Tiny garden

忘れられるはずもない(3)

 夏に入ると、時の流れは一層加速した。何もかもあっという間に過ぎていった。
 まず、俺が三十二歳になった。もはや三十代でいることには慣れきってしまって、今年も特に感慨や改めて思うところはなかったが、藍子が去年約束した通りちゃんとお祝いしてくれたので、とても幸せだった。
 俺の誕生日を過ぎると、今度は毎年恒例の繁忙期がやってきた。当たり前だが俺が結婚するからといってご祝儀代わりに仕事量を減らしてもらえるはずはなく、今年の夏も普通に仕事は多かったし、忙しかった。彼女の方はそれに加え、退職に備えての引き継ぎなどもあったから余計慌しそうだった。
 もっとも、今のうちに頑張っておかないと九月の有給がいただけなくなってしまう。式自体は土曜にやるので休みはなくてもいいのだが、新婚旅行は平日に休みを取って行く予定だった。ここで挫けたらその予定も楽しい時間も水泡に帰してしまう。
 結婚式の準備はもうほとんど整っていたから、気兼ねなくというのも変だが、ひとまず仕事には集中できた。俺は忙しい中でも藍子とメールや電話で連絡を取り合い、心の潤いだけはきちんとキープしながら繁忙期を戦い抜いた。

 ところで、繁忙期の合間には恒例のお盆休みが存在している。
 俺としては今年も是非二人一緒に過ごせたらと思っていたが、去年はこっちの帰省に付き合ってもらっていたし、今年もとなるとさすがに藍子にも、藍子のご両親にも悪い。それに結婚式まであと一ヶ月と迫っている時期でもあったから、お互い下手に遠出して体調を崩したらまずい。そしてそういう時期だからこそ、藍子は家族水入らずで過ごす時間も欲しいと考えていたようだ。
「もちろん、一日くらいは隆宏さんと過ごせたらいいなって思ってるんですけど」
 彼女は申し訳なさそうにしながらそう言ってくれたが、何だかんだで結婚まであと一ヶ月、それ以降はいくらでも二人でいられる。今のうちにゆっくりとご両親と一緒の時間を過ごしておく方がいいだろうと、俺は彼女の意向に合わせることにした。一応、暇ができたら連絡してくれとは言っておいた。

 そういうわけで、俺は独身最後のお盆休みをのんびりと過ごした。
 今のうちに済ませておくべき買い物を済ませ、愛車の手入れもした。もうじき新妻を迎え入れる部屋の掃除にも時間をかけた。本当は今年で引っ越すつもりでいたのだが昨年度末は忙しく、他の物件を見に行く余裕がなかった。しょうがないので今年は契約を更新しておいたのだ。藍子は今の部屋にことのほか愛着があるらしく、更新を喜んでいたのが印象的だった。それならこちらとしてもなるべくきれいに磨いておいて、新しい家族を歓迎しなければならないだろう。だから掃除は特に頑張った。
 それから――これは割とどうでもいいことかもしれないが、同じくまだ独身で、俺と同じようにお盆休みをのんびり過ごしていた安井と二人で飲みにも出かけた。安井曰く『新婚期間にお前を連れ出すと奥さんに悪いから、今のうちにな』ということだそうだ。
 そうして男二人で飲みに行った先で、俺は安井から全く初耳の、驚くべき報告を受けた。
 奴の報告の詳細については『まだ誰にも言わないでくれ』と釘を刺されてしまったので、俺の胸にしまっておいてある。別に悪い話じゃないし、と言うか半ばめでたいような話だし、藍子が聞いたらまるで自分のことみたいに喜んでくれるだろう。だから本当は言いたくて仕方がないのだが、口止めされている以上は守らなくてはならない。そのうちどこかに穴でも掘って、おとぎ話よろしく叫んでおこう。
 とは言え、この件が安井自身によって公になる日もそう遠くはないだろう、とも思っている。

