Tiny garden

パライソを探しに(1)

 可愛い子には旅をさせよ、ということわざがある。
 自分の子供が可愛いなら甘やかさずに表へ出して、少しくらい苦労させておくべきだ、という意味だ。
 俺は本来の意味でこのことわざを使う機会が今までほとんどなかったが――そもそも子持ちじゃないんだから当然かもしれないが、この度は誤用の方の意味でなら是非とも使ってみたい気分になっていた。
 可愛い藍子には、この際どんどん旅をさせるべきである。

「わあっ、見てください! カモが泳いでます!」
 柵から身を乗り出すようにして、藍子がはしゃいだ声を上げる。
 彼女が指差す先には秋空を映して真っ青な水を湛えた堀があり、そこをカモのご一家がすいすいと渡っていくところだった。一回り大きなカモが先頭で、その後をやや小さめなのが三羽、水面を滑るようについていく。カモたちは上から覗いてる俺たちに気づいているのか、それとも水面にぽつぽつ浮かぶ蓮の葉にぶつかるまいとしてか、首を忙しなく左右に動かしているのが何ともユーモラスだ。
「ここに住んでるんでしょうか? 巣も近くにあるのかな……」
 藍子はカモ一家のお住まいを探そうとしているのか、積まれた石垣に目を凝らした。
 江戸時代末期に建造されたという城跡は、よほど造りがしっかりしているのか、あるいはきめ細やかなメンテナンスがされているのか、石垣も土塁も水堀もきちんと形が残っていて、景観がとてもいい。堀の周囲には松や桜の並木があり、花見シーズンともなれば石満開の桜がわたあめみたいに膨らんで石垣を覆い、堀の水面には散った花びらが広がって、一層美しいのだそうだ。
 しかしあいにくと今は桜のシーズンではない。また紅葉のシーズンにもいささか早すぎたようで、俺たちの周囲にはひたすらに緑の並木が続いている。それでも名高い観光地だけあって、日中でもぽつぽつ人の姿があった。俺たちみたいな観光客も何グループか見かけたし、公園入り口付近の駐車場には大型バスが大勢停まっていた。
「のどかで、いいところですね」
 まだ堀を見下ろしたまま、藍子がふうと息をつく。どうやら親子ガモがいたくお気に召したようで、熱心にその姿を目で追い続けていた。
「こういう旅行も悪くないよな」
 俺は心からそう思いつつ、風に吹かれる彼女の長い髪を、指先で耳にかけてやる。それからこっちを向いた藍子にいいからカモを見てろと促して、その横顔をばっちりカメラに収める。
 ついでに堀を横断するカモのご一家も写しておいた。これも旅の記念になるだろう。

 結婚式も無事に終わり、俺たちは晴れて新婚旅行に出かけていた。
 行き先は以前候補に挙がっていた北海道だ。九月ならまだ暑いし涼しいところにしよう、なんていう思いつきみたいな流れで決めた。だから俺も藍子も『ここだけはどうしても見たい!』というこだわりや具体的な要望はなくて、とりあえずお互いに初めて訪れる旅先だから、誰でも足を運んでそうな定番の観光地でも巡っておくことにした。
 個人的なことを言わせてもらうと、ここらでちょっとのんびりしたい気分でもあった。ここ一年くらい、いろんな人に会って挨拶をしたり、山積みの用事を暇を見つけては少しずつ済ませたり、その合間に仕事をしたりと随分時間に追われてきた。それが全部結婚する為に必要な準備だったっていうのはわかってるし、不満があるってほどでもなかったが、そろそろ落ち着きたい心境にもなっていた。
 なので全部片づいた今こそ、藍子と二人きりでのんびり息抜きしようと思った。
 そういう気分には他に誰一人知り合いのいない旅先が向いている。スケジュールをあえて余裕持って設定して、時間を気にすることなくゆっくり観光地巡りをする。俺も他人に気兼ねすることなく藍子を独占できるし、いいことずくめだ。

