Tiny garden

あかいいと(5)

 こっちに来たら案内すると約束していたから、伊都を実家から少し連れ出すことにした。
 記憶に染みついている土地勘を頼りに故郷の街を車で走る。観光名所はあまり多くなく、個人的にも辿りたい思い出がさほどなかったので、せいぜい俺の母校を遠目に見て、ちょっとドライブをして昼飯食って、市内で一番大きな公園をぶらついた後に名物のソフトクリームを食べた。俺が思いつくのはそのくらいだった。

「どこか、行きたいところってないのか」
 公園のベンチに座って日向ぼっこをしながら、俺は伊都に尋ねた。
 俺の故郷に連れてきておいて彼女に振るのも無責任な話だと思うが、こっちのネタはあっという間に尽きてしまったのだ。彼女の要望があればその通りにするし、ないなら――予定より早いが実家に帰り、明日に備えて昼寝でもするか。顔見せが済んだ以上は長居をする気もなかったので、明日には向こうへ戻るつもりでいた。連休が明けたらまた仕事だ、その支度だってある。
「うーん……この辺、あんまり詳しくないしね」
 案の定、伊都は少し考えてから首を竦めた。
「巡くんこそ行きたいとこないの? せっかく故郷に帰ってきたのに」
「それが、特にないんだ」

 離れて久しい故郷には懐かしさこそあれど、親しみはなかった。今更母校を訪ねたところで恩師が残っているとは思えなかったし、わざわざ会いに行って感激されるような優等生でもなかった。故郷にも家族や友人達と過ごした思い出はあるが、十年以上も離れていれば新しい思い出の印象強さに敵わなくなる。俺の記憶に残っている思い出はいいものも悪いものも、辛いものも幸せなものも、全て向こうの街で過ごした時間に塗り替えられていた。
 例えばこの先、俺が誰かに――例えば自分の子供なんかに思い出を語るとしたら、その話は全てこの故郷の街ではなく、向こうの街での出来事ばかりになるのではないだろうか。大学に通い、就職をし、伊都と出会い長い時間を過ごしたあの街のことばかり話したくなるに違いない。
 故郷にとっては全く薄情な話だろうが、それだけ向こうでの思い出が大きなウェイトを占めているということだろう。

「帰る機会がなくて、すっかり印象薄れちゃったからな」
 俺は正直に打ち明けると、伊都はおかしそうに破顔した。
「もっと頻繁に帰るようにした方いいんじゃない? お父さんにも言われてたよね」
「そうは言ったって、長い休みがあったら他にしたいことがあるからな」
 忙しい仕事の合間にはしっかり身体を休めたいし、趣味の為の時間だって欲しい。石田達と飲みに行く時間もたまには作りたいし、何より伊都と過ごすのに忙しい。
 とは言え彼女と再びこうして過ごすようになったのもここ一年くらいのことだ。故郷から足が遠のいている理由は、純粋に億劫だというのが一番大きいのかもしれない。
「今回みたいに、ちゃんとした理由でもないとなかなかその気になれないよ」
 答えつつ空を見上げる。天気予報によればこの連休中は天候が崩れる心配はないらしいが、その予報を裏切らない青空が一面に広がっている。日毎に気温が高くなってくる五月の初め、こうして日に当たっているのが心地いい。
「私もそうかも。何だかんだ毎年、お姉ちゃんが帰る時に私もってなってるし」
 伊都が俺の言葉を受けて語った。
「地元帰るのも、姪っ子ちゃんに会うのが主目的になりつつあるからなあ……」
「そんなもんだよな。ちょっと長く離れすぎた」
「私も巡くんと一緒に実家帰ったら、案内する場所ないなあって思うかもね」
「その時はご実家で伊都の子供時代の写真でも見せてもらうからいいよ。アルバムとか」
 言ってしまってから、これは失言だったかなと思った。
 同じことを彼女に言われたら、俺も実家に眠る写真やら卒アルやらを掘り起こす羽目になるからだ。まして実現可能な状況に近いのは圧倒的に俺の方だった。
 自分の言葉にぎくりとしている俺を、伊都はいたずらっ子みたいな表情で覗き込んでくる。
「そういえば見せてもらってないかも。ご実家帰ればあるかな?」
「何が?」
 俺はとぼけようとしたが、伊都はそれをものともせず真面目に続けた。
「何がじゃなくて、巡くんの子供の頃の写真」
「ないんじゃないかな。いや、きっとないな」
 本音としては『なければいいな』だったが、多分ある。うちの両親はそういうものを勝手に処分したりはしない人達だった。
「嘘でしょ、巡くんは誤魔化そうとしてるとすぐわかるよ」
 伊都は俺の哀れな抵抗を見抜いてか、冷やかすように笑ってみせた。
「見てみたいなあ、巡くんのちっちゃい頃。きっと可愛いんだろうなあ」
「いや誤魔化してるとかじゃなくて、もう何年も見てないしないよ絶対」
「じゃあ帰ったらお母さんに伺ってみてもいい?」
「……ないって。多分」
 俺はできる限りの抵抗を示したが、どうも写真公開は不可避の事態となりそうだった。
「決まり! 他に予定ないならご実家戻ろうよ」
 そう言うと伊都はベンチから勢いよく立ち上がった。引き締まった脚がすらりと伸びるのをこっそり眺めていれば、彼女はふとこちらを振り返る。
「あ、思い出した」
 その言葉に俺が視線を上げると、一体何を思い出したのか、伊都はうっすらはにかんだ。
「巡くんのご実家で見せてもらいたいもの、もう一つあったんだけど」
「うちで?」
 何だろう。俺はとっさに思い当らなかったが、
「前に話聞いてた、巡くん家のレコード部屋。よかったら見せてもらえないかな」
 彼女が続けた話に、そういえばとひらめいた。
 その話はお見合いの日にしていた。小野口課長の奥様の店で、ハーブティを飲みながら、うちにレコードばかりを置いている部屋があること、そのせいで俺は兄貴が家を出るまで一人部屋を与えられなかったことなどを打ち明けていた。レコードの話になったのはそもそも――そうだ、リンデンのハーブティからだ。
 何気なくした話だけに、彼女が覚えていてくれたことも、その上で見てみたいと思ってくれたことも嬉しくて、俺は二つ返事で了承した。
「いいよ、ならすぐに帰ろう」

