Tiny garden

日暮れて道遠し(4)

 内示から一週間も経たないうちに、体重が二キロ落ちた。
 昼夜と食事を抜く日が数日続いたせいだろう。きちんと座って食事を取る時間もないほど忙しかった。
 日中はこれまで通りに営業に出て、夕方帰社してからは事務仕事の傍ら、引き継ぎ用の資料作成に入る。当然、退社時刻は遅くなる。終電に間に合えば御の字で、間に合わなければタクシーだ。
 帰宅するのは夜の一時二時、そして数時間もしないうちにまた出社だ。若いうちだからこそ通用する荒業だった。

 一方で、仕事へのモチベーションは上がらなかった。
 俺はこの期に及んで、五年間所属した営業課に強い未練があった。
 人事との面談で、
『やりがいのある面白い仕事だ』
『是非うちに来て新風を吹き込んでくれ』
 などとお決まりの台詞を告げられたが、俺は会社勤めの宿命として不承不承受け入れたに過ぎなかった。
 沈みがちな俺の心を唯一浮上させてくれたのは他でもない園田の存在だった。石田が言ったように出世でもすれば給料は上がる。そうしたら結婚もいよいよ現実味を帯びてくる。
 彼女とは連絡すらままならなかったが、近い未来に訪れるであろう、彼女がいる生活を思い描くことで乗り切った。
 一緒の部屋で暮らしていれば、忙しかろうが疲れていようが彼女と共に過ごすことができる。あの明るい、あっけらかんとした笑顔が傍にあるだけでどんな疲れも、あるいは悩みや鬱屈さえも、たちまち吹き飛んでしまうだろう。たとえ俺の帰りが遅くなっても、先に眠っている園田の寝顔を見られたらそれだけでとても幸せなことだ。
 わざわざ時間を作らなくても、ふと顔を上げたら隣にいつでも園田がいる毎日。一刻も早く、そういう暮らしをしたかった。
 そんなことを考えながら、俺は自らを無理やり奮い立たせるように仕事に励んだ。

 そして迎えた、一月十日。
 日付が変わって二時間過ぎた頃に帰宅した俺は、既に明かりが消えたリビングまで辿り着くと、着替えもせず崩れ落ちるようにソファに倒れ込んだ。途轍もなくくたびれていて途方もなく眠たかったが、この日、俺にはやるべきことがあった。
 今日は、園田の誕生日だ。
 週末のデートもキャンセルになって、彼女には本当に済まないことをしたと思っていた。だがお詫びをしようにも時間もないし、ここ数日でめっきりやつれて酷い顔をしているところを彼女に見せたくもなかった。だからせめて、誕生日おめでとうのメールでも送らなければならない。
 ソファに寝転がり、暗闇の中で光る携帯電話の画面を見上げる。彼女宛てのメールを打つ。
 しかし今夜は頭も酷くくたびれているのか、園田におめでとうを告げる文章がなかなか完成しなかった。眠気のあまり、何度か携帯電話を取り落としては顔や胸にぶつけた。何度目かの落下で目を直撃された後、今夜はもう駄目だと思ってこのまま寝てしまうことにした。着替えをする余力すら残っていなかった。

 その結果、狭いソファで寝たので翌朝は身体の節々が痛くなっていた。
「めぐ兄ちゃん、ひっどい顔してる」
 俺が部屋を飛び出す五分前に起きてきた弟が、珍しく心配そうな顔をしてみせた。
 普段なら心配どころか茶化してくるような奴だ、今の俺は他人の目にもよほど酷い有様に映るらしい。さっき覗いた洗面所の鏡にも、充血した目とくっきりした隈のなりたてゾンビみたいな俺がいた。
「言ったろ、しばらくはずっとこんなんだ」
「はあ……社会人って大変なんだね。俺、ずっと学生でもいい気がしてきた」
 甘えたことを抜かす弟を尻目に、俺は慌しく家を出た。混み合う電車に乗っていく気力はなかったので、今日は車で出勤した。

 会社の駐車場に車を乗り入れた後、園田へのメールを済ませることにした。
 昨夜は結局連絡するどころか、メールを完成させることさえできなかった。保存した内容を読み返してみるとまるで支離滅裂で、やむなく全消しして打ち直さざるを得なかった。
 どんなメールを送るかは少し迷った。誕生日おめでとう、は当然としても、後に続く文面を捻り出す時間的、精神的余裕はなかった。それに俺もそろそろ禁断症状と言うか、彼女の声が聞きたくてたまらなくなっていた。今日くらいは早めに帰って電話をしようかという気分にもなっていた。もしそれが叶うなら、わざわざ味気ないメールで長々と愛の言葉を書き連ねる必要もない。
 そう思って、手短に送った。
『誕生日おめでとう。帰ったら連絡するから、少しでも話そう』

