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お前の為だよ(2)

 結婚したらできなくなりそうなことを、俺なりに考えてみた。
 まず思いつくのは、藍子を仕事帰りに拉致って連れ帰ることだ。きちんとデートの約束をして会うのも楽しくていいものだが、思いつきで『今日泊まってけ』って連れ帰ってくるのもそれはそれでいい。予定通りに起きるお楽しみよりも、突発的に起きる楽しみの方が刺激的な感じがするよな。またほんの少しだが悪いことをしてる気分になれるのもよろしい。あんないたいけなお嬢さんをまっすぐ家に帰らせないなんて、などと少々背徳的な ことを思ってみたりもする。
 しかし一方で、俺は社内恋愛をもう十分すぎるほど堪能した気分になっていて、むしろこの先に待ち受ける新婚生活の方に期待が膨らみまくっている。拉致って帰れないことなんて大した話じゃないくらいに思えてきた。
 だって結婚したらいいこと尽くめだ。わざわざ拉致ってこなくても家に帰ればいつも藍子がいて、朝起きても当然のように隣にいてくれて、休みの日に二人の時間を過ごした後、身を切られるような思いで家まで送っていく必要もなくなる。忙しい時に電話やメールのやり取りだけで連絡取り合って、余計寂しい思いをすることだってなくなる。三年目を迎え、様になってきたスーツ姿を見られなくなるのは実に惜しいが、それならたまに家でも着てもらえばいいだけの話だ。スーツも含めて、彼女にいろいろ着せてみた姿を拝めるのはまさに夫となる人間の特権だろう。いたいけな彼女は結婚後もいたいけな妻になってくれそうだし、少しの背徳はいくらでも味わえるはずだった。
 というわけで、この件は微妙なところだ。
 彼女の退職まであと五ヶ月、もちろん隙を見て拉致ったり連れ帰ったりはするつもりだが、独身最後の誕生日を飾るイベントとしてはいささか新鮮味がないように思った。
 それにせっかくの彼女の誕生日だ、今年は仕事と完全に切り離して過ごしたい。去年は忙しすぎて同伴出勤くらいしか楽しみがなかったから、今年はちゃんとやりたい。

 他に思いつくのは――デートの内容だろうか。
 結婚するとなるとお互いに対する金の使い方は変わってくるだろう。俺が藍子を扶養する立場になるのだし、子供作るなら将来を見据えて貯蓄もしなくちゃならない。独身時代みたいなノリで遊び歩いたりはできなくなるかもしれない。
 とは言え俺たちはそもそも金のかかる遊びはしない方だし、二人でいればとりあえず楽しいし幸せ、という安上がりかつ崇高な精神の持ち主でもある。今までだってデートの行き先と言えば買い物とか、飲みに行くとか、あとは俺の部屋でだらだら過ごすとかそんなものばかりだった。そういうのが結婚したからと言って変わるようには思えない。
 結婚したら行けなくなるデート先、ってのもあんまりないよな。定番のデートコースっぽい映画、ゲーセン、カラオケなんかは夫婦でだって普通に行くだろうし、いくつになっても付き合いたてカップルみたいに動物園だ水族館だと足を運んだって問題はあるまい。
 遠出をするにしたって、一緒に住んでたら朝起きてふと思いつきで『遠乗りするか!』って出かけることもできるだろうし、そういうの踏まえたら結婚後の方が遥かに楽しそうだよな。あー、早く結婚したい。
 ――参ったな。俺の頭ではそれらしいことが思いつかないようだ。

 俺が贅沢な悩みを抱えていた折も折、既婚者の先輩である霧島と軽く世間話をする機会があった。
 ちょうどいいとばかりに聞いてみた。
「お前、結婚する前にやっときゃよかった、ってことあるか?」
 すると霧島は案外真面目に考え込んでから、こう答えた。
「オーディオの、データの整理ですかね」
「どうせ奥さんに聞かせられないようないかがわしいのでも入れてたんだろ」
「先輩と一緒にしないでもらえます? 普通の楽曲データですよ」
 思いっきり軽蔑の目を向けてきた後で、霧島は記憶を掘り起こすようにしみじみと語る。
