Tiny garden

あかいいと(3)

 伊都のことだから、きっとうちにもあっという間に溶け込んでしまうだろうと思っていた。
 何せ広報課でも小野口課長だの東間さんだのという、俺からすれば一癖も二癖もある諸先輩らに可愛がられ、上手く付き合っているほどだ。その人懐っこさはどこでも通用するだろうと特に心配はしていなかった。
 実際、伊都はうちの実家にもすぐに打ち解けてしまった。
 一杯目のビールが入った時点で既に。

「へえ、伊都さんって豆腐でお酒飲むんだ?」
 翔の言葉に伊都は屈託なく頷いている。
「そうなんです。もうビールの友と言えば薬味たっぷりのお豆腐って決めてるほどで!」
 熱く語る彼女の前には冷奴の器が置かれている。帰省前、両親に彼女の好物を伝えておいたのでわざわざ用意しておいてくれたようだ。俺も食べると言ったら母さんには驚かれたが、俺だってここ数年は飲み会と言えば豆腐だった。
「飲む時どころか、飯の友も豆腐、弁当のおかずも豆腐だよな」
 俺が口を挟むと伊都は目を細め、対照的に兄貴や翔達は目を丸くしている。
「そんなに!? 豆腐ばっか食べてて飽きない?」
「しかもめぐまで豆腐好きになったのか。余程料理上手なんだな」
「飽きないどころか。伊都は豆腐料理のレパートリーも豊富だし、何作っても美味しいよ」
 こと豆腐料理に関して、彼女の作るものが美味しくなかった例がない。王道の麻婆豆腐からシンプルな豆腐丼、変わり種のアレンジメニューに至るまで一つとして外れがなかった。お蔭で彼女と暮らし始めてからは毎度の食事が楽しみで仕方がない。もちろん日々持たせてくれる弁当だって。
 ただ、そういう内心が顔に出ていたのだろう。
「お、早速惚気に入りましたな」
 翔がにやにや笑いを俺に向けてきたので、俺は顔を顰めてビールを啜った。

 このビールだって、俺は断じて飲まないつもりでいた。
 だが各方面から『まあまあ乾杯の一杯目だけでも』と執拗に勧められ、仕方なく付き合うことになってしまった。
 これ以上は飲まない。ぼろが出るのは確実だからだ。

「でも、伊都さんが料理上手なら安心だな」
 兄貴が胸を撫で下ろす。
「めぐは一人遠く離れたところで暮らしてるから、身体は大丈夫かっていつも心配してたんだよ」
 いつものように兄貴風を吹かせるその言葉に、すかさず親父も同調してきた。
「なあ。ろくに連絡も寄越さないから、元気にしているのかいつも気にしてるっていうのに」
「心配されなくても元気だよ。今より食生活悪い時だってあったけど、倒れもしなかったし」
 俺は首を竦める。
 今でこそ伊都による健康的かつ美味しい食生活を満喫しているが、一人暮らし時代の俺の食事はなかなかに酷いものだった。
 それを知っているのがかつての同居人、翔だ。
「昔のめぐ兄ちゃんは酷かったもんな。晩飯っつったらいつもレトルトとか、インスタントでさ」
「しょうがないだろ。疲れて帰ってきてから夕飯の支度なんて億劫だ」
 弟の言葉に反論しつつ、俺はすぐさまやり返す。
「それを言うなら、学生の身分で家事を手伝いもしなかったお前の方が問題だろ」
「しなくはなかっただろ。俺だって部屋の掃除とか風呂掃除とかしたし」
「威張って言うことじゃない。住まわせてやってたんだからそのくらいやるもんだ」
「めぐ兄ちゃん超偉そう。ねー伊都さん、うちの兄ちゃんの本性こんなんだよ、大丈夫?」
 旗色悪しと見てか、翔は伊都に水を向けてきた。
 たちまち伊都は朗らかに笑う。
「わかってるんで大丈夫です」
 否定はしてくれないのか。
「巡くん、こういう人だから一緒に住んでても家事とか率先してやってくれて、すごく助かってます」
 でも彼女がフォローするみたいに続けたので、俺は内心ほっとした。
 逆に翔はぎくりとしたように、隣に座る身重の嫁さんを見やる。意味ありげな笑みを返されていたのを見るに、弟はそういうところも相変わらずらしい。
「聞いたか、翔。お前もそろそろ父親としての自覚をだな――」
「わ、わかってるってば」
 親父が説教でも始めようとした空気を察知して、翔は慌てたように頷いた。
 それからまるで話を逸らすように、
「伊都さんってめぐ兄ちゃんと同じ会社なんでしょ? 職場での兄ちゃんってどんな感じ?」
 質問をぶつけてきた。
「うーん……同じ会社ではあるけど、部署が違うから具体的には言えないけど……」
 伊都は難しげな顔をして俺を見る。目が合うとすぐにおかしそうに笑うから、どんなことを答えようとしているのかは大体分かった。
「ちょっとでも悪いこと言うとすぐ論ってくる兄弟だからな。いいことだけ言ってくれ」
 俺が皆に聞こえる声で頼むと、当の兄弟達はさも当然と言う顔で目を輝かせる。
 それで伊都もくすっと笑って、言った。
「とっても頼りになる人事課長さんなんです。社内でも気配り上手で、真面目で、相談にも真摯に乗ってくれて」
 まあ、嘘ではないな。頼んだ通り持ち上げてもらって、俺はいい気分で冷奴をつつく。
 ただし、それに対する兄弟の反応は正反対だった。
「めぐも真面目に働いてるんだな。まだ課長なんて早いんじゃないかと思ってたけど、そうでもなさそうだ」
 兄貴は穏やかに笑い、翔はまたしてもにやにやと笑う。
「えー、真摯に相談に乗ってくれるのって伊都さんが相手だからじゃないの?」
「……そんなことないよね?」
 伊都がまた、俺を見た。
 本気で確認したがっているというよりは、冷やかされた後の照れ隠しみたいな問いかけだった。

