Tiny garden

テンカウントのその先で(1)

 振り返ってみれば、年が明けてからはとにかく忙しかった。
 一月に入籍して、三月には結婚式を挙げて。五月に行った新婚旅行もまだ記憶に新しい。
 その時に背負い込んだ筋肉痛がようやく癒えた頃、俺は再び自転車に乗り始めていた。

「巡くん、行っくよー!」
 伊都が今朝も元気な声を上げ、玄関から飛び出していく。
 後を追うようにドアを開ければ、オレンジと白にカラーリングされたロードバイクを軽々と担ぎ上げ、アパートの外階段を駆け下りていく後ろ姿が見えた。本日のファッションも愛車に合わせたオレンジのパーカーに白いスカートだ。梅雨入り前の天気は快晴で、眩しい朝日の下、こちらを振り返る笑顔はいつものようにとびきり明るい。
 そして、さらさらの髪は顎のラインですっきり切り揃えられている。
 新婚旅行から戻ってすぐ、伊都は髪を切った。やはり自転車を乗るのに長く伸ばしていたのでは暑苦しかったらしい。
「今度から夏は切って、冬は伸ばす方向で行こうと思うんだ」
 髪を切ってしまった後、彼女は得意げにそう語っていた。
「夏毛と冬毛みたいなものだな」
 俺が納得すると、伊都は奥二重の瞳をくるくる輝かせた。
「何か猫みたいだね!」
 でも動物に例えるなら、彼女は確かにネコ科だろうなという気がする。あのすばしっこさ、脚の筋肉の美しさ、毛並みの触り心地よさも全部。
 ともあれ俺は玄関に鍵をかけ、同じように愛車を担いで外階段を下りる。先に路上へ下りていた伊都が大きく手を振って出迎えてくれる。
「巡くん、調子よさそうだね」
「さすがに二週間も経てばな」
 新婚旅行では調子に乗りすぎてまんまと筋肉痛になった俺だが、それがすっかり治った今、また自転車通勤を再開している。むしろ新婚旅行のお蔭だろうか、会社までの距離が短く感じられるようになった今日この頃だ。
 果たして俺は自転車に乗るのが好きなのだろうか。
 それとも、伊都と一緒に自転車に乗るのが好きなのだろうか。
 あるいは自転車を爽快にかっ飛ばしている伊都を後ろから眺めるのがとにかく好きで好きでたまらないのだろうか。
 答えは、
「じゃ、行こっか。私が先でいいよね?」
「ああ」
 自転車通勤に慣れた今となっても、彼女に先頭を譲っている時点でわかりきっている。
 それに答えがどれであっても、他の答えが不正解だというわけでもない。自転車で風を切って走るのも、その気持ちよさと彼女と共有するのも好きだ。
「日に日に暖かくなっていくよね」
「昼間はもう暑いくらいだよ」
「豆腐丼の美味しい季節になってきたねえ」
「それは年中いつでも美味いだろ」
「確かに!」
「でもまあ、夏に食べるのがより美味いかもな」
 夫婦でそんな会話を交わしつつ、俺達は静かな朝の街並みを自転車で走る。伊都の後ろ姿を、風に揺れる髪を、きれいな脚を今日もじっくり眺めつつ。
 悩ましい筋肉痛が去った今、俺の日常はこんなふうに穏やかで、幸福だった。

 もちろん日常の全てが穏やかというわけではない。
 立て続けに起こった人生の重大イベントが過ぎ去ってしまうと、普通に仕事に追われる日々が戻ってきた。
 いや、仕事はいつでもあった。俺は絶えずそいつに追い駆けられていたが、伊都と迎えた各種イベントの充実感であっさり乗り越えられてしまっていたのだ。
 だからこうして日常が戻ってくると、純粋に仕事の辛さがのしかかってくる。しかもこれからやってくるのは体力と食欲を容赦なく奪いに来る夏と、毎年恒例お盆休み前の繁忙期だ。正直に言うとだるい。ずっと伊都と二人きりでいちゃいちゃしていたい。
 しかし所帯持ちとなった以上、そんな甘えた願望が叶えられるはずもなく。