 お盆休みはそんなふうにして時に有意義に、時に衝撃的に過ぎていった。
 だが半分過ぎた頃にはもう、そろそろ藍子の顔が見たい、藍子分が足りないと感じ始めていた。
 それは安井にあてられたから、というほどではないんだがとにかくいろいろと聞かされたせいでもあるし、俺という人間が藍子なしでは生きられない身体になってしまっているからでもある。つまり彼女には責任を取る義務がある。もっとも藍子なら、義務なんて言わなくても進んで責任を取ってくれることだろう。
 するとお盆休みの終盤、タイミングよく彼女から連絡があった。
 今日お時間ありますか、という問いにかぶりつくような二つ返事で答えたところ、電話の向こうの彼女は恐る恐るといった調子で切り出してきた。
『あの、迷惑じゃなかったらでいいんですけど……妹が一言、ご挨拶がしたいって言うんです』

 小坂家の最寄り駅のすぐ近く、今風な雰囲気のカフェ店内で、俺は藍子の妹さんと初めて顔を合わせた。
「初めまして、石田さん。姉がいつもお世話になっております」
 お姉さんによく似たはきはきした挨拶の後、藍子の妹さんは面を上げた。
 さらさらの髪を顎のラインで切り揃えており、小坂家のリビングにあった写真よりも更に活発そうな印象を受けた。顔立ちは藍子がお父さん似なら、妹さんはお母さん似のようで、表情は若さのせいもあってかやや勝気そうだ。それでも姉妹が並んで座ると、どこがどうと具体的には言えないが、そこはかとなく雰囲気が似ていて、姉妹だなとわかるようになっていた。
「いえ、こちらこそお姉さんにはお世話になっております」
 俺がそう応じると、妹さんは少しだけ申し訳なさそうにした。
「ご挨拶が遅れてすみません。本当はもっと早くに来て、お祝いを言いたかったんですけど」
 女子大生である妹さんは、現在も実家を離れて一人暮らしをしている。おまけに就職活動中で忙しい身でもあるらしい。
 それで先だっての親族顔合わせには同席しなかったが、今回夏休みを利用して帰省したので、ついでに姉の結婚相手に挨拶をしておこうと思ったのだそうだ。
「石田さんのことは姉からたくさん話を聞いています。話通りの、とても優しそうな方ですね」
 妹さんが歯切れのいい口調でそう言ったせいか、あるいはその言葉に俺が『案の定』という顔をしてしまったせいか、直後に藍子が挙動不審になった。
「あのっ、別におかしなことは言ってないですから。……言ってないよね?」
 後半の問いかけは妹さんに向けてのものだ。
 すると妹さんは軽く笑んで、
「うん、おかしなことは言ってなかったね。お姉ちゃんはあんまり惚気てくれないし」
 隣に座る藍子をより一層慌てさせていた。
「するわけないよ、そんなこと……ね、隆宏さんに変なこと教えないでね?」
 おかしなこと言ってないんじゃなかったのかとツッコミたくもなったが、藍子の妹さんは楽しそうにくすくす笑った。
「わかってるよ。お姉ちゃん、そんなにあたふたしなくてもいいのに」
 ご覧の通り、小坂姉妹は妹さんの方が一枚も二枚も上手らしい。
 そして二人はとても仲がいいようだ。揃ってケーキセットを注文し、違う種類のケーキを頼んだ後、それをごく当たり前のように一口ずつ交換し合うという仲睦まじさを見せつけられた。
「お姉ちゃん、一口ちっちゃくない? もっと持ってってもいいよ」
「ううん、このくらいで大丈夫。あんまり食べるとなくなっちゃうでしょ」
「でも私は結構貰っちゃったし、お姉ちゃんももう一口食べなよ」
「じゃあ余ったらでいいから。あとで貰うね」
 妹さんに対して優しく微笑む藍子は、まさに姉の鑑だと思う。
 いいよなあ、こんなに優しいお姉さんがいて……。弟としてありとあらゆる辛酸を舐めてきた俺には藍子の妹さんが羨ましすぎて歯軋りしたくなるほどだった。今まで話には聞いてきたが、こうして目の当たりにすると、こういう姉って本当にいるんだなと実感させられて複雑な思いに囚われる。一体、前世でどんな善行を積んだらこんな姉の下に生まれてこられるんだろうか。
 しかし、藍子はもうじき俺の嫁だ。
 それは間違いなく、優しい姉を持つこと以上に幸せな話だろう。ということで満足してここは気を落ち着けておく。
「あ、そうだ」
 羨望の眼差しを送る俺の前で、ふと妹さんが居住まいを正した。俺を見てにっこり微笑む。
「石田さんにお会いしたら、私、お詫びしなくちゃって思ってたんですよ」
「お詫び?」
 俺より先に、藍子が聞き返した。
 すると妹さんはお姉さんに少し似たはにかみ笑いを浮かべ、お姉さんのティーカップを持つ左手に目をやる。そこには今日も、あのピンクダイヤモンドの指輪がある。
「もう去年の話ですけど、姉が石田さんから指輪をいただいたって聞いて……」
 妹さんは慎重に切り出してきた。
「私、石田さんの先を越しちゃったのかなって思ってたんです。ちょうどその直前、姉にネックレスを贈っていたので」
 そこまで話すと、妹さんは藍子に説明するように声を落とした。
「ほら、あの真珠のやつ」
 俺もそれで思い出した。
 まさにプロポーズをしたその日、待ち合わせ場所に現われた藍子は珍しく細いチェーンのネックレスをつけていた。小さな真珠が一粒、ころんと下がった可愛いやつだった。
