Tiny garden

秋の日に訪れる(4)

 コインパーキングに辿り着く頃には、二人ともすっかりずぶ濡れだった。
 車の傍まで来ると、俺は園田の手を離す。そして車に駆け寄りながらキーレスを操作して鍵を開ける。
「すぐに乗って」
 俺の指示に彼女もすぐ従った。
「ありがとう」
 助手席のドアを開けて乗り込むのを確認してから、俺も運転席に飛び込む。

 ドアを閉めると二人揃って溜息が出た。
 フロントガラスが雨に洗われ、外が見えなくなっていた。
「酷い降りになっちゃったね」
 園田が息を弾ませながら嘆く。
 彼女が今日の為にせっかく着てきたグレーストライプのスーツが、まるでブラックスーツみたいな色に変わっていた。短い髪もすっかり濡れて、シャワーの後みたいに水滴がぽたぽた落ちている。
「本当だな。結構濡れたんじゃないか、大丈夫か?」
 俺が尋ねると、園田は雫が垂れている自分の前髪を恨めしげに見上げた。
「そうでもないよ……って言いたいとこだけど、座席まで濡れたかも。ごめん」
「気にするなよ。これだけ降られたらしょうがない」
 かくいう俺もそれなりに酷い有様だった。髪から垂れる水が頬や首の後ろを伝い落ちて気持ち悪かったし、スーツどころか下のシャツや靴下までぐっしょりだ。ここまで濡れるともう抵抗は無意味だ、どうでもよくなってしまう。
 ただ、俺はよくても園田はよくない。こんなに濡れて風邪を引かれたら困る。
 俺はハンカチを取り出すと、助手席に座る彼女に対して身を乗り出した。
「風邪引くと困る。焼け石に水かもしれないけど」
「あ、いいよいいよ。私もハンカチ持ってるし、安井さんだって結構――」
 園田は遠慮しようとしたが、放っておけなかった。
 その時はただ、純粋な気遣いのつもりだった。
 ハンカチを持った手で彼女の髪をそっと拭ってみる。いつもはさらさらで柔らかい園田の髪だが、こうも濡れてしまうと墨汁を吸わせた筆先みたいに硬く感じられた。とにかく早く拭いてやりたくて、俺は膝を進めるようにして彼女に近づいた。
 すると、園田が息を呑むのが聞こえた。

 気がつけば園田がすぐ近くにいた。
 彼女の髪の分け目と濡れて額に張りつく前髪が俺の目の前にあり、園田の瞳の前にはちょうど俺の口元があるはずだった。気づかれないように視線を走らせれば、園田は瞬きもせずに俺の口元を直視していて、まるで時を止められたように全身を硬直させていた。俺に距離を詰められて緊張しているのだろうか。
 見下ろす顔が次第に上気していくのを見ていると、悪戯心が疼き始めた。

 それで俺は、わざと彼女の頭を抱き寄せた。
 手のひらで触れた彼女の濡れた髪が冷たかったが、その隙間に覗く耳たぶは熱かった。園田は硬直したまま人形みたいにされるがままだ。嫌がらないどころか何も言わない。
「全く、最後の最後で運が悪かったな」
 俺はぼやきながらも笑いを堪えるのが大変だった。
 このくらいのことで赤くなって緊張している園田がおかしくて、可愛かった。こんなふうに近づいたのも初めてではないのに、久々だからだろうか。俺は彼女に息がかからないよう、呼吸を押し殺しながら髪を拭いた。
 そしてその顔を見下ろすと、園田は唇を微かに震わせていた。寒いのかとも思ったが、触れたら熱そうなくらい頬が赤いから、きっと違うだろう。
「どうした? 寒いのか?」
 俺がそ知らぬふりで尋ねると、彼女はぎこちなく首を動かそうとした。
「う、ううん」
 だがほとんど動かなかった。
 その代わりなのかどうか、おずおずとか細い声で言われた。
「何か、顔、近いなと思って……」
 意外と直球で来たな。園田も知らないふりでもするのかと思っていた。
 俺は苦笑してから応じる。
「ああ。別に、わざとじゃないよ」
 もちろん嘘だ。本当はわざとだ。
 それで園田がわかりやすくぎくしゃくするのを見て楽しんでいる。我ながら大した底意地の悪さだと思うが、雨のせいで慌ただしく幕を下ろさなければならなくなったお見合いの後だ、もう少し甘い時間を過ごしたいと考えるくらい許されるだろう。
「園田、もう少しだけ我慢できるか?」
 俺は彼女に囁いた。
「あと少しで拭き終わる。それまでじっとしてて」
 園田は何の返事もしなかったが、俺はそれを都合よく肯定と受け取ることにした。

