Tiny garden

秋の日に訪れる(3)

「本気、なの?」
 園田は愕然としていた。
 今更驚いたりうろたえたりする話でもないだろうに。俺は平然と応じる。
「俺はずっと本気だよ。結婚か同棲か、園田はどっちがいい?」
「どっちも問題点となる部分が共通してると思うんだけど!」
「そりゃ問題解決の為には避けて通れない部分なんだからしょうがないだろ」
 叫ぶ彼女を俺は微笑ましい気持ちで眺めた。
 この分だといざ始めた同棲生活でも十分に初々しい姿を見せてくれそうだ。さぞかし楽しくなるだろうと思う。

 結婚しようとしても、実際に結婚生活が始まるまでにはこなすべき課題が山ほどある。
 いい例が石田で、あいつは先月小坂さんにプロポーズをして無事に快諾されたそうだが、これからが大変なんだと語っていた。結婚式の為の式場を押さえ、プランナーと式次第について詰めなくてはならないし、主役となる花嫁さんのドレス選びにも足を運ばなくてはならない。
 式場を決めて日程も決まったら招待客に招待状を出し、各方面に挨拶もして、新婚旅行の行き先も決めて予約を入れて準備して、小坂さんは退職するそうだから主任としてそのフォローもして――まさに気が遠くなるほどの忙しさだ。しばらくはあいつとも飲みに行けないだろうな、と思っている。
 俺もいざとなればそういう手間を厭わないつもりではいるが、それはそれとしてさっさと園田との甘い二人暮らしを始めたいという欲求も当然ある。ああいう課題を全部こなさなきゃ結婚はできないだろうが、たとえこなさなくても同棲するのに支障はないだろう。楽しみは早い方がいい。
 もちろん同棲から始めたからといって責任が伴わないわけではない。その辺りは俺もいい大人だ、ちゃんとする。

「もし同棲するとなっても、早いうちに園田のご両親にもご挨拶をするよ」
 俺はここぞとばかりに畳みかけた。
 結婚を前提とした付き合いであることは早めに伝えた方がいい。園田は全く焦っていないようだが向こうのご両親も同じとは限らない。うちの親と同様にやきもきしているかもしれない。そうではなかったとしても、どうせなら『いい男を捕まえた』とでも思ってもらえて、結婚を後押ししてもらえる方がこちらにとっても好都合だ。
「無責任なことはしない。将来的には結婚するつもりだからな、入籍するのが早いか遅いかの違いだ」
 そんな俺を、園田はぽかんと口を開けて見つめていた。
 どうもまだ頭がついてこないようだ。何が何だかわからないという顔をしているが、聞こえていないわけではないらしく、しばらくしてからおずおずと尋ねてきた。
「一緒に暮らすとなったら、どこに住むの?」
「園田さえよければ、俺の部屋に来るといい。荷物と自転車くらい置けるスペース作るから」
 幸い、部屋ならずっと前から空いている。
 自転車を壁に飾って、彼女の部屋にある家具を全部運び込んでもどうにかなるだけの余裕が俺の部屋にはある。準備だけなら四年前から始めていた。お蔭で長い間一人で部屋を持て余す羽目にもなったが、その苦労もこれでようやく報われるというものだ。
 園田はようやく落ち着いてきたのか、パウンドケーキを食べ始めながら言った。
「私、荷物結構多いよ。大丈夫?」
「大丈夫。書斎にしてた部屋があるんだけど、そこを片づければ余裕でどうにかなる」
「わざわざその為に片づけてもらうっていうのも悪いよ」
「どうせ近々手をつけようと思ってたんだ。散らかってるわけじゃないし、すぐ済むよ」
 せいぜいオーディオ類を寝室に移すくらいだ。一日で済む。
 ただ園田が恐縮するのもわかる。彼女は俺の部屋を見たことがないから、一部屋すぐに空けられると言われてもぴんと来ないのだろう。
「口で言うだけじゃわからないよな。今度見においで、いつでもいいから」
 俺が誘うと、意外にも彼女はすんなり同意した。
「うん。折を見てお邪魔するね」
 そしてきめの細かいパウンドケーキを頬張った後、ふうと息をついて、気持ちを切り替えたみたいに続ける。
「ただ安井さんだって、私と一緒に住むのは初めてじゃない」
「そりゃそうだよ。でも俺は、上手くいくと思ってる」
 自信を持って答えたら、園田はいかにも疑わしげに顔を顰めた。
「何でそう言い切れるの? 一緒に暮らすとなるといろいろ問題も出てくると思うよ」
「問題って例えば?」
「例えば……だらしない人と几帳面な人だと、部屋の片づけ一つでも揉めるって言うし」
「園田は部屋きれいだろ。その辺も俺達、気が合うよ」

