Tiny garden

比翼の鳥(1)

 その日、藍子はばりばりに緊張していた。
「心配かけてすみません……」
 晴れの日用に入念に施された化粧のおかげで、顔色の悪さは目立たない。だが手を握ってみたら、驚くほど冷たく、震えていた。控え室の中は確かに冷房が効いているものの、色打掛の一揃いを着込んだ彼女が寒がっているはずはない。
「あんまり気負うなよ。どうせすぐ済むんだから」
 ひんやりした手の甲を軽く撫でてやれば、藍子は俺を見てぎくしゃくと微笑む。こっちを見上げる仕種も緊張のせいか、あるいは衣裳のせいか、どことなくぎこちなかった。角隠しも打掛も意外に重たいらしく、支度を終えた彼女は椅子に座って、体力を温存していなければならなかった。
「そ、そうですよね。それはわかってるんですけど」
 その不安げなそぶりも、和装だと淑やかそうに見えるのが救いだろうか。
 大体、わかったと言いつつも藍子はわかってなさそうだ。きっと『やるからには上手くやらなきゃいけない』などと思い込んでいるに違いない。
 俺は藍子のそういう性格をよく知っていたし、当日のこの気負いようももはや織り込み済みというやつだった。前々から、その時には俺にできる限りのフォローをして、彼女を和ませてやろうと思っていた。だからこそ早めに支度を済ませた後、彼女のいる控え室へとまるで王子様のように駆けつけた。本番まではそれほど余裕もなかったが、それでも時間の許す限り彼女の傍にいてやろうと思っていた。
 ところで、藍子と同様に、藍子のお父さんも緊張なさっているみたいだった。
「お父さんにまで藍子の緊張がうつってきたぞ……。はあ、何だかそわそわするな……」
 モーニングを着込んだお父さんが控え室内をうろうろしている。時々胸に手を当てて、いかにも切羽詰まった様子で溜息をついていた。
 その姿を、黒留袖を着た藍子のお母さんがおかしそうに見やる。
「もう、お父さんまで硬くならなくたって」
「そうは言っても、可愛い娘の晴れ舞台だぞ。緊張しない親なんているものか」
 お父さんの言葉に、赤い振袖姿の妹さんが苦笑を漏らす。
「それじゃ逆に、お姉ちゃんにお父さんの緊張がうつってるってことじゃないの?」
 指摘を受けてお父さんは、得心したという顔つきになった。
「そうかな。もしかするとそうかもしれんな」
 子は親を映す鏡と言うものだが、藍子の気負いすぎる性格も真面目さも、このお父さんから受け継いだのだろうとよくわかる。
 微笑ましく思いつつも、笑っては失礼だろうと俺は唇を結んだ。でも笑いを堪えたのを藍子には見抜かれたようで、彼女はそこで微かに笑い声を立てた。口元の動きもまだ硬くはあったが、それでもさっきまでよりはずっと明るい表情をしていた。
「じゃあ私たちは席外そうよ。どうせもうじき式も始まるし、ここは旦那さんに任せてさ」
 妹さんは藍子の方をちらっと見た後、そう言った。そしてお父さん、お母さんと共に控え室を出ていく。
 扉を閉める直前、俺に向かって声をかけてきた。
「お義兄さん、よろしくお願いしますね」
 当たり前だが妹さんからは緊張の色が窺えない。実にさっぱりとした性格は今日のこの日でも変わりないようだった。お義兄さん、という呼び方も今初めてされたものだったが、まるで違和感なく聞こえた。
「お任せください」
 俺は会釈と共にそう答えつつ、藍子のまだ冷たい手を握り直した。
 挙式本番まであと少しというところだが、新郎として果たすべき務めはもう始まっている。