 園田からの返信はその日の午後、外回りの合間に一息ついた際に確認できた。
『ありがとう。電話できたら嬉しいけど、できなくても気にしなくていいからね。無理しないで!』
 年に一度の誕生日だというのに、全く欲のない返事だ。
 今日くらいは話したいとか、一目会いたいとか、誕生日なんだからわがまま言ってくれてもいいのにな。
 園田は優しくて気遣いもできるいい子だが、俺に対して要求らしい要求をしないところが気になっていた。物わかりがよすぎるとでも言うのか。こうもあっさり返されると、会いたくて声が聞きたくて我慢ならなくなっているのは俺だけで、彼女は案外平気なんじゃないかと思えてくる。
 年末の忙しい時期もそうだった。時々送り合ったメールではしきりに会いたがる俺に対し、園田は俺の仕事を労ったり、体調に気をつけて欲しいと気遣うようなメールばかり送ってきた。わがままを言わない彼女なんて理想的で素晴らしいことだが、俺ばかり寂しがっているようで多少引っかかる。
 いや、間違いでもないか。
 少なくとも俺は園田に会いたかった。社内でちらっと見かけるだけじゃなくて、ちゃんと二人で会いたかった。全身に圧し掛かってくるような疲労感も晴れない憂鬱も、俺だけに向けられる彼女の笑顔一つで吹き飛ばせるだろうとわかっていたからだ。
 でも女の子ならともかく、男が『一目でいい、五分でいいから』などと懇願するのは彼女に縋っているようでみっともない。それで俺は彼女にせがみたいのを堪えつつ、せめて声だけでも聞けないかと画策していた。
 だからせめて、今日くらいは早く帰ろう。
 彼女の声だけでも聞かなければやってられない。

 早く帰ろうと念じたのが功を奏した――とまでは言いがたかったが、とにかくこの日、俺は日付が変わる前に上がることができた。
 と言っても営業課の鍵を閉めて、駐車場に停めてあった車に乗り込んだ時にはしっかり日付が変わっていた。
 午前零時五分過ぎ。
 残念ながら、一月十日はもう終わってしまった。
 悔しい思いで携帯電話を取り出す。帰ったら連絡すると言っておきながらこんな時間になったこと、園田は怒ってないだろうか。彼女の性格なら怒りはしないにしても、ちょっとくらい拗ねてたりは――しないか。園田なら、忙しいんだからしょうがないってあっさり言って、今頃はもう眠りに就いているかもしれない。
 そう思いながら開いたメール画面には、彼女からのメールが届いていた。

 内容はたった一言、
『寂しい』
 とだけ記されていた。

 俺は薄暗い駐車場の中、眩しいくらいに光る携帯電話の画面を呆然と眺めていた。
 知らず知らずのうちに息さえ止めていた。心臓を握り潰されたような痛みが走り、しばらくの間、何もできなかった。
 連絡が遅いと詰るでもなく、会いたいとねだるでもなく、『寂しい』。
 その一言はとても園田らしいと思ったし、同時に彼女がそんな心情を吐露すること自体が意外だとも思った。忍耐強い彼女にそう言わせてしまうほど寂しがらせてしまったのかもしれない。
 思えば異動の話は今年になってからだが、その前には年末進行もあったわけだ。年が明けてから一度会ったとは言え、そんなものでは俺達はもうお互いに、足りなくなっていた。
 そうだ、お互いにだ。俺も同じだった。ずっと園田に会いたくて声が聞きたくて顔が見たくてたまらなくなっていたが、これで口実が、大義名分ができたと思った。
 園田が寂しがっているなら、会いに行けばいい。
 五分でも、もっと短くたっていい。
 いても立ってもいられずに車のエンジンをかけた。念の為にバックミラーを覗くと、赤い目の下に隈を作った、疲労困憊の権化みたいな俺が映っていた。その顔で何やらにやつき始めているものだから見ていられないほどだった。だが園田に勧められた通り、髪を短くしたのは正解だったようだ。こんなによれよれの酷い有様でも、どうにか彼女に会えるくらいの清潔感は保てている。
 俺は駐車場から車を出し、真夜中の道路をひた走り始めた。
 向かう先はもちろん、何度も通った彼女の部屋だ。

