Tiny garden

日暮れて道遠し(5)

 仕事が忙しかった、なんて最低の部類の言い訳だ。
 ここまで来ると男の器、甲斐性の問題であって、仕事を言い訳にした時点で愛想を尽かされても仕方ない。俺も他人事ならそう切り捨てるところだ。
 そして我が事だとしても、今は素直にそう思う。
 だが現実として、一月二月は仕事が忙しかった。
 相変わらず帰りは遅く会社で翌日を迎えるのが当たり前で、ろくに寝てない日が続いた。それでも仕事は一つ一つ、遅々たる歩みながらも片づきつつあり、二月に入る頃には無事に引き継ぎ作業も始まった。もちろんそれが終われば終わったで今度は得意先への挨拶回りが待っていたから、時間の余裕ができる展望はまだなかった。

 園田を泣かせてしまった夜以降、俺は彼女へ送るメールを打ちあぐねていた。
 挨拶程度の軽いメールならした。
『まだしばらくは忙しいけど、いつもお前のことを考えてるよ』
 とか、
『落ち着いたら会おう、それを楽しみに今日も頑張るよ』
 とか、そういう当たり障りのない内容ならいくらでも送れた。
 だがあの夜の出来事について、核心に触れるようなメールはできなかった。俺が言うべき言葉はあの夜の時点で既に全て言っていたし、下手に掘り返して彼女を再び泣かせてしまうようなことがあっても、現状ではもう一度飛んでいく余裕さえなかったからだ。
 何よりも頭が上手く働かなかった。園田なら大丈夫だ、前に傷つけて怒らせてしまった時だってあんなに呆気なく許してくれた、だから今回も信じていいはずだ――そう思う一方で、心中には拭い切れずにまとわりついてくる何かがあった。
 俺はあの夜、彼女にとって最もすべきではなかったことをしてしまったのかもしれない。
 息が詰まるような不安が胸に巣食い、追い払うことができなくなっていた。
 俺がメールをすると、園田はこれまで通りに返事をくれた。内容は俺と同じように当たり障りなく、仕事頑張ってね、身体に気をつけてねといった気遣いばかりが並んでいた。だが彼女もまたあの夜の出来事に自ら触れることはなかったし、彼女の方からメールを送ってくれることも、いつしかなくなっていた。
 挨拶回りに追われる俺が社内で彼女と顔を合わせる機会はなく、そうして不安につきまとわれたまま、俺達は三月を迎えた。

 正式な異動辞令が出た直後の三月上旬、俺は久し振りに園田からメールを貰った。
『会って話したいことがあります。五分でいいから時間をください』
 そういった、単刀直入な文面だった。
 そのメールを受け取った時、俺は相反する二種類の予想を立てた。
 一つは、彼女があの夜の出来事を改めて振り返りたいと考えた上で、建設的な話し合いをする為に俺を呼び出したという可能性だ。あれから二ヶ月近くが経過していたから、彼女の気持ちもいくらかは落ち着いていることだろう。今会えば以前よりは前向きに話し合えるのではないかと思った。俺としてもそろそろ、無理に休日を空けてでも彼女と会おうと思っていた頃だったから、そうであれば好都合だった。
 もう一つの予想はもっと酷いものだ。この二ヶ月の間に彼女の心は一層沈み、遂には自力で浮上し切れないところまで来たのではないかという、想像もしたくないような可能性だった。想像したくはなかったが一方で、あの夜の園田が思いがけないほど自らを責めていた事実が記憶から蘇り、俺を少し暗い気分にさせた。
 あんなことくらいでと評価を下すのも軽はずみだろうが、俺からすればやはり、そこまで気に病むようなことかと思わざるを得ない。
 だが園田が何を言い出すかはわからないから、相応の覚悟はしておくべきだろう。

 彼女と会ったのは、春先の風が強い土曜日だった。
 俺は仕事を終えて帰宅した後、いくらか仮眠を取って約束に備えた。この時期になると体重もかなり落ちていたし、睡眠不足の隈がなかなか消えなくなっていたが、冷たい水で顔を洗い、どうにか見られる風体に仕上げてから出かけた。
 園田とは、彼女のアパートの前で待ち合わせた。
 これまで二人で会ってきた数々の休日と同じように。

