Tiny garden

比翼の鳥(2)

 挙式が終わると、今度は披露宴に備えて着替えをしなくてはならない。
 俺の場合は着替えて、あとはせいぜい髪型を洋装向けに整える程度だから時間はさほどかからない。衣装合わせの際にプランナーさんから、ご新婦様がロングトレーンのドレスをお召しになるなら、ご新郎様は着丈の長いフロックコートの方が似合いますよと勧められていた。俺自身は衣裳にさしてこだわりもなかったし、着てみたところ藍子からの評判がすこぶるよかったので、結局勧められた通りにしていた。
 白いスーツなんてそれこそ自分の結婚式でもない限りは着る機会もないだろう。こうして改めて袖を通し、鏡に映る自分の姿を眺めてみると、隙のないウィングカラーといい、艶のあるアスコットタイといい、鈍く光るオニキスのカフスボタンといい、いかにも正装という姿が我ながらばっちり決まっていて、こりゃ藍子が惚れるのもしょうがないなと自画自賛したくなる。
 この先もう二度と着る機会はないが、むしろ、だからだろうか。目に眩しいほど白い衣裳は、特別な感じがしていいものだ。
「なかなか男前じゃないか、隆宏。さすがは父さんと母さんの子だ」
「本当ねえ。ここまでスーツが似合うなんて、美男美女の間に生まれてよかったわね」
 うちの父さんと母さんはさりげなく自分たちを持ち上げつつも、一応誉めてくれた。しかしこの夫婦の調子に乗る性格、つくづく遺伝とは恐ろしいものだと思わされる。
「格好いいじゃない。思ったより絵になるからびっくりしたよ」
 普段は辛口の姉ちゃんも、今日ばかりは賛辞をくれた。普通に誉められたことに、むしろこっちがびっくりした。
「姉ちゃんが俺を誉める日が来るとはな……。駄目出しされるかと思ってた」
「何、自信なかったの? 大丈夫、藍子ちゃんにばっちり釣り合う花婿さんになってるよ」
 留袖姿で明るく笑う姉ちゃんの傍には、ぴったりと寄り添うようにして姪と甥の姿がある。二人とも着飾った親戚や初めて会う大人たちに囲まれているせいか、借りてきた猫のようにおとなしい。だがその二人も子供なりにちゃんとめかし込んでいて、俺に『おじちゃんおめでとう』と可愛いお祝いの言葉をくれた。
「ありがとな。今日はお前たちも決まってるぞ」
 お礼代わりに二人の格好を誉めてやると、姪と甥は嬉しそうにはにかんだ。この通り、新郎側は披露宴に臨む支度がすっかり整っている。

 花婿に比べると、花嫁の支度の方はとても手間がかかるもののようだった。
 ウェディングドレスにしても、普段着のワンピースを着るみたいにさっと着られるわけではないそうだし、あの重たい打掛を脱ぐところからして一苦労だろう。そしてドレスを着た後は洋装に合うようにヘアメイクをして、化粧も直してとやらなければいけないことがたくさんあるらしい。俺もそれなりの待ち時間を見積もってはいたが、いざ待つとなるとこれが結構焦れた。早く可愛い花嫁さんが見たくて、彼女に会うのが待ち遠しくてしょうがなかった。
 でも『支度が終わりました』と連絡を貰った途端、待ち時間の長さもじりじりとした待ち遠しさも全部吹っ飛んだ。両親の手前、せめて冷静沈着なように振る舞おうと努めてはいたが、今まで散々気もそぞろなそぶりを見せてきたので今更だったかもしれない。
 ともかく、新婦控え室には、ウェディングドレスに着替えた藍子がいた。
 彼女もまた焼けつくような待ち時間を味わっていたのだろうか。俺が扉を開けた瞬間に俯いていた顔を上げ、まずは安堵の表情を見せた。
「あ……隆宏さん、お待たせしました」
 駆けつけてきた俺に、真っ白なドレスに身を包んだ藍子が微笑む。
 衣裳合わせで決めた通りのロングトレーンのドレスは、やはり彼女の初々しさと品のよさを際立たせていた。Aラインに広がる裾はドレープが美しく、床の上にまるでさざ波立つように広がっている。その上をふんわり流れ落ちるトレーンには繊細なレース模様があしらわれていて、彼女が身にまとうと本当にお姫様みたいだった。
 真面目さゆえに気負う性格はぴんと伸ばした背筋にも現われていて、肩と背中の半分を晒したビスチェタイプでも不思議なほど上品に見える。髪は後ろで一つにまとめて、頭上にティアラを飾っていた。
「お化粧も直していただいたんです。あんまり派手じゃない方が、私らしいかなって思って」