 俺には何の迷いもなかった。
 園田に会える。ほんの短い間でも会って『誕生日おめでとう』を言える。
 都合のいいことに、彼女の為に買っておいたプレゼントは車に積んでおいてあった。当日は無理でも余裕ができたら渡しに行こうと考えていたからだ。彼女のアパートの前に車を留め、プレゼントの包みを懐にしまい、それからもう一つ――いささか気の早い話だが、少し前に合鍵を作っていた。三月中に弟が出ていくので鍵も返ってくるのだが、どうせなら園田にはぴかぴかの鍵を渡したかった。これで春からはいつでも好きな時に来てもらえる。もっと頻繁に会えるようにもなるかもしれない。

 二階へ向かう為に階段を上る間、あるいは彼女の部屋の前に立ってインターフォンを鳴らす瞬間、俺はずっとどきどきしていた。
 チャイムの音が止んでからしばらく経っても、心臓は忙しなく動き続けていた。緊張していたのかもしれない。こんな夜中に押しかけたこともそうだが、今の俺が決して見栄えの良くない、くたびれきった顔をしているせいでもある。幻滅されなきゃいいけどな、などと自嘲気味に思っている間にインターフォンが反応した。
『……どちら様ですか?』
 警戒心に溢れた園田の声がした。
 こんな真夜中に、女の一人暮らしの部屋へ来客というのも恐ろしいものだろう。事前に連絡しとくべきだったと反省しつつ、俺は急いで答える。
「園田、俺だよ。夜遅くにごめん」
『えっ……』
 インターフォン越しに、彼女が息を呑むのがわかった。
 すぐにドアの鍵が開き、ためらいもせずに大きく開かれたドアの向こう、淡い照明の光を背負い、部屋着姿でドアノブを握ったまま立ち尽くす園田の姿が見えた。
 直接顔を見たのは正月以来一週間ぶりで、部屋で会うのはもっと久し振りだった。彼女は血色もよく、疲れた様子もなかった。ただ目は驚きに見開かれていて、表情は恐ろしいものでも見たように強張っている。唇を震わせながら、俺に向かってこう言った。
「安井さん……どうして、ここに?」
「メールくれただろ」
 俺は浮つく心を抑え込み、なるべく落ち着き払って答えた。彼女の姿を見ただけで抱き締めたい衝動に駆られたが、それは中に入れてもらってからだ。
「園田が寂しいって言ったから、来た。俺も会いたかったんだ」
 そう打ち明けただけで口元が緩んだ。
 園田の顔が見たかった、ずっとそう思い続けていた。会えたら疲れも吹っ飛ぶと考えていた通り、今はむしろ清々しい気分になっていた。
 だが、園田の目にはそうは映らなかったようだ。
「疲れてるのに、こんな遅くなったのに、なんで……」
 呟く彼女の声がひきつれたかと思うと、その顔がくしゃりと、悲痛そうに歪んだ。堪えがたい痛みを堪えるような表情の中、奥二重の瞳が唐突なくらいの速さで大きな涙の雫を零した。
 柔らかそうな頬は涙に濡れ、それを隠すように園田は自分の顔を両手で覆った。途端に片手で押さえていたドアが閉まりかけ、俺は慌てて代わりにドアを押さえた。
「私、私が……メールしたから、なんだよね、ごめん。ごめんなさい、本当にごめん」
 園田は泣いていた。泣きながら、涙声で何度も詫びてきた。
「あんなメールなんて、しなきゃ、よかった……ごめんね、安井さん、ごめん」
「どうして泣くんだよ、謝ることじゃないだろ」
 俺はうろたえた。
 園田が泣くなんて思ってもみなかった。てっきり喜んでくれるだろうと思っていた、俺と同じように。

 このままでは近所迷惑になる。俺は押さえていたドアの中へ入り、玄関でしゃがみ込もうとする園田の肩を半ば無理やり抱き締めた。
 背後でドアが閉まる音が響いたが、園田は手で顔を覆ったまま泣き続け、そして詫び続けた。
「ごめ……なさい、私っ、こんな、つもりじゃっ」
 しゃくり上げる声は聞き取りづらく、苦しそうだった。
 なのに彼女が何を言いたいのかは、わかりすぎるほどわかった。
「せっかくっ、私、付き合ってもらった、のに、わがまま言って、迷惑かけてっ」
 愚かにも俺は、彼女が今までわがまま一つ言わなかった理由を、その時初めて知った。
 付き合ってもらったのに。
 園田は、俺のことを、ずっとそんなふうに思っていたのだ。
 それでも、言葉に詰まったのは一瞬だけだった。ここで何か言わなければ、言ってやれなければまずい。危機感すら覚えながら俺は彼女に告げた。
「わがままだとも、迷惑だとも思ってないよ。謝る必要だってない」
「で……でもっ、疲れてるのにこんな、こんな時間にっ」
「俺の言うことが信じられない?」
 被せるように尋ねると、園田は答えなかった。肯定も否定もせずに肩を震わせ、嗚咽を漏らし続けた。
「園田、顔上げて」
 俺は彼女を促したが、それにも彼女は応じない。顔を両手で覆い隠しているせいで、涙が手首まで伝い、彼女の服の袖まで濡らし始めていた。
「……園田」
 少しだけ語気を強めても反応は変わらなかった。

