Tiny garden

忘れられない記憶(4)

 園田はタンデム自転車に一人で乗り、売店で飲み物を買ってきた。
 それから水をぶっかけられたようになっている俺に、『余分に持ってきてるから』とタオルを貸してくれた。

「……ありがとう、生き返ったよ」
 たっぷりと水分を取り、借りたタオルで汗を拭いてから園田に礼を言った。
 飲み干した水は格別な美味さで、水分が身体の隅々に行き渡る感覚がわかるようだった。お蔭でいくらか楽になったし、呼吸も落ち着いた。
 とは言え、俺はまだ道端に座り込んでいる。サイクリングロードの路面は熱した鉄板のように熱く、俺は道の両脇を囲む緑の茂みに逃げ込んでいた。ようやく戻ってきた涼しい風が、汗を吸って重くなったシャツを洗濯物みたいにぱたぱたと揺らしていた。
 園田は自転車のハンドルを握ったまま、そんな俺を見下ろし得意げな顔をしている。
「黙って漕いでたから、もうちょっと行けるかと思ってたんだけど」
「頑張ろうと思ったけど、身体が言うことを聞かなかった」
 何を言っても言い訳になる俺を、それでも彼女は笑ってくれた。
「そうなんだ。安井さんの身体、反抗期?」
「いいや、単なる準備不足だ。俺ももっと動きやすい格好してくるんだった」
 今となっては負け惜しみを言うのが精一杯だった。
 未だに立ち上がれない俺とは違い、園田は疲れた様子もなく自転車を支えて立っている。口元には明るい笑みが戻っていて、俺はそれを不思議な気分で見上げている。

 どうして園田は笑っているんだろう。
 さっきまでは明らかに怒っていたし、ここへ来るまでの電車内では会話もままならず険悪な雰囲気だったのに、今では普通に話している。まるでこの間、俺が園田を怒らせるより以前みたいにだ。

 面食らう俺をよそに、園田は朗らかな口調で続けた。
「ね、休んだらまだ行ける? この自転車、乗り終わったら借りたとこまで返しに行かなきゃいけないんだけど」
 問いかける彼女の横を、自転車に乗った数人のグループが次々と駆け抜けていく。
 俺達は道の端に避けているからぶつかる心配はなかったが、すれ違った全員が怪訝そうに、あるいは気遣わしげにこちらを見ていったのは精神的に堪えた。
 この光景はどう見ても、『活発な彼女についていけずサイクリングをギブアップするひ弱な男』だ。事実ギブアップした身分ではあるから反論もできないが、衆目に晒されるのはさすがに恥ずかしい。
「休むにしても、たっぷり休みたい」
 これ以上道端で座り込んでいるよりはと、俺は園田に正直に打ち明けた。もう乗りたくないとまでは言わないが、もう少し日陰でちゃんと休みたかった。
 すると彼女はこちらの答えを読んでいたのか、撃てば響くようなタイミングで応じた。
「じゃあさっきの売店に行こっか。座るところもあったし、日陰で涼しそうだったよ」
「そうか。……園田がいいなら、是非そうしてもらいたいな」
「私はいいよ。ばててる安井さんを連れ回すわけにもいかないしね」
 園田の優しい回答に、俺は一瞬、自分がなぜここにいるのかを忘れそうになった。

 今日は禊に来たんだ。園田に許してもらう為に。
 決してサイクリングを楽しむ為でも、運動の後の水が美味いと感激する為でもない。ましてサイクリングコースを半分超えたところで早々にばてて、園田だけじゃなく通りすがりの人々に同情の目を向けられる為では決してない。
 でも園田は笑っている。一点の曇りもないあっけらかんとした笑顔がずっと俺を見下ろしている。それだけで許してもらえたと判断するのは尚早だろうが、彼女の態度が軟化したことには喜びよりも戸惑いの方が強かった。
 もっとも、彼女は怒っているよりも笑っている方がいい。それはもちろんそう思うのだが。