「お互い、昼飯って時間じゃねえ昼飯だな」
「三時のおやつだな、もはや」
 社員食堂で石田と顔を合わせたのは午後三時過ぎのことだった。
 加速度的に仕事が忙しくなっていくこの時期にはよくある。俺も石田も何となく食事がおろそかになって、気がつけば昼休憩なんて時間でもない時刻に休憩に入る羽目になる。かつては独身男同士、侘しくカップラーメンを啜りながら軽口を叩き合ったこともある。
 だが今の俺達はお互いに、めでたく幸福な所帯持ちだ。
 社食のテーブルで向かい合って座り、食べているのはまことにまことにありがたい愛妻弁当である。
「しかしながら、何時に食っても愛妻弁当は美味い」
「いや全くだ。初めて意見が合ったんじゃないか、石田」
 石田と俺は頷き合い、そしてそれぞれの奥さんが作った弁当を堪能している。
 本日の弁当は厚揚げをかりっと焼いて、甘辛ネギソースを絡めた油淋鶏風。つけ合わせは茄子の炒め物とほうれん草の胡麻和えだ。どれもこれもご飯が進むいい味つけだった。
 一方の石田は鯵の塩焼き弁当だ。大好きな魚だからか、大好きな奥さんの手作りだからか、石田はめちゃくちゃ美味そうに食べる。
「こうして嫁の弁当食べてると、午後の仕事も頑張れるぜ! って気がするよな」
「そうだな。もう午後だけど」
 午後三時ともなると、社員食堂からは目に見えて人がいなくなる。
 賄いの皆さんは二時で帰ってしまうし、そうなると食堂にあるのは自販機の飲み物か無料のお茶のみ。利用者はちょっと一服したいだけの面々か、そうでなければ自前の飯を持ってきている人間だけだ。
「しかし、見事に落ち着いたよなあ」
 弁当をつつきながら、急に石田がにやにやし始めた。
 思い出し笑いか気色悪い、と俺が眉を顰めれば、石田はその笑みを俺の方へ向けてくる。
「曲がりなりにも新婚さんなのに、お前、妙に落ち着いてんな」
「俺が? そうか?」
「ああ」
 石田は頷き、大仰に肩を竦めた。
「てっきり俺は、色惚けしまくった挙句浮かれ回る安井がもっと見られると思ってたのに」
「そこまで酷くなるかよ、お前じゃあるまいし」
 俺は鼻で笑っておく。
 しかし、落ち着いていると言われてもあまり自覚はない。そもそも新婚だからといってそんなにそわそわするものなのだろうか。確かに俺も伊都とよりを戻してもう一度付き合い始めた頃は多少――本当に『多少』だ、あくまでも――浮かれていた自覚はある。だがそういう交際期間、同棲期間を経ての結婚ではさすがに改めて浮かれるということもない。
 俺にとってはもう、伊都のいる幸福が日常だ。
「だが、新婚さんだぞ? 浮かれるだろ普通」
 信じがたいというように石田は苦笑いを浮かべる。
「俺なんて新婚時代はもう毎日のように早く帰りてー帰りてーと思いながら仕事してたし、毎日のように帰るコールしちゃってたし、休みの前日なんざ顔に出てるって言われるくらいにやにやしちゃってたからな。そんなもんだろ、新婚さんなんて」
 なんてことを、石田はあたかも過去形のように語るが。
「って言うからには、今は石田も落ち着いてるんだろ?」
「そんなわけねえだろ、俺はまだ新婚さんだぞ!」
「過去形じゃないのかよ!」
「現在進行形だ! 悪いか!」
 ちなみに石田はあと四ヶ月で結婚一周年を迎えるはずだ。新婚期間とは一体いつからいつまでを指すのか、その基準がまず問われそうである。
「悪かないけど……むしろお前が落ち着けよ」
 俺のツッコミに、石田は最上級の得意満面で応えた。
「無理だな! なぜならうちの妻が可愛いからだ!」
「なんで俺、貴重な休憩時間にお前の惚気話聞かされてるんだろうな……」
 石田は相変わらずだ。新婚時代と言わず、この先何十年経ってもずっと変わらないままではないかという気がする。
 まあ、この石田が落ち着き払って冷静に振る舞うようになったりしたら、俺も、それに霧島も『何事か、天変地異の前触れか』と慌てふためく羽目になるだろうし、今のままでもいいか。
「だから、お前も弾けりゃいいだろ」
 そんな石田が、俺に言う。
「変に見栄張って格好つけてないで、新婚さんなら新婚さんらしくしろってこった」
「別にこんなことで見栄は張らない」
 俺だってしょっちゅう早く帰りたいとは思っているし、休みの前の日には明日の予定なんかを想像してちょっと口元が緩んでしまうことはある。帰るコールは、伊都も働いているしどちらの帰りが先かわからないからいつもするとは限らないが、確実にわかっている時は電話をかけることもある。
 ただそういうのも結構前から日常になっていて、石田のようにはしゃぎ回る必要はないだけだ。
