Tiny garden

お前の為だよ(1)

 俺は昔から、好きな子の写真を欲しいとは思わない方だった。
 だって写真は喋らないし、触れないし、そして本物よりつまらない。いくら俺のカメラの腕が素晴らしいからと言って、コンマ数秒の間隔で目まぐるしく変化する女の子の表情の全てを収められるわけじゃない。そもそも可愛い子というものはじっと黙っているよりちゃかちゃか忙しないくらい動いている方がずっと魅力的だから、静止画でその魅力を留めておくことなど不可能に近いのである。
 でもその傾向が、近年では変わりつつあった。写真に収められた一瞬の価値がわかるようになってきた。それがたとえ被写体にとってのベストショットではなくても、一度きりしか撮れないような瞬間的な表情、動作そのものを楽しめるようになった。もしかすると単に俺にとって、最高の被写体とめぐり会えたから、という理由に限るのかもしれないが――最近の俺は特に、写真を撮るのが好きになってしまったようだ。
 だからだろう。俺は今日一日だけで三桁近い写真を撮ってしまった。
 当たり前だがそれらは全て、『本日の藍子』フォルダに収まっている。

「意外と体力勝負でしたね」
 本物の『本日の藍子』は少しお疲れ気味だった。コーヒースタンドに立ち寄ると冷たいカフェモカを注文し、一口飲んでから長い溜息をつく。
「たくさん試着したからな。結構カロリー消費したんじゃないか」
 労いの意味も込めてそう告げると、くたびれた表情もぱっと輝く。
「だといいんですけど。もう残り半年を切りましたし、そろそろ追い込みの時期ですから」
 目まぐるしく変わるのは彼女の表情だけではない。年が明けてから、あっという間に時が過ぎた。
 三月の決算を乗り切った後、俺たちはいよいよ結婚式に向けての準備を始めた。
 まず式場として九月末のお日柄のいい日に市内のホテル式場を押さえた。神前式なら本格的に神社で、というのも選択肢のうちにはあったが、どちらにしても披露宴はキャパシティを考えるにホテルの式場が適当だと思われた。職場結婚ともなると職場の人間を招待しないわけにはいかない。俺は我が営業課のマスコットを掻っ攫っていく立場でもあるので――霧島曰く『赤ずきんちゃんが悪い狼に捕まった』とのことだが、あいつの口の悪さはさておき、職場の連中をお招きして一同から盛大なる祝福及び冷やかし及びやっかみを受けるのも、職場結婚の宿命というやつだ。口さがない霧島くんだって一度は通った道、俺が同じ轍を踏むのもまたさだめだろう。
 式場となるホテルの選別には藍子のお父さんがアドバイスをくれた。俺よりずっと顔が広いお父さんは市内各所のホテル結婚式事情にもそこそこ詳しく、サービスのよさ、立地、振る舞われる料理の美味しさなどを考慮して紹介してくれた。俺たちももちろん下見に行き、納得の上で決めていた。
 会場が決まり、その次にすることは衣裳選びだ。藍子は雑誌情報と多方面からのアドバイスを受けた末、挙式では色打掛を、披露宴ではウェディングドレスを着ることに決めたらしい。本日は休みを利用し、式場と提携しているドレスショップへウェディングドレスの試着に出向いていた。俺はその付き添い兼撮影係だ。おかげで『本日の藍子』フォルダが大層潤ってしまった。
「うーん……改めて見ても、やっぱり迷っちゃいますね」
 デジカメのモニターを二人で覗き込み、撮影したドレス姿を確かめる。今日は五着ほど試着していたが、藍子は目下決めかねているらしい。
「ゆきのさんの言ってた通りでしたね。写真撮っておいてよかった……」
「だな。教えてもらってなかったら俺たち、一着目であっさり決めてたかもしれないな」
「本当にそうですね」
 思い当たる節があるみたいに藍子ははにかんだ。
 ドレス選びに当たって、藍子は霧島の奥さんに様々な助言を貰っていた。何と言っても去年結婚したばかりの先輩だから、そのご意見には重みも新鮮さもある。
 そしてその先輩から賜ったありがたい三ヶ条がこうだ。
 一、即断即決しないこと。
 二、ドレスを着たら必ず写真を撮っておくこと。
 三、ドレスショップの店員さんは得てして誉め上手だが、決して妥協はしないこと。
 聞いた話によれば霧島の奥さんはドレス選びの際、試着する度に店員から絶賛の嵐だったらしい。かの夫人は知っての通り大変きれいな人だから、店員の誉め言葉もお世辞ばかりでは断じてないだろうが、しかし誉められすぎた霧島夫人は『自分が一番気に入ったのはどのドレスだったか』がわからなくなってしまい、一度目の訪問をほとんど無駄にしてしまったのだそうだ。結局その後、四、五回は通ってドレスを選ぶことになったと言っていた。俺たちも過去に衣裳合わせの際の写真を見せてもらっていたが、あの出来栄えに辿り着くまでには並々ならぬ苦労があったようだった。
