで気づいていないようで、首を動かしてこちらを見上げようとしているのがわかった。だから俺は彼女の顔を、今度は自分から俺の胸に押しつけ、そして答えた。
「……そうだよ。だから無理しないで、眠いなら寝ていい」
「ん……」
 声にならない返事が聞こえてくる。恐らくもう時間の問題だろう。
「おやすみ、伊都」
 俺は柔らかい髪を撫でながら、彼女が寝つくまで黙って傍にいた。離れられなかった。

 それから五分も経たないうちに、伊都はすやすやと眠りに就いた。
 その頃には俺の目も慣れ、彼女の寝顔が見えるようになっていた。こちらを向いて眠る伊都は長い睫毛を伏せていて、頬にはまだ赤みが残っている。髪をかき上げれば同じように赤い耳も覗いていた。身体もまだ熱く、ずっと抱き締めているとこちらにまで熱が伝染してくるようだ。
「本当にあっさり寝ちゃったな……」
 彼女のこめかみに唇を落としつつ、俺は寂しいような、惜しいような気持ちになっていた。
 もうちょっと酔っ払っていつもと違う雰囲気の伊都を見ていたかったし、話もしたかった。見たことのない顔が彼女にはまだまだあるようだ――それも可愛かった。もうちょっと起きていてくれたら、もっと楽しい思いができたかもしれない。
「でも、まあ……いいか」
 ここへ連れてこられただけでも、ついてきてくれただけでも十分だ。

 俺は伊都を抱き締めたまま、首を動かして部屋の中を見回す。
 実家で暮らしていた頃の名残りはほとんどない。本棚の中身は俺が読んだこともないような本ばかりに変わっていたし、クローゼットの中身も確実に入れ替わっている。昔は二段ベッドをばらしたベッドで寝ていて、でも途中で背が伸びて窮屈になったことを思い出した。あれは家を出る時に処分したんだったか。
 ただ、こうして横になって見上げる天井だけは記憶に残っている通りだった。
 少し前の思い出が蘇る。伊都が俺の部屋に引っ越してきたその日、彼女は天井を見上げてぼんやりしていた。彼女がそれまで住んでいた部屋と天井の柄が違っていたから、改めて引っ越しをしたことを認識したようだった。
 俺も実家の天井の柄なんていちいち覚えちゃいなかったが、見上げてみれば確かに懐かしさを感じた。帰ってきたのだと実感が込み上げてくる一方で、そう思う自分に驚いていた。故郷が恋しいとか、実家に帰りたいなどと考えることはほとんどなかった。
 今回だって伊都を連れていくという用事がなければ連休中に帰ることすら思いつかなかっただろう。別に故郷や実家に嫌な思い出があるということではなく、ただ一人での暮らしに慣れてしまっただけだ。

 この家で暮らしていた頃、俺は子供だった。
 もっと言えば頭の悪いガキだった。兄貴の一人部屋を羨ましがり、弟と二段ベッドの部屋で暮らすことを疎ましがり、そしてしょっちゅう兄弟間で喧嘩をしていた。兄貴と翔は結託することが多く、俺は大抵の場合孤立無援だった。
 兄貴が進学の為に家を出ていくことになり、俺にこの部屋が与えられた日は嬉しくて一人大はしゃぎしたことも覚えている。二段ベッドを分解した一人きりの寝床でこうして天井を見上げて、あの時の俺は自分自身がようやく大人になれたような気分でいた。
 それから俺も進学の為に家を出て、そのまま向こうで就職して、もう八年以上が過ぎ――いろんなことがあった。この天井を見上げてまるで自分の城でも手に入れたような気分になっていた俺は、一人暮らしを始め、就職をし、車を買って乗り回すようにもなった。それなりに出世もした。恋愛では失敗もしたが、一度は失いかけた彼女を取り戻すことになった。

