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日暮れて道遠し(3)

 上司に当たる営業課長は俺を会議室に呼ぶと、にこやかに切り出した。
「四月付けで、君には総務部の人事課へ異動してもらうことになった」

 呼ばれた時点で、何かあるなとは思っていた。
 異動がある場合、我が社ではちょうどこの時期が内示の季節だった。俺自身はこれが初めてだったが、営業課の先輩社員がこうして別室に呼ばれて、内示を貰っていたことは知っていた。内示の段階では非公表というのが一般常識だが、営業課はその業務上、引き継ぎや取引先への挨拶回りなどがある為、後任者には先んじて知らせる場合がほとんどだったし、知らされなくても雰囲気でそれとなく読み取れるものだった。
 だが、いざ我が身に降りかかると衝撃的だった。
 入社五年目、営業の仕事がいよいよ面白くなってきた頃だった。

「ちょうど今年度、人事課で退職者が複数出るんだそうだ。いい機会だと人員刷新、新体制で行くことになった。そのメンバーとして安井くんにも是非来て欲しいという話だ」
 課長はめでたいニュースでも読み上げるように明るく、それでいて粛々と続ける。
「君の判断力と事務処理能力、それにコミュニケーション力を買ってのことだそうだ。営業よりもはっきりした目標や成果は出にくいが、会社経営をも左右する重要な部署だ、やりがいはあるだろう」
 そして瞬きもできずにいる俺に気づいてか、ふっと表情を崩してみせた。
「私としても、人事は君に最適な部署だと思う。こっちの戦力を引き抜かれるのはきついが、向こうでも頑張ってくれ」
 俺は、何も言えなかった。
 ずっと今の職場にいられると生温いことを考えていたわけではない。いつかはこういうこともあるだろうと、可能性の一つとして頭の片隅には存在していた。
 しかしいざ言い渡されてみるとことのほか堪えた。課長は俺が人事に向いていると言っているし、先方で必要とされているのも嘘ではないだろう。それらを何もかも疑ってかかるほどネガティブな心境ではなかったが、俺はやはり、営業課にこそ必要とされたかった。
 五年間勤め上げた営業課に、もういられなくなるのかと思うと、切なくなった。
「人事の方でも本日中に面談をしたいとのことだ。正式な辞令は三月だが、君も引き継ぎなどあるだろうしな」
 課長がそう続けたので、俺はできる限り平静を装って頷いた。
「――かしこまりました」
 背筋を伸ばし、胸を張り、動揺したことを押し隠しつつ答える。
「残り短い期間ではありますが、営業課員として跡を濁さぬよう引き継ぎに当たります」
「急な話だというのに、相変わらずそつのないコメントをするな、君は」
 混ぜっ返すように、課長がおどけて肩を竦めた。
「そういうところを人事にも買われたんだろうな。全く、惜しい人材を掻っ攫われたもんだ」
 だがあいにくと、俺はこの時上司が思うほど冷静ではなかった。
 思考と身体が切り離されてしまったように、口はなめらかに返事をするのに、頭はまるで現実を受け止められない。

 人事異動をきっかけに退職を決意する人もいるというが、今なら俺もその気持ちが理解できた。
 同じ社内であっても営業と人事では業務内容が全く異なる。課長が言ったように、営業成績として成果が数値で出される営業課よりも、人事は成果が見えにくい、実に難しい業務となるだろう。そんなところで一から仕事を覚え直しかと思うと気が滅入った。

 それでも落ち込んでばかりはいられない。拒むという選択肢はなきに等しく、そして避けがたい異動まで既に三ヶ月を切っているのだ。
 やるべきことは山ほどある。それらは何一つとして手を抜けない仕事ばかりだ。園田にも――残念ながら、話しておかなければならないだろう。
 それからもちろん、営業課で俺の業務を引き継いでくれるであろう相手にもだ。
「この内示の件、業務引き継ぎの後任者には話しても構いませんか」
 俺が尋ねると、営業課長は難しい顔で顎を引いた。
「本来なら口外無用ではあるが、うちの業務内容を踏まえればやむを得んだろう」