 焦れた俺は彼女の手首を掴み、その顔から引き剥がそうと試みた。
 彼女の手首はやはり濡れていて、俺の手のひらも冷たく湿った。それほど力を込めたつもりはなかったが、不意を突かれたからか園田は呆気なく両手を顔から離し、既に赤く腫れたようになっている瞼と、濡れて艶を帯びた睫毛、涙の後が光る頬、そして震える唇が露わになった。
 園田は愕然とした様子で俺を見上げ、それでも尚、ぽろぽろと涙を流し続けた。
「もう泣くなよ」
 俺がそう言っても、涙が止まることはなかった。
 代わりに園田はかすれた声で言った。
「ごめんなさい、もう帰って……」
 また涙が溢れ出した彼女の両目は、罪深いことをしたと悔いてでもいるように悲しげだった。
「明日も仕事なのに、こんなとこにずっといちゃ駄目。お願いだから……」
「馬鹿なこと言うなよ。園田が泣いてるのに帰れるわけないだろ」
 言ってしまってから、一番まずい言い方をしてしまったと思った。ただでさえ罪悪感に打ち震えている彼女に、彼女のせいだと言っては逆効果だ。
「ああ、いや、そうじゃなくて。俺は平気だから――」
 弁解の言葉も終わらぬうちに、園田は手首を掴んでいた俺の手を振り解く。
 逃げられる、そう直感した俺は反射的に彼女の手首を掴み直した。それでも尚、園田が俺から離れようともがくので、俺は力を込めて彼女を玄関の壁に押しつけた。
 押さえ込まれ、俺の影の中にいる園田が、ひゅうっと喉を鳴らした。
「ごめんね……」
 こんな状況下でも、彼女はまだ謝罪の言葉を口にする。 
「私も平気だから、お願い、帰って。これ以上安井さんに迷惑かけたくない」

 一体何を言えば、園田は俺の気持ちをわかってくれるのだろう。途方に暮れていた。
 思えば園田の気持ちは、昔からあからさまなくらいよくわかっていたはずだった。
 俺はかつてその好意を少し面倒だとか、早いとこ他へ行けばいいのにとか、非常に罰当たりなことばかり考えていた。それから手のひら返しのように彼女を好きになってからも、園田の気持ちはわかりやすく、疑いようがなかった。だから俺は同じように彼女を好きになり、そして愛していたつもりでいた。
 そんな彼女の好意の裏に卑屈な思いがあることを、見抜けなかった。

「俺は園田が好きだよ」
 縋るように、俺はその言葉を口にした。
「好きだから会いに来た。それだけはわかってて欲しい」
 園田は何も言わない。
 赤く腫れた瞼が重そうだったが、それを伏せることなく俺を見上げている。お蔭で涙は断ち切られることも泣く、絶えず流れ続けていた。潤んだ瞳には玄関の中を照らす照明の光と、半ば影のようになった俺の顔が映り込んでいる。
 遂に言葉も尽きた俺は、彼女を壁に押しつけたまま、黙って唇を唇で塞いだ。
 散々泣いた後だからか彼女の唇は乾き切っていて、そのくせ熱を持っているみたいに熱かった。園田はされるがままだったが、唇が離れると溜息をついて、また涙を流した。
 俺は彼女の頬を指先で拭い、抱き締めて、背中を擦りながら言った。
「帰って欲しいなら、今夜は帰る。でも落ち着いたら、ちゃんと話をしよう」
 もう時間だった。明日も仕事なのは彼女も同じだ。これ以上長居をして、園田を明日、泣き腫らした顔で出社させるわけにはいかない。
 苦渋の決断だったが、園田がゆっくりと頷いてくれたので、少し安心することができた。

 車に戻ってから、プレゼントを渡しそびれていたことを思い出した。
 せっかく用意した合鍵も、まだポケットの中にあった。
 でも今夜はもう、再び押しかけるというわけにもいかない。落ち着いたら改めて彼女と話し、そして仲直りをした上で、必ず渡そう。
 この時はまだ、それができると思い込んでいた。
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