 藍子も確かに、『妹に選んでもらったんです』って言っていたな。
「石田さんもご存知でしょうけど、うちの姉は慎重派って言うか、用心深いって言うか、とにかくあんまり男の人と出歩くようなタイプじゃないんです」
 妹さんの言葉に、藍子は苦笑いを浮かべる。
「慎重だからってわけでもなかったんだけど……」
「……とにかく。その姉が頻繁にデートをするようになったって聞いたから、私は、これを逃したら大変だとばかり、もっと男性受けのする、華やかな格好をさせなくちゃって思ったんです」
 しっかりした性格を窺わせる口調で妹さんが続けた。
「それでちょうどバイト代も入ったから、あのネックレスをプレゼントしたんですけど……タイミングもよくなかったですよね。石田さんが指輪を姉に贈ったその直前で、二人の間に割り込んだみたいで、まずかったかなって。すみません」
 謝ってもらっておいて何だが、俺には藍子の妹さんの懸念がいまいちぴんと来なかった。そりゃ、俺より先に指輪を贈られたというのであれば多少気にしたかもしれないが、ネックレスだし、真珠だし、そして何より贈った意味合いが違う。そこまで気にしてもらう理由もないと思う。
「割り込まれたなんて思ってませんよ。むしろ、ご姉妹で仲が良くて羨ましいです」
 俺は百パーセント混じりっけなしの本音で答えた。
 それが伝わったかどうか、妹さんは少しだけ表情を和らげる。
「ならいいんですけど、姉にはもう石田さんがいるのに、私が出しゃばっちゃったかと気にしていたので……」
「隆宏さんはそんなふうに思う人じゃないよ。大丈夫」
 藍子が保証するように言ってくれたのが、俺には嬉しかった。
 妹さんも今度は嬉しそうに笑み、それからふと携帯電話を取り出す。指先で操作しながら、
「それで、石田さんにお会いしたら、是非見せたいって思ってたものがあるんです」
 と口にした。
 操作中の画面を藍子が隣から覗き込む。途端、彼女は気まずそうな表情を浮かべた。
「えっ、いいよそれは見せなくても」
「どうして? いい写真じゃん、見てもらおうよ」
「や、ちょっと待って!」
 藍子の制止も聞き入れず、妹さんは携帯電話の画面を俺に見えるように向けてきた。
 そこには細くて可愛い女の子の手の画像が呼び出されていた。左手だった。薬指にはピンクダイヤモンドの指輪が輝いていた。
 手の主は画面内に写り込んでいなかったが、俺にはその手が誰のものか一瞬で把握できた。たとえ指輪がなくたって確実にわかる自信がある。でも――その写真がどういう意味を持つものかは、すぐには掴めなかった。
「これ、姉が私に送ってきた画像なんです。石田さんから貰ったんだよ、って」
 怪訝に思う俺に、妹さんがにこにこと説明してくれた。
「さっきも言いましたけど、うちの姉は慎重派ですし、あんまり惚気たりもしてくれないんですよ。だからこういう報告をくれたのも珍しくて。きっと、よっぽど嬉しかったんだと思います」
「だって……初めてだったから……」
 藍子がもじもじと、何か言いたそうにしている。こっちをちらっと見たものの、すぐに目を伏せてしまった。
 小さな耳がすっかり赤くなってるのが可愛い。
 そんなお姉さんを優しく見守りつつ、妹さんは尚も言う。
「石田さんにお会いしたら、このことはお伝えしなきゃって思ってたんです。プレゼントの先を越しちゃったのは私の方かもしれないですけど、でもうちの姉は、石田さんからの贈り物をすごく喜んでいたんですよ、って」
 写真に撮って、妹に送ってしまうほど、か。
 それはよかった。そこまで気に入ってもらえたなら、贈ったかいもあるというものだ。
 もちろん、藍子は贈り物に優劣をつけるような子ではない。きっと妹さんから貰ったものだってこの先、ずっと大切にしていくことだろう。俺も妹さんが抱くような懸念は全く持っていなかったし、順番にこだわるつもりもない。
 ただ、藍子があの指輪を気に入ってくれたことがとても嬉しい。
 そしてその時の画像を、一年近く経った今でも妹さんが保存しているということに、俺も様々な思いを抱いた。
 俺は自分の姉ちゃんが結婚する時、寂しいとか嫌だとかそんなふうにはこれっぽっちも思わなかったが、それでも『名字変わるんだよな』とは少し思った。姉ちゃんがもう『石田』じゃなくなることに、全く何にも感じなかったわけではない。
 藍子の妹さんも、きっと何か思うところはあるのだろう。ましてこんなに仲のいい姉妹だ。
「つくづく、あなたのお姉さんは可愛い人ですね」
 万感の思いを込めて俺は言った。
 藍子も藍子の妹さんもほぼ同時に目を瞠る。ただしその後の反応は正反対で、藍子が恥ずかしそうに目を逸らせば、妹さんは声を立てて笑う。
「そう思いますよね? 自慢の姉なんです」
 それからほんの短い間、瞬きほどの速さで寂しそうにして見せた後、深々と頭を下げてきた。
「石田さん。姉をよろしくお願いいたします」
「お任せください。お姉さんは必ず幸せにします」
 俺も頭を下げて誓った。言うまでもないことかもしれないが、それでもこういうことこそきちんと口に出して言っておかなければならない。