 俺にとって更に幸いなことに、そんな緩くて気楽な旅行でも藍子は十分堪能してくれているようだった。
 何を見ても楽しそうだし、何かというとはしゃいでいるし、よく笑う。ついこの間、きれいな花嫁さんだった時とはまた違う、明るくてあどけない笑顔を浮かべている。
「次はあれ、上りましょうか!」
 カモ一家が通りすぎ、見えなくなってしまった後、藍子は堀を囲む柵から身を離して斜め上を指差した。
 この城跡の公園のすぐ手前には、近年建て替えられたばかりというランドマークタワーが建っている。五角形の展望台からは公園と、周辺の景色が一望できるとのことだ。俺も当然上る気でいたが、藍子があまりに目をきらきらさせているからこっちのテンションまで上がってくる。
「何だったら、階段歩いて上ってみるか」
 からかい半分で尋ねると、藍子は待ってましたと言わんばかりに胸を張った。
「階段は通常は開放されてないそうですよ。いつもはエレベーターだけなんですって」
「へえ、そうなのか。詳しいな」
「事前に調べておきました! ちなみに体育の日だけはイベントとして階段上り大会が行われるそうです」
 遠出となるとそこそこ張り切ってくれるのが彼女だ。地理や路線を調べるのが俺の仕事なら、行き先にまつわる歴史や小ネタ、グルメ情報を調べてくるのは藍子の仕事だった。
 この度の旅行でも彼女の勧めに従い、公園傍の安価かつ評判のいい店でソフトクリームを食べたり、堀でカモや鯉を探したり、公園内にある軍学者のモニュメントを撫で回したりした――鈍く光る金属でかたどられたその学者の顔を撫でると、頭がよくなるという言い伝えがあるのだそうだ。いい大人の俺たちもご利益を求め、てっかてかになったそのモニュメントをぺたぺた撫でた。めでたく結婚もしたことだし、今後は俺にも既婚者らしい知性と落ち着き、ならびに風格が身につくことであろう。
 そんな調子で、行く先々で彼女が披露してくれるネタの数々が面白く、そして披露する度に見せる得意げな顔がまたいとおしくてたまらない。
 可愛い子には大いに旅をさせるべきである。
 なぜって、日常ではなかなか見られない可愛い顔がたくさん見られるからだ。
「あっ」
 藍子が急に声を上げた。
 何事かと思えば、彼女は再び堀に視線を戻している。見ると堀の向こうに架かる橋をくぐって、一艘の白いボートがこちらへ近づいてきたところだった。カップルと思しき男女が乗ったボートは、彼氏の方が懸命にオールを漕いでおり、彼女の方は黄色い声援を送っているのがここからでも聞こえた。
 しばらくの間、藍子は目の前を横切っていくボートを興味深げに見送っていた。そしてボートが角を曲がり、見えなくなった辺りで意気込むようにこっちを向いた。
「隆宏さん!」
「……乗るか?」
 説明してもらうまでもなく、彼女の希望は察することができた。俺が聞き返すと藍子は目を丸くする。
「いいんですか?」
「せっかくの新婚旅行だしな。やりたいことはやっとかないと後悔するだろ」
「嬉しいです! ありがとうございます!」
 彼女は言葉通りに嬉しそうな顔をする。
 俺はもう、この顔を見られるだけでいい。満足だ。
「じゃあ、早速乗るか。どこで貸してもらえるんだろうな」
「あ、向こうみたいですよ。ほら、『貸ボート』って書いてあります」
 藍子が橋のたもとを指差す。そこには確かに木造の小屋が建っていて、『貸ボート』の看板も掲げられていた。小屋のすぐ真横には簡素なボート乗り場が設けられており、堀に浮かべられた空きボートがゆらゆら揺れていた。
「そうとわかれば善は急げだ。よし行くぜハニー!」
「はにー!? って、まさか私のことですか!」
「何言ってんだ。俺がお前以外をそう呼んだら大問題だろ」
「そ、それはそうですけど……恥ずかしいですから普通に呼んでください」
 いいだろ新婚旅行なんだから。
 とは言えわざと呼んだというのも事実であり、旅先でも変わらずもじもじする藍子の可愛さも堪能した後、俺たちは意気揚々とボートに乗り込んだ。
 俺はボートなんて遊び半分で乗った学生時代以来だし、藍子はこれまでオールを握ったこともなかったそうだ。代わりばんこにオールを持ってボートを漕いでみたが、これが案外と難しかった。この公園は城跡だけあって、堀を一周するのもなかなかの距離があり、ボートで同じところをぐるぐる回ったり、カモのご一家と遭遇してカモ待ちタイムに入ったりしているうち、貸しボートの店まで戻ってくるのに四十分以上かかってしまった。
 だが当然のようにすごく楽しくて、藍子と二人で事あるごとにげらげら笑った。ボートが上手く漕げないことさえツボに入っておかしかった。ようやく陸に上がってほっと一息ついた時には、腕や肩より腹筋の方がくたびれている有様だった。
 俺と藍子はこの通り、新婚旅行を満喫している。

