Tiny garden

パライソを探しに(2)

 旅行の日程は二泊三日の予定で組んでいた。
 そんなもんだから、のんびりじっくり過ごしたってあっという間に時は過ぎる。
 まして藍子と二人で過ごす時間ともなればその過ぎゆく速さったらない。光速だ。ふと気がついてタイムリミットまであとどれくらいか計算したら、たちまち切なくなってしまう。
 それでも、向こう戻ってからも俺たちは同じ家に帰れるんだし、彼女を実家まで送り届ける必要だってもうない。旅行が終わってからも二人きりの時間はずっと続くんだから、センチメンタルになる理由なんてあるのかと――いや、休み明けたら俺は仕事が始まるから、『ずっと続く』わけでもないな。そして有給明けの俺を待っているのは例によって彼女のいない営業課である。やはり気が重くなるのもしょうがあるまい。
 いっそ、新婚さんには一ヶ月くらい休暇がもらえるシステムでもできればいいのに。育休ならぬ新婚休暇的な。これから人生の荒波を渡っていく新米夫婦にはそれくらいの準備期間と温情と愛を確かめ合う期間が必要だとは思いませんか。
 ……いや、無理だとわかってます。不可能であることを承知の上で、脳内で駄々を捏ねるくらいいいじゃないですか。新婚さんなんだもの。

 そんなことをぐだぐだ考えながら、旅先で過ごす最後の夜を山頂で迎えた。
 ロープウェーに乗って山の上にある展望台へ行き、そこから夜景を見るプランだった。展望台は屋内と屋外の二種類があり、外へ出た方が夜景をより近くから見られるようになっている。俺たちも当然、まずは屋外へと出た。
 九月下旬とは言え夜だし、北海道だし、そして山だから、風が強くて思っていたより涼しい。藍子は長袖のカーディガンを羽織って、時々寒そうに首を竦めていた。
「写真だけ撮ったら中に戻ろう」
 俺が提案すると、しかし藍子は名残惜しそうにかぶりを振る。
「でも、せっかく来たんですから。隆宏さんさえよければ、もうちょっと見ていたいです」
「俺は寒いってほどじゃないな。お前が平気ならいてもいいけど」
 長袖を着てきてちょうどいい、というくらいだった。山に登るんだからと一応パーカーも余分に持参していたんだが、俺には不要だったようだ。
 というわけでそのパーカーは藍子に着せることにした。男物の、ぶかぶかのパーカーを着込んだ藍子は肩や袖が余ってて、言うまでもなく大変可愛い。フードを被って完全武装を決めると、彼女は俺を見て幸せそうに笑った。
「すっごく暖かい……。ありがとうございます」
「くれぐれも風邪引くなよ」
「はいっ」
 独身時代と何ら変わらぬいい返事で答え、藍子はまた夜景に視線を戻す。
 さっきからもう釘づけってくらいの集中ぶりで、カモを見た時以上に柵にかぶりついているのがわかる。横から見ても目がきらきらしてるのがわかって、そこまで喜んでくれたなら連れてきた甲斐があるというものだ。
 実際、彼女が名残りを惜しむのもわかる。
 展望台から見る夜景は息を呑むほど素晴らしくきれいだった。星明かりがそのまま地上にも点ったような、細かな光のかけらが街一帯を埋め尽くしている。通りの一本一本が街灯によってくっきり浮かび上がると、星座を繋ぐ線のように見えて、本当に星空を映し出したんじゃないかと錯覚するほどだった。それほど高い建物もない町で、街明かり自体も落ち着いた、それこそ星の光みたいなほんのりした眩さだったが、それを周囲を囲む海の深い暗さが際立たせている。
 その美しさに惹かれてか、屋外展望台は風の強さにもかかわらずなかなか人が多かった。中にはひっきりなしに寒い寒いと言いながらも柵にしがみついて見入っている人までいた。となるとあんまり長い間、いい場所を占拠しておくわけにもいかない。俺は手早く撮影を済ませることにする。