 俺はしっかり覚えている。
 園田の部屋は、何度訪ねてもきれいに整頓されていた。
 急場しのぎの掃除は案外とわかってしまうものだ。だが彼女の部屋はそうではなかった。自転車を部屋に持ち込む都合があるからかもしれないが、床やテーブルの上は常に片づいていた。そういえばバスルームもいつもぴかぴかだったな。一緒に入ってはくれなかったが。

「あとは、生活習慣の違いとかもよく聞くよ」
 園田はまたどこかで聞きかじったような話を、難しげな顔で語ってみせる。
 だからこちらもわざと驚いたように反応してやった。
「お前、何か特殊な習慣とかできたのか」
「ないけど。でも一緒に住み始めたらあれって思うかもしれないじゃない」
「それも平気だよ。お前の部屋に泊めてもらったことあるけど、問題なかった」
 週末の二日間を彼女の部屋で過ごして、月曜の朝にそのまま出勤したことだってあった。二泊していく気満々でスーツ一式を持ち込んだ俺に園田は呆れていたけど、嫌だとも言わず嬉しそうにしていたのを覚えている。忘れることなんてできやしない。
 もちろん彼女も覚えていたようだ。その顔が引きつったかと思うと、
「わ! ちょ、ちょっと何言うのいきなり!」
 大きな声を上げて立ち上がりかけた。白木の椅子が音を立てて揺れ、テーブルの上ではハーブティーの水面にさざ波が立つ。
「声が大きい。小野口課長に不審がられるぞ」
 俺はそっと彼女を制した。
 ちょうどカウンターの方にいたご夫妻がこちらを振り返ったところで、園田も彼らの方を見てあたふたと弁解する。
「な、何でもないんです。お見合いは順調です!」
 そしていかにもやらかしたという顔で席に座り直したから、俺は笑わずにはいられなかった。
「園田、うろたえすぎ」
「うろたえて当然だよ。こんなところでいきなり何を言うの」
 彼女の口ぶりはさも俺のせいで酷い目に遭った、とでも言いたげだった。
 だが俺からすれば、何をいまさらという感じだ。
「俺は事実を言ったまでだよ。それに、以前なら普通のことだった」
「む、昔だって普通ってほどじゃなかったよ。結構緊張したし」
 それはそうだろう。俺にもいろいろと覚えがある。印象深すぎて忘れられない思い出ばかりだ。
 何だったらこの場でその思い出をくまなく披露してやってもいいが――園田の機嫌を損ねるだけだろうからやめておくか。
「まして、あれから何年も経ってるんだよ。急に昔みたいに戻れるわけないし、もっと緊張するに決まってる」
 園田はむきになったようにまくし立てると、パウンドケーキをフォークで大きく切り取って口に運んだ。頬が膨らんでいるのはケーキのせいか拗ねているせいか、わかったものじゃなかった。
「俺は、何年も経ったって気がしてない。ついこの間の出来事みたいに感じることさえあるよ」

 過ぎ去った月日を全く感じていないわけではない。
 だが俺の中で四年前に端を発した彼女との記憶は、月日を経ても磨滅することもなければ不必要なまでに美化されることもなかった。ただただ鮮明に思い出として残っていて、いつでも取り出して回想に耽ることができた。
 それほど印象的で、忘れがたい記憶ばかりだった。

