Tiny garden

比翼の鳥(3)

 ウェディングドレスは見た目の通り、歩きにくい代物のようだ。
「転ばないよう気をつけます……」
 藍子がこっそり囁いてくる。その後で、これから何かの競技にでも挑むみたいに、目を伏せてゆっくりと深呼吸を始めた。彼女が息を吸い、そしてゆっくり吐く度に、白いドレスはさらさらと砂のような音を立てた。
 言うまでもないことだが、これから挑むのは競技でも何でもない。扉を開けてもらったらそのままくぐって、指示された通りのルートを辿って、用意されている自分たちの席まで歩いていくだけだ。たったそれだけのことだから、とにかく慎重に、失敗のないようにしたいというのが俺たち共通の願いだった。
 つまりこれもまた、夫婦の愛の共同作業というわけです。
「その為に腕組んで行くんだろ」
 俺は彼女に囁き返すと、掴まりやすいように片腕を曲げた。
 すぐに藍子が俺の腕を取る。吊り革に掴まる時と同じくらいの握力で、割としっかり握ってくる。頼りにしてもらえてんのかな、なんて幸せな気持ちになった。
「いざとなったら抱えてでも連れていく」
 安心させるつもりで叩いた軽口を、藍子は本気にしたらしい。かえって心配そうにされた。
「私、重たいですよ」
「そうでもないだろ。ドレス分足しても全然いける」
 ひそひそと交わす会話は式場スタッフにも聞こえたようで、励ますような微笑みを向けてくる。頑張ってくださいと言わんばかりの表情が意味するところは『転ばないように頑張ってください』なのか、『いざとなったら頑張って抱えてください』なのか――まあ、どっちでもいいか。
「そっちの方が演出的にはロマンチックで、美味しいかもしれん」
 これはスタッフに聞こえないように、耳打ちで伝えた。
 途端に藍子が俺を見る。長い睫毛を瞬かせた後、どことなく懐かしむような顔をする。
「昔、似たようなことを言ってもらった覚えがあります」
「……俺が? 何か言ったっけ」
「はい。印象深い言葉でしたから、生涯忘れられません」
 そう言われて俺は、それらしい発言を思い出そうとしてみたが、残念ながら出番が来るまでの猶予もあとわずかだった。披露宴会場前の通路に立った俺たちは、ぴんと張り詰めた空気を肌で感じている。まだ閉ざされたままの大きな扉の向こうから、ざわめく話し声が聞こえてくる。
 藍子がもう一度深呼吸をした。大きく開いたドレスの胸元も、それに合わせて上下する。
「でも、やっぱり、どきどきしますね……」
 呟きからも緊張が窺えた。
 さすがにこの状況でリラックスしろというのは無理があるだろう。俺だって多少は緊張している。気負いはないが、彼女を転ばせられないという責任感は持っている。
「くれぐれも、お前は皆の顔を見るなよ。真正面だけ見てろ」
 俺よりも硬くなっている藍子には、そう言い聞かせておいた。
 式場の中には見知った顔も大勢いるが、今日ばかりはそのどれもがよそゆき姿だった。そういうのを下手に目の当たりにすれば一層緊張するだろう。藍子は真面目な性格だから、今日の為にわざわざお集まりいただいた皆様をジャガイモやカボチャだとは思い込めないに違いない。
 だったらいっそ、意識しないようにすればいい。ただ前だけ見て、あとは掴んだ腕の主――つまり俺の存在だけ意識して、ここぞとばかりに頼りきってくれればいい。

『――皆様、大変長らくお待たせいたしました』
 司会者のマイク越しの声が会場内に響き渡った。
 ざわざわとした話し声は、潮が引くように静まり返る。俺と藍子は同じタイミングで姿勢を正し、それからほんのわずかな間だけ、顔を見合わせて笑った。
 心配ない。藍子には俺が、俺には藍子がついてる。
『ただいまより、新郎新婦がご入場いたします。盛大な拍手でお迎えください』