 だからこその三ヶ条だ。ファーストインプレッションだけで決めないこと。試着時のテンションだけで選ぶのではなく、後で冷静な視点からも選別する為に写真を撮ること、そして少しでも物足りなさがあったなら、店員さんの誉め言葉に流されず、より理想に近づける為の労力を惜しまないこと。
 ありがたいアドバイスを胸に藍子はドレスの試着に挑んだ。俺たちが出向いたドレスショップの店員もやはり誉め上手で、藍子が新たなドレスを着る度に『きれい! よくお似合いです!』の連呼だったが、実際俺もそう思ったのでそこは致し方あるまい。何を着ても似合うし可愛いし清楚だし、ウェディングドレスともなればそこに高貴ささえ加わる藍子の魅力を本日は堪能しまくった。
 いや、堪能しただけじゃない。カメラにもしっかり収めたし、試着をする彼女にちゃんと感想も告げた。
 藍子は霧島夫人のおかげで割かし冷静に試着を終えられたようだ。撮り終えた写真をモニターから次々めくり、どうにか絞り込もうと試みている。俺も一緒に覗き込んでドレス選びを手伝う。
「私はやっぱり、Aラインが一番きれいでいいと思うんです」
「ああ、これはよかったな。清楚な感じで、お前の魅力がよく出てた」
「プリンセスラインは可愛すぎるかな……。でもこのドレスはきれいでしたよね」
「これも確かに似合ってた。お前も可愛いんだから、遠慮なく可愛いの着ればいい」
「もう少しスタイルがよかったらマーメイドでもよかったんですけどね」
「いや、十分だろ。腰のラインがいい感じに出てたし、俺はこれも好きだ」
「ロングトレーンのものも正直、憧れます。とてもゴージャスな雰囲気でしたよね」
「華やかで見栄えがするよな。これを着たところは気品があって大変よかった」
 ふと、藍子がカメラから顔を上げ、隣に座る俺を見る。おかしそうな表情をしている。
「隆宏さんもとっても誉め上手ですね!」
「……しょうがないだろ。俺の目には、全部素晴らしくよく見えたんだから」
 試着に臨む前、藍子からは『是非、忌憚のない意見をお願いします!』と言われていた。
 しかしながら俺は基本的に藍子が可愛くて可愛くてしょうがない人間だ。そして好きな女の子のウェディングドレス姿に文句をつけられるような男が、いや、そもそも不平不満を抱く男がこの世に存在するだろうか。もう、藍子が着たなら全部きれいだったし可愛かったしよく似合うように見えた。これが俺なりの、まさに忌憚のない結論である。
 それはそれとして、俺は今日一日で随分と新しい単語を覚えた。よその花嫁さんのドレスなんて全部同じように見えていたが、どうやら実際は大分型が違っていたらしい。Aラインは知っているし、マーメイドラインは名前から何となく想像がつくが、プリンセスラインとかエンパイアラインとかスレンダーラインとか、どこがどう違ってどういう特色があるのか逐一説明してもらわなければわからない。本日はそのレクチャーも受けまして、今の俺はほんのちょっとだけウェディングドレスに詳しい。来年辺りはもう忘れてそうな気もするが。
 何にせよ、藍子が一番気に入ったドレスを着られたらそれでいい。
「あとは、母とも相談してみます。客観的な意見も必要ですから」
 藍子が言ったように、本日の撮影データは小坂家のパソコンにも転送する手はずとなっていた。さすがに三桁全部を送信するわけにはいかないので、俺がドレスの構造がわかりやすい画像を厳選してお送りすることになっている。こういうのはやはり同性の意見の方が冷静だしためになる。俺は駄目だ、もう全部可愛くてしょうがない。既に全て永久保存したくなってる。
 もっとも、藍子は俺の意見も聞いておきたいらしく、
「一つだけ。あえて選ぶとしたらどれがいいですか?」
 と尋ねてきた。
「えー、全部いいから選べなーい」
 俺が可愛いふりをして選択を拒否すると、藍子は若いお嬢さんらしく呆気なく笑った。笑いながらも懇願してきた。
「そこを何とか! 隆宏さんの意見も聞きたいんです」
「藍子ちゃんってばもう……そんなに俺好みの花嫁になりたいか?」
「なりたいです!」
 彼女は他人のボケにマジで返事をするタイプなので、下手なことを言うとうっかりこちらがうろたえてしまう。今も、俺の方がどきっとさせられた。危うくデジカメを取り落とすところだった。
 動揺しながら俺が選んだのは、一番ゴージャスで華やかだったロングトレーンのドレスだ。スカート部分はAラインで、水面に波紋が広がったような繊細な仕立てのドレスは、藍子が着ると気品があって、まるで外国のお姫様みたいに見えた。生真面目で純粋な彼女には、品のあるデザインの方がより似合うようにも思う。
「わかりました。参考にしますね」
 藍子がやはり生真面目に頷いたので、俺は一応釘を刺しておいた。
「参考程度に留めとけよ。最終的には、お前が一番着たいものを着るべきなんだから」
「私も決めかねてるんです。いっそ全部着てみたいな、って思うくらい」
 と、彼女は困ったように微笑んだ。それから目の前のグラスに手を伸ばし、細いストローを唇に咥えた。
