Tiny garden

春にして物思い(3)

 しばらくの間、お互いに黙っていた。
 安井さんは二の句が継げないといったふうで私を見つめるばかりだったし、私は私で彼のただならぬ反応におろおろするしかなかった。
 そんなに驚かせてしまっただろうか。
 むしろこの話は、安井さんにはしちゃいけなかったのかもしれない。
 もしかしたら、すごく傷つけてしまったのかもしれない。
 私の頭の中でぐるぐると、困惑と後悔が駆け巡る。

 何か言おうと口を開きかけた拍子、私達のテーブルに店員さんが近づいてきて、すっと音もなく大きなお皿を置いた。
「お待たせしました。湯葉の包み揚げです」
 タイミングがいいのか悪いのか。私達が黙って会釈をすると、甚平姿の若い店員さんは怪訝な顔をしながら空いた皿を持ち帰っていった。
 そして再び微妙な空気が落ちてくる。
「……あの」
 今度こそ何か言おう。
 何も考えてなかったけど、とりあえず私は声を発した。
 だけどそれに被せるみたいに、安井さんが自分のジョッキに手を伸ばした。いつにない勢いでそれを呷ったかと思うと、半分以上残っていたビールを一気に飲み干しにかかった。
「ちょ、ちょっと、そんな急に飲んで大丈夫!?」
 私が止める間もなくジョッキは空になり、それを卓上に音を立てて置いた安井さんが私を見据える。
「園田!」
「は、はいっ!」
 鋭い声で呼ばれたから返事をすると、彼は大きく息をつきながら言った。
「お前、結婚するのか?」
 問い詰める口調に私はびくびくしつつも答える。
「い、いや、するとかいう段階でもないよ。まだ相手もいないし」
「でも見つかったらするんだろ?」
「うん、まあ」
 そのつもりで婚活をし始めたのだし、とは、この状況だと言いづらい。
「俺との見合いは断ったのに?」
 そう問う安井さんの目が据わっている。
「だってそれは、お見合い詐欺になっちゃうし……」
 私の答えを聞いた彼が、一転して視線を落とす。
「……そうか」
 テーブルに頬杖をついて、吐息のように微かな声で呟く。
「そう、だよな」
 すっかり沈み込んでしまった彼は表情も暗く陰り、運ばれてきた皿には見向きもしない。ジョッキが空になったことも気にしていない。
 何か頼んであげた方がいいだろうか、それとも既にビール二杯目だから、これ以上飲ませない方がいいだろうか。
「な……何か、飲む?」 
 とりあえず、恐る恐る尋ねたら、安井さんは目元の赤くなった瞳を私に向けた。視線がこちらに向いていることはわかるのに、暗く澱んだように見える眼差しだった。
 そして唇を動かし、ぽつりと言った。
「寂しい」
 短い一言が、私の胸に音を立てて突き刺さる。
「え……」
「寂しいよ、お前が結婚したら」
 安井さんはためらいもなくはっきりと言う。
 おかげで心がざわめいた。目を逸らしたくなる、でも逸らしてはいけないと思う一瞬。
「霧島が結婚して、石田も結婚したいって言ってる。おまけに園田までなんて、そうしたら俺は本当に独りぼっちだ」
 深い孤独を嘆く言葉は以前も聞いた。
 だけど今はその中に私の名前もある。まだ可能性としてだけど。本当に結婚できるかどうかなんてわからないけど。その気になって探せば、きっと安井さんの方が先にそれらしい相手を見つけて、私より早く結婚してしまえるはずだけど――。
「それに、苦しい」
 言葉の通り苦しげに告げられた。
「お前が作った料理を、俺じゃない他の奴が食べて、美味いって言うのかと思うと」
 そしてその言葉は、当然私にとっても酷く苦しいものだった。
 息が詰まった。
「お前が、俺じゃない奴のものになるのかと思うと……」
 それは何だかまるで――愛の告白でもされているみたいだ。
 そういう台詞、みたいに聞こえた。
 昔すごく好きだった人から告げられるその言葉を、冷静に受け止められるだけの余裕なんて私にはなかった。思わず身体が震えたのがわかったのか、安井さんもそこではっとしたように言葉を止め、それから目を伏せる。
「悪い、口が滑った」
「う、ううん……別に」
 別にいい、とは言えなかったけど。
「わかってるんだ。ただの嫉妬だって」
 安井さんはそう言うと、自嘲気味に薄く笑んだ。
「よくあるだろ、こういうの。――明け透けに言えば、ずっとフリーだと思って安心しきってた元カノに急に男の影が見えて、それで妙に気になって焦り出して、もう自分のものでもないのに取られたような気になってる。そういう、よくあるくだらない嫉妬だ」
 吐き捨てるような言い方をしたかと思えば、急に冷静になったように、
「だからお前は気にしなくていい。聞き流してくれ」
 難しい注文をしてくるから困る。
 実際、そういう嫉妬はよくあることだ。私だって他人事じゃない。もし安井さんに彼女がいたら、そのことを予期しない形で知っていたら、私もこんなふうにへこんでいたかもしれない。
 そのくらいのことはいくらでも考えられたはずなのに、何で馬鹿正直に打ち明けちゃったんだろう。
「ごめんね、言うべきじゃなかった」
 私は素直に彼に詫びた。
「すごく無神経なこと言ったと思う。こういうこと、もっと気をつけて話すべきだったのに」
 だけど安井さんはかぶりを振る。
「いや、何も知らないまま結婚だけ知らされてた方がショックだったと思うから、いい」
「……そうかな」
「ああ。できれば今後も知らせてくれる方が嬉しい」
 そう言ってから、彼は店員さんを呼び止めて新しい飲み物を頼む。
 園田は、と聞かれたから私もお替わりを頼んで、二杯目のビールはさっさと飲みきった。