 そのアナウンスの直後、スタッフが会場に通じる大きな扉を引き開けた。
 たちまちのうちに俺たちは、割れんばかりの拍手とまばゆいスポットライトとドラマチックなBGMに呑み込まれた。会場内のそこかしこからカメラのフラッシュが焚かれて目が眩む。
 藍子が俺の腕に掴まり直す。
 一度小さく頷き合ってから、まずはゆっくりと歩き出す。
 背筋を真っ直ぐ伸ばし、胸を開き、貧相にならないように力強く歩く。隣にいる藍子の存在を常に意識して、彼女がちゃんとついてこられるように気を配りつつ進んでいく。ドレスの衣擦れの音は拍手やBGMに掻き消されて、もう聞こえない。長いトレーンが俺たちの歩みの後から、水上の船が広げる波紋のようについてきた。
 きっとこの場面は映像にも写真にもしっかり残されてしまうはずだ。それなら無様な姿は晒せない。誰にも文句の着けようがないほど格好いい花婿と、美しい花嫁になってやる。
 指示通り、藍子は真っ直ぐ前だけを見据えていた。恐らく実際は何も見えていなくて、ただ歩くことだけに集中しているに違いなかった。だから俺が代わりに周囲を見た。進路方向を、足元を、目についたテーブルにいる見知った顔の面々を見ておいた。
 まず真っ先に霧島夫人を発見した。しっとりしたドレス姿の彼女は幸せそうな顔で拍手をしながら、藍子の姿を熱心に目で追っているようだった。その後、隣に座る霧島に何事か言葉をかけていた。
 霧島は奥さんの言葉に頷いた後、やはり拍手をしながらこっちを見やった。まだ緊張しているんだろうか、それとも自分の結婚式を思い出して神妙になっているんだろうか、やたらと真面目な顔つきをしていた。
 安井は霧島たちと同じテーブルのはずだったが、カメラを構えていたせいで見つけるのが少し遅れた。フラッシュが光った後、カメラを下ろした安井は俺と目が合うなりにやっとしてみせた。ほんの一瞬のことではあったがつい、こっちもにやっとしてやりたくなった。しかしもちろん堪えて、格好いい顔を維持しておいた。
 会場内を藍子と共に進んでいきながら、よそゆき姿の見知った顔を次々見つけた。春名はいつもとそう変わらぬテンションで写真を取りまくっていたようだ。うちの営業課長は霧島の結婚式の時と同様、いささか緊張している様子だった。他の課員たちも写真を撮ったり、藍子の晴れ姿に惚れ惚れするのに忙しそうだった。皆、眩しそうにこっちを眺めている。感慨深げな顔もある。
 親族席は下座と決まっていて、しかも会場の両端にあるから見つけるのは難しかった。でも意外とわかるもので、遠目にうちの両親と、姉ちゃん一家の姿は判別がついた。小坂家の方もご両親と妹さん、それとおばあさんの姿はどうにかわかった。さすがに表情までは見分けられなかったから、藍子のお父さんの緊張ももう解けているといいな、と思った。
 俺は、いざこうして歩き出してみると、意外と平気なものだと感じていた。直前までの緊張感はむしろ高揚に変わっていたし、ここまで来るともう開き直ってしまえるから不思議だった。皆にしげしげと見つめられるのも、足取りを追うようにスポットライトを当てられるのも、絶えず拍手を向けられるのも悪いもんじゃない。
 両親やきょうだいや、毎日のように顔を合わせてる職場の皆。それに学生時代から細々と付き合いのある友人や、遠方からはるばるやって来た親戚のおじさんおばさん――この会場内には俺と藍子がこれまでの人生で関わってきた人たちばかりが集まっている。深いかかわりを持った相手もいるし、それほどではない相手もいるが、袖触れ合うも他生の縁と言うように、ここはいわば俺たちの世界の縮図みたいなものだろう。
 だから胸を張っていよう。
 この世界中に、俺たちが幸せであること、これから更に幸せになることをしっかりお披露目しなくちゃならない。