 とは言え実際、そんなことはなくもない。
 去年の春に伊都が広報へ異動した直後は空き時間を利用して個人的にヒアリングをしたこともあったし、彼女の為にと社内報へのご意見ご感想を収集して回ったこともある。普段から手を抜いて仕事をしているわけではないが、伊都のこととなるとより積極的に動いているというのも事実だった。

 俺が回答を避けるようにまたビールのグラスを傾けると、兄弟からの視線がきつくなる。
「めぐ、誤魔化そうとしてるな……相変わらずわかりやすい奴だ」
「ああこりゃ図星刺された時の反応だね。めぐ兄ちゃんは昔からこうだもんな」
 二人揃って勝手なことばかり言いやがる。俺が何か言えば言ったで揚げ足取ってくるくせに。こういう時は知らん顔で黙秘に限るというのが、俺の三十一年にわたる次男人生から学んだ教訓の一つだ。
「……そうだったの?」
 伊都が更に照れた様子で尋ねてきた時は、さすがにポーカーフェイスを維持できなかったが。
「どういうふうに受け取ってくれてもいいよ」
 俺はそう告げて、隣に座る伊都の頬を撫でる。
 途端に彼女は顔を赤らめ、触れている頬がほんのりと熱を持つ。それを見た翔が冷やかしの声を上げ、兄貴が声を立てて笑う。呆れた顔をする親父の横で、母さんはにまにましている。
 家族の中に伊都がいる。取り立てて緊張することもなくいつも通りの彼女が、俺の家族が揃う実家のリビングに座っている。俺の方がまだその光景に馴染めなくて、恥ずかしそうに俯く伊都が無性に眩しく映った。

 はじめに宣言した通り、俺はビールを最初の一杯だけで切り上げた。
 底意地の悪い兄弟どもは尚も飲め飲め飲んで醜態を晒せとばかりにしつこく勧めてきたが、こういった手合いのかわし方には会社の飲み会等で慣れている。俺は完全無視を決め込んで冷蔵庫にあった烏龍茶を貰った。

