Tiny garden

うららかな旅路(5)

 今宵の宿は全室和室の、昔ながらの温泉旅館だった。
 掛け軸のある床の間、生け花を置いた飾り棚、広縁にはアンティークの椅子が二脚ある。畳の上には布団が二組、隙間も空けずに並べて敷かれている。まさに昔ながらの旅館、風情たっぷりだ。
「新婚旅行っぽいな」
 布団にいち早く寝っころがった俺が言えば、
「修学旅行っぽくもあるよね」
 と伊都は言う。
「修学旅行でこんなふうに布団ぴったりくっつけないだろ」
「え、くっつけてたよ? 男子は違うの?」
「くっつけてなかった……と思うけどな」
 そもそも高校時代ですら十五年は昔の話だ。どこへ行ったかくらいは覚えているが、その他の細かな記憶は忘却のかなたにある。端的に言うとさっぱり覚えてないということだ。
 今回の旅の記憶ならいくらでも思い出せるのだが――空の色、海の色、風の匂い、自転車に乗り続けた今日一日のこと。
 そして、一日の疲れをものの見事に蓄積しているこの身体。
「筋肉痛の予感がする……」
 布団にうつ伏せになった俺がぼやくと、伊都がすかさず言ってくれた。
「マッサージしたげよっか!」
「その言葉を待ってた」
 うちの妻のマッサージは絶品だ。単に彼女が可愛いから、その手が柔らかくて気持ちがいいからというだけではなく、実際にそれなりの技術を持っている。自転車を始めたての頃、しょっちゅう筋肉痛に苦しんでいた俺はよく彼女にマッサージをお願いしていた。すると身体が目に見えて楽になり、翌日の状態もいくらかマシになる。
 ちなみに俺も恩を返そうと伊都を真似て彼女に揉んであげたりしているのだが、彼女に言わせると俺のマッサージはマッサージになっていないらしい。じゃあ何かと尋ねても、彼女は決して答えてくれない。
「巡くん、今日頑張ったもんね。フルコースでやってあげる」
 そう言うなり、伊都は寝そべる俺の浴衣の裾をめくり上げた。
 そして柔らかい手が、まず俺の左足を掴む。湯上がりだからだろうか、今日の伊都の手はほんのり温かい。俺の足の裏から丁寧に揉み解し始める。
「おお……疲れが溶け出していくようだ」
「気持ちいい?」
「最高だ。伊都はマッサージ、本当上手いよな」
「えへへ、誉められた」
 何だか嬉しそうに笑っているのが可愛い。
 可愛くてマッサージが上手くて料理も美味くて脚もきれいで明るくて――何度も言うようだが俺はまさに最高の嫁を貰った。こんなに至れり尽くせりな人材、探しても早々見当たらないだろう。
 お蔭で楽しく、思い出深い新婚旅行にもなった。
「帰ったら皆に自慢してやろう」
 マッサージを受けながら、俺は野望を伊都に語った。
「しまなみ海道を自転車で走破したって言ったら、皆もきっと驚くぞ」
「そうだね」
 伊都もくすくす笑っている。
「巡くんなんて去年自転車始めたばかりだもん、本当すごいよ」
「まあな。これも愛の力というやつだ」
「そっかあ、巡くんの自転車愛も立派なもんだね」
「いや、違うだろ伊都。自転車じゃなく妻への愛だよ」
 もちろん自転車にだって愛がないとは言わない。少なくとも今日一日で、乗り慣れた愛車への感謝と恋しさは大いに募った。次に遠乗りする時は、是非ともレンタサイクルではなく愛車で走りたい。その方がもっと快適に走れるに違いないからだ。
 だが俺が自転車に乗り始めたのは、あくまでも伊都と共に走りたいからであって。
「愛する人の為に自転車始めて、遂にはしまなみ海道走破だぞ。俺の愛情深さ、伊都はもっと誉めてくれてもいいと思う」
 俺の主張に、彼女は俺のふくらはぎを撫でながら応じた。
「偉い偉い。本当頑張ったよね、巡くん」
「それもまた愛ゆえだ」
「うんうん、巡くんは最高の旦那さんだよ。私の趣味にも寛容だし、こうして付き合ってくれたし」
 全くだ。こんなに愛情深く妻にもよく尽くす夫、どこを探してもまず見当たらないだろう。
「ね、次の旅行は巡くんの行きたいとこにしようよ」
 俺のふくらはぎを押し上げるように揉む伊都が、ふとそう切り出してきた。
「いててて……もう次の旅行の話か」
 痛気持ちよさに呻きつつ、俺は思わず苦笑する。
「いいじゃん。お盆休みもあるし、九月にだって連休あるよ」
「それもそうだな、夫婦でまたどこか行くか」
 これからの俺達はどこへ出かけても『家族旅行』になる。しばらくは『夫婦水入らずの』なんて枕詞もついたままだろう。伊都となら、きっとどこへ行ったって楽しいはずだ。
「巡くんはどこ行きたい?」
 伊都はあくまでも、次回の目的地を俺に決めさせたいらしい。
 しかしそうは言っても、とっさに聞かれてぱっと思い浮かぶような希望はない。