 デジカメを夜景モードにして、柵の上に置いてから何枚か撮ってみる。近年のデジカメ性能の進歩は目覚しく、今じゃ素人カメラマンにだって美しい夜景が簡単に撮れてしまう。展望台の照明を頼りにモニターをチェックすると、我ながらいい出来栄えだった。
 せっかくなので夜景をバックに、藍子の写真も撮っておくことにする。この旅では何枚くらい藍子の写真を撮っただろう。観光地の風景写真よりもずっと多いのは間違いない。俺はすっかり彼女の写真を撮影するのにはまっている。
「藍子、少しだけフード取ってくれ」
 カメラを構えた俺が頼むと、彼女は頷きながらパーカーのフードを下ろした。
 途端に強めの風が、彼女の束ねた長い髪を吹き上げるようにして揺らしていく。それを手を添えるようにして押さえた仕種が可愛い。カメラを構える俺に向かって、はにかみながら笑いかけてくるのもまた可愛い。美しい夜景と藍子を並べておける瞬間を、俺は実に贅沢だと思う。そしてその一瞬を切り取っておけるデジカメの素晴らしい機能にまで深く感謝したくなる。
 ただ、デジカメの性能がよすぎたせいだろうか。夜景を背に立つ藍子が少し震えているのもカメラ越しによくわかった。
 ベストのタイミングと思われる笑顔をカメラに収めると、俺は藍子に近づいて、風に吹き晒されてる頬っぺたに触れてみた。柔らかいは柔らかいがひんやりと冷たい。冷蔵庫に入れてた求肥のお菓子みたいだった。
「大分冷えてるな。そろそろ中に戻るぞ」
 有無を言わさず俺が促すと、藍子は残念そうにしながらも納得はしたようだった。
「そうですね……。何か、温かいものでも飲みましょうか」
「ああ、その方がいい」
 俺も頷き、彼女と共に柵の傍を離れる。途端、いい場所を探していた様子の客がそこに駆け寄ったから、夜景はすぐに人波に塞がれ、よく見えなくなった。

 屋内の展望台も眺めは悪くなかった。
 でも、ガラス越しに見る夜の景色にはどうしても室内の照明が映り込んでしまうから、当たり前だが撮影には向かない。俺はデジカメをバッグにしまうと、屋内でもやはり夜景に見とれる藍子を眺めていた。暖かい色の照明の下では、藍子の頬はよりきれいに、滑らかに見える。黒い瞳も光沢を帯びたように輝いていて、可愛いな、と何度感じたかわからない事実をまた改めて確認した。
 そして思う。――まだ帰りたくねえなあ。
 もう結婚したんだから、付き合ってただけの頃と違って、同じ家に帰れるしそれからもずっと一緒にいられる。それはいいことなんだが、こうして旅に出て藍子を眺めているのが非常に楽しすぎたのがいけない。旅先という非日常的空間ではしゃぐ彼女はとびきり可愛くて、楽しそうで、輝いていた。日常に戻ってもそんな彼女が全く見られないわけじゃないだろうが、どうしても機会は減ってしまうだろうし、そうなるとやはり名残惜しい気分になってしまう。
 ずっと、とは言わないまでも、あと半年くらい新婚旅行ができたらいいのに。
 俺が溜息をついたせいか、彼女がこっちを振り返る。それから軽く微笑んだ。
「明日で帰らなくちゃいけないって、ちょっと寂しいですね」
「だよなあ」
 溜息だけでこっちの内心が伝わったことに驚きつつ、つまりそういう気持ちも同じだったってことなんだろう。新婚旅行は楽しいのが当たり前で、だからこそ帰りたくない気分にだってなる。
「もうちょっと有給取れればよかったのにな。行く前は少し短いくらいかと思ってたのに、来てみたら時間足りなすぎた」
 俺はそうぼやき、こっちをじっと見上げてくる藍子の頬を撫でてみる。屋内に引っ込んでからだんだん血色を取り戻していて、触れてももう冷たくはなかった。
 体温と同じく温かい表情をした藍子が、気遣わしげに口を開く。
「帰ったら、隆宏さんはお仕事もありますしね。疲れが残ってないといいんですけど」
「……それはまあ、頑張りますけどね。可愛いお嫁さんも貰ったし怠けてられるか」