「俺は単に、同棲の方が長かったからだと思うよ」
 多分そういうことだと、俺は弁当を食べながら答える。
「結婚して初めて一緒に住み始めたっていうんじゃないからな。今更浮かれたりしない」
「そうだったよなあ。俺に内緒で随分前からこっそり同棲してやがったんだもんな」
 しまった。藪蛇だったかもしれない。
 失言に気づいて俺は口を噤んだが、石田はことこういうことには無駄に鋭敏な男である。すかさずつっついてくる。
「ってことは安井の浮かれ回ってる色惚け期間は、とっくのとうに過ぎ去ってたってわけか」
「かも、しれないな」
「ちょうどあの時期かもな。お前からようやく事の次第を打ち明けてもらった頃……」
「ああ、もうわかったから当時のことは突っ込むな!」
 俺の自業自得ではあるが、石田は相当あの頃のことを根に持っているらしい。この先、きっと永遠に言われ続けることだろう。まさに爺さんになっても。
「ところで、安井」
 かと思うと、石田は急に改まって真面目な顔をした。
「何だよ、急に」
「ちょっと聞きたいことあるんだが、いいか」
「ああ、いいけど」
 何か重大な用件だろうか。俺は居住まいを正す。
 すると石田は柄にもない真面目な表情のまま、低い声で切り出した。
「お前、あれは済ませたのか」
「あれって何だよ」
「新婚さんのお約束だろ。『ご飯にする? お風呂にする? それともわ・た・し?』ってやつだ」
 真面目な顔で何を聞くかと思えば。
 しかも石田の声でその台詞を聞かされた俺の身にもなって欲しい。
 どっと脱力して、危うく箸を取り落としそうになった俺を、石田は吊り上がった目で探るように見る。
「やったのか?」
「やってないよ……大体お約束って言うけど、そんなに皆やってるもんか?」
「皆がやってるからお約束っていうんだろ」
「じゃあ、お前のとこはやったのか?」
 思わず聞き返せば、石田は妙に誇らしげに胸を反らしてみせる。
「どっちだと思う?」
「やってない」
 俺が言い当てると、一転して目を丸くしていた。
「なんでわかった!?」
「お前んとこの奥さん、そういうことできる子じゃないだろ……」
 多分、無理だ。石田に拝み倒されても無理だ。
 もっとも、それを言うならうちの伊都だって、仮に俺が必死になって頼み込んでもやってはくれない気がするが。
 いや、必死になんてなるつもりはないが。こんなことくらいで。
「そうだ、悔しいことにまだやってもらってねえんだよ」
 石田は言葉通りの悔しそうな様子で訴えてきた。
「俺はこんなにも興味があって一度やってみせて欲しいのに! 藍子なら絶対可愛いのに!」
「知るかよ……」
 どちらにせよ昼休憩の時に聞く話でもない。
 大体、ああいうのが好みではない男だっているのだ。俺はもっと健康的な色気の方が好きなのであって、ああいうわざとらしいのはどうかと思う。台詞を用意してわざわざ言わせる、言ってもらうというのも演出みたいで受け付けない。
 とは言え、伊都の素晴らしい脚線美を活かせるシチュエーションであるというのも事実ではあるのだが――。
「ぶっちゃけちょっと、興味あるだろ?」
 俺の一瞬の迷いにつけ込むかのように、石田がにやりと唇を歪めた。
 ぎくりとしつつも、目を逸らす。
「いや、別に? 俺はそういうの趣味じゃないし」
「嘘つけ、顔に出てんぞ安井」
「出てない、勝手に読み取るな」
「お前、マジで嫁さんの脚好きだもんな。そりゃ想像するわな」
 もちろん俺は伊都の脚だけが好きなわけではない。
 ないのだが、大好物であるのもまた事実だ。
 頼み込んだら、伊都はやってくれるだろうか。――などということを一瞬でも考え始めた時点で、俺の負けなのかもしれない。
「新婚って、いつまでが新婚なんだろうな」
 さっき浮かんだ疑問をふと口にしてみると、石田は何を聞くのだという顔をする。
「別にいつまでだっていいだろ。新婚でいたけりゃ、好きなだけいればいいんだ」
「そんなにアバウトでいいのか」
「いいんだよ。お互いに『新婚はもういいか』ってなるまで堪能するのが新婚期間だ」
「はあ……言い切るよな、お前」
 いつもながら、感心するほど石田らしいご回答である。
 しかしそういうことなら、俺もまだ新婚だし、堪能しきったとは言えないと思う。
 新婚初期の一連のイベントは大体済ませてしまったが、せっかくだから今しかできないことをしてみたい。

 さて、伊都はなんて言うだろう。
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