 実家の一階、リビングと防音のピアノ室の間に、穴埋めパズルのように配置された小部屋がある。
 部屋の広さは三畳。壁面を埋め尽くすように置かれた棚という棚にレコードが詰め込まれた、安井家秘蔵のレコード部屋だ。
 二段ベッドで寝ていた頃の俺と翔は『この部屋さえなければ俺達も一人部屋が貰えたのに』と口にして憚らなかったが、両親がレコードをどこかへ移してくれるという取り計らいは一切なかった。夫婦共通の趣味として熱心に収集され、大事に大事に保管されているレコードは防音室のピアノと同じくらい二人にとって大切なものだった。

「……わあ、本当にいっぱいある」
 実家に戻った後、俺は約束通り伊都を件のレコード部屋へ招き入れた。彼女は入るなり小さな歓声を上げ、きょろきょろと室内を見回している。
「学校の図書室みたいな匂いがするね」
「ジャケットが紙だからな」
 古い紙のどこか懐かしい匂いがする部屋で、俺達はレコードの詰まった棚を見上げた。
 大人になってしまえばこの部屋に眠るレコード達の貴重さも身に染みてわかるというものだが、昔の俺はクラシック音楽、特にピアノ曲の類がそれほど好きではなかった。両親、特に母さんは俺達兄弟に音楽を聴かせたがったが、その教育が俺達にどんな影響を及ぼしたかは言うまでもない。
「すごいね。こんなに種類があるんだ」
 伊都は目を輝かせては棚に見入っていたが、その一角に置かれた年季の入ったプレイヤーの存在に気づくとそこへ指を指して言った。
「今でも聴けるの、この機械で」
「もちろん。何か聴くか?」
「いいの!?」
「いいよ、何がいい?」
 俺が聞き返すと、彼女は『何でも好きな物を買っていい』と言われた子供みたいに棚の前でうろうろ視線を巡らせた。が、直に困った様子で眉尻を下げた。
「聴いてみたいんだけど、どれがいいのか……。巡くんのお勧めってどれ?」
 音楽を聴かない伊都に選べというのは少し難しかったようだ。

 だから俺は進み出て、彼女の為に一枚選んであげることにした。
 プレイヤーの蓋を開け、ジャケットから取り出したレコードをセットする。そっと針を落とすと、弾けるようなノイズを鳴らした後で曲が始まった。かけたのはシューベルトの歌曲集だ。