「俺は別にどこでも……伊都がいてくれたらそれでいいよ」
「せっかくだから何か言ってみてよ。巡くんの趣味でいいからさ」
「趣味って言ってもな。俺は音楽聴けたら十分だし」
「じゃあ、巡くんの好きなバンドの追っかけツアーする?」
「いいけど、伊都はライブとか行ったことあるのか?」
「全然。あ、学祭とかでバンドの生演奏見たことはあるよ」
 普段から俺の付き合いでしか音楽を聴かない伊都は、当然その手のことにも全く疎い。
「そういうのとは全然違うよ」
 俺は笑って、ついでに彼女を脅かしてみる。
「ライブはモッシュアンドダイブが普通だからな。びっくりするぞ、きっと」
「モッシュって何? ってかダイブってどこに?」
 まずそこから説明する必要があるらしい。そんなんで連れて行って、本当に大丈夫だろうか。
 もっとも伊都ならあっさり馴染んで、いざ参戦したら嬉々としてモッシュしに行きそうな気が――それはそれで、ちょっと心配だな。もしライブに行くことがあったら、彼女の手を絶対離さないようにしよう。
「それか、六人で旅行っていうのも楽しそうじゃない?」
 不意に彼女の話題がすっ飛んで、俺は一瞬戸惑った。
「六人?」
「石田さんと藍子ちゃんと、霧島さんとゆきのさんと。六人で旅行」
「まあ、いいかもしれないけど。また思いつきにしても急だな」
「何か思ったんだよね。石田さんって枕投げ強そうだなって」
 修学旅行からの連想だろうか。それにしたって唐突だが、可愛い妻の言うことなので許す。
 そして確かに石田は枕投げが強そうだ。枕を投げ布団を投げしまいには部屋の襖を外して投げるような男子だったに違いない。
 一方の霧島はそういうやんちゃ坊主どもに呆れて、いちいち注意をして回る委員長ポジションだったと推測できる。
 俺はさしづめ、斜に構えて『あいつら本当ガキだな』などと思っているような男子だろう。それでいて気づけば何だかんだで枕投げに巻き込まれて、そこへ見回りの先生がやってきて、石田みたいな奴が素早く寝たふりするのに、あとから参加した俺は案の定乗り遅れてなぜか俺だけ怒られる。大体、こんなパターンだった。
「たまにはそういうのもよくない? 飲み会の延長でちょっと近場の温泉とか」
 伊都はマッサージを終えると、俺の隣にどさっと倒れ込んできた。
 体力が無尽蔵そうに見える彼女も、さすがに今日は疲れたのだろう。いつの間にやらとろとろと、眠そうな目になっている。
「確かに、楽しそうでいいかもな」
 俺がまだ長い髪を撫でてやると、伊都の瞼は一層重たそうにゆっくり下りてきた。
「いつか、行きたいねえ。そういうのも」
「そうだな」
 あいつらとも、これからは家族ぐるみのお付き合いだ。そういう機会があったっていいかもしれない。
 もっとも、向こうがどう言うかはわからない。夫婦水入らずの方がいいだろと言われるかもしれないし、行くのはいいですけど騒がないでくださいねなどと釘を刺されるかもしれない。さすがに三十過ぎて枕投げはしないだろうが、温泉で卓球くらいはするかもな。
 とりあえず俺は、伊都がいてくれて、俺の傍で楽しそうにしてくれたらそれでいい。
 それさえ叶えば、どこへ行ったっていい。
「私、巡くんと一緒だったら、次はどこでもいいなあ……」
 まどろみながら、伊都が俺の手を握り締めて呟く。
 俺は温かいその身体を布団の上で抱き寄せて、囁き返した。
「俺もだよ。また、どこかへ行こう」
 腕の中で、彼女が微かに頷いたようだ。俺もその後すぐに目を閉じたから、結局どちらが先に寝ついたのかはわからなかった。
 新婚旅行最後の夜は、こんなふうに穏やかに過ぎていった。

 穏やかでなかったのは、その翌日以降だ。
 俺達は表向きは無事に愛媛を発ち、勝手知ったる我が町に帰ってきた。そしてゴールデンウィーク最終日、土産を渡すという名目で、俺達の部屋に石田夫妻と霧島夫妻を招いていた。
 もちろん部屋に呼んだのは他の理由がある。
 俺がものの見事に筋肉痛になり、ソファから動く気が失せていたからである。
「やっぱりな!」
 筋肉痛に苛まれる俺を一目見るなり、石田は得意げにそう言った。
「なると思ってたぜ。どうせ嫁さんにいいとこ見せようと張り切っちゃったんだろ」
「俺も予想通りでした。安井先輩なら絶対見栄張って格好つけるだろうなと」
 霧島までこの言い種だ。全く営業課の連中は、揃いも揃って口が悪いことこの上ない。しかもソファから起き上がるのさえ苦痛を伴う俺を一切心配してみせようとしない。
「大丈夫なんですか、安井さん。どこか痛めたりしたわけじゃないですよね?」
