Tiny garden

忘れられない記憶(3)

 この時期、俺の3DKのアパートには同居人がいた。
 同居人と言うと他人行儀だが、要は、弟だ。
 五つ下の弟、翔は当時同じ市内の大学に通う学生だった。入学したての頃は大学近くの下宿に部屋を借りていたのだが、やれ門限が厳しいだの、食事が物足りないだのと不満を唱えて別の住まいを探すことになった。
 ちょうどその頃、生活に余裕が出てきた俺は車が欲しくなり、駐車場付きの物件を探して引っ越すことを検討していた。
 それを弟に知られたのがまずかった。
「なら、めぐ兄ちゃんとこ住ませてよ。家賃はちゃんと入れるから」
 当たり前だと顔を顰めたくなるような発言と共に、弟との同居が決まった。ファミリー向けの3DKを選んだのはその為だ。俺と弟が一部屋ずつ、空いた部屋はリビング代わりにした。

 しかし暮らしてみてわかったが、弟は問題のありすぎるルームメイトだった。
 掃除はしない、洗濯もしない、俺が買い置きして置いた食料は黙って食い尽くす、与えられた部屋に物が入りきらないからとリビングや俺の部屋に置こうとする――あまりに目に余ったので洗濯は俺の分だけ洗って弟の分は放置、食料品は購入の度に数量をメモして食べた分をバイト代から支払わせた。弟と言えど、むしろ弟だからこそ容赦はしないつもりだった。
 当の本人は不承不承従っていたが、ここで強く言いすぎると告げ口をしやがる。
『めぐ、翔に厳しいことを言うなよ。あいつはお前と違って甘ったれなんだから』
 上の兄貴がわざわざ電話をかけてきて俺に説教を垂れるので、非常に面倒くさかった。
「甘ったれだから躾けてるんだよ。同居なんてしなきゃよかった」
 俺が言い返せば兄貴は笑い、そう言うなよと穏やかに宥めてくる。
『めぐは昔から言葉がきついからな。そんなこと言ったら翔も萎縮しちゃうだろ』
「縮めばいいんだあんな奴。態度でかいんだから縮んだくらいがちょうどいい」
『まあまあ。可愛い弟だろ、少しは大目に見てやれよ』
 だったらそっちで面倒見ろよと言いたいところだが、実家近くの土地で嫁さんを貰い暮らしている兄貴には無理な相談だった。結局、俺が一人で耐え抜くより他ないわけだ。
 唯一の救いは翔がこの年度で卒業予定だったということだ。
 あと一年我慢すれば晴れて一人暮らしに戻れる、そんな思いで日々を過ごしていた。

 園田と約束をした日の朝、俺はリビングで出かける支度をしていた。
 怒らせたお詫びに何でも奢ると言った手前、途中で金が足りなくなるという事態だけは避けたかった。園田は『当日、駅前で待ち合わせ』とだけ告げてきて、どこへ行って何をするのかは口にしなかった。予算は多く見積もっておかなければならない。
 そういえば園田は豆腐料理が好きだと言っていた覚えがある。となると行き先は京懐石か中華料理か――カードが使える店に行くとは限らないし、三万では不安だから五万くらい持っていくべきか。
 園田もどこへ行くか教えといてくれてもいいのに、まだ怒りを収めていない彼女は出かける約束をする時でさえ、必要以上の会話をしてくれなかった。

 ソファに座って財布に金をしまう俺を見て、まだ寝間着姿の弟が声をかけてきた。
「めぐ兄ちゃん、女と会うの?」
 冷やかす口調にかちんと来たのは、園田との約束を少し憂鬱に思っていたせいかもしれない。
 直接は答えず、俺は肩を竦めた。
「出かけてくる。夜には帰るから、ちゃんと風呂掃除しとけよ」
「へえ、日帰り? 泊まってこないの?」
「そういう相手じゃないんだよ。夕飯も帰ってきて食べるかもしれない」
 待ち合わせ時刻は午前十時だったから、恐らく昼食をごちそうすることになるだろう。もしかしたら夕食も奢るよう言われるかもしれないが、そうなったとしても約束は約束だ。付き合うべきだろう。
「そんなに微妙な相手とデート? 大変っすねえ、もてる男ってやつも」
 翔は皮肉っぽく言い放った。
「ま、俺がいるからお持ち帰りもできないしね。いざとなったらそれ口実に逃げてくればいいよ」
 弟という同居人の存在は恋愛においても邪魔だった。昔、付き合っていた彼女に『弟がいるから部屋には呼べない』という言葉を信じてもらえず別れたこともあった。
 だが今日の予定にそんなことは関係なかった。
 なぜならデートじゃない。どちらかと言うと禊だ。園田に許してもらう為だけに彼女と会い、何か奢る約束をしていた。
 出かける前から俺の気分は沈んでいた。園田に会うのが嫌なわけじゃなかった。いや、謝りに行かなければいけないんだから俺が嫌かどうかなんて関係ない。あの園田が怒るだけのことをしたんだ、覚悟を決めなければならない。
 ただ、いくらかの不安があった。
 園田は本当に俺を許してくれるだろうか。

