Tiny garden

春にして物思い(2)

 ぱっとしなかったパーティの翌日、今度は安井さんと会う約束をしていた。
 待ち合わせは駅ビル前に午後五時だ。晩ご飯を食べつつ飲もうということで、行き先は居酒屋と決まっていた。だから私も着慣れないワンピースなんかはやめて、パーカーにジーンズというラフな格好で出かけることにした。

 人目につくかもしれないところで待ち合わせるのは初めてだった。
 付き合っていた頃は誰にも秘密にしていたから、休みの日に会う時も誰にも見つからないようにしていた。安井さんが私の部屋まで車で迎えに来てくれて、それからどこかへ出かけたり、あるいは私の部屋に上がってもらったりしていた。
 いつかは公にしたい、こそこそ隠れなくてもいいようにしたいってお互いに言い合ってたけど、そんな日は来なかった。焦って早めに公表することもなくて本当によかったと思う。
 そして別れてから時が経って、こうして人目も気にせず待ち合わせをしようとしてる。一応、誰かに見られたらまずいんじゃないのって私は言ったけど、安井さんには『何か問題あるか?』の一言で返された。
 だから私も、そんなもんかな、と思っておくことにした。

 五月ともなると日が沈むのが遅くなり、五時前くらいじゃ全然明るい。
 待ち合わせ場所には私の方が先に着いた。ちょっと早く来すぎたから、駅ビルの風除室でイベント情報を見たり、何冊かあるリーフレットを眺めて過ごす。
 そのうちの一冊に料理教室の案内があって、興味を持って目を通してみる。
 忙しい社会人の為の料理教室、チケット制でいつでも空いている日に参加できます――そんな誘い文句が小さな紙面に躍っている。
 料理教室か、いいかもしれない。通いたくても平日は時間がないし、だからって休みの日を毎週拘束されるのもきつい。こういうふうに気ままに通える教室なら私にも向いていそうだ。
 人に聞かれた時、胸張って答えられるような料理を作れるようになっておきたい。昨日のことを教訓に、そう思っていた。

「園田」
 リーフレットと睨み合っていた私を、意外と近くから安井さんが呼んだ。
「わっ」
 驚いて思わず声が出た。
 顔を上げたら、目の前に彼が立っていた。勝ち誇った表情で私を見ている。
「ここまで近づいても気づかないとか、どんだけぼうっとしてるんだよ」
「殺気が消えてたからわからなかったんだよ。安井さん、忍者になれるね」
「俺が普段は殺気立ってるみたいな言い方を……で、そんなに熱心に何見てたんだ」
 安井さんが私の手元を覗き込む。
 私も彼によく見えるよう、リーフレットを軽く持ち上げた。
「料理教室の案内。習ってみようかなって思ってて」
 すると安井さんは、怪訝そうに眉を顰める。
「お前、料理できただろ。今更習う必要あるのか?」
「できるはできるけど、我流だからね。自分の好きなものしか作れないって言うか」
 私のレパートリーは食べたい物中心なので、豆腐料理ばかりだった。
 冷たい豆腐をご飯に載せ、だしをかけつつ崩して食べるぶっかけ丼は主に夏用のヘビロテメニューだし、厚揚げをバター醤油でソテーする丼は気合を入れたい用のスタミナメニュー。アボカドと一緒に衣をつけて照り焼きにするのもすごく美味しくてご飯が進む、お気に入りの献立だ。
 でも、どれも他人に振る舞うようなメニューではないかなと、今更ながら思わなくもない。男の人は肉とか魚とかの方が好きそうだし、もっとポピュラーな料理を作れた方が可愛いんじゃないかって思う。女として。
「何でも作れるようになっておきたいって考えてたとこだから、そしたら人に習う方が手っ取り早いじゃない?」
 そう言いながらリーフレットをバッグにしまうと、安井さんは釈然としない顔をした。だけどその視線が私の服装に及び、その表情がふっとほころぶ。
「今日はパーカーか。思ったより可愛い格好してきたんだな」
 言われて私も安井さんを見る。そして、しまったと思う。
 彼は白いシャツの上に青いカーディガンを羽織っていた。すっきりしたラインのベージュのチノパンに同系色のブーツを合わせたきれいめコーデの隣に、パーカー及びジーンズの私が並んだらちょっと微妙かもしれない。居酒屋って言うから、もっとカジュアルな格好してくるかと思ってた。
「何着てくるか聞いとけばよかった」
 私の率直な感想に、彼は軽く吹き出した。
「別におかしくないよ。園田の私服は新鮮だから、何着てても可愛く見える」
 安井さんは何を着てきても誉めてくれる。昨日着ていたあのシャツワンピも、もともとはデート用にと慌てて購入したもので、初めて着た時はあまりにも自分らしからぬ格好に思えて恥ずかしかったけど、安井さんには誉めてもらえたから安心できた。
 それももう昔の話だ。
「新鮮ってほどかな……いつも私服で通勤してるじゃない」
 その言葉に異を唱えると、安井さんは勤務中とは違う穏やかな顔で考え込む。
「いつものは私服ってより、ユニフォームって感じだよな」
「あ、それちょっと格好いい言い方かも」
「可愛いって言われるより、こっちの方が嬉しいのか。難しいな園田は」
 安井さんは苦笑して、そろそろ行こうと私を促した。
 二人で駅ビルを出る。程よく距離を開けて並んで、目当ての店まで歩いていく。