 九月最終週の土曜日、俺と藍子はいよいよ結婚式当日を迎えていた。
 藍子はこの通り、気負いすぎてがちがちになっているが、俺は割と平常心をもって臨んでいるつもりだった。スケジュールがみっちり詰まっているとかえって頭も冴えるもので、これからの数時間についての段取りはほぼ記憶しているし、上手くできるだろうという楽観的な予測も立っている。うちの両親も俺については全く心配していないようで、二人揃って『それより藍子さんの晴れ姿が早く見たい』とばかり口走っていた。もっともこちらは、過去に姉ちゃんが式を挙げていた経験あってこその余裕と言えるのかもしれないが。
 入籍自体は午前中のうちに済ませてきた。だから今の彼女は既に小坂藍子ではなく、石田藍子である。
 名字が変わるというのもなかなか、ロマンのある事象だ。俺が変わったわけじゃないから藍子の感じ方はまた違うのかもしれないが、これから何かにつけて『石田さん』と呼ばれてしまう藍子を想像するだけでご飯が何杯でも食べられる。きっと大いに照れて、慣れてない感じで初々しく反応してみせるに違いない。
 また新しい名字もしっくり馴染むのがいいよな。石田藍子。断言するが違和感ゼロだ。まるで生まれた時からこの名前になると決まっていたかのように自然だった。これはもはや運命ではないだろうか。名前の馴染みようからして、俺たちの相性は最高だったという何よりの証拠ではないか。
 ――という話を、報告も交えてメールで安井に送ったら『そんなありふれた名字に馴染まない名前なんてそうそうないだろ』と突っ込まれた。ありふれ具合ならお前だっていい勝負のくせに。
 でもその後、お前が平常運転で安心したよ、とも言われた。
 そう、俺はこう見えても平常運転である。多少舞い上がっているかもしれないが、それは藍子絡みならそう珍しくもないというか、むしろこのくらいが普段通りだ。だから問題はない。