 だが今回ばかりは園田も俺に笑いかけてはくれず、硬い表情で助手席に乗り込んできた。ドアを閉めた後は下を向き、シートベルトをなかなか締めようとしなかった。
「来てくれてありがとう」
 蚊の鳴くような声で、彼女はまずそう言った。
 俺は彼女の短いさらさらの髪と、傷一つなくなめらかなうなじを見下ろしていた。彼女が目を合わせてくれないことに、ここ二ヶ月抱え込んできた不安が加速度的に膨れ上がった。
「どこか場所、移そうか。落ち着いて話せるところに」
 こちらから持ちかけてみると、園田は俯いたままのろのろとかぶりを振った。
「ううん、すぐ済むからここでいい」
 彼女の物言いからは、二ヶ月経っても未だに消えない頑なさが窺えた。
 あの夜の彼女の心情が、今なおここに残っていると、はっきりわかる口調だった。

 それで俺は車のエンジンを切った。
 車内がしん、と静まり返ると、春の強風が立てる不穏な音だけが聞こえてきた。びゅうびゅうと吹きすさぶ風が俺の小さな車を揺らしたが、園田はしばらく身動ぎもしなかった。
 五分で済むとは言っていたが、本題に入るまで、重苦しい時間がひたすら流れた。

「忙しいのに、ごめんね。呼び出したりして」
 車の窓ガラスが曇り始めてしばらく経ってから、ようやく彼女はそう言った。
 かすれた声だった。もう既に、一人で泣いてきた後みたいな嗄れかけた声をしていた。
「気にしなくていい。園田が呼んでくれたら、俺はいつでも飛んでくるよ」
 俺はあえて優しく応じたが、逆効果だったようだ。
 園田はそろそろと上げかけた顔を再び俯かせ、唇を噛んだ。間違いなく、あの夜のことを思い出していたのだろう。
 絶望的な気分になりながらも、俺は助手席にいる彼女の小さな手を握った。ジーンズをはいた膝の上に何気なく置かれていたその手は、触れてみると微かに震えていた。だが俺が力を込めて握ると、園田は拒否反応でも起こしたようにびくりとしてみせた。
「……嫌だった?」
 俺が問うと、園田はまた首を横に振ったが、同時に俺の手をやんわりと振り解いた。
「違うの。私にこんな、優しくしてもらう権利なんてない」
「そんな言い方するなよ。園田は何も悪いことしてないだろ」
「したよ。私……酷いことした。安井さんに迷惑かけたし、勝手なことして傷つけた」

 その言葉を聞いた時、内心でひやりとした。
 それはどちらかと言うと浮気をした場合の常套句というやつではなかろうかと――園田に限ってそんなことがあるはずもなかったが、心臓に悪い台詞ではあった。
 逆に言えば、浮気したわけでもないなら大げさすぎるくらいの言いようだった。誰があの程度のことで傷ついたりするだろう。俺はそこまでやわではないし、それに彼女に寂しいと言われて何もしないような男でもない。

「迷惑だなんて思ってないし、傷ついてもないよ」
 俺は宥めるように告げると、再び彼女の手に触れようとした。
「それに俺は、園田には優しくしたいんだ」
 だからあの夜、メールをくれて嬉しかった。
 呼んでもらえて、俺がいないと寂しいと言ってもらえてすごく嬉しかった――そう続けかけたところで、園田は両手で自らの顔を覆った。あの夜と同じように。
 繋ごうとしていた俺の手は行き場を失い、一旦引っ込めざるを得なくなる。
「私、安井さんのこと好きだった」
 過去形、だった。
 愕然とする俺の前で、彼女も打ちひしがれたように続けた。
「ずっと昔から好きだった。安井さんが『付き合おう』って言ってくれた時、信じられないほど嬉しかった」
 そこまで想ってくれていたのに、なぜ俺達はおかしくなってしまったのだろう。

 俺だって園田が好きだった。
 いや、今でも好きだ。なのにどうしてこんな、いかにも別れ話みたいな流れになりつつあるのか。人生でこういう局面を迎えたのも別に初めてではない。ただ自分の身に何度起きても憂鬱なものだったし、ましてやこれほど好きになった相手なら尚更辛い。
 俺は異動の内示があってから、園田の存在だけを支えに今日までやってきたというのに。