 連れて行ってもらったのは繁華街の一角に建つ、創作料理の居酒屋だった。
 内装も店員さんの服装も和風一色の店内は、まだ客入りも少なく落ち着いた雰囲気だ。足が痺れない掘り炬燵の席がありがたい。
「ここの湯豆腐がすごく美味いって評判なんだ。だから園田を連れてこようと思った」
 安井さんは私の食べ物の好みをわかっている。
「やっぱりお酒飲む時は豆腐だよね。冷たいビールに温かい豆腐とか最高だよ」
 まずは湯豆腐を半丁ずつ、それからお互いにビールを頼む。
「あとは何にしようかな。他にお薦めとかある?」
「湯葉の包み揚げもいいらしい。頼んでみよう」
「それいい、食べたい!」
 二人でメニューを覗き込み、とりあえず美味しそうなものをいくつか注文した。お通しとビールはすぐに出てきて、とりあえず乾杯を済ませた。

 直に湯豆腐も到着した。半丁といってもそれなりにボリュームのあるサイズで、ひたひたにだし汁を張った器の中に収まっている。薬味は付属の小鉢に入れられていて、刻みねぎも生姜もお好みに合わせてどうぞということらしい。
 私は薬味は遠慮せずたくさんかける方なので、ねぎも生姜も容赦なく乗っけた。どっしりした木綿豆腐は温めてあるからか、豆腐そのものの味がより濃く出ていて美味しかった。
「美味しい湯豆腐って幸せになれるよね」
 私がしみじみ語ると、同じく湯豆腐を頼んだ安井さんが口元を緩める。
「評判通りの味だったな。時期的にもぎりぎりだし、今のうちに来られてよかった」
 彼も見るからに美味しそうに食べていたし、お互いビールも進んで早々に二杯目を頼んでいた。
「あ、そうか。もう五月だもんね。今誘ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
 いつの間にやら春も終盤戦に入ってしまった。もうじき夏が訪れるし、梅雨だってやってくる。大人になってからというもの、月日の流れるスピードには目が回る思いだった。
「仕事はもう慣れたか?」
 安井さんのその問いにも、先月よりは少しましな返事ができそうだった。
「うん、何とかね。まだようやく一ヶ月ってとこだけど」
 この一ヶ月はどちらかというと仕事を覚える為の、いわば入力期間だった。そうやって貯め込んだ知識と八年分の経験とをこれからいかにして出力していくか、その真価が試されるのはこれからだ。
 だけどとりあえず、異動したての頃のお客様感はなくなってきたかな、と思っている。東間さんとはすっかり仲良くなれたし、課長とも上手くやっていけそうな気がするし――あれからお見合いについては何も言われてない。きっと安井さんが上手いこと返事をしてくれたんだろう。
「異動って思ってたより単純でもなかったけど、とりあえず人間関係が上手く行ってればどうにかなるなって思ったよ」
 私が一ヶ月間を総括する感想を述べると、安井さんはほっとした表情を見せた。
「安心したよ。園田ならどこ行っても上手くやると思ってたけど」
 やっぱり心配してくれていたみたいだ。ちょっと嬉しくなる。
 何てお礼を言おうかな。考えながら湯豆腐をつついていたら、安井さんがふと続けた。
「ああ、それで料理教室なんて言い出したのか?」
 ちらりと視線を上げれば、納得したように頷くのが見えた。
「仕事に慣れてきて余裕ができて、何か習い事でもしようって気になったんだろ。園田のことだ、何に影響されたのか知らないけど、思いつきでそういうこと言い出しそうだもんな」
 さすがは安井さん、鋭い。
 伊達に入社当時から顔合わせてきた間柄じゃないな。別に知られてまずいことではないんだけど、正直に言うのは恥ずかしい。
「でもさ、料理くらいはできとかなきゃって思わない?」
 私は半笑いで聞き返す。
 安井さんは不思議そうな顔で応じる。
「だから、料理はできるだろ。お前の作った……あの、焼いた厚揚げがご飯の上に載ってるやつ。あれはすごく美味かったよ」
「厚揚げソテー丼だよ」
「そうそれ。あと、崩した豆腐載せた奴も」
 そこまで語ると思い出したように、喉を鳴らして笑い出す。
「初めて出された時は何だこれって思ったけど、食べてみたら美味かったからさ。園田はちゃんと料理できる子なんだなって思ったよ」
 笑う安井さんに他意はないようだけど、さらりと出された思い出話には胸が痛んだ。
 覚えてるんだなあ、そういうこと。