「何ていう曲?」
 伊都の問いに俺は答える。
「『おやすみ』。シューベルトの歌曲集、『冬の旅』だ」
「シューベルト……前に巡くんが言ってたのだよね、菩提樹」
「そう、リンデンバウム。このレコードにも入ってる」
 二人で床に腰を下ろし、そのまましばらく静かなメロディに耳を傾ける。やがて五曲目が流れ始めると、伊都はすぐに口を開いた。
「これ、聴いたことある」
「有名な曲だ。これがシューベルトの『菩提樹』」
 あの日飲んだハーブティがリンデンで、俺がシューベルトの名前を出したら伊都が驚いていたのを覚えている。その流れでレコード部屋の話もした。菩提樹はあの日の思い出の一つでもあった。
「これがそうなんだ……」
 伊都はうっとりと目をつむって、流れる美しい旋律と切なげな歌声に聴き入っているようだ。少ししてから俺に尋ねてきた。
「きれいな曲だね、歌詞はよくわかんないけど」
「失恋の歌なんだよ」
「えっ、そうなの!?」
「冬の旅はそういう歌曲集だからな」
 俺が語ると伊都は意外そうに回転を続けるレコードを見やった。歌詞がわからなければこの甘い曲調に込められた意味もわからないものだろう。でもだからと言ってこの曲が楽しめないというわけでもないはずだった。
 五曲目の『菩提樹』が終わるまで、彼女は黙って曲に聴き入っていた。それから長く息をつく。
「巡くんは本当に詳しいんだね、すごいよ」
「それほどでもないよ」
「あるよ! 私はこういうのさっぱりだから、何か格好いいなって思うよ」
 膝を抱えて座る伊都は、俺に心底感心した様子でそう語った。
 誉められた俺は無性にくすぐったい気分なり、込み上げてくる笑いを噛み殺す。
「俺も知識だけはあっても、技術の方はさっぱりだった」
 すぐに彼女が俺の方を見て、怪訝そうに瞬きをした。
「技術?」
「昔、ピアノ習ってた。全く才能なかったけどな」
 俺だけではなく兄弟で習っていたのだが、揃って途中で挫折した。ピアノを愛していた母さんは息子達の才能のなさを嘆き悲しみ、俺達はそれを申し訳ないと思いつつもどうしようもなかった。
「そうなんだ! ピアノ弾く巡くんって何か……すごくイメージできるかも!」
「そうかな」
「うん、絶対格好いいと思う!」
 伊都は少し興奮気味に言うと、俺に肩を軽くぶつけながら続けた。
「ね、今も弾ける?」
「いや全然。もう大分やってないし、指が動かないよ」
「そっか、残念。聴いてみたかったな」
「ツェルニーまでしかやってないから、それほど弾けるわけでもないしな」
 それもまた、子供時代の思い出だ。
 挫折したからではないが、こういう話を大人になってから他人にする機会は全くなかった。石田や霧島にだって話したことはないし、そもそも自分で思い出すことさえ稀だった。でもこうして伊都と実家へ帰り、懐かしい思い出に触れ、それを彼女だけに打ち明けていると、彼女と人生そのものを共有しているような気持ちになった。

 俺達にはまだお互いに知らないことがたくさんある。
 小さな頃の記憶でも、普段は思い出さないような事柄でも、本来なら共有し得なかった思い出を彼女と分け合えるのならそうしていきたかった。人生を共にするってそういうことだろう。新しい思い出を作るだけじゃなくて、古い思い出を分かち合うこともできる。

 肩を並べて座りながら、すぐ傍にある彼女の手を握ってみる。今はいつものようにひんやりしている彼女の手を、ここでも繋げることを幸せに思う。昨夜も似たようなことを思ったが、このレコードだらけの部屋に伊都を連れてくる日がやってくるなんて、想像もしていなかった。
「いいね、こういうの。巡くんのこといろいろ教えてもらえて嬉しいな」
 伊都は繋いだ俺の手をじっと見下ろしている。伏し目がちなその表情は柔らかく微笑んでいて同じように、幸せそうに映った。
 俺がその唇の形に見とれていると、彼女はふと思い出したように、
「じゃあさ、写真だけでも残ってないかな」
「何が?」
「だから、ピアノを弾く巡くんの写真。発表会のとかないの?」
「……どうかな」
 曖昧に答えようとしたが、その時点でもう自供しているようなものだった。
「お母さんに伺ってみてもいい?」
 伊都が目をきらきらさせて尋ねてくる。
 彼女に期待の眼差しを向けられて、まさか『駄目だ』とは言えない。俺の写真くらいで喜んでくれるなら――とは思うが、ガキの頃の記憶とは向き合えても、写真に残った姿と向き合える自信はあまりなかった。
「いいけど、恥ずかしいからあんまりからかったりしないでくれ」
 俺が諦めの境地で苦笑すると、伊都はシューベルトの曲に紛れて鈴みたいな笑い声を立てた。
「うん、わかった」