「安井さん、立てる?」
 園田は相変わらず快活に笑い、俺に向かって手を差し出してきた。よく日に焼けた、でも女らしい柔らかそうな手だった。
 その手を借りたらいよいよ情けないような気がして、俺は少しだけためらった。が、断ればかえって園田に悪いだろうと、手に掴まって立ち上がる。軽い立ちくらみはあったが直になくなったし、歩けないほどではなさそうだった。
 彼女は俺から手を離し、様子を窺うように見上げてきた。
「自転車はしばらく無理だよね。押していく?」
「そうしてもらえると助かる。あ、俺が押すよ」
「いいよいいよ、安井さんはのんびり歩きなよ」
 彼女はそう言ったがそこまでさせると本格的に格好悪いので、責任を持って俺が自転車を押させてもらった。道の端をなぞるように歩きながら時々振り返ると、園田は軽い足取りでついてきた。
 試しにいくつか話しかけてみた。
「この自転車、一人でも乗れるのか?」
 すると園田は電車内とは違い、すぐに答えてくれた。
「普通に乗れるよ」
「漕ぐの難しくないのか? 園田、一人で売店まで乗っていったけど」
「全然。一人の方がバランス取るの楽だし、二人より乗りやすいかな」
 それは暗に、後部座席の俺が足手まといだったという意味だろうか。
「俺、足引っ張ってた?」
 悔しくなりながらも聞き返すと、園田は子供みたいにくすくす笑いながら頷いた。
「ちょっとだけ。でも結構上手かったよ、練習すればもっとスピード出せるかも」
 彼女がにこにこして、いつものように俺と話してくれるのは嬉しい。だけどなぜ笑ってくれるのかわからなくて、内心焦ってもいた。
 笑って欲しいってずっと思ってたんだから、面食らうこともないのにな。
 俺はうろたえてどうするんだか。

 サイクリングロード沿いに立つ売店は、古びたのれんがかかった平屋建てだった。近くにはキャンプ場もあり、そちらからも客が入ってきているようだ。ガラス戸の向こうに複数の人影が見えた。
 店の前にはおでんやそば、うどん、ソフトクリームなどがあることを知らせるのぼりが立ち並び、近づくに連れて鰹だしのいい匂いが漂ってきた。店の前には小さな藤棚があり、その下に四基の大きなベンチが置かれている。ここで食べるか店内の小上がりで食べるかを自由に選べるシステムらしい。
「何がいい?」
 店の前に自転車を停め、俺は園田に尋ねた。
 園田はのぼりと、店のガラス戸にべたべた貼られたメニュー表を見ながら考え込む。
「うーん……安井さんは、ここでご飯にしたい?」
「いや、俺は冷たい物だけでいい。園田は好きなの選んでいいよ」
 散々汗をかいたせいか、食べ物よりは飲み物が欲しい気分だった。メニューにソーダフロートがあったから、それにしようかと思っている。
「ううん、私も冷たいのだけにする。って言うか、お店入って一緒に選ぼうよ」
 園田が店内を指差したので、俺達は一旦店の中へ入った。

 ガラス戸で仕切られた売店は冷房が効いていて、汗を掻いた後の肌には涼しすぎるくらいだった。
 店の半分は小上がりになっていたが、残り半分はお土産品が並ぶスペースになっていて、公園のマスコットキャラクターらしきぬいぐるみやクッキー、饅頭などの菓子類、キーホルダーやペナントまで売られていた。ただ小上がりは全部客で埋まっていたにもかかわらず、土産物を見ている客は皆無だった。
 そういえば、園田には全部奢る約束をしていた。
 約束をしておきながらさっきは水を買ってきてもらって、しかもタイミングを逃し、代金を支払っていなかった。あれは大失態だった。これで買ってきてくれと財布を差し出す余裕すらなかった。あとででも金額を聞き出し、払わせてもらわなければならない。

 と、俺が考えている間にも今も園田は自分のボディバッグを開けて財布を取り出している。それでは困ると、俺は慌てて声をかけた。
「園田、何か欲しいものある?」
 振り向いた園田がきょとんとした。
「え? 何で?」
 何でって何だ。聞き返されたことにむしろ驚いた。
 俺が目を見開いたからか、彼女はしばらく怪訝そうに俺を見つめた。店の中でお互いに見つめ合うこと十秒間、やがて彼女はぱっと赤くなり、手をばたつかせるように振り回した。
「あっ、そ、そうだったっけ。そういえば奢ってもらう約束……だったよね」
「ああ。まさか忘れてたんじゃないよな?」
 冗談半分で聞いてみたつもりだったが、園田が明らかにぎくりとしたのがわかった。
「そういうんじゃないけど、えっとほら、このくらいは自分でも出せるかなって!」
「約束しただろ。俺に出させてくれよ」
「うん、じゃあ……」
 頷きつつも、園田はあからさまに焦っている。店内に掲示されたメニュー表を見る目が泳いでいる。急いで何か決めないと、とでも思っているのかもしれない。