 いや本音で言えばしばらく仕事も行きたくないんですが、しかしそれを藍子の前で口にするのは二重の意味でダメダメである。俺は彼女を養っていかなければならないし、そして彼女は仕事を辞めてまで俺についてきてくれた。頑張らなくてはならない。
 旅を終えて日常に戻っても、幸せでいられるのは間違いない。彼女を家に置いていく寂しさも、職場に彼女がいない寂しさも、そのうちに慣れて当然のことと受け止めるようになるだろう。俺の性格ならその分、家で過ごす時間や二人でいる休日をより楽しむようにもなるはずだった。
 ただちょっとだけ、感傷的になっているだけだ。旅の終わりは誰だってこういう気分になるものだ。楽しかったんだからしょうがないじゃないか。
「何かこう、祭りの後みたいな気分なんだよな」
 俺が打ち明けると、藍子は共感するように小さく頷いた。
 その後でふと、俺の感傷とは対照的な、明るい笑顔を見せた。
「私もそうです。だから、美味しいものをたくさん買っておいたんです」
「……ん?」
 文脈が上手く掴めずに俺が眉を寄せれば、彼女はまだはしゃいでいるように続ける。
「この間、お土産と一緒に、私たち用のお菓子も買っておきました。美味しいものを用意しておいたら、家に帰るのだって楽しみになるかな、って思って」
 そういえば二人でお土産を見た時、藍子は随分な量を買い込んでいたようだった。俺もあれは一部お土産じゃなくて彼女用なんだろうと踏んでいたが、そうか。『私たち用』って言ってくれるのか。
「前に、ものの本で読んだんですけど……」
 藍子が楽しそうに語る。
「朝ご飯に自分の好きなものを用意しておくと、朝起きるのが辛くないんだそうです。私も仕事で厄介な案件ばかりある日とか、重労働があるってわかってる日は、前もってドーナツとか、マフィンとか、好きなものを買っておいて朝ご飯にするようにしてました。そうすると楽園気分で起きられるんです」
 食べ物の話をする時は一層楽しそうだった。楽園とまで言う辺り、可愛らしい食いしん坊だと思う。
 もちろん、俺はこういう彼女も大好きだ。いくらでも美味しいものを食べさせてやりたくなる。
「だからここでも美味しいお菓子なんかを買っておいたら、旅行から帰った後も楽しく、幸せに過ごせるんじゃないかなって思ったんです」
 藍子は美味しいものの必要性をひたすら熱く語っている。
「隆宏さんにもお仕事の励みにしてもらえるような、美味しいものを厳選して選んだつもりです」
 太鼓判を押すように言うと、まるでこちらを勇気づけるみたいににっこり笑いかけてくる。
 そんな彼女を見下ろして、つくづく俺は、優しいお嬢さんと結婚したなと思う。
 そうやって帰ってから、また仕事が始まる俺に対しても気を配ってくれるなんて、どこまでいい子なんだろう。俺の一番の好物は言うまでもなくお前だが、しかしそれ以外にも美味しいものと幸せに囲まれた暮らしが、これからはできるのかもしれない。朝起きるのが辛いような日でさえ、彼女がいれば、驚くほど幸せに目覚めることができるだろうと思う。
 現金なもので、俺はさっきまで引きずっていた感傷があっさりとどこかへ掻き消えてしまったことに気づいた。代わりにこれから始まる新婚生活が俄然楽しみになってきた。藍子がいればどこにいたって楽しくて幸せになるに決まっている。
 そりゃあ二人でする旅行は当たり前に楽しいだろうが、それを忘れられないって言うんならまた仕事頑張って、どこかで有給でも貰って、また二人でどこにでも出かけていけばいいだけの話だ。俺たちにはいくらでも時間がある。これからはずっと一緒にいられるんだから。
 可愛い子には旅をさせよう。その為にも俺は日常へ戻り、藍子と二人楽しく過ごそう。
「そういうことなら、俺も何か美味いものでも見繕って帰るかな」
 俺が賛同したからか、藍子はより嬉しそうにした。
「はいっ、そうしましょう!」