 霧島夫人は旦那と違い、ちゃんと俺を心配してくれた。ありがたい。霧島は奥さんを見習え。
「いや、それは大丈夫だよ。明日からの仕事にも出る」
 できれば連休中に調子を取り戻しておきたかったのだが、多少引きずったままで連休明けを迎えることになりそうだ。
 新婚旅行でしまなみ海道に行くという話は人事課の部下達にも、それからもちろん広報課の皆さんにも知られているし、顔を合わせたら何があったか一目瞭然だろう。しばらくは弄られそうだ。
「でもすごいですよね。しまなみ海道を走り切っちゃったなんて!」
 石田夫人は相変わらずの素直さで瞳を輝かせている。
「どうでした? やっぱり風光明媚な感じでしたか?」
「うん、尾道もしまなみ海道も景色すごかったよ。ね、巡くん!」
 伊都はすかさずいい笑顔で答えた。
「街並みも海もすごくきれいだったし、島もいっぱいあったし、自転車押して船にも乗ったし。あと橋! 橋がいっぱいあってね、王冠の形してるのもあって――」
 石田、霧島両夫妻へのお土産は、旅の途中で話していた通りに今治の名産、タオルにした。ものすごくふわっふわのやつだ。
 その他に、伊都は今治のご当地キャラのストラップを女性陣にだけ買ってきていた。どうもそいつの冠が、旅の途中で通った来島海峡大橋を模したものだという話らしい。伊都はその話をしながら二人にストラップを渡していた。
「わあ、やっぱりすごく可愛い! 貰っちゃっていいんですか?」
「このころんとしたフォルム……最高です! 伊都さんありがとうございます!」
 大喜びで歓声を上げる霧島夫人と石田夫人に、伊都も嬉しそうな顔をしている。
「喜んでもらえてよかったあ。やっぱお土産は可愛さが命だと思って!」
 とか何とか言って、少女みたいにはしゃいでる伊都の方が、ご当地キャラに負けじとものすごく可愛かったりするのだが。
「うちの可愛い藍子が可愛いもの持って可愛くはしゃいでる……相乗効果だな」
「まさに癒しの空間ですね。妻達を見ているだけで和みます」
 石田と霧島もすっかり相好を崩している。でれでれと緩みきった、締まりのない顔をしやがって――などと突っ込める立場にないことは俺自身がわかっている。間違いなく俺も今、ああいう顔をしているのだろう。
「俺達もあんな感じできゃーって言ったら可愛くなれるかな」
「いや無理だろ。つか男の声で『きゃー』はむしろ引くだろ」
「どう頑張ったって俺達は癒しの空間になんてなれませんよ」
 もちろん俺も無理だとわかって言ってみたまでだ。
 眩しくなるくらい、伊都がはしゃいでいる姿は可愛い。俺はそれを見ているだけで幸せになれるし、結婚してよかったと改めて思う。
 ここまでの旅路はなだらかな道ばかりというわけではなかった。時にアップダウンの連続で振り回されたこともあったし、先が見えないほど急勾配の坂道をひたすら上っているような日々が続いたこともあった。その先に待っていたのがこんな素晴らしい景色なら、苦労も全て報われたというものだ。
 筋肉痛は残ったが、それ以上にたくさんの思い出が今回の旅ではできた。
 俺達の旅路は、これからも春のように、うららかに続いていくことだろう。
「ところで安井、知ってるか?」
 しばらく女性陣に見惚れていた石田が、ふと思いついたように切り出した。
「筋肉痛ってのはそっとしとかないで、軽く動かした方が早く治るんだってよ」
 そう口にした時、石田は悪魔のような笑みを浮かべていた。
「ちょっ……と待てお前、何考えてる?」
 ソファの上の俺が思わず身の危険を覚えると、
「そういうことならお手伝いしますよ!」
 もう一人の悪魔、霧島が嬉しそうに挙手をした。
「手伝わなくていい! ってかやめろよお前ら、触ったら蹴るぞ!」
「だからそうやってじっとしてたら治んないんだよ。ちょっとは動け、安井」
「そうですよ先輩、明日から仕事なんですから治しといた方いいですよ」
「余計なお世話だ! 触るなよ、絶対触るなよ!」
 俺は必死に抵抗し、迫りくる悪魔どもの魔手から逃れようともがき、触られる前に自爆してしばし悶絶する羽目になった。もちろんその時、『きゃー』なんて可愛い悲鳴は出てこなかった。
「こらー! 巡くんをいじめちゃ駄目!」
 伊都が正義の味方よろしく助けに来てくれたのが唯一の救いだった。
 俺は素晴らしい嫁と、手に負えない厄介な友人を持ったものだ。

 と言うかあいつらマジでいつか同じ目に遭わせてやる。
 その為には――やっぱり温泉で卓球、ってところだろうか?  
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