 時間はかかったが、俺たちは高砂まで転ばずに辿り着いた。拍手とフラッシュと祝福の眼差しを浴びながら、改めて会場内を見渡してみる。今日の日の為にお集まりいただいた皆様に、自然と感謝が湧き起こる。
 俺の隣では藍子が、無事ここまで到着したことに胸を撫で下ろしていた。俺としてはロマンチックな展開も多少捨てがたくはあったが、トラブルはないに限る。それにこの状況、万雷の拍手の中で素晴らしくきれいな花嫁さんと並び立っていられるというだけでも、まずは十分ロマンチックだ。

 新郎新婦入場で、文字通り幸先のいいスタートを切った俺たちは、その後も滞りなく披露宴を進めることができた。
 ケーキカットはやってみると、我ながら絵になるなと思った。司会者の方の『お二人の初めての共同作業です!』というアナウンスには、いやここに来るまでの間、既に数多くの大変な共同作業を乗り越えてきたんですよ……としみじみせずにはいられなかったが、むしろこの式までにかかった準備期間を思い起こせば感動もひとしおだ。
 乾杯のスピーチは我が営業課の課長がしてくださった。これも霧島の式の時と同じだ。そしてスピーチが手短でスマートなのも同じで、親族一同からは大変好評だった。その後、各テーブルとそして俺たちにも食事が振る舞われたが、俺たちには食べている余裕などない。せいぜい酔えない程度の量のアルコールを摂取するに留めた。
 キャンドルサービスもやりました。正直、結婚を意識する前までは『こんなの本気でやるのか、恥ずかしくないのか』と思っておりましたが、申し訳ない。これが結構いいものなのです。各テーブルを回る度、祝福のお言葉をいただけるのが大変幸せな気分になりました。今日は朝からばたばたしていて、参列者一人ひとりとじっくり話す時間もなかったから、こうして近くで顔を見られただけでもよかったと思う。営業課の連中にはひときわ大きな歓声も貰ったし、多少冷やかされもしたが、それはそれでよかった。

 そうして宴もたけなわというところで、いよいよ霧島のスピーチの出番が回ってきた。
 いよいよ、というのも妙な言い回しかもしれない。俺は別に霧島からの祝辞を楽しみにしていたわけじゃない。それどころか奴の出番が近づくにつれて何だかそわそわしてきた。あいつ、ありのまましか言わないって宣言してたよな、と披露宴前のやり取りが唐突に脳裏を過ぎる。
 あの真面目な男がこの場にふさわしくない話題を出してくるとは思っていないが、真面目なだけに何か、俺にとってはこっぱずかしい記憶を引っ張り出してきて披露する可能性はある。何言われるんだろう。
 司会者から名を呼ばれ、霧島が席を立つ。新郎の勤め先の同僚で、新婦とも今月まで同僚でありました……などと司会者から紹介を受けながら、霧島はマイクの前まで姿勢よく歩いてくる。その足取りは普段の三割増できびきびしていた。
 スタンドマイクの前に立つと、霧島はこちらに向かって一礼、更に参列者のテーブルに向かってもう一度お辞儀をしてから話し始める。
『隆宏さん、藍子さん、ご結婚おめでとうございます』
 思えば、霧島に下の名前で呼ばれたのも、これが初めてかもしれなかった。
『並びに、ご家族の皆様、本日は本当におめでとうございます。私は先程、司会の方からご紹介にあずかりました霧島と申します』
 出だしこそやや硬さの目立つ口調ではあったが、そこは営業課員。話し始めればエンジンが温まってきたのか、霧島は原稿も見ずにするすると続けた。
『新郎の隆宏さんは私にとって大変尊敬できる上司であります。仕事に全力で取り組む姿勢はもちろんのこと、面倒見がよく、部下に対する気配りにも長けており、私自身何度となく励ましていただきました』
 ありのままを話すといった割に、霧島はそんなことを言う。俺がどういう反応をするかわかっているんだろう、ちらりとこっちを見てから言葉を継いだ。