「結婚してみるまで気づかなかったんですが、二人でいると音楽を聴く機会がなかなかないんです」
「へえ。そういうもんなのか」
「案外そんなもんですよ。一人暮らしの時は家でも聴いてましたけどね」
 霧島の音楽の趣味は一途で、学生時代からずっとカラオケのレパートリーが変わっていないという話だった。ライブに行くほど入れ込んでいるわけではないらしいが、もうかれこれ十年以上、一貫して同じバンドばかりを聴き続けているらしい。そういう奴だから、音楽の趣味までは奥さんと共有できなかったのかもしれない。
 もしくは、あの明るい奥さんと話をするのが楽しすぎて、音楽聴くどころじゃないってとこか? こっちの方が正解っぽい気もするな。
「それでもたまに、仕事で遠くへ行く時用に編集したりするんですけどね。一人でパソコンと向き合って音楽聴いてるのって、何か寂しいなって思うんですよ。こういうのは本当に一人きりの時にするべきものだとつくづく感じました」
 そう語る霧島の表情はやけに幸せそうで、俺は話の中身はさておき、随分な惚気を聞かされたような心境になる。
 いいよなあ所帯持ちは。羨ましくて堪らなくなった。
「先輩も、身辺整理は結婚前に済ませた方がいいですよ。後で小坂さんを悲しませないように」
 真顔のアドバイスには若干むかついたが。何だこの上から目線は。
「うるせえよ。整理するような身辺なんて俺にはございません」
「それならいいですけど、大丈夫ですか? 部屋に、見せられないようなものがまだ残ってたりしませんか?」
「……多分ない」
 多分、ないと思う。でも一応、近いうちに確認しとこう。
 しかし言っておきますが、俺は藍子に対してやましいところ、後ろ暗いところは一つとしてありません。そうじゃなきゃ合鍵だって渡してない。あるのはただ、彼女に内緒で撮影した寝顔の画像データとか、そういう類のあれだ。
 それはさておき、俺が聞きたかったのはそういう意味の『できないこと』じゃなかった。
「お前も奥さんとデートとかするだろ」
 俺は更に尋ね、霧島から見るも腹立たしい照れ顔をうっかり引き出してしまった。
「しますよ」
「この野郎……! いちいちにやにやすんなよなあ」
「先輩のだらしない顔よりは遥かにマシだと思ってます」
 いいや、間違いなくどっこいどっこいだ。きっと第三者から見ればいい勝負に決まってる。
「それで、聞きたいのはそういう話なんだよ。デートの行き先って、結婚前と結婚後で何か変わったか?」
 話を戻してみる。
 俺と藍子がしたいのは、独身でなければできないようなことだ。そんなものが存在しないというなら、それでもいい。ただ後になって『やっときゃよかったな』って思うのは惜しいじゃないか。
「変わったことですか」
 霧島はしばらくの間、やはり真面目に考えていてくれたようだった。だが、やがて首を横に振る。
「いえ、特にはないですね。結婚したからって行動パターンが変わるわけじゃないですし」
「やっぱそうか……」
「あえて言うなら、あんまり夜遅くまで出歩かなくなったことくらいですかね」
 そう続けて、霧島は苦笑いを浮かべた。
「一人暮らしの頃はくたびれるまで遊び歩いても、帰ってからだらだらすればいいって気持ちでいましたけど。結婚してからは、家に帰ってからのこともちゃんと考えるようになりましたよ。外出して楽しく過ごすことと、帰宅後に普段の生活に戻ることが一続きになった、って感じです」
 一続きにか……。
 考えてみればそうだよな。結婚するってことは、それまでデートで会うだけだった相手とそのまま家に帰って、そのまま暮らしていくってことでもあるんだよな。いくら外で格好いいところを見せたり、気取ってみせたりしても、家に帰ると途端にだらしなくなるんじゃ幻滅もされるだろう。霧島の話に、俺はそこそこ納得していた。
「力一杯遊び歩けるのも今のうちだけなのかもな」
 独り言のように呟く俺を、霧島はやたらにこやかに眺めている。