 そういうわけで、俺は内示を受けたことを石田に打ち明けた。
 ちょうど残業で奴と二人きりになる機会があり――いつもなら石田と二人きりになったところで嬉しくも何ともないのだが、今日ばかりはありがたく思った。残り時間が少ない為、なるべく急がなくてはならなかった。
「石田、報告したいことがある」
 パソコンのキーを叩く音が響く営業課内で、俺は声を潜めて切り出した。
 石田の席は俺のすぐ隣にあり、事務仕事はいつも肩を並べて行っていた。この時もすぐ左隣に座った石田が、わざわざ手を止めてこちらを向いた。
「お、何だよ改まって。いよいよめでたい話か?」
「そうでもない」
 めでたいどころか気が重くなるような話だ、俺にとっては。
 だが石田は何を勘違いしているのか、揶揄するようなしたり顔で続ける。
「ここまで来て隠すなよ。俺は随分前から全てを受け止める用意があるぜ」
「何の話だ?」
「それを俺が言っちゃ興醒めだろ。言うのはお前。俺はその後で芸能レポーターばりの質問攻めをする役だ」
 石田が何を言っているのかわからないのは、それだけ俺の思考能力が低下しているせいだろうか。
 内心首を捻りつつも、もったいつけても仕方ないと思い、言った。
「異動が決まった」
 口にした途端、俺も仕事の手が止まってしまった。
 それでも冷静には言えた、と思う。
「春からは人事課だ。後のこと、頼む」
 その後で石田に目をやると、奴は数ヶ月前に俺が髪を切ってきた時よりも遥かに驚き、吊り上がった目をこれ以上開けられないほど見開いていた。
 たっぷり五秒間ほど驚きに硬直していた石田が、やがて我に返り眉根を寄せる。
「……マジでか」
「ああ。しばらく、死ぬほど忙しくなる」
「だろうな。……俺に手伝えることがあれば言えよ、手を貸す」
 真っ先にそう言ってくれる石田はいい奴だと思う。
 別に今までいい奴だと思わずにつるんできたわけではないが――こういう状況に陥ると、何気ない気遣いがじわじわと効いてくる。いい意味でも、悪い意味でもだ。

 思えば営業成績で、俺は石田に勝てたことがなかった。
 月間売り上げで奴を抜いたことは何度かあったが、総合的に見ればいつも奴の方が上だった。課長が言うには、俺にはコミュニケーション能力があるそうだが、恐らくそれだけを見てもよく喋り次々と言葉が出てくる石田の方が確実に勝っている。奴には取引先の心を掴んできっちり契約を取ってくる実力が、もしかすると課内の誰よりもあるだろうと思えた。

 だから今、俺は石田に対して複雑な感情を抱いていた。どうして奴じゃなく、俺に異動の内示があったのか。羨望と嫉妬と、結局は敵わないという無力感と、しかし最も強く思うのは――。
「これでお前との腐れ縁もおしまいだな」
 寂しさ、かもしれない。
 普段なら絶対言わないようなことを、俺は小さく呟いた。
 営業課の仕事はやりがいもあったが、同時にとても楽しかった。入社直後は順風満帆とはいかずに悩むこともあったが、同期入社の石田がいつもけろりとしていたので救われた部分も大きかった。霧島が入社してきてからは三人でつるむ機会もぐっと増えて、新しい友達ができたような気持ちになっていた――あえて、断じて口にはしなかったが。
 そういう間柄も、異動してしまえば終わりかもしれない。
 俺のそんな感傷を、しかし石田は一笑に付した。
「何言ってんだ。歩いて五分もかからないとこに移るのに切れる縁なんてないだろ」
 あまりにもあっさり言われたので、こっちが言葉に詰まるほどだった。
「心配すんな。お前がどこへ行こうが飲みに誘ってやるし、お前の結婚式には同僚代表で感動のスピーチを読み上げてやるよ」
 石田はげらげら笑うと、呆気に取られている俺に意味ありげな視線を向けてくる。
「だから結婚するってなったら必ず呼べよ。まあ、俺が先かもしれないがな」
 結婚と言われて、園田のあっけらかんとした笑顔が脳裏を過ぎった。