 そうして本当の意味で大人になった俺は、懐かしい天井を不思議な気分で見上げている。
「人生ってわかんないもんだな……」
 この家に彼女を連れてくる日がやってくることも、その相手が伊都であるということも、少し前までは想像すらできなかった。ただ彼女の隣に寝そべって見上げる実家の天井は、当然ながら悪い眺めではなかった。
 それから俺はもう一度、隣に寝ている彼女の方を向いてみる。
 伊都は静かな寝息を立てている。片手で俺の服を握り締めたまま、もう片方の手も何かを掴もうとしているみたいに軽く握られていた。意外と小さな彼女の手は、酒のせいでとても温かい。
 俺は空いている方の手を握ろうとして、ふと思いついて小指だけを絡めてみた。眠る彼女の手から奪うように小指だけを開かせると、指切りみたいに指を絡めて少しだけ力を込める。伊都はぴくりとも動かずに寝入ったままだ。でも俺は、そうしているとたまらなく幸福を感じた。
 俺達の間にもいろんなことがあった。それでもまた一緒にいるようになって、こうして実家にも連れてくることができた。今は一緒の布団で寝ているし、愛し合っていると胸を張って言うことができる。
 だから、ふと思ったわけだ。
 俺達の小指には運命の赤い糸が結ばれているんじゃないか、って。
 そういうものを本気で信じる年頃はとうに過ぎているはずだった。だが自らの人生を振り返る時、そこに理屈だけでは説明のつかない巡りあわせを感じることがある。今、俺の隣に伊都がいることを、今夜はちょっと運命論者の気分でしみじみと噛み締めたくなった。
「……一緒に来てくれて、ありがとう」
 絡めた小指に口づけて、唇にもキスをして、俺は彼女に囁いた。
 もちろん伊都は答えない。ぐっすりと眠りこけている。だからこの言葉はまた日を改めて告げることにして――。
「おやすみ」
 俺もまた、目をつむった。
 小指はそのまま、絡めたままにしておいた。もし伊都の方が先に目覚めたら驚かれるかもしれないが、それならそれで今夜思ったことを言ってやろう。きっと酔っ払った時と変わらないくらい赤くなるに違いない。
 そう思うと朝が来るのが楽しみだった。

 だが翌朝、目覚めた俺の隣に伊都の姿はなかった。
 寝相が悪くてどこかへ転がっていったということではなく、この部屋自体に彼女がいないようだった。
 まさかと思うが、昨夜あれだけ飲んで酔っ払ったのにもう起きたのか。時計を見れば現在の時刻は午前八時、休日ならぼちぼち起きてもいい頃合いだった。何となくそわそわしながら俺も布団から起き上がった時だ。
 ふと階下から、炊き立てのご飯のいい匂いが漂ってきた。
「巡くーん、そろそろ起きれる?」
 伊都の声がして、階段を上ってくる軽快な足音が聞こえてくる。短いノックの後でドアが開き、ひょいと顔を覗かせた彼女はいつもの朗らかな笑顔を浮かべていた。
 二日酔いの顔には見えなかった。
「あ、起きてたんだね。おはよう」
「ああ……おはよう。大丈夫なのか、伊都」
 俺が目を擦りながら応じると、彼女は恥じ入った様子で首を竦める。
「昨夜はごめんね、すっかり酔っ払っちゃってて」
 あれだけ酔っ払っていても、伊都は昨夜のことをしっかり覚えているようだった。どこまで記憶に残っているかは定かではないものの。
「いや、いいよ。ただ昨夜の酒が残ってないか気になってさ」
「それが全然。今朝はむしろ爽快な気分だよ」
 伊都はかぶりを振ると、部屋の中まで入ってきて俺の傍らにしゃがみ込む。既に着替えを済ませたようで昨日とは違う服になっていたし、顔も洗って化粧まで終えているのがわかった。昨夜のしどけない酔いどれ加減が恋しいような気もしつつ、でも酒が残らず元気そうでよかったと思う。
「ね、お母さんがそろそろご飯にしましょうって」
 彼女はそう言って、寝起きの俺の顔を覗き込んでくる。
「だから巡くんも起きれたら起きよう。で、一緒に朝ごはんにしよう」
 一夜明けても伊都は俺を『巡くん』と呼んでいた。ここへやってくる前よりも自然で気安い呼び方だった。
 俺もしみじみと噛み締める思いで頷く。
「わかった。今起きるよ」
 そして俺が布団を抜け出せば、先に部屋を出ていこうとした伊都が振り返って、
「そうだ。今日の朝ご飯、豆腐丼だからね」
 と言った。
「作ったのか?」
 俺は驚いた。昨夜は俺も少量とは言え酒を飲んでいたので、朝はさっぱりしたものがいいとは思っていた。だがいつもの部屋ならともかく、宿泊先で豆腐丼を作ってもらえるとは予想外だった。伊都がうちの母さんにでも、台所を貸してくださいと頼んだのだろうか。
「うん。昨夜のお豆腐が残ってるって聞いたから、作らせてもらうことにしたの」
 伊都は俺の問いに答えて曰く、
「そしたら巡くんのお母さんも食べてみたいって言ってくださって、結局全員分作ったんだ」
「へ、へえ……何か、急展開だな」
 俺の寝ているうちに何か劇的なやり取りがあったらしい。

