Tiny garden

写真は嘘をつかない(1)

 結局、五月は物思いをするばかりで終わってしまった。
 考えていたのはもちろん安井さんのこと、そしてあの夜のことだ。

 だって、手!
 手を繋いでしまった。しかも外で。
 付き合っていた頃でさえ、こんなことなかったのに。

 安井さんはどういうつもりで、思い出したいなんて言って、私と手を繋いだんだろう。
 普通に考えて、何とも思わない相手と手を繋いだりはしないはずだ。
 でもそれは私の側だって同じだ。何とも思わない相手だったら、手に触られること自体が嫌だ。あの夜嫌だと思わなかった時点で、そしてはっきりと拒まなかった時点で、私は正直な気持ちを彼に自白したようなものだ。
 今でも嫌いなわけではない、嫌いになったから別れたわけではない、そして今も覚えてる――そういう気持ちは全部、安井さんに知られてしまっただろう。

 五月中にも安井さんは、何度かメールをくれた。
 あくまで当たり障りのないご機嫌伺いのメールだったけど、また飲みに行こう、考えておいて欲しいと添えられていて、私はそれに『考えとくね』と返事をしていた。
 しかし本当に、考えておかなくてはならない。
 それでなくても私は、二十八にもなって元好きな人と手を繋ぐくらいで一ヶ月もうんうん悩んでいるような人間だ。このくらい友達同士でもするよとか、ちょっと気分盛り上がって流されてしまっただけとか、そういうふうには断じて割り切れない。まして安井さんと今後も会って昔のことを思い出しつつ、婚活にも励んで新たな出会いを探すなんていう器用な真似ができるはずもない。
 考えるのは苦手だけど、それでも真剣に考えなくてはならない。

 そんな物思いの日々の間にも、当然だけど仕事はある。
 広報課に配属されてから三ヶ月目、六月に入ってすぐ、私は小野口課長から相談を持ちかけられた。
「次回の社内報の企画、『あの時君は若かった』ってテーマはどうかな?」
 広報の仕事は一言で言えば、内外への発信業務だ。
 社外には我が社の業務内容や商品開発、企業姿勢といった情報を、社内には各部署の取り組みやニュースなどを発信する。その業務のうちの一つが社内報の製作だった。
 我が社の社内報も昔、私が入社した直後は紙に印刷したものが主流だったんだけど、今では完全にイントラネットに移行済みだ。そのせいか紙の頃よりも作り方が変わったと小野口課長が仰っていた。紙の頃は細かい字でずらずらっと情報を載せていても何となく読んでもらえたけど、ネットに移ってからはよりインパクト勝負、まず視覚に訴えるレイアウトが重要になった。
 そして硬すぎず柔らかすぎない内容であることも肝要。一つくらいは皆が楽しめるようなコーナーを設けて、とりあえず目を通してもらえるような仕様にすることを心がけているそうだ。
 そこで小野口課長が出してきた企画というのがこれだ。
「勤続年数が一定以上の社員から入社当時の写真をお借りして、現在の写真と並べて載せる。若かりし頃の瑞々しい姿と貫禄が出てきた今の姿のギャップが面白いだろうし、インパクトもあるよ」
 課長はちょっと得意げにしている。
 まあまあ面白いんじゃないかなと頷く私の横で、東間さんが苦笑した。
「課長、企画自体はいいですけど、そのテーマ古くないですか? 多分園田ちゃん、元ネタ知らないですよ」
「えっ、元ネタなんてあるんですか?」
 私が聞き返した途端、小野口課長がみるみるしょげた。
「そうか、若い子にはわかんないのか……」
 私もそれほど若いってほどじゃないんだけどな。ちなみに元ネタは昔流行った歌だそうだ。

 ともあれ企画自体には問題ないということで、私達は勤続年数が二桁以上のベテラン社員に声をかけ、入社当時の写真をお借りし、更に現在の写真を取らせていただくという作業に奔走した。
 とは言え入社当時の写真を取っておいてある社員はそう多くなく、あっても引き伸ばして載せるとピンボケしちゃうような集合写真だったりと、なかなか条件に合うものが揃わなかった。
「こうなったら足りない分は身内で済ませるか」
 進捗状況を聞いた課長はとうとうそんなことを言い出し、自ら入社当時の写真を持ってきた。
 今でも男前の課長は若かりし頃もさぞかし素敵だったのだろうと思いきや、古い写真に写っていたのは髪をぴっちり七三分けにしてごっつい眼鏡をかけ、スラックスの裾から白い靴下を覗かせた野暮ったい青年だった。私と東間さんはその写真を見て、思わず愕然とした。
「こ、これが小野口課長ですか……?」
「嘘、何がどうなって今のお姿に……?」
「若い頃はファッションとか何もわからなくってね。妻と出会ってからいろいろレクチャーを受けて、どうにかまともになれた気がするよ」
 照れながらも惚気る課長に、私達は恋の偉大さを見た。
 人の見た目さえ変えてしまうのだから、上手くいった恋とは全くもって素晴らしい。