 藍子の方も、恐らく問題はないだろう。
「さっき安井からメールがあった」
 一時だけ二人きりになった控え室で、俺は勢い込んで切り出した。あまり時間がないから、早めに藍子を元気づけたいと思った。
「どうやら霧島も緊張しまくってるらしい。さっきから奥さんに励まされ続けてるって話だ」
 俺が見知った名前を出したからか、藍子が柔らかい表情を浮かべる。
「スピーチの練習、何回もなさってるって話でしたもんね」
 あいつもまた大層な真面目っ子なので、こういうめでたい席で大役を任せられたら、それはもう『上手くやらなければ』と気負ってしまうようだった。しかし真面目であるということは、それだけ真剣に取り組んでくれているということでもあるだろう。だから本番までにはきっちり仕上げてくるはずだし、あいつについては大して心配もしていない。霧島だって、こんな日に俺にやきもきさせたいとは思ってもいないだろう。
「霧島さんだったらきっと大丈夫ですよね。すごくしっかりしてますし」
 藍子もそう言っている。
 俺は笑って頷く。
「だよな。真面目な奴だから、こういう時は信頼できる」
 そういう奴じゃなきゃ、こっちもスピーチなんて頼まない。きっとここに着いて俺の顔を見る頃にはけろっとしているに違いない。
 その霧島夫妻と安井は、挙式が済んだ後でこちらへ来てくれる手はずとなっていた。収容人員の都合もあり、挙式だけは親族のみで行うことになったからだ。三人から『披露宴前に顔を見ておきたい』と言ってもらっていたので、その為の時間を少しだが作ることにしていた。
 もっとも、顔を見たいのは俺と藍子も同じなのかもしれない。俺はまあ、霧島にしろ安井にしろとうに見慣れた顔だしそれほど見たいってわけでもないが、あいつらの顔を見たら藍子の緊張もかなり解れるだろうし、霧島の奥さんなら更に上手い励まし方を知っていることだろう。
 その為にもまずは、俺たちの力で挙式を乗り越えなければな。
「いいもの見せてやろうか」
 俺は持参していたデジカメから、ある画像を呼び出した。
 その中にはデータとして彼女の写真が保存されている。俺が趣味で撮ったものではない。入社してから毎年度、春になると撮ることになっている名刺と社員証用の写真だ。彼女の分は三枚ある。入社直後のルーキー時代の写真、二年目に撮った写真、そして今年の春に撮った、半年も使うことはなかった三年目の写真だ。どれも俺が撮影した。
 ルーキーだった頃の彼女は写真撮影一つにも、ちょうど今みたいにがちがちにあがっていた。試行錯誤の末に撮った一枚はやっぱり表情が硬く、愛嬌も可愛さも目減りしたいまいちな出来だった。おかげで課の連中には俺のカメラの腕を疑われる始末だ。だったら撮ってみろ、と言ってやりたかった。どうせ誰が撮ったって、藍子の可愛さを百パーセント写真に残すことなどできっこない。
 一年目、まだ二十三歳だった頃の藍子の顔を見せると、モニターを覗き込んだ今の彼女がおかしそうに吹き出した。
「あ、この写真、まだ持ってたんですか」
「記念になるからな。せっかくだからずっと取っておくつもりだ」
 本当はもっと違う写真があればよかった。彼女のプライベートでの可愛さを、もっと写真に残しておけばよかったって、今更ながら後悔している。そりゃ俺の腕じゃ彼女の愛嬌も可愛さも完璧に収めることはできないだろうが、皆に散々失敗だと言われた証明写真でさえ、今見れば十分可愛くて、いとおしい。
 だから最近は写真を撮りまくるようにしている。今日だって、そのつもりでデジカメを持ってきた。結婚式当日の新郎新婦は分刻みのスケジュールを抱えて、そんな暇はないものだと聞いていたが、それでも何枚かくらいは、自分でも撮っておきたいと思った。
「今も、あの時とそんなに変わらない顔してるな」
 モニターの中のルーキーな彼女と、美しく着飾った今の藍子を見比べてみる。白粉をはたかれ、唇をくっきりとした赤に塗られた彼女は、微笑みながら首を竦めた。
「本当ですね。私、あんまり成長してないなあ……」
 しかし、彼女が全く変わっていないかと言えばそうでもない。現に俺のデジカメの中で、入社二年目の彼女はルーキー時代よりも緊張せず、穏やかな面持ちで写っているし、三年目の彼女は更に慣れた様子で撮られている。こうして三枚を見比べてみると、藍子も変わっていくんだなと感慨深くもなるし、変わっていく彼女をこれからも傍で、もれなく見届けたいものだとつくづく思う。もちろん写真にも忘れず残しておこう。
「ちゃんと成長してるだろ。今が一番、きれいだ」
 とりあえず、口ではそう言っておく。嘘ではないし、それどころか心からの本音だ。
 藍子は俺を見上げてぱちぱち瞬きした後、困ったように笑った。
「あ、あの、嬉しいんですけど、今言われると余計緊張しちゃいます」
「少しくらいは緊張してた方がいい。初々しくて可愛い花嫁さんに見えるからな」
「そうでしょうか……? 隆宏さんにそう言ってもらえると、気が楽になります」
 そしてほっとしたように、ずっと強張っていた肩をゆっくり下ろす。
 シャッターチャンスとばかりにここで一枚撮ってみたら、デジカメのモニターにはいくらかリラックスした顔の、初々しくも可愛い花嫁さんが収まった。角隠しの下でほんのちょっとだけ微笑んでいる彼女は、藍地の色打掛が目に鮮やかで、華やかながらもオフショットらしいとてもいい写真だ。
「ほら、可愛く撮れた」
 俺はその画像を彼女にも見せた。
 着飾った自分自身を眺めた藍子は、やはり面映そうにしている。
「何か不思議な感じです。私なのに、私じゃないみたいな……」
 それから俺を見上げて、
「隆宏さんは撮らないんですか? せっかくとても素敵なのに」
 と聞いてくるから、俺は黙ってデジカメを彼女に渡した。藍子は椅子に座ったまま俺の姿を撮り、すぐにモニターをこちらに見えるよう傾けてくれた。
 本日の俺は紋付羽織袴を着ている。これが自分で言うのも何だが驚くほど似合っていて、可愛い花嫁さんの隣に並んでも全く見劣りしない。和装もなかなかいいものだと思う。
「あとでこの写真、プリントさせてください」
「いいけど」
 俺は答え、彼女が嬉しそうにするのをくすぐったい思いで見下ろす。
「でも、結婚してからもお互いの写真を持ってるっていうのもな……」
「おかしいでしょうか?」
「おかしくはない。どんだけベタ惚れなんだ、って思うくらいだ」
 それだって今更、言葉にするようなことでもないか。
 藍子がもじもじと睫毛を伏せたので、キスでもしておこうと思ったが――あいにくと彼女の唇にはしっかり紅が塗られていたし、白粉のせいで頬擦りもできない。
 だからやむを得ず彼女の手をもう一度握ると、こちらに引き寄せてから手の甲に軽くキスした。
「……これ、和装ですることじゃなかったか?」
 してしまってから、今の構図が服装とはそぐわない気がして尋ねたら、藍子は気恥ずかしさにか目を潤ませながら答えた。
「えっ、あ、私は別に構いません。おかしくないと思います」
 そう言ってもらえたなら問題はない。黙ってもう一度、しておいた。

 挙式前のそういうやり取りで、いくらか緊張は取れただろうか。
 ホテル内の神殿で挙げた式はつつがなく進行した。雅楽が流れる厳粛な雰囲気の中、藍子は三三九度の盃を両手に乗せた時、少し震えているようだったし、玉串を奉げた時もやはりぎこちなく震えていた。でも表情は真剣で、いつも真面目な彼女らしくきりりとしていたし、そして思っていた通り初々しい花嫁に見えた。
 ここの神殿には天窓があり、自然光を採り入れられるようになっていた。だから式の間中、神殿には昼下がりの柔らかい日光が差し込んでいて、古式ゆかしい内装も、淑やかで初々しい花嫁も、そして俺自身もずっと日差しに包まれていた。今日が見事な秋晴れであることを、神様に感謝せずにはいられない。
 門出の日に、まさにふさわしい空模様だ。
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