 どうやら忘れてたっぽいな。
 この間はあんなに怒ってたのに、どうして怒っていたかを忘れられるものなんだろうか。俺としても予想外でちょっとおかしかった。
 そして、慌ててる園田はすごく可愛い。
 二つ年下だからそう思うのかもしれないが、時々子供みたいな顔つきをする。さっき俺に欲しい物を聞かれた時のきょとんとした、不思議そうな顔といい、見つめ合った後に気づいて慌てふためいた仕種といい、赤い頬といい――今までも可愛くないと思っていたわけじゃない。でも可愛いなとしみじみ思ったのも、それで妙に甘酸っぱいような、むずむずする感じを覚えたのも初めてだった。
 そしてその後で胸がぎりっと痛んで、息苦しくなった。
 あんなことをしても尚、園田は俺に笑いかけてくれている。
 園田の気持ちを知らなかったわけでもないのに、俺は。

「じゃあ、ソフトクリーム。買ってもらおうかな」
 そのうちに園田は適当なメニューを思いついたらしい。俺に向かってそう言った。
 いくらぼったくり上等の観光地だからって、ソフトクリームはせいぜい三百五十円だ。園田に遠慮して欲しくなかったのと、園田のあたふたする反応をもっと見てみたかったのもあって、更に持ちかけてみた。
「そんなのでいいのか? 食べ物以外でもいいんだぞ」
 俺は客のいないお土産のコーナーを目で示し、
「ほら、向こうに土産物も置いてある。あの中から何でも好きなの選んでいいよ」
 と告げると、予想通り園田はより困った様子でそちらに視線を向けた。
「えっと、選んでいいって言われても」
「何でも奢るって言っただろ。奢らせてもらえた方が俺も助かるんだ」
 園田に許してもらえないのは困る。いい奴だし、同期の友人だし、今まで散々世話にもなった。許してもらえるなら何でもするつもりだった。
 でも園田は多分、俺のことを怒ってもいないんだろう。サイクリングでへばった俺を見て笑ったら、もう怒りなんて吹っ飛んでしまったのかもしれない。俺は園田のそういうところを、いいな、と思った。
「あ……あれ。値段、高くなかったらでいいんだけど」
 困り顔で散々考え込んだ後、園田は土産物が並んでいるスペースの、隅の方を指差した。
 彼女が欲しがったのは冷房の風にぷかぷか浮いている銀色の風船だった。マカロンをテーブルの上に立てたような形をしたその風船には、よくある猫のキャラクターの絵が描かれていた。あんなものを園田が欲しがるのが意外だった。
「風船? いいけど、何に使うんだ」
 予想外のチョイスに驚く俺を、園田は微妙な笑みで見返してくる。
「ああいうのって何かに使う物じゃないでしょ。眺めて楽しむものなんだよ」
「風船見て楽しいのか。可愛いな、園田は」
 俺が本音を口走ると、彼女は一瞬息を呑んでから、拗ねた様子で頬を膨らませた。
「べ、別にいいじゃない。安井さんが気に入らないなら他のでもいいよ」
「気に入らないとは言ってないよ。ソフトクリームと一緒にあれも買おう」