 その後、小坂姉妹はじゃれ合いながら仲良く帰宅してしまったので……。
 俺はもう一つ、しっかり言っておかなければならないと思ったことを、後ほど電話で伝えた。
「お前、本っ当に可愛いなあ……!」
『な、何ですか、急に』
 電話の向こうで藍子はうろたえていた。急にも何も、どうして俺がそう言い出したかはカフェでのやり取りで十分わかっているはずだが、もしかするとしらを切るつもりなのかもしれない。
 しかし無駄だ。俺はもう、あの写真を自撮りして妹さんにいそいそと送信する藍子の姿を想像するだけで、一生にやにやできると思う。
「お前があの指輪、そこまで気に入ってくれたんだったらよかったよ」
 俺がそう告げると、藍子は息を呑んだようだ。微かな呼吸が聞こえた後、小声で伝えてきた。
『嬉しかったんです』
 電話越しにやり取りするのがもどかしくなるような、少し震えた言葉だった。
 思わず少し笑いつつ、俺はこれからの未来に想いを馳せる。この電話越しの距離さえなくなる日がもうじきやってくる。俺は三十二になったし、藍子は二十五歳になった。いろんなことが少しずつ変わっていって、その変化を寂しく思う人もいるかもしれない。でも、俺は藍子を幸せにする。それは義務でもあるし、特権でもあるし、俺にしかできないことでも、俺が生涯かけてやりたいことの最もたるものでもある。
「じゃあ、遅くなったが……それが正式な婚約指輪だ」
『はい。大切にします』
 藍子が改めて断言してくれた。
 もう十分大切にしてもらっていたが、そうやって言葉にしてもらうのはやはり、いいものだ。一人にやにやする俺に、しかし彼女はおずおずと言った。
『でも、あの写真のことは、今思うと恥ずかしいので……忘れてくれませんか?』
「無理な話だな」
 俺は即答した。
 お前の可愛い思い出は、どれでももれなく、忘れられるはずもない。
PREV← →NEXT 目次
▲top