Tiny garden

お前の為だよ(3)

 藍子の誕生日から二日ほど過ぎた四月のある週末、俺たちは食い倒れならぬ遊び倒れデートを敢行した。
 この日の為に俺たちは入念な準備をしてきた。行きたいデートスポットをピックアップして場所を調べておき、なるべく全てを無駄なく回れるルートを探し出した。こんな時でなければ使いようもないので、わざわざ目的の店舗の公式サイトからクーポンをダウンロードしてみたり、会員登録をしてみたりもした。カラオケボックスには予約も入れたし、映画は二人で熟考を重ねた末、一番盛り上がりそうなアクション大作を選んだ。
 服装はお互いに動きやすく、歩きやすい格好にした。普段はふんわりスカート派の藍子も、今日ばかりはちゃんとパンツルックでスニーカーを履いている。カジュアルな格好の藍子もいいものだった。可愛い可愛いと手放しで誉めたら、二十五歳の藍子は去年、一昨年と対して変わりなく慌てふためいていた。
「隆宏さんは誉めすぎです」
「いいだろ減るもんじゃなし」
 誉め言葉と愛の言葉はいくら投げかけたって減りはしない。それなら惜しみなく捧げておくべきだと俺は思う。その方が二人の時間をより楽しく過ごせてしまうものだからな。
 それを藍子もわかりかけてきたんだろうか。
「隆宏さんだって、カジュアルな格好もすごく素敵です」
 言い出した自分の方が照れながらもそうやって誉めてくれたから、俺は今日一日を素晴らしいものにしてみせようと決意を新たにした。
 藍子の為なら張り切っちゃうのが俺だ。今日をお前にとって思い出深い日にしてやるからな。

 まずは二人で映画を見た。
 空調設備の整ったきれいなシネコンで、目当てのアクション大作を見た。映画の内容自体はさほど珍しくもない追跡劇で、主人公コンビが命からがらの目に遭いながらも危機を救い、最後は家族愛で締めるというお約束てんこもりの内容だった。でもデートムービーなんてのはお約束だらけの方がかえって楽しめたりするし、それに最近の映画は撮影技術が進歩しててありふれたシーンでも思ったより臨場感がある。新しい施設だから音響がよかったおかげもあって、存分にスリルを楽しむことができた。
 特に作中何度かあった爆発シーンでは、大画面ごと揺るがすような轟音に驚いた藍子が、思わず俺の手を握ってくるというとてもいい場面もあった。
 さりげなく握り返しながら彼女のほうを向くと、スクリーンの光に照らされた顔は焦ってでもいるのか、視線が泳いでいた。
「……ご、ごめんなさい、びっくりしちゃって」
 囁き声で謝ってくる。
 それから申し訳ないと思ったのか手を外そうとしたが、俺がもうがっちり握ってしまっているので無駄だった。彼女もそれがわかったようで、微かに笑った後、結局そのまま、エンドクレジットが流れるまで手を繋がせていてくれた。
 ちっちゃくて柔らかい左手には、今日もあのピンクダイヤモンドの指輪がある。映画館は少し肌寒いくらいだったが繋いだ手は温かかった。