 そして新しい飲み物が運ばれてくると、安井さんは淡々と尋ねてきた。
「婚活ってどんなことしたんだ」
 私もその問いに、なるべく普段通りに答えた。
「ええと、パーティに行ったんだ。お金払って大勢と話をする感じの」
「お見合いパーティってやつか」
「そんなとこ。言った通り、予感もないくらい全然駄目だったけどね」
「それで料理のこととか、誰かに言われたのか?」
「言われたんじゃないけど……得意料理を話したら引かれた。もう音がするくらいにさーっと」
 そこまで語ると安井さんは小馬鹿にしたように笑った。
「美味いのに。何にもわかってないな、そいつ」
「あと趣味の話も引かれた。ロードバイクって言うと、浪費してるって思われるみたい」
「お前の金だろ。どう使おうが、他人に文句言われる筋合いないだろ」
「うーん、でも貯金がある方がもてるって聞いたよ。堅実な人の方がいいみたい」
「所詮金ってだけだ。宝くじでも当てとけよ、この上なくもてる」
「そりゃまあそうだけどさ……。せっかくだから将来見据えて、いくらか貯めとこうと思って」
 でも将来のビジョンもないのに、まだ見ぬ未来の旦那様の為というだけで貯金を頑張れるだろうか。どんな人と結婚したいとか、どんな家庭を築きたいとか、全く思い浮かばないっていうのに。
「やったところで実になるかどうかはわからないけどね」
 私が言い添えると、安井さんは慰めるように私の前へ皿を差し出す。
「とりあえずほら、これ食べろよ。お前には豆腐料理が一番似合うよ」
「あ、ありがとう……。安井さんも食べようよ、せっかくだから」
 そして二人で湯葉の揚げ包みを食べた。からっと揚がっていて、さくさくとした歯応えで美味しかった。中身は海老のすり身が入っていて、こちらはふかふかだった。
「いざとなったら見合いって手もあるだろ。小野口課長に頼んで」
 食べながら安井さんがそんなことを言った。
 私は苦笑して首を捻る。
「それはちょっと……。したことある人に聞いたけど、気まずかったって言ってたよ」
「俺はお願いするかもしれないと思ってるよ」
「え? 安井さん、お見合いするの?」
 してみたいって言ってたし、興味あるのかな。聞き返してみたら、安井さんはまだ迷うような笑みを見せていた。
「万策尽きたらな。もしかしたら、試してみるかもしれない」