 そうして揃えた写真を取り込んでレイアウトを考え、記事にしていく。
 しかし写真の集まりが悪かったせいか、できあがった記事には誰の目にも明らかなほどパンチがなかった。
「もうちょっとユーモアのある企画になると思ったんだがなあ。思った以上に普通だな」
 発案者にして目下一番のインパクトの持ち主である小野口課長は不満げだった。
 もちろんその不満は他の広報課員も同じように持ち合わせていて、期日までまだ間もあるからともう少し考えてみることになった。
「いっそ勤続年数の縛りをなくして、広く写真を募ってみましょうか」
「その方がいいかもな」
 東間さんと話し合った課長は、すぐに私へと目を向けた。
「そういうわけだから園田さん、入社当時の写真なんて持ってる?」
「私ですか!?」
 まさか自分にお鉢が回ってくるとは思いもしなかった。
 しかしながら入社九年目の私は小野口課長ほど劇的な変化もないどころか、入社当時から髪型も体型も変わらず、先日の健康診断で量った体重もここ数年と比較して大きな増減なしだった。顔もさほど変わらぬ丸顔のまま暢気に笑っている写真を自室で見つけて、その代わり映えのなさ、間抜け面っぷりに自分でびっくりした。
 一応はと写真を持っていったところ、課長にも東間さんにもやはり微妙な反応をされた。
「園田さん、変わんないなあ。本当にこれ、八年前の写真?」
「そうです。ある意味ネタ枠に使えませんかね」
「ネタ枠にするならもうちょっと比べようがないとね」
「ですよねー……」
 一目見た際のインパクトを求める社内報には向かないということで、私の写真はあえなく没になった。それでなくとも広報から二人、というのはいよいよ内輪で楽しんでいる感があってよろしくないと判断されたのもある。
 かくして我々はもう一枠、インパクトのある写真を持つ社員を探し当てるか、現状で妥協してこのまま公開するかという二者択一を迫られた。

 期日は近い。あまり悩んでいる暇もない。そして悩んでいる間にも他の業務はある。
 さてどうするか。

「はあ……」
 私がついた溜息は、午後三時の社員食堂に響いた。
 こんな時間じゃ厨房は空いていないし、他の利用者は休憩がてら飲み物を飲んでいる社員が二、三人いるだけ。これから弁当を食べようなんていう私の方が場違いな、静かな空間だった。
 社内報の件に時間を取られて、昼休憩がずれ込んでしまった。そして休憩に入ってお弁当を食べながらもまだ悩んでいた。
 何せ今回の社内報は、私が初めて本格的に製作に携わるものだ。よりよいものを作りたいという思いはある。だけど完璧主義を貫いて、他の業務にまで差し障るようでは本末転倒だ。社内報自体、読んでくれる人は熱心に読むけどそうでもない人もいるという立ち位置だけに、そこまで根を詰める必要あるのかと聞かれればそうでもないはずだった。
 ちょっと思い入れが加速しすぎているのかもしれない。

 妥協も悪いことじゃないよね、とお弁当をつつきながら考えていると、社員食堂の入り口に見覚えのある姿が現われた。背が高くて体格のいい、スーツ姿の男性社員だ。
 つり目がちな目元がこっちを見て人懐っこく笑う。
「お、園田。こんな時間に昼飯か?」
 そう声をかけてきた石田さんも、カップ麺の容器を手にしていた。
 ポットからお湯を入れて割り箸を取り、六人掛けテーブルを独り占めしていた私の真正面に椅子を引いて座る。
「石田さんだってこれからお昼でしょ?」
 私が聞き返すと、石田さんは腕時計を見ながら答える。
「まあな。新人構ってたら遅くなった」
「営業は今年度も新人さん入ったんだっけ」
「おう。今年も俺が教育担当」
 今や営業課主任の石田さんはそう言って肩を竦めた。
「先に休憩入れて、今は簡単な雑用させてる。だからこれ食ったらさっさと戻んないと」
「うわ……そっちも忙しいんだね」
「園田はもう慣れたか? 広報の仕事も面白そうだよな」
「面白いけどね。どこも暇じゃないな、っていうのは痛感してる」
 忙しいのは誰だってそうだ。私だけじゃない。一つの作業にかまけている場合でもない。それもわかっているんだけど。
 上手いこと割り切れないのは私の悪い癖だ。とりあえずお弁当を片づけてから、お茶でも飲んで考えよう。
「へえ、園田って弁当作ってきてんのか。偉いな」
 ふと気づくと、石田さんが興味深げに私のお弁当を凝視していた。
 メインのおかずを指差して尋ねてくる。
「これ美味そう。鮭?」
「そうだよ。鮭のチーズピカタ」
「何かすんげえ高尚なメニューに聞こえるな。美味い?」
「まあまあ。と言うか、料理としてはそう難しくないよ」
 私の説明を聞いているのかいないのか、石田さんのお弁当を見る目は随分と物欲しそうだ。カップ麺の蓋を開けながら、改まったように言われた。
「なあ園田。俺はこの通り、弁当を買いに行く暇もない寂しい食生活なんだ」
「そうらしいね、見ればわかるよ」
「一口分けてくれたら、俺はお前が鬼退治行くって時に快くついていくぜ。猿のポジションで」
「鬼退治に行く予定はないけど、いいよ。恵んであげよう」
 私はお弁当箱を差し出し、石田さんは割り箸の先で鮭のピカタを一つつまんだ。そしてふわふわした衣のそれをひょいっと口に運ぶと、ちょっとびっくりした顔で言った。
「まあまあどころか超美味いよ、これ」
「ありがとう」
「よかったな園田。これで鬼退治のメンツは問題なく集められるぞ」
 だから何で鬼退治だよ。