 弟を置いて部屋を出て、待ち合わせ場所の駅前には十分前に到着した。
 その時既に園田は来ていて、駅前に置かれた変な形のモニュメントの傍に立っていた。涼しげな青い襟付きシャツの下に白いミニスカートをはいていて、そこから伸びる脚には黒いスパッツを身につけていた。足元はスニーカーだ。よく見ると彼女の服は上下共にスポーツウェアらしい素材でできており、これから運動でもしに行くような格好だった。
 てっきり高い店にでも行くのかと思っていた俺は、その予想に合わせてこぎれいな服装をしていた。多少面食らいながらも、ひとまず彼女に声をかけた。
「園田、おはよう」
 名前を呼ばれた園田が、短い髪を揺らして振り向く。
 少しだけ期待していたのだが、彼女はにこりともしなかった。仏頂面というよりは無表情に近い顔つきで返事をした。
「おはよ」
 声もまた氷みたいに冷たくて、八月の炎天下にもかかわらず冷や汗が出た。
 笑顔を引きつらせる俺をよそに、園田は俺に歩み寄ると静かに続けた。
「森林公園に行きたいの」
「公園? そんなんでいいのか?」
「そこで全部奢ってくれたら、こないだのはなかったことにしてあげる」
 俺の問いを撥ねつけるように言うと、彼女は踵を返して一足先に駅構内へと歩き出す。俺は慌ててその後を追いかけた。

 森林公園はここから五駅先にある。
 広大な敷地の中にボートに乗れる溜め池があり、子供向けのアスレチックコースがあり、テント備えつけのキャンプ場がある。俺も課内のバーベキューなどで足を運んだことはあるが、女の子を連れて行くのは初めてだった。入園料はかからないし、奢れるようなものなんて貸しボートの他は園内の売店か自販機、あとは食堂くらいしかないはずだった。
 ひとまず俺は二人分の切符を買い、園田と一緒に公園行きの電車に乗った。

 夏休みも終盤戦とあってか、電車の中は家族連れや学生のグループなどで混み合っていた。
 園田も俺も座席に座ることは叶わず、二人で吊り革に掴まった。一応すぐ隣で肩を並べていたのだが、公園までの車内で会話はほとんどなかった。
「その服、自転車で来る時に着てきてるやつだろ」
 俺の方は何度か園田に話しかけていた。
 事実、彼女の今日の服装には見覚えがあった。園田が会社帰りに、スーツから着替えてこういう服装で自転車を飛ばしていく姿を何度か見かけていたからだ。彼女の自転車はいわゆるロードバイクというやつで、それをかっ飛ばして帰っていく姿はなかなか格好よかった。園田も自分の愛車をとても大事にしており、わざわざ会社地下の駐車場まで運び込んで停めているほどだった。
「明るいところで見たのは初めてだけど、似合うな」
 私服の園田を見たことがないわけではなかったが、何となく印象が薄かった。今のスポーツカジュアル的な服装をよく覚えていたのは、それが最も彼女によく似合っていたからかもしれない。今にもどこかへ飛び出していきそうな、活発そうな子に見えた。これでいつもの笑顔を見せてくれていたらもっとよかったのに。
 俺の誉め言葉が鬱陶しかったのか、機嫌を取っているように思えたのか。園田は黙って俺を一瞥すると、そのままつまらなさそうに顔を背けた。
 話しかけるなと言わんばかりの態度に、俺も口を閉ざすしかなかった。電車に乗り合わせた他の乗客の目にはさぞかし険悪なカップルに見えたことだろう。園田があまりにも素っ気ないので、俺は出かける前の不安を一層募らせていた。