 確かに安井さんには手料理を披露した――してしまった、ことがある。
 でも付き合ってた頃の話を普通にされると居心地が悪い。なかったことになってる現実と思い出に齟齬ができてしまうからだ。安井さんもお酒が入って、ガードが緩んだのかもしれないけど。
 それに今となってはよくもあんな見栄えの悪い手料理を――それもべた惚れだった彼氏相手に出したものだと思います。

「人に話したら、微妙な反応されたから。何かもうちょっとまともに作れるようになりたくなって」
 私は溜息と共にそう告げた。
「やっぱり豆腐とか、丼とか、男の人からすれば微妙なのかなって気がするんだよね。ご飯、味噌汁、肉じゃが! みたいなのまでしっかり作れて初めて『料理できる』って名乗るべきなんじゃないかなと――」
「俺はそうは思わない」
 安井さんが、急に語気を強めて私の言葉を遮る。
 はっとした次の瞬間には、彼の表情から笑みが消えていた。
 強い視線をテーブル越しに向けられると、それまで漂っていた和やかな空気が雲散したように思えた。私が呆気に取られていると、安井さんはこちらに視線を留めたままジョッキを取り上げてビールを数口飲んだ。
 それから息をつき、低く切り出された。
「園田。その話、誰から言われた?」
「え? いや、誰からってわけじゃなくて」
 安井さんは、真理を見極めようとする鋭い眼で私を見ている。
「お前、まさか男ができたのか」
 次いでぶつけられた質問に、私は半笑いで答えた。
「できてるはずないよ。悲しいくらいそんな予感もないよ」
「本当だろうな」
「本当だってば。見栄張れるものなら張りたいよ……」
 できてないからこそ料理しようとか、貯金しようとか思ったんだけどな。
 その後もしばらくの間、安井さんはいきなり呼び止めて職務質問をする警察官のような視線を向けてきた。
 だけどやがて、何らかの結論に至ったらしい。むっとした顔のまま深く息をついた。
「……何だ、気のせいか」
 それからようやく表情を和らげて、私に向かって少し笑む。
「びっくりしたよ、園田に新しい彼氏ができたのかと思った」
「できてたらよかったんだけどね。全く予定にもないです」
「そうか。それなら別にいいんだけどな」
 安井さんは笑いながらまたビールを飲む。
「もし本当にできたらその時は俺にも知らせろよ。そしたらこんなふうには誘えなくなるんだから」
 私もビールを飲みながら、そういえばそうだなと思う。

 と言うか、婚活でいい感じの人が見つかったら、その後はどう話が進むんだろう。
 普通の恋人同士みたいにお付き合いをすることになるのかな。それともそういうのすっ飛ばして、結婚についてすぐ話し合い始めるものなのかな。今度、東間さんに聞いておこう。
 ともあれそういう相手を見つけた場合、安井さんとこうして飲みに出かけることはできなくなる。当然のことだ。
 だったら今のうちに、そういう可能性はなくもないということを――少なくとも私はそういう可能性を模索し始めている段階だということを、伝えておいた方がいいのかもしれない。

「あのさ。彼氏はできてないんだけど」
 私はジョッキを置くと、姿勢を正して口を開く。
 久し振りに見る私服の、そして短い前髪を下ろした安井さんが目を瞬かせる。
「何だよ。まさか……彼氏はいないけど好きな奴ならいる、とかか」
「そういうわけでも全くないんだけど」
「じゃあ何だ。もったいつけずに言えよ」
「う、うん。実はね」
 私は恥じ入りつつ、まだ言い慣れないその単語を告げた。
「婚活、を始めたんだよね、私……」
 賑やかになりつつあった居酒屋の店内にあって、私達のテーブルだけがその一瞬、水を打ったように静まり返った。
 そして直後、
「はあ!?」
 安井さんが、珍しく声を裏返らせた。
 あたふたとこちらに身を乗り出すようにして、
「婚活って誰が。園田が?」
「そ、そうだよ。似合わないかな?」
 結構驚かれたみたいなので、私まで戸惑ってしまう。
「似合うとか似合わないとかそういうことじゃなくて……」
 安井さんは愕然とした様子で呟くと、更に尋ねてきた。
「本気なのか?」
「う、うん。一応ね」
「何で?」
「いや、何でって……結婚したかったからだよ」

 その話は、二月に飲んだ時もしていたはずだ。
 なのに安井さんは頬でも叩かれたような顔で、私を見ていた。
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