「だから……だからね、私が幸せにしてもらった分だけ、私も安井さんを幸せにできたらって思ってた」
 ぐすっと、園田が鼻を啜った。
 痺れを切らした俺は堪らず口を挟んだ。
「俺も十分幸せだったよ。園田がいてくれるだけで」
 傍にいなくてもよかった。彼女の存在が、自分自身の人生の転換期さえ、その目まぐるしい変化さえ乗り切らせてくれようとしていた。
 なのに。
「……ありがとう」
 園田は涙声で言うと、顔を覆い隠していた手を自ら外した。手の甲で目元を拭い、必死になって泣き止もうとしながら更に言った。
「でも安井さんは、もっと幸せにならなきゃいけない人だと思う」
「それは、どういう意味?」
 俺が鋭く聞き返せば、彼女は涙で濡れた顔をこちらへ向けた。
 瞳が潤んで、内心を映し出すみたいに揺れていた。
「私じゃ駄目。私と一緒にいたら、安井さんはまたこの間みたいに酷い目に遭うよ」
 気のせいだろうか。園田は少し痩せたようだ。
 やつれたと言ってもいいかもしれない。腫れぼったい瞼も赤い目も痛々しく、見ているのが辛かった。
「酷い目に遭ったなんて思ってない。俺は園田がいい」
 そう訴えても、園田はじっと俺を見つめるばかりだ。
 もう何もかもわかっていて、覚悟も決めていると言わんばかりの悲壮な顔つきをしている。世の中の悲しみと罪を全て背負ってでもいるような彼女を見ているうち、俺は二ヶ月前の自分に自信が持てなくなっていた。
 彼女が酷いことをしたと思うほど、あの夜の俺は酷い顔をしていたのかもしれない。もちろん俺は園田に呼ばれたように思えて喜び勇んで飛んでいったはずだが、それが読み取れないような有様だったとは断言し切れない。そしてそれが彼女を傷つけてしまった可能性は大いにあった。
「ごめんなさい」
 決定的な言葉を口にする時、園田がぼろっと音がしそうなほど大きな涙を零した。
「私から好きって言っておいて、散々振り回して、本当に身勝手だと思う。でも……」
 その続きは語られることもなく、彼女は堪えるような捻じれた声の後、本格的に泣き出してしまった。

 俺は彼女の背を擦りながら途方に暮れていた。
 あの夜と同じように、かけるべき言葉が尽きていた。
 俺がいくら『迷惑じゃなかった』と言っても、『園田が好きだ』と訴えても、頑なな彼女には届かないようだった。この二ヶ月間、俺が園田の存在を支えに仕事をやっつけていた頃、園田もまた俺のことを考え続けていたのかもしれない。ただ、その考えはいい方向には転ばなかったようだ。こうして再び会った時、園田はもう決意を固めていて、翻す気はないようだった。
 一体どんな下手な考え方をしたんだ。俺のいないところでおかしな方向にばかり考え込んで、勝手に結論を出したりして、その結果が別れ話なんて残酷にも程がある。
 しかし考えてみれば、俺達はずっと二人で考えるということができないままだった。仕事の忙しさと余裕のなさが俺達からそういう真っ当なやり方すら奪い去っていった。そして俺はこれからもしばらくは忙しく、ここで説き伏せて落ち着かせたところで、結局はまた園田を一人きりにさせて、考え込ませて、こうして泣かせてしまうのかもしれない。
 だったら俺は、どうすべきなのだろう。