 その後、俺たちは当初の予定通りにタワーを上り、展望台から公園を見下ろした。
「わー……本当に星の形してるんですね」
 藍子が感嘆したように、城跡の公園は上から見ると五芒星の形をしている。江戸幕府が戦争の為に作った城ということで、どこから大砲撃たれても隙がないようにこういう形にしたそうだが、そんな昔にここまできっちりきれいに造り上げられる技術があったんだなと、月並みではあるが当然の感動を覚えた。こういうせんべいあったよな、ともこっそり思った。
「何か、こうして見ると可愛いです」
 後世の人間にとっては星型の公園ってだけで見ごたえあるし魅力的だ。藍子が呟くのを聞いて、俺も忘れずカメラを構える。展望台の大きなガラス窓越しに数枚、それからその手前に藍子を立たせて更に数枚撮影した。
 その後で藍子も撮りたがったからモデルさんになってやろうとしたら、別のお客さんに声をかけられた。
「よかったらカメラ、撮りますよ」
 ご厚意には素直に甘えることにして、俺はカメラを預け、藍子と二人で写真を撮ってもらい、丁重にお礼も述べた。そのお客さんはどうやら地元の方らしく、どちらからいらしたんですかと聞かれたので素直に答えた。忘れずに、新婚旅行なんです、とも言っておく。
「それはおめでとうございます」
 いい笑顔で祝福を貰い、こちらも大変いい気分になった。人の温かさに触れるのも旅の醍醐味だ。
 上機嫌で展望台を後にした俺と藍子は、せっかくなのでタワーの一階にあったお土産物コーナーを覗くことにした。
 お互いに土産を買って帰らなくてはならない相手がたくさんいるので、買い物にもある程度時間を割くつもりでいた。今日のうちは下見程度で、本当に購入するのは帰り際、空港辺りでもいいかと俺は思っていたんだが、藍子は既に買う気満々のようだ。
「これは母の分で、これが妹の分で、こっちがゆきのさんの分です」
 可愛い地域限定品ストラップをいくつも手に取って、嬉しそうに解説してくれる。
「ゆきのさんには『北海道らしい可愛いお土産がいいな』って言われてたんですよ。これならぴったりですよね」
「確かにこれなら可愛いな」
 霧島夫人も藍子も、こういうちみっとしたキャラクターものには目がないらしい。向こうに戻ってお土産を届けに行った後、きゃあきゃあ言いながらストラップを眺める二人の姿を想像して、さぞ微笑ましい絵だろうなと俺は思う。
「よかったら隆宏さんもどうですか?」
「俺はいいよ。さすがに俺が持つには可愛すぎるだろ」
「お土産っぽくていいと思いますよ。ほら、霧島さんや安井課長とお揃いで、とか」
「……いや、あいつらが持つにも可愛すぎるだろ」
 と言うか何が悲しくてあいつらとお揃いにしなきゃならんのだ。あいつらだって俺とお揃いとか言われたらドン引くだろ。
 俺はお揃いにするなら相手は藍子だけと決めている。去年買ったトンボ玉のストラップもそうだし、今している結婚指輪もそうだ。
 お揃いは論外としてもだ。霧島と安井にも世話になったし、土産はいるよな。何にするかな。やっぱ無難にお菓子とかにしておくか。藍子は出かける前、霧島夫人に土産は何がいいか聞いてきたようだが、俺も聞いておけばよかったな。かといって新婚旅行中にあいつらに連絡するのも微妙だし、どうにか選んでみるか。
 あと職場にも。有給貰って旅行来てるんで、手ぶらで帰るのはさすがにありえない。何か美味いものでも買ってってやろう。
「あっ、お菓子も見ていいですか?」
 一通り可愛いお土産を選んだ藍子は、次に銘菓コーナーに目をつけたようだ。
 さして予定を入れてない旅だから時間はいくらでもある。俺も職場に持っていく分は買いたかったし、じっくり見ていこうと答えると、彼女はうきうきとお菓子を選び始めた。
 数分もしないうちに藍子は三つも四つも箱を抱えていて、俺が慌てて買い物かごを持っていってやると、恥ずかしそうにしていた。
「すみません。選んでたらどれも美味しそうに見えてきちゃって……」
「別にいいけどな。買うのは今日じゃなくてもいいんだぞ」
 俺の言葉に、藍子は少し考えてから小首を傾げた。
「いえ、忘れたら困りますし、それに先に買っておく方が、その後は純粋に旅を楽しめて、気楽でいいかなって」
 それはそれで一理ある。どうせ急ぐ旅でもなし、先にお土産選んでしまうのもいいかもしれない。荷物が増えたらどこかに預けるなり、先に発送してしまうなりすればいいのだし。
「なら俺も選んじゃうかな。さっさと済ませて、旅行に集中するのもいいよな」
 俺が彼女の意見を尊重したからだろうか、藍子はぱっと顔を輝かせた。
「そうですよね! じゃあ一緒に選びましょう!」
 それで俺たちは実際どれも美味しそうに見える銘菓の数々をじっくりと吟味し始めた。藍子は実家やおばあさんのところにも持っていきたいと言っていて、だからかやたらと個数を購入しようとしていた。あまりに多かったので、実は『自分で食べる用』も含まれているんじゃないかなと俺は見ているがどうだろうか。もちろんそれも藍子らしくて可愛いので何ら問題はない。
 営業課に持っていく分も、藍子が一緒に選んでくれた。人数分で分けても不足がないように個数のちょうどいいもので、なおかつ職場受けのよさそうなお菓子を見つけてもらった。
「皆さんに気に入ってもらえるといいんですけど」
 彼女はほんのちょっと心配そうだった。だから俺は言っておく。
「お前が選んだって一言添えとけば、評価は五割増しになるから心配すんな」
「そうですね。皆、私のことを無類の食いしん坊だって思っていらっしゃいますし」
 照れながら藍子はそう言ったが、そういう意味じゃないんだよな、と俺は思う。
 しかしその無類の食いしん坊、そして我が営業課の可愛い子ちゃんだった彼女は、既に俺の嫁である。
 それを旅先でも実感する瞬間が、一番幸せだったりする。
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