 ビール三杯で切り上げて、居酒屋を出た。
 ほろ酔い気分の身体に、五月の夜の風が心地いい。五月晴れの言葉通り空には雲一つなく、空には爪の先みたいに細い三日月が輝いている。
「駅まで送る」
 安井さんがそう言って、私は頷く。
「うん」
 喧嘩をしたというわけではないけど、ほんのちょっとだけ気まずいと言うか、微妙な空気が漂っている。
 もちろん一緒にいたくなくなるほどじゃない。むしろもう少しだけ話をして、この気分と微妙な空気を晴らせたらと思うくらいだったけど――。
「園田、一ついいか」
 歩き出しながら安井さんが口を開く。
 右側を歩く、少し背の高いその横顔に目をやった瞬間、私の右手が軽く握られた。
 握ったのはもちろん、彼だった。
「えっ!? な、なな、何で?」
 思わず手を引きかけたけど、その程度では解けなかった。
 でも何で、急にこんなこと。
 突然の出来事にうろたえる私を、安井さんが目の端で見る。
「嫌なら言ってくれ。嫌じゃないなら、少しだけ。駅に着くまででいいから」
「い、嫌とかそういう問題じゃないよ。私達は――」
 私の反論は上擦っていた。
 それを遮り安井さんは言う。
「わかってる。それでも繋ぎたかったんだ、頼む」
 その『頼む』は、もちろん嫌じゃなければという前提の下に告げられたものだ。

 嫌だったわけじゃない。
 でも、どうしていいのかわからなかった。
 ほんのり温かい安井さんの手がとても懐かしい感触をしていたからだ。大きな手のひらは思ったよりも肉厚で、なめらかなのに硬い。指の関節のごつごつした感覚もよくわかる。
 覚えている。
 でもあの頃はこうして外では手を繋がなかった。手を繋ぐのは車の中か、私の部屋に来てもらった時だけだった。それでも手を繋げたことが嬉しくて、時間の許す限りこうしていようと思った。

 今は、外で手を繋いでる。駅までの、決して人通りが少ないとは言えない道を。空に三日月が浮かぶ春の夜道を、手を繋いで歩いている。
 嫌じゃない。ただすごく、苦しい。心臓がどきどきしている。昔みたいに。
 今は好きな人じゃないはずなのに、こんなにも単純に、どきどきしている。

「……どうして、手なんて繋ぐの」
 歩きながら私は尋ねた。
 顔を上げることはできなかったから、安井さんがどんな反応をしたかはわからない。
 でも、声は穏やかに答えてくれた。
「思い出したかったから。昔のことを」
 何の為に。
 そう聞きたかったけど、もう言葉にならなかった。
 私が声を出せない分まで、わかっているみたいに彼は打ち明けてくれた。
「あの頃のことを思い出したら、今の気持ちもはっきりさせられるような気がした」
 安井さんは思い出したがっている。そのことだけは、私にもはっきりわかった。思い出してしまって本当にいいのか、それが正しいことなのかはわからなかったけど。
 なかったことにしてきたはずの記憶が、今、掘り起こされようとしている。
 なくなってはいなかったから、簡単に蘇ってしまう。
「それに思い出話なんかするよりも、身体の方が覚えてるってこともあるだろ」
 そう言うと、安井さんは私の手をぎゅっと、力の限りに握った。
 手よりも心臓の方が、掴まれたみたいに痛んだ。

 駅に着くと、約束通りに手は離された。
 私はすっかり赤い顔をしているに違いなくて、おかげで別れ際まで安井さんの顔が見られなかった。
「ありがとう、園田。またな」
「……うん。またね」
 覚束ない別れの挨拶の後、せめて後ろ姿くらいは見送ろうかと恐る恐る視線を上げたら、安井さんもちょうど私の顔を見ようとして、身を屈めて覗き込んできたところだった。
 距離を詰めてきた顔の近さに息を呑むと、彼は安堵したように笑う。
「よかった。お互いに覚えてたんだな」
 そう言い残して、彼は本当に踵を返す。
 そして私は過ごしやすい五月の夜風に当たるべく、一人でふらふらとホームを目指す。
 頭の中はこんがらがった思いで溢れ返っていて、何だか上手く考えられそうにないのに、延々と考えてしまう。
 どうして、安井さんは思い出そうとするんだろう。どうして、私は覚えているんだろう。
 心地いいはずの春の夜なのに、物思いに耽りたくなる。

 もしかすると。
 なかったことだと思っていたのは、私だけだったのかもしれない。
 繋いでいた手に残った微かな記憶は、確かに、身体が覚えていた。
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