 それで結局、俺は両親が残していたアルバムなどを伊都に見せることとなった。
 またうちの両親も恐ろしく物持ちがよく、実家の物置には俺がこの世に生を受けた日から幼稚園、小学校、中学高校と各種節目の度に撮影した写真がものの見事に残っていた。もちろんピアノを習っていた頃の写真も残っていて、蝶ネクタイにサスペンダーに半ズボンというベタな格好をした小学生の俺がピアノの前に座っている写真を見た伊都は可愛い可愛いと大興奮で誉めそやしてくれた。それが嬉しくなかったわけではないのだが、やはり気恥ずかしさの方が強かった。
 だから伊都のご実家へお邪魔した際には、彼女のアルバムも見せてもらおうと心に決めた。

 その日の晩にはまた兄貴一家と弟夫婦が実家にやってきて、大勢で夕食を食べた。
 相変わらず兄貴と翔は俺達に酒を勧めてきたが、明日帰るつもりの俺は朝の出発に備えて飲まないことにしていた。伊都は一杯だけ付き合うと決めて、その後はやはり長距離ドライブに備えてやんわり断ることに成功していた。
「残念だなあ。お義姉さんとはまた酒を酌み交わして聞いてみたい話があったのに」
 翔が言葉通りに残念そうな顔をしたので、伊都は少しほっとしていたようだ。
「昨夜は飲みすぎちゃったから、今日は自重しときます。また変なこと言っちゃったら困るし」
「別に変なことなんて言ってないよ。なあ、めぐ兄ちゃん?」
 にやにやしながら水を向けてきた弟に、俺はひと睨みで応じた。
「次に会えるのはそれこそめぐの結婚式かな」
 兄貴は少し寂しそうに言うと、伊都に向かって頭を下げる。
「伊都さん、不肖の弟だけどよろしく頼むよ。幸せにしてやってくれ」
 そこで頭を下げてくる辺りがうちの兄貴の兄貴ぶっているところだ。俺は苦笑したが、隣に座る伊都は笑わずに頭を下げ返した。
「こちらこそ、不束者ですけどよろしくお願いいたします。必ず巡くんを幸せにします」
 あと、それは本来なら俺が伊都のご実家で言うべき台詞だと思うんだが――まあ、いいか。これはこれで嬉しい。
「本っ当に不肖の兄ちゃんですけどよろしくね」
 翔が口を挟んできて曰く、
「昔から伊都さんにはべた惚れだから、大切にしてやって」
 かつての同居人は他の家族が知らないようなことも知っている。あの頃から既に、翔にはそういうふうに見えていたってことだろう。それ自体はきっと話を盛っているわけではなく、ありのままの事実に違いなかった。
「めぐ兄ちゃんも、もう二度と伊都さんを離さないようにね」
 弟は尚もそう続けた。にやにやと冷やかす笑みを浮かべてさえいなければよかったのだが、それだけでもう台無しだ。
 素面の俺は息をついてから、意を決して答えた。
「離さないし、離れないよ。俺達はもう赤い糸で結ばれてるからな」
 気障な台詞に弟が『何だそれ!』とげらげら笑い、兄貴が苦笑する中、俺は夕食の並ぶテーブルの下でこっそり伊都の小指に自分の小指を絡めてみた。
 一瞬だけこちらを向いた伊都が、途端に顔を上気させて俯く。
「め、巡くん……そういうの、いきなりだとびっくりするんだけど……!」
 昨夜と違ってビールは一杯しか飲んでいないのに、耳も首筋もすっかり赤く染まっていた。

 それが昨夜と同じようにすごく色っぽく見えて――そうなると別の意味で俺は、ぼちぼち向こうへ帰りたくなってしまった。
 伊都に言ったら赤くなるどころの話ではないだろうから、ここでは黙っておくことにする。
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