 俺の周りにいる連中は、皆、俺よりも明るく笑う。その上、何の隠し事もしてないふうで心の底から笑ってみせる。見栄っ張りでいつも取り繕うばかりの俺が情けなく思えてくるほどだ。もしかしたら俺のそういう、作り笑いが上手いところも『買われた』のかもしれない。人事はなかなか、同じ社員達からの風当たりが厳しい部署だという話だ。
 園田のことを考えると胸が温かくなる反面、ちくりと棘が刺さるような痛みも覚えた。異動の件は彼女にも話さなくてはならない。こちらは業務上必要だからではなく、それこそ『やむを得ず』だ。本当に残念で、間が悪すぎると心底思う。ただ申し訳ないと思う一方で、彼女ならわかってくれるという強い安心感があったから、それほど心配はしていなかった。誠心誠意謝るだけだ。
 そして全部終わったら、それこそプロポーズでもしようか。

 終わらないうちから甘い想像を働かせるのはこのくらいにして、俺は石田に尋ねた。
「いつの間に結婚の当てなんて作ったんだ」
「当てがあったらこんなふうに言わねえよ。俺はそういうの、ぺらぺら喋んない男だからな」
 いや、石田は絶対に『ぺらぺら喋る男』だろう。その点はさすがに疑わしいと思えたがさておき、さっきまで沈んでいた気持ちがいくらか晴れたのがわかった。
 全くもって石田はいい奴だ。
 できれば本当に、切れない腐れ縁であることを願いたいものだ。
 ひとまず冷静になってみれば、俺には感傷に浸っている暇もなかった。業務の引き継ぎと資料作りには早急に取りかからなければならないし、取引先への挨拶回りも抜かりなく行わなくてはならない。時期を同じくして訪れる決算への準備もある。しばらくは、本当に忙しくなりそうだ。
「いくつか引き継いでもらいたい仕事がある。今月中に資料を仕上げて渡す」
 俺は仕事に戻りながら石田に告げた。
「おう、任せろ」
 石田は簡潔に、快く答えてくれた。
 そして奴も机の上のパソコン画面に向き直りながら、ふと朗らかな口調で語を継いだ。
「しかし、人事行きなんて今なら出世コースだろ。実際めでたい話だったじゃねえか」
「そうか? まあ営業よりは層が薄いから、上へ行くチャンスもあるかもしれない」
「だろ。おまけに今、人事は人足りてねえって言うし。お前が上手く立ち回ればあっという間に課長くらいにはなれるぜ」
 さすがは石田、耳も早い。
 俺がキーボードを叩きながら感心していると、奴はにやにや笑いが想像できるような声で言う。
「給料が上がったらますます結婚もしやすくなるだろ。な?」
 今日の石田は妙なくらい、やたらと結婚話を押してくる。
 まさかとは思うが――可能性を考えかけて、すぐに頭の中で打ち消した。もし石田が俺と園田が二人でいるところを見かけたなら、こんな遠回しな言い方はせずに直球で尋ねてくるだろう。奴はそういう男だ。別にこちらに対して証拠を掴んでいるとか、知っていることがあるといった態度ではない。かまをかけているだけ、のようだ。
 まさか最近の浮かれ調子が顔に出ていたのだろうか。俺は慌てて顔を引き締め、奴の問いかけはのらりくらりとかわしておいた。
 残念ながら、しばらくは浮かれている暇だってないのだ。

 残業を終えて帰宅した俺は、すぐさま彼女に電話をかけた。
 日付が変わった直後のことだった。お気楽な大学生の弟は自室でぐうぐういびきを掻いていた。
『……あ、安井さん。お疲れ様、新年早々遅かったんだね』
 園田は起きていたようだが、電話越しの声を聞くと今更ながら胸が痛んだ。
 ただの異動の報告だけなら気が引けることもないのに、他にも言わなければ、謝らなければならないことがある。
「ああ。新年早々で何だけど、ちょっと一気に仕事が増えることになって」
『何かあったの?』
 彼女が心配そうに聞き返してくる。
 俺は空元気で笑い、答えた。
「異動が決まったんだ。人事に」
『人事!? 安井さんが?』
 すっとんきょうな声が上がった。無理もない。
「そうなんだ。似合わないか?」
『えっ、そ、そんなことないよ。すぐには想像つかないけど』
 園田は素直に慌てつつも、やはり気遣わしげに続けた。
『じゃあ営業じゃなくなるんだ……。仕事全然違うじゃない、覚えるの大変そう』
「全くだよ。またルーキーからやり直しかと思うと気が滅入る」
『春から、だよね。じゃあしばらくはばたばたで大忙しだね』
「そうなるな……。引き継ぎやら何やらでいろいろあるから、しばらくは帰りも遅くなる」
 純粋に引き継ぎ分の仕事が増える計算だ。ただでさえ下から忙しい営業の仕事にそれらを上乗せするとなると、滅入るどころか意識が遠退きそうだった。
「普通にやってたら四月には間に合わないし、一段落つくまでは休日もまともに休めないかもしれない」
 だから。
 その次の言葉が、なかなか口から出てこない。