 丁寧に拭いたからか、園田の髪から雫が垂れてくることはなくなった。湿り気を含んだ髪が彼女の赤くなった頬や首筋に張りついているのが色っぽかった。
 車の外では雨が降り続いている。すっかり本降りとなった雨音は車体を叩いてうるさいほどだったが、お互いの呼吸だけはなぜかよく聞こえた。俺は彼女に吐息がかからないようにと呼吸を潜めていたが、なぜか園田まで息を殺していた。そのせいで苦しくなるのか、時々震えるような深い息をつく。それが聞こえた時、何だか俺の方がどきっとした。
 以前もこうして園田の髪を拭いてやったことがあった。
 俺が彼女の部屋に泊まる時、一緒に風呂に入ろうと言っても一度として了承されることはなかった。彼女は必ず俺に先に入るよう言い、園田が風呂に入っている間は一人で待たされるのが寂しかった。それで彼女が戻ってきてくれると構いたくて仕方がなくなって、よく彼女の髪を拭いてやった。その時の感触も、漂うシャンプーの香りも、されるがままになって目を閉じている園田の顔もそのままそっくり思い出すことができた。
 あの頃の幸せな記憶は、やはり俺の中に鮮明に残っている。
 だがそのせいで、今と昔の区別が時々つかなくなる。今の俺達は気持ちこそ通じ合っているかもしれないが、昔のように相手の部屋に泊まることもなければ、入浴の後で濡れた髪を拭いてやることもない。俺はすぐにでもあの頃の記憶と気分を取り戻して園田に接することができるが、彼女はそうではないようだ。今日もそういうことを何度か言われた。
 だから本当なら、焦らず地道に何もかもやり直すのがいいんだろう。

「……ほら、終わった」
 やがて俺は言って、拭き終わった彼女の髪から手を引いた。
 園田がこわごわ視線を上げる。振るえる唇に引きつった微笑を浮かべる。
「あ、ありがとう。安井さんも髪、拭いた方が」
 その声が不自然に捩れ、彼女もそのことに気づいてはっと言葉を止めた。愕然とした様子で薄く開かれた唇は、雨に打たれた後でも色艶よく、柔らかそうだった。
 ほんの悪戯心のつもりだった。さっきまでは。
 彼女をからかってやろうとしていた心が、いつの間にか彼女に強く掴まれていた。
 焦っているわけではなかった。もっと純粋に、彼女に近づきたかった。今すぐにでも近づきたくて、触れたくて、引きずり込まれて溺れていくような衝動がいつしか抑えられなくなった。
 俺はハンカチをしまうと園田の頬に手のひらを添えた。
 彼女の頬は見た目の通りに熱く、雨を浴びて冷え切った俺の手をじわじわと温めてくれた。そこから伝わる熱があっという間に全身を駆け巡ったかと思うと、もう踏み止まることはできなかった。
「園田」
 名前を呼ぶと、園田の肩がびくっと跳ね上がる。
 何かを予感したんだろうか。俺を見上げたまま身じろぎもせず、唇を動かすこともなかったから、狙いを定めるのはたやすかった。
「ごめん。本当は、わざとだ」
 そう言うなり、俺は目をつむって彼女の唇に噛みついた。
 歯こそ立てなかったが、貪るように唇を押しつけると、記憶していた通りの感触が蘇ってきた。

 三年前、彼女の誕生日以来だった。
 彼女とキスをしたのも、誰かの唇に触れたこと自体もそうだ。彼女の唇は柔らかくて、俺が冷えているせいか少し熱く感じられた。その柔らかさと熱が気持ちよくて幸せで、だが少しだけ切ないような、苦しいような思いも込み上げてきた。
 園田は嫌がらなかった。拒むどころか抵抗一つせず、易々と俺を受け入れた。俺が彼女の背中に手を回し、背骨に沿ってそっと撫でると、くすぐったそうに身を捩りながらも逃げ出そうとはしなかった。ただ彼女も久し振りだったんだろう、途中で窒息しそうだと訴えるように俺の肩を押してきたから、俺はわずかにだけ唇を離して彼女に息継ぎの間を作ってやる。そして園田が息をしたのを見計らい、すぐに塞ぎ直した。
 久し振りすぎて、気持ちよすぎて、時間を忘れそうだった。
 唇の感触を確かめ、味わい、軽く食んでじっくりと味わった。
 三年以上のお預け期間は俺にはやや長すぎたようだ。そのことにたった今、唇を重ねてから気づくのも妙だろうが、俺も感覚が麻痺していたのかもしれない。よくもまあ、こんなに離れていて平気だったものだと思う。
 もう離さない。ようやく戻ってきたこの唇も、この身体も、彼女の何もかもが俺のものだ。