「そこは認識のずれがあるよね。私はどうしてもブランクを感じるって言うか」
 彼女は割と切ないことを言ってのけたが、しかしブランクを感じているということは、裏を返せば彼女を確かに取り戻せたという何よりの証明でもある。
 だから俺は絶望する必要も、へこむ必要だってない。前向きに捉えればいい。園田が戻ってきてくれたのだから、あとは二人で地道にやり直せばいいだけの話だ。彼女もそれを嫌だとは言うまい。
「ブランクか。ちょっと寂しいけど、そういうものなのかもな」
 俺はそう言うと、後で必ずやり直しをするつもりで、彼女に宣言した。
「まあ、もう一度初々しい園田を楽しめると思えば悪くないか」
 途端に園田が唇を尖らせる。
「すみませんねえ、いい年して晩熟で」
 彼女の下唇の方が厚い唇は、とても柔らかいことを俺は知っている。お茶の後では口紅が落ち、彼女本来の唇の色が露わになっていた。少し乾いているが十分美味しそうだ。
「可愛いからいいよ。許してあげよう」
 俺が許すと、園田は可愛いと言われたことにまんまと照れたようだ。視線をそわそわ泳がせたかと思うと、急に残りのケーキをものすごい勢いで食べ始める。
 それで俺もレアチーズケーキを崩しにかかりながら、言った。
「俺は割と昔から考えてたからな。そのせいで心構えができてるのかもしれない」
「何の心構え?」
「結婚の。実は異動が決まった時から考えてた」
 打ち明けるとさすがに照れた。
「人事に行って給料が上がったら、園田にプロポーズしようかと」
 そこまで考えておきながら彼女の手を離してしまったのは全く愚かで浅はかだった。
 もしもあの頃プロポーズまで辿り着けていたら、園田はどういう返事をくれただろう。
「そんなに前から?」
 園田が目を丸くしたので、俺はレアチーズケーキの最後のひとかけらを飲み込んでから頷いた。
「あの頃は本当に忙しくて、何か励みでもないとやってられなかったんだ」
 それからハーブティーのカップに手を伸ばし、少し飲む。このお茶は本当に美味しかった。もう残りわずかなのが残念なくらいだ。
 しかし俺の口に合ったのはカモミールとリンデン、どちらの方だったのか。それとも両方なんだろうか。
「今だから言えることだけど、もうちょっと営業でやっていきたいって思ってたのもあったしな」
 他の誰にも言ったことはない打ち明け話を、園田にだけは話しておく。
「何で俺が、って気持ちもなくはなかった。それでも人事に行って出世して給料が上がったら、園田と結婚する十分な口実になるんじゃないかって前向きに考えた」
 そこまで語ると園田の表情がみるみる沈み、しゅんとしてしまった。素直な彼女らしい、落ち込んでいる顔だった。
 その顔から俺は、『もしも』の答えを漠然と知ることができた。
 全く。俺達もつくづく遠回りをしたものだ。
「済んだ話だ。知っておいて欲しいとは思うけど、気に病む必要はない」
 俺は園田を慰めた。
 かつて振られた方が振った方を慰めるのも妙な事態だが、園田は神妙に顎を引いてみせた。
「うん……。安井さんは何でもちゃんと考えているんだね」
「そうだろ。惚れ直した?」
 からかうつもりで問いかける俺に、彼女は一度唇を結んでから、腑に落ちた様子で答える。
「うん。そうかも」
 いつものように照れたり、恥ずかしがったりはしなかった。
 だが曖昧なのはいただけない。
「かも、は要らない」
 俺が訂正を求めると、園田はちらりと笑んでから言い直す。
「じゃあ、……うん。惚れ直した」
 言わせたような言葉ではあったが、彼女の声で直に聞くと胸にぐっとくる。
 こういう、言う時は言うところも園田の魅力の一つだ。欲しい言葉を貰えて自信がついた俺は、胸を張って彼女に告げた。
「よろしい。このまま遠慮なく俺についておいで」
 今度こそ必ず、俺がお前を幸せにしよう。
 もう二度と寂しいなんて言わせない。泣かせもしないから、安心してついてくるといい。

 あっという間に、ハーブティーのカップが空になっていた。
 来店してからまだそれほど経っていなかったが、話が弾めば喉だって乾く。それだけ楽しい時間を過ごしたということでもあるだろう。
 俺はお替わりを貰おうか、注文するとしたら次は何をお願いしようかと考えかけたが、ふと店内の床を見てやめた。
 まだ三時を回ったばかりだというのに、窓から差し込んでいた日の光が随分と弱くなっていた。開放感ある大きな窓の外も妙に薄暗く、空を見ればどんよりとした厚い黒雲が広がり始めているところだった。

「……空が曇ってきた」
 思わず声に出したのは、車を離れたところに停めていたからだ。コインパーキングからここまでは結構歩いた。雨が降り出すと困る。
 園田も同じように窓の外を見て、途端に憂鬱そうな顔をする。
「あら、本当。雨になりそうですね」
 窓の外を気にする俺達を見て、小野口課長の奥様もこちらへ歩み寄ってきた。窓の外を心配そうに窺ってからこちらへ声をかけてくる。
「お車でお越しでしたよね? もしお持ちでないなら、傘をお貸ししますよ」
「お気遣いありがとうございます」
 俺は一応礼を述べたが、今日は俺も園田もスーツの上下、俺は革靴で彼女はパンプスだ。傘を借りたところで雨への備えは万全でもなく、なるべくなら降られる前に車へ逃げ込みたかった。
「雨になる前にお暇する?」
 園田も雨を恐れたのだろう、そう言ってくれたので俺も――さすがに即答しては失礼だから、少しためらったふりをした後で頷いた。
「そうだな。もうちょっといたい気分だったけど、仕方ない」
 俺達はお二人に改めてお礼を言い、そしてお茶とケーキの代金を支払おうとした。
 だが小野口課長はやんわりとそれを固辞した。
「いいからいいから。今日のは招待であって、お金をいただくつもりはないよ」
 正直、そう言われるだろうなとは思っていた。