 それで俺たちは展望台の中にあったお土産物コーナーに立ち寄り、新婚さんらしく仲睦まじく美味いお土産を選んだ。明日帰るのが楽しみになるくらい、いろんなものを買い込んだ。

 新婚旅行から帰ってすぐ、俺たちは土産を渡すべく霧島夫妻と安井を呼び出した。
 何せ、急がねばならない事情があった。なるべく早いうちがいいと言ったら、三人とも快く集まってくれた。
「わあ、ご当地ストラップ! 藍子ちゃんありがとう!」
 可愛いストラップをお土産に貰い、霧島夫人はすっかりご機嫌だった。藍子と二人、女の子らしくはしゃいでいる。
 対照的に、霧島と安井は不思議そうな顔で俺からの土産を眺めていた。
「何か、意外とまともですね」
 霧島が可愛くないことを言うので俺は憤慨した。
「どういう意味だよ。まともな土産はないと思ってたか?」
「石田ならペナントか提灯でも買ってくるんじゃないかと心配してたとこだ」
 安井までそんなふうに発言する。どうも連中は俺を、ウケ狙いでお土産を選ぶような人間だと思い込んでいるようだった。
 だが俺からのお土産はまともだし、それどころか素晴らしいもの揃いだ。北海道珍味の瓶詰めセット――いかの塩辛、たこわさび、鮭フレークなどがちっちゃい瓶に詰められていて、味見した限りどれも美味かった。酒の肴にもご飯の友にもなる優れものだった。
「お前らが要らないって言うんなら俺が貰うぞ」
 二人があんまり訝しげにするので、俺はすかさず脅してやった。途端、霧島も安井も慌ててお土産を自分の手元に引き寄せる。
「い、いえいえ、ありがたくいただきます」
「びっくりしただけだ。こんな美味そうなもの、買ってきてくれるなんて嬉しいよ」
 初めからそう言え。俺はむくれた。
 でもそこで、藍子がにこやかに口を挟む。
「隆宏さんが厳選したお土産なんです。とっても美味しくて、朝ご飯が楽しみになるくらいなんですよ」
「へえ……。そんなにですか」
 霧島が瓶を持ち上げ、貼られたラベルに目を凝らした。俺の言葉はともかく、藍子の言うことならすんなり信じるようなのが腹立たしい。
 俺だって霧島や安井に、楽しい朝飯の時間を過ごしてもらいたいという一心でお土産買ってきたのにな。
「マジでものすごく美味いから。それがあると、朝の食卓が楽園になる」
 気を取り直して俺は語り、霧島からは驚きの目を向けられた。
「楽園と来ましたか。じゃあ早速、明日の朝食にしますね」
「そうしろそうしろ。朝に美味いもの食べると気分がよくなるって、藍子が言ってたんだ」
 隣で藍子も頷いている。彼女となら、いつでも幸せな食卓が囲めそうだと思う。
 すると安井がにやにやし始めた。
「そう言うけど、石田なんて奥さんさえいればいつでも楽園気分なんだろ?」
「まあな!」
 それは否定しません。藍子の存在に敵う美味いものなどあるはずない。
「新婚旅行帰りとあって、幸せオーラ出まくりですもんね」
 霧島にも言われた。こちらは呆れたように笑いながらの指摘だ。
 だから俺が代わりににやにやしておく。
「わかるか? いやもう幸せすぎて隠し切れなくてな! だだ漏れで悪いな!」
「何てだらしない顔だ……奥さんもよく愛想尽かしませんね」
「しばらくは石田からの惚気が酷そうだな。いや、元からだったか」
 もう何とでも言えって気分だ。どうせなら土産話ついでに思いっきり惚気てやろうか。
 ただし今日は隣に藍子がいるから、彼女が恥ずかしがって逃げ出さない程度に留めておく。とりあえず愛想を尽かす様子はまるでない。今度もないように努めていきたい。

 二泊三日の短い旅ではあったが、実に幸せな新婚旅行だった。
 またいつか、可愛い子と一緒に旅がしたいものだと思う。藍子とならどこに行ったって楽園になるんだから、いっそどこにでも行ってやろう。そうして日本中を、俺たちにとっての楽園にしてやろう。
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