 やがて唇が離れた時、お互いに深く、疲れたような息をついていた。
 園田が俺を見る。恥ずかしがるかと思ったが、意外と真っ直ぐに見つめてきた。ただその目は涙に潤んでいて、それがどういう意味の涙か把握する必要があると俺は思った。
「許してもらえるとは思わなかった」
 俺は独り言のつもりで呟いた後、彼女に向かって告げた。
「ありがとう、園田」
 園田は俺から目を逸らさない。眠りから覚めた後のような、うっとりした顔をしている。
「こんな時間がまたやってくるなんて思わなかった。幸せだよ」
 心からの思いを俺は続けた。
 正直、もっと時間をかけなくてはいけないかと思っていた。彼女は俺と違ってブランクがあるという認識のようだから、キス一つ許されるのにもまだ時間が必要かと思っていた。
 だから今は素直に嬉しかった。
 我ながらキス一つで浮かれすぎだとは思うが、堪らなく幸せだった。
「久し振りだね」
 園田がぽつりとそう言った。感慨深げではなかったが、率直な一言だった。
「ああ、本当に」
 俺は頷き、園田の唇を見つめる。先程よりも赤みが強くなったように見える唇は、やはり下の方がぽってりと厚い。下唇に指で触れて輪郭に沿うように撫でると、俺の唇にも先程の感触がにわかに蘇ってきた。
「園田の唇、記憶にあった通りだ。柔らかかった」
 鮮明な記憶を俺が口にすると、園田は今更のように赤面して俺を睨んだ。
「変なこと言わないで」
「変かな。素直な感想なんだけど」
「何か今になって照れてきた。安井さんの顔見られないよ」
「それは困るな。顔上げて、園田」
 俺は彼女に囁きかけたが、それが逆効果だというのも十分わかっていた。
 たちまち園田は俯いて、必死になって首を横に振る。
「やだ。またする気だって知ってるから」
「駄目? 久し振りだから、一度じゃ足りない」
 催促してはみたものの、園田は頑なになると手強くてなかなかいいと言ってくれない。
「園田、頼むよ。意地悪しないでもう一回」
 俺は彼女の耳元でねだり、寒そうな彼女の肩を包むように抱き締め、まだ湿っている髪を撫でたりと手を変え品を変え迫ったが、彼女から返ってきたのは困り果てたような答えだけだった。
「久し振りだから駄目なんだってば。一回だけでもすっごくどきどきしてるのに、これ以上したら……」
「これ以上したら?」
 聞き返せば園田は、面接に赴く学生のように俺のネクタイの結び目辺りに視線を下げた。
「何か……普通じゃなくなっちゃいそうって言うか……」
 そう言われたら、とてもではないが黙っていられなかった。

 今度はもう許しを請うこともなく、俺は園田の頭を手で掴んで無理やり上を向かせると、再びその唇に噛みついた。
 先程よりも熱く感じる唇はやはり俺を拒むこともなく、もっと求めるつもりで軽く舐める。
 しかし抉じ開けようとしたタイミングで園田は俺から離れ、ついでに肩を強く突き飛ばしてきた。結構痛かった。

「突き飛ばすことないだろ。久し振りだっていうのにつれないな」
 俺が抗議すると、園田はそれ以上の剣幕で反論してきた。
「久し振りなのにいきなり舐めることないでしょ!」
「愛情表現だよ。園田こそ、少しくらい口を開けてくれたって」
「わ! そういうこと言わないでよ安井さんの馬鹿!」
 ――懐かしい言葉だ。
 罵られたにもかかわらず、俺の口元は込み上げてくる懐かしさと嬉しさですっかり緩みきっていた。
 そろそろ、そう言われたいと思っていた。
「園田に『馬鹿』って言われたの、それこそ久し振りだ」
 噛み締めるように俺は言い、車のエンジンをかける。
 助手席から園田が訝しそうな視線を投げかけてくる。
「何で、そんなに嬉しそうなの?」
「さあ、何でだろうな?」
 俺はクイズを出すみたいに聞き返したが、園田にはわからなかったようだ。不審そうに眉根を寄せていた。
 昔の、ちょっとしたやり取りの名残だ。彼女は覚えていないのか、そこまで重大なことだと思ってもいないのか――どちらもあり得るだろう。
 だが俺にとっては甘くとろけるような愛の言葉だってことだ。
「さて、風邪引く前に送ってくよ。窓の曇り取れるまで、ちょっと待ってて」
 車内にこもった熱気のせいか、車の窓はどこもかしこもすっかり曇っていた。俺の言葉に園田は恥ずかしそうに横を向く。
「お見合いの当日にキス、とか。普通ないと思うんだけど」
「普通だったら速攻破談だな。でも俺達は破談にしないだろ?」
 俺が自分の髪を拭きながら応じると、園田は返事をしなかった。
 だが黙って横顔を見つめているうち、その表情が照れ隠しとも悔しげともつかない可愛いしかめっつらに変わっていった。
「もう、馬鹿……!」
 やがて彼女がこっそりと呟く。
 そう言われると嬉しい俺はもうめろめろだった。幸せすぎて溶けそうだ。

