うららかな旅路(4)

 午後は少しペースを落としていこう、と伊都は言った。
「巡くんも疲れ溜まってきてるみたいだし、ゆっくりでも十分間に合うよ」
 本日の宿泊先は今治市内にある温泉旅館。チェックインは午後三時からだから、そこまで急がなくてもいい道ではある。
 午前中はさほど感じなかった疲れが、昼食と小休止の後でどっと押し寄せてきた気がする。俺は伊都の言葉に素直に頷いた。
「じゃあ、ペース配分は伊都に任せるよ」
「わかった。予定タイムは午後五時に旅館着、ってとこかな」
 今治市内のいくつかの宿泊施設はレンタサイクルの乗り捨てポイントとなっており、乗っていって手続きを済ませるだけで簡単に乗り捨てられるようになっている。しまなみ海道を走り抜けて汗だくのところに公共交通機関を利用するのも気が引けるし、全くありがたいシステムだ。
 だから俺達もこの自転車に乗ったまま、しまなみ海道を抜けて、真っ直ぐ旅館を目指せばいい。
「行こう、巡くん。あとちょっとだよ」
 まだ島を二つ、橋を三つも残しているのに『あとちょっと』か。
 昔、十七キロのサイクリングコースを『たったの十七キロ』と言い放った彼女らしい豪快さだ。
 あの頃の俺は距離を聞いて激しく動揺し、それを彼女に悟られないよう見栄を張っていた。今は動揺するどころか、当たり前みたいに彼女と一緒に走っている。俺もつくづく変わったものだ――いや、ここは成長したものだと言っておくか。

 大三島、伯方島と走り抜けて最後の島、大島に入ったのが午後三時少し前だった。
 しまなみ海道最後の橋、来島海峡大橋を目指して、休憩を挟みつつひたすら走った。
 これが最後と思うと自然とテンションも上がり、疲れているのも忘れてついスピードを上げそうになるが、大島はアップダウンのきつい道が多い。上り坂をいくつ上らされたかわからないほど走り、さすがの俺も調子に乗る余裕すらなかった。
 俺よりも軽々とペダルを漕ぐ伊都の後ろ姿、そして健脚ぶりを励みにひたすら後をついていけば、一時間もしないうちに今までで一番長く大きな橋が見えてくる。
「伊都、あれか?」
「あれだよ! 来島海峡大橋!」
 全長四キロ超というあの橋は、なるほど『大橋』の名にふさわしい長大さだった。世界初の三連吊り橋、などとガイドブックには書かれていたが、例によって橋マニアではない俺には世界初と言われてもぴんと来ない。ただ橋桁を支えるケーブルが緩い曲線を描いて、遠目にはさながら王冠のように見えることと、渡りきるには時間もかかるし疲労もめちゃくちゃ溜まるだろうということはわかる。
「ラストスパートだよ、巡くん!」
 伊都の号令に従い、俺達は橋の上に続く自歩道に入る。なだらかなスロープを、歩行者に気を使いながら上っていくと、やがて橋の上へ出る。ゴール地点がここからでは見えない、長い長い橋の始まりだ。
 空はいつしか日が傾き始めていた。日没まではまだ時間があるが、海に照り返す日差しが少し眩しい。とは言え一日中天気がよかったのは幸いだった。ここも海を渡る風が心地よく、午後の青空一面に広がるうっすらとした雲を遠くへ押し流していく。
 うららかな春の一日だった。
 息は上がり、腿は張り、サイクルウェアは汗を吸って一泳ぎした後のようにびしょ濡れだ。今の俺自身は『うららか』などという形容詞には全く当てはまらない状態だが、しかし振り返ってみればのどかな旅だった。大きなトラブルもなく、自転車を漕ぎながら浴びる潮風は常に爽快で、島が浮かぶ海の景色はどこもかしこも美しく、そして俺の可愛い妻はずっと楽しそうにしている。
「なんかさ、渡り切っちゃうのもったいなくない?」
 前を走る伊都が言う。
 振り返りこそしなかったが、朗らかな声で上機嫌なのがわかる。
「これで最後と思うとな」
 俺も弾む息で応じる。
 くたびれていた。尻が痛かった。ここで立ち止まったらあとは自動で宿まで運んでやると言われたら、素直に甘えたくなるくらいには限界が来ていた。
 なのに、なぜだか名残惜しい。
 爽やかな潮風の匂いと、エメラルドグリーンの海と、そこに浮かぶ緑の島々と――随分きれいなものばかり見てきた旅だった。
 それから、目の前にある、風にたなびく彼女の髪と。
 旅の間に髪を切るかどうか決めるつもりだと伊都は言っていた。それならああやって風に吹かれる髪を見るのはしばらくないのかもしれない。そうでなくても新婚旅行は一度きり、今見ているのはいつものサイクリングとは違う風景、記念すべき後ろ姿だ。だからしっかり目に焼きつけておこう。
「でも、渡らないと温泉入れないしね」
 伊都はそう言うとこちらを振り返り、
「ね、巡くん! この橋渡り切ったらハイタッチしよう!」
「えっ、何だ急に。どういうテンションなんだ」
「そういう感じでしょ、旅の終わりって!」
「まだ終わりじゃない。家に帰るまでが旅だぞ、伊都」
「ただいまーってハイタッチする人はあんまりいないよ!」
 こんな他愛ない会話にも、楽しそうに笑っている。
 それなら俺も乗ってやるかという気になって、答えた。
「わかった。橋を渡り切ったらな」
「うん!」
 ランナーズハイというやつなのだろうか。俺も何となく、区切りになるようなことがしたくなってきた。
 しまなみ海道。初めて話に聞いた時はとても渡り切れる自信がなかったが、こうして見事に走り抜けようとしている自分を称えてやりたかった。そして帰ったら、石田と霧島に思う存分自慢してやろう。
 長い長い来島海峡大橋にも、やがて終わりがやってくる。
 橋を抜け、自歩道を下り、他の自転車乗りや歩行者に邪魔にならないあたりまで来てから、俺達は自転車を一度下りてからハイタッチをした。
「巡くん、お疲れ!」
「伊都もな」
 ぱちん、と手を打ち合わせると、達成感がじわじわ込み上げてきた。
 額に汗を浮かべつつ、伊都はやっぱりあっけらかんと笑っている。
「さ、あとはお宿に行くだけだよ! 頑張ろうね!」
 そして彼女は、これだけ走ってきた後だというのにどこまでも元気だ。
 俺も疲れたなんて言っていられない。もうひと頑張りしないとな。