『そしてそれは、新婦の藍子さんにとっても同じでしたようで、藍子さんが以前、隆宏さんのことを、自らだけではなく部下たちの来年のことまで考えてくれる人だ、と言っていたのが印象に残っております』
 藍子がはっとした様子が視界の端に映った。
『仕事に追われているとどうしても、明日明後日といった間近な未来にばかり囚われがちですが、隆宏さんは更に先を見据えた上、広く長期的な視野から部下を見守るような仕事のできる方です。共に働く過程で藍子さんが強い信頼を抱いたのも当然のことと存じます』
 そこまで話すと霧島は、高砂から見てもわかるくらい柔らかく笑んだ。
『また、隆宏さんと私は仕事の後の飲み仲間という間柄でもありまして、隆宏さんと藍子さんが交際を始めてからは、そういった場で藍子さんについて話を伺う機会もございました』
 今度は俺がはっとした。
 何を言われるのか、つい身構えたくなった。酒の席で霧島相手に語った話は数知れず、その中には藍子はともかく、藍子のご両親やご親族には聞かれたくないちょっとしたうっかりはっちゃけ発言もいくつかある。いや、言わないと思うけどな。霧島なら……いや、でもあいつ結構天然だし、わからんぞ。
 何か、一気に心拍数上がった気がした。
 それすら見越したように霧島は、穏やかな笑みを湛えながら淀みなく語る。
『隆宏さんはプライベートにおいても前向きで、そして未来志向のようで、藍子さんとの将来についても実に真面目に考えておいででした』
 一拍置いて、
『ある時、藍子さんの可愛い笑顔があれば、俺は永久機関になれる、と話していたのを今でも鮮明に記憶しております。藍子さんに幸せそうに笑っていてもらえるのなら、何でもできるし、より一層頑張れるとのお言葉でした』
 と言えば、会場内、特に営業課員で占められたテーブル一帯からはなぜかどっと笑いが起こった。
 俺ですか? 言われた瞬間、軽く眩暈を覚えました。
 いや永久機関って確かに昔言ったけど! 嘘でもないし今でもそう思ってるけど! それはこのよき日に明かすにはあまりにも浮かれてて恥ずかしい台詞と言うか何と言うか――横目で藍子を見てみたら、彼女は怪訝そうにこっちを見ていた。
 本人にはまだ言ったことがなかったはずだ。今でも言えなくはないが、こうして人づてに聞かれてしまうのは妙なくらい恥ずかしい。まして藍子は永久機関の意味がわかってないようなので、どうやらそれを説明しなくちゃいけないようなのが、もう……!
 霧島も霧島だ。そんな飲み会での小ネタ、細かく覚えてるなよなあ。まさか今日の為に、俺の言動から使えそうなネタを仕入れ続けてたってことか。
 あの日あの時から既に、こういう機会が訪れることを見越してたってわけか。
『そんな隆宏さんと藍子さんなら、まさに永久に幸せな、温かい家庭を築いていかれるものと思います。お二人の未来が素晴らしいものであることをお祈りします』
 最後までつっかえることもなく、霧島はスピーチを終えた。マイクから離れる際も相変わらずきびきびしていて、拍手に包まれるようにして席へ戻っていく姿がやたらと格好よく見えた。これがつまり、既婚者の余裕ってやつだろうか。
 何と言っても、所帯持ちとしては先輩なんだよな、あいつ。
「……永久機関って、どういう文脈で出てきたんですか?」
 霧島が席に戻ってしまった後、藍子がこっそり聞いてきた。
 こういう場でもなければその柔らか頬っぺたをつねってやるところだが、さすがに今はまずいので、軽く笑っておくに留めた。
「察してくれ。飲んでる時に、霧島に話すようなネタだぞ」
 未来志向の俺でも、さすがにこの状況は予想外だった。
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