 まず可及的速やかに引き継ぎの資料を作成しなければならなかった。
 石田を筆頭に、今まで世話になった営業課の皆には迷惑をかけられない。もちろん日頃からご愛顧いただいている取引先の皆様にもだ。
 そういった業務と平行して、正式な辞令を貰うまではいつも通りの仕事もこなさなくてはならない。軽く見積もっても当面は日付の変わらないうちには帰れないだろう。休みの日はその分の休養に当てるか、あるいは持ち帰られる限りの仕事を持ち帰ることになるか――。
 だから、園田には謝らなくてはならない。

「それで……ごめん。こんな土壇場で約束破るなんて最低だけど、誕生日祝いをする約束は……」
 ためらいながらも言いかけた俺を、園田がそっと遮った。
『いいよ、気にしないで。そんなに忙しいなら仕方ないよ』
 電話越しに聞く声はひたすら優しかった。
 彼女ならわかってくれる。信じてはいたが、こうして実際に優しい声をかけられると心が震えた。
「園田……本当にごめんな。楽しみにしてただろ?」
『してたけど、大丈夫。無理しすぎて安井さんが倒れたりしたら困るし』
 彼女はそう言うと微かに笑い、
『誕生日はこの先何度でもあるよ。また次の機会に祝えばいいよ』
 と、本来なら俺が言うべきことを全て口にしてしまった。
 誕生日は何度でもある、それは確かに事実だ。だが今年は一度きりしかない。付き合って初めて迎える彼女の誕生日に、仕事が忙しくなるせいで何にもできないなんて惨めで情けない話だと思う。
 かといって彼女の為に休日の一日を無理やり空けたとして、まともに寝てないくたびれきった顔で会いに行って園田の心配を一層煽るようなこともしたくなかった。俺だってどうせなら、きちんとした常態で彼女と会いたい。これ以上情けない姿は見せられなかった。
「約束、守れなくてごめん。埋め合わせは必ずするから待っててくれないか」
『うん。でも私は、安井さんのその気持ちだけで十分だから』
「そんなこと言うなよ。俺は祝いたいって思ってたんだ、何かしないと気が済まない」
『だから、その気持ちが嬉しいんだよ。私はそれだけですごく幸せ』
 園田は心なしか強めに言い切ると、誕生日の話を打ち切るように話題を変えた。
『それより、身体にだけは気をつけてね。忙しいと体調管理も疎かになりがちだし』
「そうだな、心に留めておくよ。ありがとう」
『私、異動はまだしたことないから大したアドバイスもできないけど、応援してる』
「嬉しいよ。俺もなるべく時間作って、連絡は絶やさないようにするから」
 俺は彼女の優しさに応えるつもりでそう告げた。
 だが言ってしまってから、まるで彼女に縋るようだと自分で思った。園田の為ではなく、俺自身の為にそうしたかったのかもしれないと、電話を切ってから気づいた。

 振り返ってみれば、十二月はずっと会えていなかった。
 たかだか一ヶ月くらい、と言うなかれ。園田と付き合ってからというもの、俺は自分でも予測がつかないほどのスピードで彼女に惹かれ、何もかも持っていかれてしまっていた。
 久し振りに、形振り構わないほど相手を求めるような恋愛をしていた。
 俺は彼女に夢中だったし、彼女も同じように俺を好いていてくれた。そういう恋愛の真っ只中にあって、会えないどころか相手のことを考える暇さえ仕事が奪っていくような一ヶ月間など非常に苦しく堪えがたい。
 そしてそれが、俺の場合はもうしばらく続くことになるのだ。

 長いなと、一人溜息もつきたくなる。
 きっとその長い間に、俺は園田の声が聞きたくて、顔が見たくてたまらなくなるだろう。
 それだけは自分でも予測がついていた。
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