 昨夜の一件でも知ってはいたが、伊都のコミュ力はやはり半端ないようだ。
 まさか婚約者の実家に泊まった翌日、朝食を作らせてもらう流れまで持っていくとは、さしもの俺も想像できなかった。

「さ、起きて起きて。お酒飲んだ次の日は豆腐丼が最高だよ」
「別に飲んでなくたって、伊都が作る豆腐丼はいつでも最高だよ」
 急かす彼女にそう告げると、伊都は照れ笑いを浮かべつつ俺の肩に寄りかかってきた。
「えへへ、そうかな。お父さんお母さんにも、そう思ってもらえるといいんだけど……」
 彼女の甘える仕種に、昨夜の記憶が蘇ってくる。
 朝から煽られたような気分になり、俺は彼女の顔を覗き込むふりをして素早くその唇を奪った。柔らかい感触を味わってから唇を離すと、頬を赤らめた伊都に軽く睨まれた。
「ご飯だよって言ってるのに。食べたくないの?」
「ご飯も伊都も、どっちも食べたい」
「あ、朝から何言ってんの。寝惚けてないで起きる!」
 別に寝惚けてはいなかったし本心だったのだが、華麗にスルーされたようだ。

 伊都の懸念をよそに、豆腐丼はうちの両親にも大層評判がよかった。
「やっぱ年寄りにはこのくらいのあっさりしたご飯がいいな」
 親父が豆腐を崩す横で、母さんも美味しそうに朝飯を口へ運んでいる。
「本当。お豆腐にこんな食べ方があるなんて知らなかったわ」
 二人が口々に誉めてくれるので、当の伊都よりもむしろ俺の方が誇らしい気分だった。彼女は『こんな食べ方があるなんて』という豆腐料理をたくさん知っている。しかも何を作っても美味い。まさに自慢の嫁――と言いたいところだが、目下のところはまだ自慢の婚約者だ。
「お口に合ってよかったです」
 伊都が照れて微笑むと、畳みかけるように母さんが言った。
「それにお料理の手際がすごくいいのね。伊都さん、かなり作り慣れてるでしょう?」
「はい。一人暮らし歴もずっと長かったので……レパートリーは豆腐料理ばかりなんですけど」
「偉いわあ。うちのめぐなんて作るにしてもレトルトばかりって言うし、伊都さんがいてくれて本当によかった」
 俺が全く自炊しないみたいに言われるのも心外だったが――ここは彼女を立ててやろうと黙っておくことにする。どうせ俺の自炊なんて誇れるほどうまくはない。
「めぐ、伊都さんをちゃんと捕まえておくんだぞ」
 親父はその言葉を冷やかすでもなく、むしろ家長としての命令じみた口調で言い渡してきた。
「わかってるよ。来年には籍入れるから、忙しくなるけどよろしく」
 俺はそう応じると、隣で急に畏まっている伊都に向かって笑いかけておく。
 忙しくなるのはこれからだ。これからもずっと、俺について来て欲しい。
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