 しまなみ海道を終点まで走り抜け、それからしばらく今治市内を走った後、俺達は鈍川温泉に辿り着いた。
 静かでこじんまりした温泉街に、どうにか日没前に滑り込む。早速、予約していた旅館に乗り入れ、自転車の乗り捨て手続きとチェックインを済ませた。
 俺も伊都も今日一日自転車に乗り尽くして、髪から服からすっかり汗だくだ。客室に案内してもらった後は、休憩もそこそこに温泉に入ることにした。
「随分、走ったな……」
「走ったねえ……」
 二人で湯船に浸かりながら、ほっと一息ついてみる。
 温泉旅館を心ゆくまで楽しみたいなら、やはり貸切風呂は必要不可欠な要素だ。ここは客室備えつけの檜風呂に源泉の湯が引かれているのが売りで、人目を気にせず、夫婦水入らずで温泉を楽しむことができる。
「やっぱり、ゆっくりできるのがいいよね」
 そう言って、伊都は湯の中で大きく伸びをする。
「露天じゃないのが残念だけど、気兼ねなく好きなだけ入れるしね」
 そう、あいにく露天風呂ではないのだが、俺としても伊都と一緒に入れるということが何より重要なのでその辺りはやむを得ない。伊都も普段なら俺が風呂に誘うだけで恥ずかしいだの照れるだのと徹底拒否の構えを見せるのだが、温泉ともなると捉え方が違うのか、それとも新婚旅行だからか、やけにすんなり一緒に入ってくれた。
 鈍川温泉の湯は無色透明、お蔭で露天風呂ではなくても大変いい眺めである。どことなくぬめりのある湯は肌にいいらしいが、そこも是非後程確かめてみようと思う。
「なんか巡くん、にやにやしてない?」
 伊都が訝しげに眉根を寄せる。
「そんなことない。俺はいつもこういう顔だろ」
 緩んでいた口元を誤魔化しながら答えれば、彼女はきっぱりかぶりを振った。
「そうかなあ、いつもはもっと引き締まってるよ」
「じゃあ疲れのせいかもな。俺も今日ばかりは、男前の顔を維持できない」
「意識して維持するもんなんだ?」
「ああ。だから今日はもう、人前には出られない」
 ちなみに大浴場はこの辺りの渓谷を眺められる造りになっていて、そちらには露店風呂もあるらしい。明日の朝にでも入りに行ってみようかと彼女とも話していた。
 しかし今日のところは、俺もゆっくりしたい。
「さすがに疲れたな……」
 少しぬるめの湯に浸かっていると、身体がじわじわと重くなっていくような感覚に囚われる。疲れがほぐれていくのと同時に、目を閉じてしまいたくなる。
 あれだけの距離を走ってきたのだ、疲れているのは当たり前だ。だが伊都と一緒に入浴しているという垂涎する状況であるにもかかわらず、睡魔に負けてしまいそうな俺がいる。三大欲求の中で最も抗いがたいのが睡眠欲だ。しかしこんな時に眠くならなくてもいいのに――。
「巡くん、眠い?」
 伊都が声をかけてくれて、俺の意識はかろうじて戻ってくる。
 いつの間にか閉じていた目を開くと、伊都が俺の顔を覗き込んでいるところだった。
 洗い終えた長い髪をぐるりと後ろでまとめ、後れ毛を火照る首筋に張りつかせた彼女が言う。
「眠いなら、ちゃんと上がって髪乾かしてから寝なよ」
「嫌だ……。そもそも、寝たくない」
「でもすっごい眠そうだよ。瞼が重くて落ちてきちゃいそう」
 実際、瞼はとても重い。
 目の前にこの上なく色っぽい伊都がいるというのに、なぜ俺はこんなにも眠いのか。疲れているからか。さすがに無理をしてしまったのだろうか。
「お夕飯の時間までちょっと寝たら? ちゃんと起こしてあげるから」
 彼女の声が心配そうだ。
 俺も抗える自信がなくなっていたので、やむなく従うことにした。
「わかった……上がったらちょっと横になる」
「その方がいいよ。眠いとせっかくのご飯も美味しくないもん」
 なるほど、それもあるな。
 まさに睡眠欲とは三大欲求の王者、他のどの欲も退ける最強の存在である。