 藍子が、いつもと変わらない口調で語る。
 確かに、披露宴用のメイクは少し濃い目にするものだと事前に説明されていた。だが彼女の化粧は思ったよりも自然だった。柔らかい頬にほんのりチークを効かせていて、彼女が笑うと一層ふわふわと、柔らかそうになる。元々、美人というよりは愛嬌のある顔立ちなので、派手にするよりはナチュラルな方が似合うというのも事実だ。とは言えこれまでは営業職らしい化粧が基本だったから、ドレスに似合う化粧をしている藍子を見るのは新鮮だった。長くて艶のある睫毛も、いつもよりくっきりと赤い唇も、陶器のようにすべすべした額も、何だか触れがたい神聖なもののように映った。
「……すごいな」
 他に言うことはないのかというほど、間抜けな声が自然に出た。
 なんてきれいなんだろう。
 藍子は本当にきれいで、可愛らしくて、そしてとても初々しい花嫁になった。
 でもそんな彼女を目の当たりにしておきながら、同時に俺は、どうしてか奇妙なくらい胸が苦しくなった。幸せなのに、今日の日の為に美しくなった彼女を誇らしく思っているのに、同時に堪らなく切なさを覚えた。
 何だか彼女が、俺の藍子じゃないみたいで――営業課の小坂でも、恋人としてお付き合いを重ねてきた藍子とも違う、花嫁になった彼女を見た瞬間。
 結婚式という儀式の意味が、今頃になってようやくわかった気がした。

 俺はずっと、彼女を手に入れたつもりでいた。
 彼女が俺を好きになってくれて、そして俺を選んでくれた時点で、彼女は俺のものになったのだと思っていた。
 だが本当は違ったのかもしれない。こうして触れがたいほど美しく、初々しく、気高くも見える彼女は、まだ誰のものでもなかったのかもしれない。俺は彼女についての何もかもを手に入れた気でいたが、彼女自身を真の意味で手に入れるのは、今日が初めてということになるのだろう。結婚式という儀式を経て初めて、彼女は俺のものに、お互いがお互いのものになるのだろう。
 だから、気を抜くべきじゃない。彼女が手に入ったからといってだらけるようではいけない。俺はこれから妻としての藍子をこれまで以上に愛し尽くさなければならない。彼女にはまだまだ俺に見せていない顔だってあるだろう。そういうものを、これから一生をかけて余さず網羅していくのが俺の務めであり、楽しみにもなる。
 それは初めから思っていたことでもあった。俺は変わっていく藍子が見たい。彼女の未来が全部欲しい。その為の日々は、今日からようやく始まるわけだ。

 今更の事実にようやく気づき、立ち尽くす俺を、藍子は怪訝そうに見つめてくる。
「隆宏さん、どうかしたんですか?」
 どうかしたのかってそりゃ、見とれてたに決まってるだろ。察しがつきそうなことを平然と聞いてくる奴だ。思わず苦笑が浮かぶ。
 ほら見ろ、藍子は一年と八ヶ月付き合ってたってそれほど大きくは変わっちゃいない。相変わらず男心には疎いし、いろんな意味で容赦なく俺を振り回すし、そこまで徹底しなくてもいいだろってくらい真面目だし、そのくせここぞという時に恥ずかしがり屋だ。そして、彼女はずっときれいだった。まだ誰の手も触れていないみたいに、きれいだった。
「花嫁さんの美しさにしてやられてました」
 俺が正直に打ち明けると、藍子は花嫁さんの格好のまま、いつものようなはにかみ笑いを見せた。
「そんな、誉めすぎですよ。隆宏さんの方こそよく似合ってて、何だか見とれちゃいます」
 彼女の言葉だって嘘ではないだろう。ないはずだが、見とれた時間の長さは圧倒的に俺の方が長かった。べた惚れ具合では完敗、明らかに俺の方が心底惚れている。
 いや、本当、どうしよう。そんな藍子が本日いよいよ俺のものですよ。まさにつくづく今更だが、幸せを噛み締めている。まずいな、俺、確実にでれでれだわ。披露宴の間中、どうやって顔引き締めるか、対策を講じておくべきかもしれない。
 さしあたって唇を引き結んでみてから、俺は彼女に向かって手を差し出す。
 藍子は俺の手に自分の手を重ねるようにして、優しく握ってきた。指先はまだ冷たかったが、それでも挙式前のように震えてはいなかった。まずは一つ、やるべきことをクリアして、気持ちも少しずつ落ち着いてきたのだろう。