 思えば、彼女はいつでも俺に笑いかけてくれた。
 裏表のないあっけらかんとした笑い方は見ていても気分がよかった。相談を持ちかけた時、約束をしていて少し待たせてしまった時、面倒な頼み事をした時、その度ごとに俺は園田が明るい笑顔で受け入れてくれたことにほっとしていた。
 だがその顔も、もう見られなくなるのかもしれない。
 園田は『なかったことにする』と言ったが、恐らくそうはならないだろう。園田が根に持つと踏んでいるわけじゃない。誰かに深く傷つけられた記憶を完璧に忘れられる人間なんていないからだ。
 俺達は元の友人には戻れないだろう。園田は今回でさすがに愛想が尽きただろうし、それに俺は――。
 つくづく馬鹿なことをした、と思っていた。
 いつも笑ってくれていた彼女の冷たい態度が、早くも身に堪えていた。

 公園に着くと、園田は入り口近くに建っていた売店を指差した。
「あそこで自転車借りて、サイクリングしたい」
 相変わらずの素っ気ない口調で言った。
 指差す方向には『レンタサイクル』の看板が下がっている。この公園には長いサイクリングコースがあり、園内を歩いていると時々自転車を漕ぐ人々の姿を見かけることがあった。景色を楽しみながらのんびり走る観光客もいれば、トライアスロンの選手みたいなウェアを着込んでひた走る人もいる。
 つまり、それでその格好か。俺が園田の姿を改めて見下ろすと、彼女もこちらを睨むように見上げてきた。
「ここのサイクリングコース、公園内をぐるっと一周すると十七キロなの」
「じゅ……十七キロ!?」
 思わず声が裏返った。
 就職してからというものなかなか運動をする暇はなく、ましてや自転車なんて乗る機会もなかった。そんな俺にいきなり十七キロのコースは厳しい。もちろん園田にだって大層な距離のはず――そんな俺の考えを見透かすように、園田はどこか挑発的な目を向けてきた。
「『たったの』十七キロだよ。大したことないよ」
 その物言いには男としてのプライドが大いに刺激された。まさか彼女の前で無理だ、できないとは言えない。
「わかった。じゃあ自転車借りてくるよ」
 俺が動揺を悟られないよう頷くと、園田は思い出したように俺を呼びとめた。
「あ、待って。自転車、タンデムのにして」
「タンデムってことは、二人乗りか?」
「そう。一人乗りだと距離が空いて、そのうちはぐれちゃいそうだから」
 とことん見下されている。
 悔しさに苦笑しつつ、俺は売店へ足を運んで二人乗りの自転車を借りた。レンタル料は五百円、しかも時間制限なし。安いものだった。
 実は初めて触ったタンデム自転車を押して、サイクリングコース始点で待つ園田の元へ戻る。
 すると彼女は当たり前のように言った。
「じゃあ、私が前に乗るからね。安井さんは後ろ」
 そして俺から自転車のハンドルを預かると、さっさと前のサドルに跨った。乗り慣れているだけあって、自転車に乗る動作も軽やかだった。
 呆気に取られる俺を、園田が愛想のない顔つきで振り返る。
「初めて乗るなら難しいから、まずはちょっと漕いでみて」
 俺は後ろに乗るのに抵抗があった。
 抵抗と言うより、園田がミニスカートなことに若干戸惑い、目のやり場に困りそうだと思った。
 とは言えスパッツははいているし、何より本人が気にしていないようだから、いいか。ためらったのも結局は数秒間だけで、俺は後ろのハンドルを握ってサドルに腰かける。
 タンデム自転車には前後に二つのハンドルがついているが、後方のハンドルは曲がらないように固定されていた。その感覚にまず戸惑った。カーブを切るのも方向転換も、前に座った人間だけができるものらしい。
 当然、ブレーキも前のハンドルにしかついていない。俺が固定されたハンドルを握り締めてどうにか安定を保つと、こちらを向いた園田が声をかけてきた。
「漕ぎ出すよ。初めはギア落としていくからね」
「ああ、わかった」
 園田のスニーカーがペダルを力強く漕ぎ始める。
 同時に俺の足の裏でも連動してペダルが動き出した。俺は慌てて彼女に合わせ、同じようにペダルを漕ぐ。