「俺のこと、嫌いになった?」
 そっと尋ねると、彼女はぼろぼろ泣きながら首を横に振った。
「ううん……好きだよ。今でもすごく好き」
 過去形ではなかった。こんな時でも彼女からの言葉は、場違いなくらい俺を嬉しい気分にさせた。
「俺も好きだよ、園田。もっと振り回してくれてもよかったのに」
 涙を拭い濡れた彼女の手に、俺も手を重ねてみる。軽く握ると、園田は後ろめたそうな顔をした。それでも逃げようとするそぶりや、振り解きたがっている様子は見せなかった。
 思えば彼女と付き合い始めて半年弱、こうして手を繋ぐ機会はあまり多くなかった。繋ぐのが嫌だったわけではなく、一緒に外を歩く機会がほとんどなかったからだ。乏しい機会のうちに俺は何度か彼女の手を取ろうとしてみたものの、園田はちょうど今みたいに後ろめたそうにしながら抵抗を示した。園田が快く俺に手を預けてくれたのは、どこにも人目がなく、二人きりでいる時だけだった。
 そのことが今日のこの結末に影響を及ぼしたわけではないだろうが、彼女のしっとりした手の感触を切なく感じていた。
「ごめんね。今まで、ありがとう」
 園田が会話を締めくくろうとするようにそう言った。
 それから俺の手をそっと離そうとしたので、俺はそれを拒むつもりで強く握った。
 いっそみっともなく縋って、別れないでくれと必死になってせがんでみようか、とも考えていた。俺は園田が好きで、彼女もまだ俺を好きだと言った。なのに別れる必要がどこにあるのだろう。お互いに好きだという気持ちにあえて逆らい、別離を選ぶことが正しいと本当に言えるのだろうか。
 だが園田は俺に手を握られたまま、苦しそうに溜息をついた。
「安井さんはやっぱり優しいね。私も、安井さんみたいに優しくなりたかった……」
 それからまた涙を零し、呟いた。
「だけど私はもう……私自身に愛想が尽きちゃった。こんな駄目な奴だなんて、自分でも知らなかったよ」
 園田を苛んでいるのは手のつけようがないほど根深い自己嫌悪だ。
 自分に愛想が尽きたと言うほど、彼女は自らを責め、恨み、罪悪感に押し潰されそうになっている。

 そんな彼女から見て、俺はどうやら『優しい人間』であるらしく、恐らく俺が言葉や態度で何を伝えようと、今の彼女には優しさから来るものだとしか受け止められないのだろう。俺がみっともなく縋ったところで、捨てないでくれと情けない声でせがんだところで、それすらも彼女は俺が優しさから言っているのだと思うのかもしれない。
 手に負えない頑なさだ。
 もはや俺が縋れるものは彼女自身ですらなく、ただ一度の前例が見せてくれる希望しかなかった。
 俺はかつて園田を酷く傷つけた。半年前のことだ。園田は激しく怒り、一時は決して許してくれないのではないかというほど冷たい態度を取ってみせたが、結局は俺を許してくれた。
 あの時、森林公園でばてた俺を見て園田が明るく笑った時、俺は彼女とだったらきっと彼女となら何度喧嘩することがあっても、何度すれ違ったって、最後には笑ってもらえるだろうと思った。こういう子と一緒にいられたら、何があっても幸せだろうと――あの時のひらめきのような思いに今こそ賭けたかった。

「……わかった」
 長いこと思案に暮れた後、俺は彼女の覚悟を肯定した。
 園田は俺の返事を聞くと、少しほっとしたように息をついた。
 それは正直、何だよと思ったが、彼女は彼女なりに苦しんでいたのだから仕方ない。彼女が自ら負ってしまった傷を癒す為にも、時間を置くしかないのだろう。
「ありがとう、安井さん」
 礼を言われると複雑だった。
 俺はまだ割り切れているわけではなかった。ここでこの手を離したら、後で酷く悔やむことになるのではないかという不安も拭えない。だからと言ってここで俺が抗うようなことを言えば、彼女はまた泣くだろう。俺と離れている間も散々悩み、苦しみ、考え続けてきたのだろうから、そこから一旦解放してやるのも間違いではないはずだ。
 彼女は今でも俺を好きだと言った。その言葉を信じるしかない。
「俺を忘れないでくれ、園田」
 別れ際に俺は、彼女にそう頼んだ。
 少しだけ落ち着いてきたかに見えていた園田は、俺の言葉を聞いた途端にまた大粒の涙をぼろぼろ流し始めた。
「わ……忘れるわけないよ。忘れられないよ」
 しゃくり上げながら言った後、園田は子供みたいにわあわあと泣き始めた。もう遠慮も我慢も要らないと思ったのだろうか、こちらが辛くなるほど全開で、声を上げて泣いていた。
 俺は彼女の身体を抱き寄せ、熱いくらいに感じるその体温としなやかな感触を確かめた。
 半年間の付き合いではあったが彼女の温もりや肌触りは身体がよく覚えていたし、今も懐かしささえ覚えた。二ヶ月ぶりだ。次は、いつになるだろう。

 泣きじゃくる彼女を抱き締めながら、俺はそれでも希望を捨ててはいなかった。
 諦められない。必ず取り返すつもりでいた。
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