 俺は早速その風船を一つ取り、ついでに値札も確かめた。
 すると一個七百円という驚きの価格が記されていた。これ一個でソフトクリームが二個買える計算だ。

 当然、園田が慌てた。
「や、やっぱいい。そんなにするんだったらいいよ、要らない」
「もう取っちゃったから遅い。社会人がためらう値段でもないよ」
 そして風船をレジまで持っていき、ソフトクリームとソーダフロートも一緒に注文した。
 先に会計を終えた風船だけを園田に渡すと、彼女はどこかまごついた態度でそれを受け取った。
「ありがとう……ごめんね。お金使わせちゃって」
 園田は風船の紐を両手でぎゅっと握り締め、俺に向かって気遣うような笑みを浮かべた。
 当然、俺は首を横に振る。
「約束だったんだから気にするなって。次は何がいい? クッキーか饅頭か、それともペナント?」
「これだけで十分だよ! ずっと大切にするね」
 風船なんて大切にするものじゃない。今はヘリウムガスのお蔭でぷかぷか宙に浮いているけど、そのうちガスが自然と抜けて見るも無残に萎んでしまう。風船の行く末を考えると切なくなる。もうあと何日持つかわからない命だ。
 でも園田は風船の紐を、自分のバッグのベルトに丁寧に巻きつけた。どこかへ飛んでいかないようにする為だろう。もしかしたら持ち帰るつもりでいるのかもしれない。
 それからできあがったソフトクリームを受け取り、俺に向かって声を上げる。
「外で食べようよ、安井さん。藤棚の下涼しそうだったよ」
「ああ、そうしよう」
 次いで俺も店の人からソーダフロートを受け取り、園田を追って店の外へ出た。

 がんがん冷房が働いていた店内と比べると、外気はむっとした熱の塊のようだった。
 それでも緑の藤棚の下はいくらか涼しく、冷たいソーダフロートを味わうのにはちょうどよかった。既に花は散ってしまった後らしく、伸びた蔓の先に若緑色の莢がぶら下がって、温い風に揺れている。
 俺達はベンチに並んで座っていた。俺と園田の間には拳一つ分くらいの距離が空いていた。ソーダフロートを食べようと右手を動かすと、肘が園田のバッグに括りつけられている風船とぶつかるほどの距離だ。
 別に金が惜しかったというわけではないが、この風船に七百円の価値があるとは思えない。だが七百円程度で園田の怒りを鎮め、傷を消してしまえるとも思っていない。もっとできることがあるならしておきたかった。

「他に欲しい物ってないのか?」
 俺は園田に問い、ソフトクリームを食べていた彼女は途端に軽く吹き出した。
「ううん、本当に十分だよ。ペナントとかあっても飾るとこないし」
「この店じゃなくてもいいんだからな。約束したからには何でも奢る」
 念を押すつもりで告げると、園田は目を細めてかぶりを振る。
「もう十分だってば。これで何もかも、なかったことにしてあげる」
 思っていたよりも呆気なく、その宣言をされた。
 園田はもう怒ってないような気はしていた。そうでなければさっきからこんなに笑ってくれてはいないだろう。でもあまりにも簡単に許されてしまったようで、俺はやはり焦った。
「何言ってんだ。こんなんじゃ全然足りないだろ」
「そんなことないよ」
 俺の言葉を笑顔で否定すると、彼女は店の前に停めた借り物のタンデム自転車を振り返る。
「ただ、あの自転車は返さなくちゃいけないからね。よかったらサイクリングだけ、もうちょっと付き合って」
「当たり前だろ。最後まで付き合うよ」
 そう答えた俺に園田はまたあっけらかんと笑んで、それからソフトクリームにかじりついた。

 だが彼女とは対照的に、俺は自分自身の言葉で今日の終わりを意識し始めていた。
 ここに来る前は憂鬱でしょうがなかった。園田が許してくれなかったらどうしようかとそのことばかり考えていた。それが拍子抜けするほど簡単に許されて、戸惑っているのかもしれない。園田はやはり、いつでもこうして明るく笑いかけてくれるような子だ。それがどれほど素晴らしいことか、今日で強く思い知った。
 園田は、いい子だ。
 あれだけ怒っていたのに、あんなに酷いことをして彼女を深く傷つけたはずの俺さえ笑って許してくれた。きっと彼女となら何度喧嘩することがあっても、何度すれ違ったって、最後には笑ってもらえるだろう。こういう子と一緒にいられたら、何があっても幸せだろうなと、今更のようなことを思う。
 そんないい子との縁を、俺の馬鹿で浅はかな打算が台無しにしてしまった。

「この風船つけて自転車漕いだらどうなるかな?」
 園田は明るく弾む声で言う。
「一個くらいじゃ空は飛べないだろうな」
「飛ぶ為につけるんじゃないよ、可愛いだろうなって言ってるの!」
 俺の馬鹿な答えにも屈託なく笑ってくれる、園田が可愛いと思う。
 今日が禊じゃなくて、デートだったらよかったのに。
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