 見合いが無事に済んで迎えた翌朝は、昨日の雨が嘘のような秋晴れだった。
 天気予報でも終日雨の心配はないということだったから、俺は早めに出勤して、自転車をかっ飛ばしてくるであろう園田をロッカールーム前の廊下で待ち伏せた。
 予想通り、彼女は天気予報の晴れマークみたいなオレンジのサイクルウェアで会社に現れた。
「おはよう、園田」
 俺が最高の気分で声をかけると、彼女は反射的に足を止め、それからぎくしゃく目を背けてくる。
「……おはようございます」
 愛想のない挨拶といいそっぽを向いているところといい、昨日見合いした相手に取る態度とは思えなかった。だが髪の隙間にちらりと見えた耳が赤くなっていたから、まあ大目に見てやろう。
「ちゃんと目を見て挨拶しような」
 優しく注意してやった俺を、園田は一転、勢いよく振り向いて恨めしそうに睨む。
「うるさいなあ。誰のせいだと思ってるの」
「何が誰のせいだって?」
「何でもないです失礼しました。安井さんの馬鹿!」
 朝から素晴らしい愛の言葉をくれた園田は、逃げるようにロッカールームへ飛び込んだ。

 次に出てくるまでは十五分もかからなかった。当然俺は外で待ち構えていて、汗を拭きスーツに着替えて廊下へ戻ってくるなり『やっぱり』という顔をした園田に声をかける。
「待ってたんだ。一緒に行こう、園田」
「……いいけど」
 人事課と広報課は同じ階にあって、部屋も隣同士だ。一緒に行かない理由はない。
 廊下を二人で並んで歩く。肩を並べる距離が変わったということはないが、お互いに心境の変化はあったことだろう。俺は昨夜なかなか寝つけなかったにもかかわらず、今朝は素晴らしくいい気分で目覚めて、出勤するのが楽しみで楽しみで仕方がなかった。こんなことは社会人九年目にして初めてかもしれない。
 園田はどうにかして内心を表に出すまいとしているようだ。仏頂面のまま、俺の方をちらちら見てくるのが可愛い。気恥ずかしさのせいか仏頂面が上手く保てておらず、ともすれば困ったような顔になるのも可愛い。
「昨日はすごく楽しかったな」
 歩きながら俺が告げると、園田はむっと唇を尖らせた。
「楽しかったけど。こういうとこ人に見られたら何か言われるかもよ」
「言われて何かまずいのか?」
 もはや隠しておくようなことでもない。俺はいっそ公にして、大手を振って社内恋愛を楽しみたい。
「誰かに怪しまれたら、正直に『お見合いした』って言えばいいよ」
 助言のつもりでそう言った俺に、彼女は驚き目を瞬かせた。
 言うまでもなく当たり前の事実だったが、園田にとっては思いもしない考えだったようだ。
「そっ……か。そうなるんだね、気がつかなかった」
「そうだよ。もう隠しておく必要もなくなる」
 途端に園田は明るさを取り戻して、何か愉快なことでも見つけたようにあっけらかんと笑った。
「ずっと隠してきたから、何だか変な感じ!」
「変じゃないだろ、普通のことだよ」
 俺はそう言い返したが、少しだけ慣れない感じは俺にもあった。

 園田とのことを、ずっと公にしたい、誰かに話したいと思っていた。
 でも実際に皆に打ち明けたらどんなふうに変わるのか、どういうわけかまだ想像がつかない。
 これから俺も石田や霧島みたいな扱いを受けるんだろうか。いざとなると実感が湧かなくて、でも気分だけは最高によくて困った。
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