 彼女は左手の薬指にマリッジリングを着けていて、それがよく見えるようにとフィンガーレスのグローブを選んでいた。もちろん俺も指輪をしているから、手を繋げばかちりと、微かに金属の触れ合う音がする。それに気づいてか彼女が笑う。俺も、せっかく口元を引き締めていた努力が呆気なく無駄になる。
 あー、もう、こんなに幸せでいいんでしょうか神様。
 いいですよね。さっき正式に誓いも立てたし。
「写真、一枚いいですか」
 藍子の妹さんがカメラを構え、こちらに声をかけてきた。
「お二人で並んだところを是非! ……お姉ちゃん、目線こっちにちょうだい」
「……あ、うちも撮らないと。お父さん、カメラカメラ」
 うちの母さんも慌てて父さんをせっつき、いそいそと撮影に便乗する。それからは即席撮影会みたいな体で、親族一同から次々と写真を撮られた。そのついでに藍子は皆から口々に誉めそやされていて、本人はとても恥ずかしそうだったものの、どんな誉め言葉も今日の彼女には過分ではないと思う。
 もちろん俺も写真を撮った。新郎がカメラ持ってくるなんて、と母さんや姉ちゃんには呆れられたが、今日の藍子を形に残しておかないのはもったいなさすぎる。
 この真っ白なドレス姿を写真で見返す時、俺は今日感じた思い、抱いた感慨を全て思い出せるようでありたい。そして写真を見る度、彼女が本当に俺のものになったことを心から喜んで、改めて幸せを噛み締めるに違いない。何度でも、何度でもだ。

 披露宴の受付が始まってすぐ、約束通り霧島夫妻と安井が式場に到着した。
 連絡を貰ったので、こっちは迂闊に動けないし、とりあえず控え室に来てくれないかと伝えた。すると早速三人が現われ、藍子の姿を見るなり揃って深く溜息をついた。
「藍子ちゃん、すごーい! きれい!」
 ターコイズブルーのドレスを着た霧島の奥さんは、その色味にも負けないほど目をきらきらさせて、まるで飛びつくような勢いで藍子に駆け寄る。
 藍子も霧島夫人に対してはあどけない笑顔で応じていた。
「そ、それほどでもないですよ。誉められると照れちゃいます」
「だってすごく素敵です! いいなあ……いつまでも眺めていたくなります」
 もう一度感嘆の息をついてから、霧島の奥さんはしみじみ語る。
「藍子ちゃんなら和装も素敵だったんだろうな……。お写真、楽しみにしてていいですか?」
 そんなふうに言われたら出さずにはいられない。俺はすかさず言った。
「写真ならばっちり撮ってある。見ます?」
「わ、さすがは石田さん! 是非見たいです!」
 食いつきよく俺からデジカメを受け取る霧島夫人。
 彼女とは対照的に、霧島は信じられないという顔で俺を見る。略礼服姿で、髪型もいつもよりきっちりしている。そのせいか俺に対するツッコミもどことなく気負いが感じられた。
「カメラ持ってきたんですか、先輩! 今日はそんな暇ないでしょう?」
 緊張してんのかな。俺は和ませるつもりであえて平然と答えた。
「そう言ったって、今日みたいな日に撮らないでいつ撮るんだよ」
「それでこそ石田だよ」
 安井はどうやら誉めたつもりのようで、笑いながらそう言ってきた。霧島の結婚式の時と同様に、安井からは緊張の色や気負いは全く感じられない。略礼服もすっかり着慣れているのか、むかつくくらい自然に着こなしていた。
 何だかんだ言いつつも、霧島も安井も結局はデジカメのモニターを覗き込み、その中に写る藍子の色打掛姿を見ては誉めそやし、今のウェディングドレス姿を見てはまた絶賛した。
「いつも可愛いけど、今日は一段ときれいだよ。おめでとう」
 若干キザな言葉を安井がかけると、藍子は恥ずかしそうに答える。
「ありがとうございます。隆宏さんが素敵ですから、釣り合うようになりたいなって思ってて……」
「ばっちり釣り合ってる。似合いのカップルだ」
 さらっとそんなことを言う安井の横で、霧島も頷いていた。
「本当です。今日の先輩と小坂さんは、おとぎ話の王子様とお姫様のようですよ」
 藍子は誉められるも当然だと思うが、俺にまで触れられるといささかこそばゆい。反応に困る俺をよそに、安井は霧島を肘でつっついた。
「あ、早速間違ってる。もう『小坂さん』じゃないんだぞ、霧島」
 途端に霧島はぎくりとして、
「そうだった……。あ、藍子さん、ですよね」