 しかしだからと言って『じゃあごちそうさまでした』とはいかない。
 お世話になったのも、こうしてお見合いとして一席設けていただいたから園田と建設的な話ができたのも事実だ。感謝してもしきれない。また園田は部下だから黙って奢られるでも問題ないだろうが、俺はそうもいかない。
 さて、ご好意を無にしないようにしつつ感謝をお伝えするにはどうしたものか。

「でも、それだと申し訳ないですよ。本日はわざわざ時間を割いていただいたのに」
 園田も対応に困っているようだったから、俺は店内を見回し、ちょうどレジスターの横に並べられていた袋詰めのハーブティーに目を留める。値札がついているところを見るに、持ち帰り用の販売品だろう。
 これにしよう、と俺はすかさず手を伸ばした。品種はいくつかあり、俺は少し迷ってから『リンデン』とラベルが張られた袋を取る。
「ご馳走になってばかりでは悪いですから、こちらをいただけませんか」
 そして俺が申し出ると、小野口夫妻はまるで申し合わせたようなタイミングで視線を交わし、そしてほぼ同時にこちらへ向き直った。
「気に入っていただけましたか?」
「ええ、大変美味しくいただきました。ハーブティーは初めてでしたが、とてもいいものですね」
 俺はお世辞でもなくそう言うと、隣に立つ園田を見やる。
 園田は少し遅れて俺を見上げ、どこか興味深げな目を向けてきた。俺がハーブティを買い求めたことを不思議がっているようにも見えた。さすがにこっちは、まだ阿吽の呼吸とはいかないか。
 でもまあ、目が合っただけでもいいか。そう思い直して、俺もご夫妻に向き直る。
「買って帰って、彼女と二人でまた飲みたいと思うんです」
「そうか。お見合いの締めにふさわしい台詞をありがとう」
 たちまち小野口課長が口元をほころばせ、俺達を代わる代わる眺める。
「それでこそ招いた甲斐もあったってものだ。これからも仲良くね、お二人とも」
 俺の隣で園田が恥じらうように少し俯いた。俺と二人だけの時とは違う反応が可愛かった。
 ともあれ俺は今日のお礼代わりに購入した茶葉の代金を支払い、雨に濡れないようビニール袋に入れてもらった。
「お買い上げありがとうございます。またお店にもお二人でいらしてくださいね」
 奥様にもそう言っていただいたので、俺と園田はご夫妻に丁重にお礼を述べた後、やや慌ただしく店を後にした。

 外に吹く風はいかにも湿っぽく、雨の匂いを孕んでいた。
 店の前にある薔薇の生け垣を抜けると、園田が空を見上げて声を上げる。
「うわ、もう時間の問題って感じだね」
 俺も顔を上げると、もう空は一面が雨雲に覆われていた。もはや出がけに見た青空はどこにも窺えず、秋の空の変わりやすさを実感末う。
「そうだな。園田、急ごう」
 もたもたしている暇はなさそうだ。俺は彼女を促し、二人でコインパーキングを目指して急ぐことにした。
 だが早足で歩き始めても時既に遅かったようで、いくらも歩かないうちにぽつぽつと雨粒が降ってきた。それは数分もしないうちに勢いを増して、ざあざあと音を立てる本降りとなった。
「降ってきたな」
 店を出るのが遅かったか。俺は呻いたが、ここまで来たらもう店に戻って傘をお借りしても同じことだ。
 かと言って住宅街の中には雨宿りができそうな場所もなく、俺達が取ることのできる選択肢はもはや一つしかない。
「園田、走れるか?」
「いいよ。もうちょっとのはずだし、急いで行こう」
 彼女もそれしかないと思っていたようだ。即座に、思い切りよく頷いてくれた。

 だから俺は彼女の手を握り、その手を引いて雨の中を走り出した。
 お見合いの余韻に浸る間もなく、二人で雨に追い立てられるように、水しぶきを上げながら駆け抜けた。
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