 随分と可愛いことを言うもんだ。俺は、睫毛を伏せてカフェモカを飲む藍子を幸せな気分で眺めやる。こんな可愛い彼女ができたんじゃ、写真を残すのが好きになるのも無理ないことだろう。

 コーヒースタンドを出るとすっかり日も暮れていた。春らしく強い風に乗って、桜の花びらがどこからか飛んできている。花見のシーズンも終わり、あとはもう散るばかりだ。
 この間決算を終えたと思ったら、もう新年度だ。
 そして今年度の途中で小坂は営業課を去り、俺たちは結婚する。
 次第にその時が近づいてくるにつれ、小坂が辞めちゃうの寂しい、なんていう女々しい感傷を抱く暇もなくなってきた。結婚式までの道のりは意外と予定がタイトで忙しく、おまけに今年度だって仕事は普通にあってそっちもまた忙しい。もう一度しみじみできるのはそれこそ、小坂が退職するその日までお預けかもしれない。
 それに、結婚式の支度以外にもしなければならないことがある。
 今年も四月がやってきた。
「……誕生日、何が欲しい?」
 帰り道を辿り始めながら、俺は不意を打つように尋ねた。
 隣を歩く藍子が、こっちを見上げて瞬きをする。まさか自分の誕生日を忘れていたってことはありえないだろうが、今日言及されるとは思っていなかったのか、妙にぽかんとしていた。
「もうじきだろ。二十五歳」
 一つ歳を取ったところで彼女はまだ二十代だ。羨ましいってほどじゃないが、少し眩しい。
 藍子も誕生日の話題にようやく嬉しそうに笑んだ。
「覚えててもらえて嬉しいです」
「そりゃ忘れないよ。忘れたら婚約破棄されちゃうだろ」
「そんな、しないですよ! そんなこと」
 彼女はあたふたしている。二十五になるって言っても、こういうところはあんまり変わらない。
 俺は彼女の変わらなさに和みつつ、もう一回尋ねてみた。
「で、誕生日は何が欲しい?」
 去年の藍子の誕生日も、何だかんだで忙しくて、贈ったのはケーキとシャンパンくらいのものだった、――ああ、それと俺だ。俺がプレゼントでした。安井辺りが聞いたら気色悪いと石でも投げられそうだが、事実そういうことになっちゃったんだからしょうがない。
 でも今年はな。もちろん俺もプレゼントになる予定だが、お互い独身最後の誕生日ってことで、ちょっと豪勢にやりたい気持ちもある。
「欲しいものなんて……」
 藍子はそこで眉根を寄せた。どこか気を遣うそぶりで続ける。
「何かとお金のかかる時期ですし、気持ちだけで十分ですよ」
「遠慮すんなよ。そのくらいはどうってことない」
「それに新年度でちょうど忙しい時期ですから」
 そう言って、彼女は柔らかく目を細めた。
「私は誕生日を覚えててもらえただけで嬉しいです。あとは当日、おめでとうって言ってもらえたらそれで」
 つくづく欲のないお嬢さんだ。欲だらけ煩悩だらけの俺にはやはり眩しい。
「じゃあ今年も、俺がプレゼントってことでいいか」
 去年も告げたことをお約束のように告げてみる。
 彼女の反応は去年と違っていた。動揺のあまり言葉に詰まったようだった。
「あのっ……な、何を言うんですかいきなり」
「何って何がだよ。去年だってそうだっただろ」
「そ、そうですけどあの……」
「まさか要らないとか言うんじゃないだろうな。それは傷ついちゃうぞ俺が」
 冗談半分で脅かすと、藍子は反応に困ったようだ。軽く睨まれた。
「もう……からかわないでください」
 怒られた。怒った顔も実に可愛い。
 しかし、本当にプレゼントは俺だけでいいんだろうか。せっかくの、と言ったらおかしいかもしれないが、間違いなく独身最後の誕生日だ。来年は夫婦として誕生日を祝うことになるのだし、そうなると今年は、来年できなさそうなことをしたいものだ。
「……何か、今じゃないとできないことってないか。お前の誕生日は、そういうことをする日にしようか」
 思いついたので切り出してみる。
 結婚したらできないことがあるってよく聞く。それは貯蓄とか、一人旅とか、もっと純粋に一人の時間がなくなるとか、そういう個人向けの話がほとんどだが、二人の場合はどうだろう。結婚したらできなくなること、できなくはないまでもしにくくなること、なんてないだろうか。悔いを残さぬよう、そういうのがあるなら今のうちに堪能するに限る。
 藍子は怪訝そうに俺を見上げてきた。
「今じゃないと、ですか? 例えばどういう……」
「すぐには出てこない。でも、何かありそうだろ。結婚前じゃないとできないことって」
「うーん……」
 彼女も一緒になって考えてくれた。そして、ひらめきはしなかったものの、何となく納得したそぶりだった。
「言われてみれば、何かありそうな気がしますね。何だろう」
「何だろうな。誕生日までもう少しあるし、ちょっと考えてみるか」
「そうですね」
 というわけで、俺たちは藍子の誕生日まで、何をするべきか思案に暮れることとなった。
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