 風呂から上がった後、俺は伊都の勧め通りに少し休むことにした。
 その際、せっかくなので彼女の膝を借りた。程よい弾力のある彼女の膝は湯上がりらしくぽかぽかと温かく、身に着けた浴衣はさらりと肌触りのいい生地だ。その上に頭を載せて目をつむれば、あっという間に眠気が押し寄せてくる。
「巡くん、もう寝ちゃった?」
 伊都の笑う声が遠くに聞こえる。
 返事がしたいのにできなくて、それが少しもどかしい。だが同時に心地よくて仕方がない。たっぷり運動をした後に身体を休める、実に健康的な過ごし方である。
 あとは、俺が眠ってしまった後、彼女が寂しがっていないといいのだが――。
「……巡くん」
 また、伊都の声がする。
 返事はできそうにないな、そう思った時、俺の顔に筆先のように柔らかい何かが触れた。
 肌をかすめる感覚にくすぐったさを覚え、思わず目を開けると、
「あ、起きた」
 すぐに俺を見下ろす伊都の顔が飛び込んできた。
 俺の顔に触れていたのは彼女の髪だ。湯上がりの彼女はその髪をサイドに結わえていて、彼女が俯くとその柔らかい先端が俺の顔をくすぐるように撫でてくる。
「巡くん、もうじきお夕飯だよ」
「えっ、もうそんな時間か?」
 まだ重く垂れ下がってくる瞼を抉じ開けながら、俺は返事をする。
「俺、どのくらい寝てた?」
「一時間くらいかなあ」
「そんなにか……あっという間だったよ」
「まだ寝足りない?」
 もう少し寝られる、むしろ寝ていたいのも事実だったが、せっかくの旅行中に夕飯抜きというのも寂しい。それにあまり長く伊都を放ってもおけまい。新婚旅行なのだから。
「そろそろ起きるよ」
 俺はそう答えると、まとわりついてきた睡魔をどうにか頭から追い払う。
 先程よりは気分もすっきりしたような気がする。手足のけだるさはまだ残っているが、これはむしろ明日以降が本番というところだろう。
「そっか、よかった」
 伊都も心なしか、ほっとした様子だ。俺の顔を見下ろしたまま微笑んでいる。
 その髪がまた俺の頬をさらりと撫で、
「伊都、ごめん。髪がちょっとくすぐったい」
 俺が訴えると、彼女はようやく気づいた様子で束ねた髪を背中側に払った。浴衣を着ている彼女のそういう仕種は色気があり、ほんのり赤くなった首筋が見えるのもまたどきっとさせられた。
「ごめんね。ちょうど巡くんの顔についちゃう長さだったね」
「かなり伸びたからな」
「やっぱ、切っちゃう? 膝枕の時に邪魔だから」
「そんな理由で切っちゃっていいのか?」
 聞き返す俺に、伊都はくすくす笑ってみせる。
「いいんじゃないかな。結婚式はもうないけど、膝枕は何回もするだろうしね」
 何回どころか、これから何十回、何百回としてもらいたい。
 伊都の膝は寝心地がよかった。短い仮眠ではあったが、幸せな眠りに落ちることができた。
 何だかんだで俺達も、新婚旅行らしい旅行ぶりだと思う。
「あと、五分だけいいか?」
 俺は離れがたさから、彼女の顔を見上げてそうねだった。
「寝ないから。もうちょっとだけ、こうしてたい」
 浴衣姿の伊都は俺を見下ろし、しっとりと微笑んだ。
「いいよ。あとちょっと、休んでて」
「ありがとう」
 礼を言った俺の額に、彼女の手のひらが触れる。
 ひんやりと冷たい伊都の手が、俺を一層幸福な気分にさせてくれた。

 何だか急に、帰りたくなくなってきた。
 だがこれが、俺達の新婚旅行の最後の夜になる。