 すると兄弟どもは標的を伊都に変更し、グラスが空くとかぶりつきでビールを次ごうとする。
「伊都さん、意外といける口だな。よかったらもう一杯どうかな?」
「そうそう、今日はいいビール揃えてるから遠慮しないで飲んでってよ!」
 時刻は夜九時を回り、翔の嫁さんは大事を取って一足先に帰宅済み、兄貴のところの子供も眠気を訴えて別室で就寝中だ。親父も眠いと行ってあっさり部屋へ引っ込んでしまい、母さんは台所で洗い物をしている。そろそろお開きにしてもいい頃合いだと思うのだが、この兄弟どもに腰を上げる気配はない。
「じゃあ、もう一杯だけ」
 伊都が空になったグラスを兄貴に向かって差し出したので、俺は慌てて割って入った。
「大丈夫か、伊都。無理しないで、こいつらのお酌なんて断っていいぞ」
「まだ無理じゃないよ」
 と彼女は言うが、現時点で既にグラス四杯のビールを飲み干している。頬も大分赤くなって、酔いが回り始めているのが見るからにわかった。
 伊都は俺より酒に強いとは言え、特別酒豪だというわけではない。彼女が潰れるところは見たことがないが、それは普段俺に合わせて程々のところで切り上げるからだろう。いつも馬鹿みたいに飲んで楽しそうにしている兄弟達に付き合えばどうなるかわからない。
「兄貴も翔も、伊都に無理やり勧めるのはやめてくれよ」
 俺が釘を刺すと二人はきょとんとしてから、
「いや、まだまだいけるだろ。めぐは飲まないからその辺の適量がわかんないんだよ」
「いいからめぐ兄ちゃんは烏龍茶でもちびちび舐めてなよ。ささ、伊都さんどうぞ!」
 あっさりと聞き流して瓶ビールを傾ける。伊都が差し出していたグラスに五杯目のビールが注がれ、彼女は軽く頭を下げてからそのグラスに口をつけた。ごくごくと喉を鳴らしながら飲んだ後、俺に向かって赤い顔で笑う。
「心配しないで、巡くん。潰れる前にちゃんとやめるから」
 酔いが回っていることを除けば、朗らかで明るいいつもの笑顔だった。

 彼女が上手くて楽しい酒を飲んでいるならいいのだが、婚約者の兄弟から勧められた酒を断れないというだけならこれは俺の責任問題だ。俺が伊都を守ってやらなければならないだろう。
 今のところ本人の発言通り、無理しているそぶりはない。だが経過を慎重に見守る必要がある。

「めぐ兄ちゃんは心配性だなあ」
「大事な彼女のことを心配して何がおかしい」
 弟の言葉に即座に反論すると、奴はうひゃっとよくわからない声を上げた。
「兄ちゃん、昔よりはっきり言うようになったね。昔はもっと照れまくりだったじゃん。俺に伊都さんの写真見せてくれた時とかさあ」
 あの時だって別に照れたつもりはなかった。翔の記憶違いじゃないかと言い返そうとした時、伊都が怪訝そうに口を開く。
「あ、さっきも聞いたねそれ。私の写真、弟さんに見せてたの?」
「見せてたどころか手帳に挟んで持ち歩いてたんだよ、めぐ兄ちゃん」
「翔! 余計なこと言うな!」
 口の軽い弟を咎めたが時既に遅し、伊都は恥ずかしそうに苦笑した。
「持ち歩いてたって、いつの写真? まさか公園で撮ったやつ……?」
「……まあ、そうだよ。あの当時はあれしか持ってなかったし」
 これ以上翔に余計なことを言われないよう、そちらに睨みを利かせながら俺は答える。
 伊都はまだ何か聞きたそうなそぶりで俺をちらちら見ていたが、さすがに兄弟達の前で尋ねる気にはならなかったようだ。はにかみながらグラスのビールをまた飲んだ。心なしかピッチが速いような気がするが、大丈夫だろうか。
「にしても、本当にいるもんなんだ」
 翔も何杯目になるかわからないビールを呷った後、呂律が怪しくなってきた口調で切り出した。
「一回別れてより戻すカップル、ドラマじゃよく見るけどリアルでいるとはね」

 その話題が出た時、俺は兄弟達によく見えるようにはっきりと眉を顰めた。下手なこと聞いたら承知しないぞ、という顔だ。
 兄貴には事前に釘を刺したが危ないのはむしろ弟の方で、伊都が傷つくようなことを遠慮会釈もなくずけずけと聞いてくる可能性がある。その前に阻止しなくてはならない。