「先輩の場合はとびきり若い奥さんを貰うわけですしね。寄る年波に負けないよう頑張ってください」
「二つしか違わねーだろ! お前だって今年で三十代突入のくせに!」
 俺のツッコミは霧島的にかなり痛いところだったと見え、奴はそこでぎくりとしたように頬を引きつらせた。
 そして今年三十二になる俺は、三十代のしょぼさをとうに痛感している。
「それに、俺と彼女とだってたったの七つしか違わない。いいか、七歳差なんて全然大したことないんだからな! 年の功によるアドバンテージがあるなんて思ったら大間違いだ!」
「……苦労したんですね、先輩」
 なぜか、霧島からは哀れみの目を向けられた。その言葉も事実ではある。

 結果的には霧島のおかげで、藍子の誕生日の計画はまとまりそうだった。
 後日、俺は藍子に奴から聞いた話を掻い摘んで聞かせた。当たり前だが身辺整理云々、の辺りは端折った。
「そっか……確かに遊び歩けるのも今のうちだけなのかもしれませんね」
 藍子もすっかり納得したようだ。うんうんと可愛らしく頷いている。
「まあ、結婚したから行けなくなる場所、なんてのはなさそうだがな。一日中ぶっ通しで遊んでくるってのは今じゃないとできないかもな」
 いくら若いって言ったって、藍子の体力も無限ではないだろうし。若くていたいけな妻を連れ歩くのも楽しいに決まっているだろうが、無理させて倒れさせたとあっては一大事だ。夫の沽券に関わる。
 これからはそういうふうに、家に帰った後のことを、当たり前みたいに考えるようになるんだろう。
「だからお前の誕生日祝いは、今のうちにぱーっと遊び歩くってことでどうだ?」
 俺の提案に、藍子も嬉しそうな顔をしてくれた。
「いいですね! 賛成です!」
「よし、じゃあ決まりだな。お前はどこに行きたい?」
「そうですね……」
 藍子は口元に手を当てて考え込む。考えながら、少し懐かしむような顔もする。
「思えば、隆宏さんとはあんまり遊びに行ったりってこと、なかったですもんね」
「そうだな。昔のお前は、普通にデートに誘ってもついて来なさそうな雰囲気だったし」
 一昨年、まだルーキーだった頃の小坂は今よりも更に真面目で、そしていささか石頭だった。上司と一緒に飲みに行くのはよくても、普通のデートに誘おうものならあたふたと遠慮されそうな態度ばかり取っていた。そういう彼女を誘い出すのに俺がどんな口実を用いたか、思い返せばしみじみしたくなる。
「そういえばそうですね。すみません」
 今の藍子はあの頃よりも遥かに大人っぽくなった。過去の自分を顧みてか、恥ずかしそうに打ち明けてくる。
「当時の私は、目上の方をそういう遊びに誘ったら失礼だって、思い込んでいたんです」
「誘ってくれてもよかったのに。俺なんてお前の誘いならのこのこついてったぞ」
「本当ですよね。私、石頭で随分と損をしたような気がします」
 しかしそれは、今からでも十分取り返しのつく話だ。
「じゃあいっそ、定番デートのフルコースと行きますか」
 俺は張り切って彼女に告げる。
「当日は映画見て、ゲーセン寄って、カラオケにも行って、他にも寄りたいとこあったらどんどん寄り道して、で最後に居酒屋でも行って、酒飲んで帰ってくる」
「いいですね! 楽しそう!」
 藍子はその計画にもノリノリで賛成してきたが、ふと心配そうに小首を傾げた。
「でもそれ、全部こなせるでしょうか。一日じゃ時間足りないかもしれないですよ」
「そこは柔軟に考えようぜ。こなせなかった分があったら、次に持ち越せばいい話だ」
 ありがたいことに俺たちには時間がある。何せこれからずっと一緒だ。
 結婚後はこんなふうに遊び歩けなくなるのかもしれないが、その分、出かける機会なんていくらでもあるだろう。もしも藍子の誕生日のうちに回れなかった行き先があったなら、それはまた後日にでも、時間をかけて一つ一つこなしていけばいい。
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