 走り始めこそ何度かバランスを崩した。
 だが園田が引っ張ってくれているからか、直にすいすいと走れるようになった。
 全長十七キロというサイクリングコースはところどころが緑の木陰で覆われており、また大きな池の傍を沿うように通り抜けているので涼しかった。すぐ前に園田が座っているから真正面の景色こそ見えなかったが、木漏れ日が差し込む夏の森やスワンボート漂う眩しい池の様子を横目に眺めることができた。自転車が速度を上げるごとに吹きつけてくる風は心地よく、夏らしい緑の濃い匂いがした。
 漕いでいる間も、園田はほとんど口を利かなかった。せいぜいカーブを曲がる時に『曲がるよ』と声をかけてくれたり、前方に坂が見えると上りか下りか教えてくれる程度だ。滅多に振り向かない後ろ姿だけでは彼女が楽しんでいるのかどうか全く読み取れず、俺は園田の風に揺れるきれいな髪を、時々は風にはためくミニスカートから覗くきれいな脚を見ているしかなかった。
 園田はスカートがぱたぱた音を立てているのも、俺が後ろに座っているのも全く気にしていないようだった。
 意外と、と言うと失礼かもしれないが、会社ではスーツにタイトスカートの園田が思いのほかいい脚をしていることに初めて気づいた。お蔭でサイクリングの出だしは非常に快調で、楽しかった。

 だがその楽しさも八月の気温と湿度、夏の焼けるような日差し、そして十七キロという距離の前に陰りが見えてくる。
 次第に風が温く、熱くなってきた。額に浮かんだ汗が目に入り、視界を滲ませる度に痛みを覚えた。オフの日は上げないようにしている前髪が汗に濡れて顔に張りつき、非常に鬱陶しかった。そしてだんだんと息が上がってきた。
 園田は一定のペースを保ったまま自転車を漕ぎ続けている。徒歩では気にならない程度の勾配も自転車で上るときついのに、園田は苦もなくペダルを漕いで一気に上ってしまう。
 彼女のペースに合わせるのは辛かったが、音を上げるわけにもいかず、俺もまた一心不乱にペダルを踏み続けた。
 何せ今日は禊に来ているのだ。ここで音を上げたら、園田は俺を満足に謝罪もできない根性なしと判断していよいよ見放されるだろう。彼女が満足するまでは、たとえみっともなく息が上がっても、身体の水分が全て流れ出ようとも漕ぎ続けなければならない。
 それに何より、女の子相手に体力で負けるなんて格好悪い。

 やがて景色を見ている余裕もなくなった俺は歯を食い縛り、目の前にある園田のすらりとした脚だけを励みに自転車を漕いだ。漕ぎ続けた。
 だが一度乱れた呼吸を整え直すのは容易ではなく、気温の高さもあって頭が朦朧としてきた。
「そ、園田……あと、何キロくらい……?」
 ぜいぜいと犬のように喘ぎながら尋ねた俺を、彼女はちらりと振り返る。頬に汗こそ伝っていたが、表情はけろりとしたものだった。
「さっき、九キロの看板があったよ。ようやく半分過ぎたとこかな」
 はっきりと数字にして聞いたらもう駄目だった。
 俺は干からびた声で訴えた。
「園田っ、頼む、ちょっと、休憩を……」
「え、もう?」
 屈辱的な言葉を発した後、園田はスピードを落として自転車を道の端に寄せ、ブレーキをかけた。
 俺は崩れるように自転車を降り、しゃがみ込もうとしたがそれすら叶わず、その場にひっくり返った。
 全身から汗が噴き出してくるのが着衣の重たさでわかる。自分のものじゃないような荒い息遣いが辺りに響き、心臓が自分で聞き取れるほどの音を立てていた。汗が目に入らないよう固く目をつむっていると、そのうち日差しを遮るように俺の上に影が差した。
「安井さん、大丈夫?」
 園田の声だ。
「……なわけない、どう見ても……っ」
 言葉を搾り出すのもやっとの俺に比べて、園田の声は多少弾んでいる程度で全く乱れていなかった。悔しかった。
「もう少し走ったら売店あるから、そこまで行こうよ」
 彼女はそう言ったが、その『もう少し』が俺にとってどれほどの距離か想像するのも恐ろしかった。もうしばらくはペダルを漕ぎたくない。起き上がれる気さえしない。
「俺、も、起き上がれな……」
 目も開けられないまま、情けない絶え絶えの息で訴えた時だった。
 急に頭上でけたたましい笑い声が弾けた。
「安井さん、もしかして降参? すっごく格好悪い!」
 園田が笑っている。
 予想外のことに俺が無理やり目を抉じ開けると、上から覗き込むようにして俺を見下ろす園田が、全開の笑顔で笑っていた。
「しょうがないなあ、飲み物買ってきてあげようか!」

 夏の日差しを背負ってもなお明るいその笑顔を、俺は随分懐かしく感じていた。
 だからなのか、汗が流れ込んできそうになっても、暑さに目眩を覚えていても、しばらく目を閉じることができなかった。
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