 兄貴が察したように俺をちらりと見た。
「翔、失礼なことは聞くなよ。伊都さんにまた振られたらめぐが再起不能になるぞ」
 止めてくれるのはいいが縁起でもないことを言いやがる。うちの兄貴はたまに空気が読めない。
「そんなこと、あり得ないから大丈夫」
 伊都はそう言って笑い飛ばしてくれたが、俺が安堵したのも束の間、まるで許しを得たかのように翔が調子に乗り始める。
「じゃあ安心じゃん。ね、伊都さん、なんでより戻そうと思ったの?」
「翔!」
 兄貴と違ってわざと空気を読まない弟を、俺は思いきり睨みつけた。
 ところがそこで、
「なんでって……うーん、嫌いで別れたわけじゃないから、ですかね」
 伊都が、存外真面目な表情で口を開いた。
 彼女が真面目に答えると思っていなかった俺は度肝を抜かれたし、兄貴もまた多少驚いたようだ。翔だけが好奇心に目を爛々とさせている。
「へえ、俺はてっきりめぐ兄ちゃんがやらかして愛想尽かされたと思ってたのに」
「全然そういうのないです。だって巡くんですよ? そういうの、あるはずないです」
 いやにきっぱりと断言した伊都が、五杯目のビールをグラスの半分近くまで飲む。そしてグラスを置いた後、深く息をついてみせる。頬は相変わらず赤いが、それだけではなく首筋まで赤くなっていた。
「だから私も、今度こそ巡くんを幸せにしたいって思うようになって……」
 気がつけば彼女は、随分と自然な口調で俺を『巡くん』と呼ぶようになっていた。全員『安井』ばかりの場所にやってきたからかもしれないが、伊都が呼ぶその名前をふと、幸せに感じた。
「今はちゃんとやり直して、よかったって思ってます」
 伊都は翔に向かって微笑んだ後、ふと俺に向き直り、釈然としない表情を浮かべてみせた。
「……私、もしかしたら酔っ払ってるかな?」
「もしかしなくても酔ってる」
 俺は改めて、彼女の赤い頬に触れた。さっきはほんのりと温かかったが、今は火照ったように熱くなっていた。瞳もまどろんでいるみたいにとろんとしていて、微かに赤く潤んでいる。
「そっかあ、自分でもそうかなって気がしたんだけど……」
 彼女もまた自らの手のひらを頬に当てたが、手のひらも頬や首筋と同じように赤くなっているように見えた。その手では今の正確な体温なんて測れないだろう。
「何か、変なこと言っちゃってたらごめん」
 伊都は俺に苦笑いで詫びてきたが、変なことどころか、俺はさっきの言葉をもっと詳しく聞きたかった。兄弟達に根掘り葉掘りされるのはいい気分がしないが、伊都が普段は言わないようなことを口にしてくれるのは正直、嬉しかったのだ。
「変なことなんて言ってないよ。でも酒はもうやめといた方がいいかもな」
 俺はそう言うと、彼女の手からビールのグラスを取り上げた。残り半分も入っていないグラスを彼女の代わりに飲み干すと、伊都は潤んだ目でじっと俺を見る。
「いちいち見せつけてくれるよなあ、めぐ兄ちゃん」
 翔がにやにやしている。
「どこがだよ。大して惚気てもないし、いちゃついてもいないだろ」
 思わず反論すれば翔は大仰に首を竦め、兄貴がまるで取り成すように笑ってみせた。
「でもめぐ、さっきから何かと言うと伊都さんの顔ばかり見てるだろ」
「見てたら何なんだよ……飲みすぎじゃないか気にしてたんだよ」
 現に伊都はすっかり酔いが回ってしまって、今はまだ普通に座っているがそのうち舟でも漕ぎ出しそうな雰囲気に見えた。思えばこんなふうにしっかり酔っ払っている伊都を見るのは初めてかもしれない――。
「めぐ兄ちゃんはどうやって伊都さんに『幸せにしたい』って思ってもらったの? 今は澄ましてるけど、実は結構必死に追いかけ回したりした?」
 性懲りもなく、今度は俺に矛先を向けてくる翔をスルーして、俺は兄貴に言った。
「伊都ももう飲めそうにないし、そろそろお開きにしようか?」
「あ、また黙秘に走った! こりゃ図星だな」
「お前はちょっと黙ってろ」
 弟からの質問をどうにかかわし、伊都も酔ってるし甥っ子も寝てしまったしと、ここらで飲み会を終わらせることにした。

「また明日来るから。そん時は絶対いろいろ喋らせてやる!」
 謎の怪気炎を上げる弟をタクシーに押し込み、ミニバンで帰る兄貴一家も見送った後、居間へ戻ると伊都は行儀よく座ったまま本当に舟を漕ぎ始めていた。
「二階、めぐの部屋だった方にお布団敷いといたから」
 母さんは小声で言うと、少し笑った。
「明るくて気立てのいいお嬢さんだけど、あんな大勢に囲まれたら緊張もするでしょう。今夜はもう休ませてあげなさい」
 見た感じには全く緊張している様子なんてなかったが、それでも伊都なりに気を遣っていたのかもしれない。俺はそうすると頷くと、伊都の傍まで行って彼女の腕を取る。
「伊都、布団敷いてもらったから二階へ行こう」
「んー……ごめん、私ちょっと眠いかも……」
「見ればわかるよ。歩けないなら抱えてくから」
「ううん、歩ける……」
 口ではそう言ったが、伊都は立ち上がるだけでも覚束なく危なっかしかった。
 俺は彼女に手を貸しながら階段を上がり、かつて俺が使っていた部屋に連れていった。
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