 あたふたと言い直してみせる。とは言え奴は自分の奥さんすら結婚直前まで名字で呼んでいたような男、藍子を名前で呼ぶのは更にハードルが高かったようだ。あまりにもたどたどしい訂正に、安井が喉を鳴らして笑う。
「おいおい大丈夫か? 祝辞だってずっと『小坂さん』じゃ通せないだろうに」
「いや、原稿にはちゃんと『新婦の藍子さん』って書いたんですよ!」
 霧島は反論してから、何とも言えない表情で藍子へと視線を戻した。
「ただ……俺はずっと『小坂さん』って呼んできましたから、そうじゃなくなったのが何だか、まだ慣れない感じがして。すみません」
 それは特におかしくもない、普通の感覚だろう。彼女の戸籍上の名前が変わったからといって、周囲の認識まで一瞬で変わってしまうわけじゃない。実際に新しい名前が彼女に馴染むまでには、ある程度時間がかかるものだろう。その、慣れてない期間というのもまたいいものだと、俺は思うわけですが。
 藍子も霧島を見て、少しだけ寂しそうにしてみせた。
「霧島さんとお会いしたの、随分久しぶりな感じがします。まだそんなに時間も経ってないのに」
「本当ですね」
 ゆっくりと霧島が頷く。
「小坂さんが退職されてからというもの、営業課は何だか明かりが消えてしまったみたいなんですよ。おめでたいことですから、寂しいなんて言うのもおかしいでしょうけど」
 そうして自分でも切なそうな顔をしておきながら、俺の方をちらっと見て、
「まあ、一番寂しそうにしてるのは石田先輩なんですけどね」
 余計な一言もぶつけてきた。だから言うなよそれは。
 藍子が退職したのはちょうど今月の話だ。もっと言うならつい先週の話だった。皆には心底惜しまれていたし、ささやかながら送別会もした。そしてその後、俺たちは彼女がいなくなった営業課で一週間勤務してきた。はっきり言うが華のない職場になった。それはもう、一気にむさ苦しくなった。そして毎日のように見られた彼女のあの笑顔がどこにもないことに、何だかこう、胸にぽっかり穴が開いたような心境にさえなった。センチメンタルにもほどがある。
 まあ、直に家帰ったらあの笑顔がある、って生活がやってくるんですがね。それまでの一週間がやたら長くて辛かったってだけの話でした。だって俺、藍子なしじゃ生きてけない身体なんですもの。
「そりゃ俺だって寂しいは寂しい。でもな……」
 俺は肩を竦めながら答える。
「さすがに俺がそう口にしたら、誰のせいだって袋叩きにされるだろ」
「されますね。と言うか俺が率先してしますよ」
「間違いなく、誰が攫ってったんだって話になるだろうな」
 霧島と安井が同意を示した。
 だから俺はもう、寂しいとは言わない。心の中で思ってしまうのはしょうがないし、それが多少、顔や態度に出てしまうのだってやむを得ないことだろう。しかし俺はこれから可愛い妻を養っていかねばならないのだし、腑抜けた勤務態度ではいられない。そして辞めていった可愛い部下のフォローも最大限務めてみせよう。
「新婚生活さえ始まれば、寂しいどころか幸せしかない日々がやってくるからな」
 俺は胸を張って続けた。
「だからそういう気分も今日までってわけだ。どうってことない」
 すると霧島は溜息をつき、
「先輩はこんな日でも相変わらずなんですね。今日くらいは真面目にしてるのかと思ったのに」
 途端に奥さんからくすくす笑われていた。
「でも映さん、石田さんがいつも通りでよかったでしょう? 話していたら映さんの緊張も、随分解けたみたいですもん」
 指摘を受けて霧島はちょっと慌てたようだ。
「それは……その、先輩の平常運転っぷりに影響されただけですよ!」
「よしよし、感謝しろよ霧島。お礼は祝辞でちょっと盛ってくれる程度でいいぞ」
「先輩も何言ってんですか! ありのまましか言いませんよ俺は!」
 奴の思う『ありのまま』がどの程度か、気になるところではあるが――。
「石田のありのままの姿なんて発表したら、まず笑いの絶えない披露宴になるな」
 安井の言葉にも若干引っ掛かりはしたが、それで藍子までちょっと笑ってくれたので、よしとしておく。
 笑いの絶えない場の方が、晴れの日にはちょうどいいだろう。
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