 石田さんは昔からこうで、とにかく人を茶化してからかうのが好きな人だ。
 入社当時から見ればすっかり大人になって、見た目には主任らしい凛々しさも備えているというのに、中身の方は全く変わっていないのが石田さんらしい。
 まあ私も、変わってなさ加減では他人のこと言えないけど。

「そこは冗談でも『いいお嫁さんになれるぞ』って言ってくれるとこじゃないですかね……」
 私がぼやくと、石田さんはカップ麺を啜りながらきょとんとした。
「何、お前、花嫁修業でもしてんの?」
「当たらずとも遠からずって感じ」
「どっちだよ」
「作ってあげる相手はいないけど、できた時の為に料理習ってるの」
 プライベートで悩んでいる間にも、料理教室には通い始めていた。
 何にもしないのももったいなく思えたし、何かすれば現状が打破できるような気がしたからかもしれない。それを前進と呼ぶか、それとも現実逃避と呼ぶのかは私にもわからないけど。
「料理教室通って、習ったメニューをおさらいしてみたのがこれ。美味しいならよかったよ」
 そう告げる私を、石田さんは訝しそうに見ている。
「いや美味かったけどさ。せっかく習っといて、何でそんな微妙な顔なんだよ」
「正直、習ったはいいけどあんまり好みの味じゃなくて」
 嫌いというほどではないけど、美味しくなくもないんだけど、自発的に作ろうとは思わない感じのメニューだ。
「自分の好きなものじゃないとさ、こう、覚えがいも作りがいもないって言うか」
「ああ、そりゃあるな。やっぱ好きな人の為にっつって料理学ぶのが一番可愛いよな」
 石田さんがもっともらしく語る。
「だから園田も、まず彼氏なり何なり作ってから、そいつの好きな献立でも習えばいいんじゃね」
 つまり私は手順からして間違ってたってことだろうか。
 でもこの間みたいに、先に得意料理を聞かれる可能性だってあるわけだし、その辺は難しいな。どっちが先にあるべきなんだろう。
「鶏が先か卵が先か、みたいな話だね」
「確かにな。それか、お前と食べ物の好みが合う奴でも見つけるかだな」
 食の好みは確かに大事だ。豆腐嫌いの人となんて結婚したくはない。
 なるほどなと私が頷いていると、カップ麺の中身を半分まで減らした石田さんが尋ねてきた。
「お前の好きな食べ物って何だよ」
「豆腐」
「へえ、そうなのか」
 納得したような声の後、
「じゃあ園田、安井と付き合えば?」
 石田さんが口にした名前に、私は危うくピカタを喉に詰まらせるところだった。
 慌てて飲み込んで、表向き平静を装いながら聞き返す。
「……何で安井さん?」
「だってあいつ、豆腐好きだからな。一緒に飲みに行くと冷や奴とか豆腐サラダとかよく食ってる」
 それは知らなかった。
 昔は、別に嫌いでもないけどって言っていたはずなんだけど。
「何だかんだでお前ら、結構相性よさそうだし」
 そこで石田さんは思い出し笑いでもしたのか、にやにやし始めた。
「そう言えば何度か思ったことあったんだよな。こいつら付き合ってんじゃねえの、みたいな」
「ないない。適当なこと言うと、安井さんにも悪いよ」
 ひやりとしながら私は否定する。
 内心、いつどんな根拠から石田さんがそう思ったか問い詰めたい衝動に駆られていたけど、薮蛇だろうからぐっと堪えた。
「本当に作ってやったことねえの? 豆腐料理」
 つり目がちな石田さんが探るような、鋭い視線を向けてくる。
「あるわけないって」
 私は当然否定する。

 だけど、石田さんは思ったより鋭い人だ。
 もうかれこれ八年以上同期として顔を合わせてきたし、特に安井さんとは親しい付き合いがある人だ。ちょっとした変化を察して怪しまれたことくらいはあるのかもしれない。気をつけよう。
 気を引き締めた私が顔を上げた時、社員食堂にまた一人、見覚えのある人物が入ってきた。

「あれ、園田もいたのか。石田だけだと思ったら」
 安井さんだった。
 驚きを顔に出すまいと必死の私に、石田さんが平然と語る。
「ああ、言い忘れてた。さっき安井と廊下で会って、後で来るっつってたんだよ」
 本当に言い忘れだろうか。
 突っ込んでやりたかったけど、それこそ薮蛇だろうからやめた。
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