 映画のスリリングさのおかげか、あるいは藍子の可愛さのおかげか、映画を見終わった俺たちはすっかりテンションが上がっていた。
 そのまま予約していたカラオケボックスになだれ込み、映画の余韻に浸りながらノリノリで歌いまくった。もっとも、どちらかと言うと歌いまくったのは俺の方で、藍子はそれを目をきらきらさせながら聞いてくれた。
「隆宏さんも歌上手いですよね。とっても格好いいです!」
 誉めてくれるのはやはり嬉しいんだが、隆宏さん『も』ってどういうことだ。恐らく比較対象はあいつだろうが、同じ位置に置かれてるのが解せない。いや、上手さで言ったら向こうの方が上だ。余計にむかつく。
 安井は俺たちの結婚式にも歌を歌ってくれるそうだ。前に、下ネタに走るとか言い出してたから心配になってもう一度釘を刺してやったら、つい最近になって『心配するな。まともに歌うに決まってるだろ』などと言い出した。しおらしくなられたらなられたで何か企んでそうで怖いのが奴だった。
「次歌う時、写真撮ってもいいですか」
 物思いに耽る俺をよそに、藍子は携帯電話を構える。俺たちのいるブースは二階の日当たりのいい部屋で、窓もあるおかげで写真撮影には適しているようだった。
 しまった。それなら俺もカメラを持ってくるんだったな。
 失策を悔やみつつ答える。
「俺の写真? そんなの、撮ってどうすんだよ」
「どうって……持ち歩いたりとか、現像してアルバムに収めたりします」
 藍子は至って真面目に答える。そりゃ彼女が今の問いに不健全な答えをするはずがない。
 ただ、可愛い藍子の写真ならともかく俺のかよとは思う。かつて彼女は俺の写真、というか顔写真入りの名刺をパスケースに、後生大事にしまい込んでいたことがあった。それを彼女は、ジンクスなんです、と言っていた。
「今は本物が手に入ったんだからいいだろ」
 藍子の顔を覗き込んで尋ねる。別に何もしていないのに鼻の頭がちょっとぶつかっただけで、藍子はくすぐったそうにしながら俺から逃げようとする。どうせカラオケの部屋なんて狭いし、逃げ場なんてどこにもないのに。
「あの、そういうことじゃなくて」
 彼女が俺の肩を手のひらで押しやり、そわそわと説明を添える。
「今の写真が残ってたらいいな、って思ったんです。この間、隆宏さんがいっぱい写真を撮ってくれたから」
「ウェディングドレスのか?」
「そうです。家に帰ってから、送っていただいた画像を見ていて……」
 例のドレスのデータは俺の手によって厳選され、無事小坂家のパソコンに送り届けられていた。それを彼女はご両親と確認したとのことで、どうにかドレスの選定が進みそうだと聞いていた。
「撮ってもらっている間は浮つきっぱなしで、ちっとも冷静に考えられなかったんですけど、後から見てみたらこうして写真が残るのもいいなって思ったんです。この時期の写真、ある意味貴重ですもん」
 安っぽいビニールのソファに腰かけた藍子は、そこでちょっと背筋を伸ばした。
「私、当たり前ですけど結婚するの、初めてですから」
「俺だってそうだよ」
 今更何を、と俺が口を挟めば、彼女はあどけなく笑う。
「そうですよね。だから今は、何だかいろんなことがどんどん過ぎて、目まぐるしくて、冷静に考える暇もなかなかないくらいなんですけど」
 確かに、年が明けてからというもの恐ろしいほどの早さで時間が経過している。いや、よくよく考えてみれば去年のプロポーズの頃から既にそうだったような気もする。俺たちだって過ぎ去った時間をのほほんと無為に暮らしてきたわけじゃなく、むしろやることだらけだったからこそ慌しく過ぎていったわけだ。その合間合間でたまに、ふっと冷静になることもあるが、俺の場合は冷静になったって考えることはほぼ同じ、『早く結婚したいな』ということだけだった。
 藍子はどうなんだろう。この目が回るような忙しさに、だんだん嫌気が差してきたってことはないだろうか。こういう状態の時にマリッジブルーになるって言うじゃないか。二人で会う休日がほとんど結婚準備に割かれるようになったこの頃にあって、久方ぶりのまともなデートを迎えた時、彼女の頭がふと冴えて、結婚に面倒くささを感じてたりしたら――。
 俺の懸念は顔に出ていたと見える。藍子がふと笑みを消し、真剣な面持ちになる。
「心配しないでください。私、今の状況もなかなか楽しいって思ってます」
「なら、いいんだが」
 正直、俺も結婚式がこんなに準備の必要なものだとは思ってなかった。興味のなかった頃は、挙式から披露宴までがおおまかにパッケージ化されてて、せいぜい料金プランを選んだら後はすいすい話が進んでいくものだとすら思ってた。
 それがいざ当事者になってみたら、日取りを決め、式場を押さえ、プランナーさんに何度も会って話し合い、ドレスショップにも何度か通って衣裳を決め、披露宴の細部にわたってを俺たちが手に手を携えて考えなくてはならない。よく披露宴でのケーキ入刀を『初めての共同作業』って形容するものだが、本当の初めての共同作業は式よりもずっと前に行われているというオチだった。
 そして、それはそれで楽しいっていうのも事実だ。藍子との共同作業が楽しくないはずがない。彼女もそう思ってくれてるようで何よりだった。
「でも、本当に楽しい――と言うか、今だってすごく楽しくて貴重な経験だったなって思えるのは、もっと先の落ち着いてからのことなんだとも思います」
 藍子はそう言うと、携帯電話を構え直した。レンズをこちらに向けていたずらっ子みたいな笑い方をする。
「だから私も、今を写真に撮って、形に残しておきたくなったんです。後で隆宏さんと一緒に見返して、今のことを思い出せたら、楽しそうですよね?」
 ごもっとも。
 俺は黙って頷くと、自らの携帯電話を取り出す。負けじとカメラを起動して、藍子にレンズを向けてみる。小さなディスプレイには、携帯電話を片手で構えて俺を撮ろうとしつつ、こっちを怪訝そうにみている藍子の可愛い顔が写り込んでいる。
「そういうことなら俺も撮ろっかな。今日はデジカメないから、これでな」
「え、私を撮るんですか? 私はいいですよ……」
「何でだよ。俺は撮るのに自分は駄目ってのはナシだろ」
「だって、隆宏さんは歌ってても格好いいですけど、私はそうでもないですから」
 いやいや、藍子ちゃんだって可愛いですよ。座ったままマイクを両手で持って、ほんのちょっとだけ、控えめに身体を揺らしながら歌う姿なんて初々しくて大変よろしい。仕事でカラオケには行かせたくねえな、とつくづく思いました。それもあと五ヶ月ほどの心配事だが。
「やだ。俺も撮りたい」
 俺は駄々を捏ねてみる。今年で三十二になる男の態度とは思えないが、藍子は微笑ましそうにしてくれた。
「しょうがないなあ……じゃあ、歌ってるとこはちょっと、駄目ですけど」
 譲歩されるとわかって、俺はつい調子に乗る。
「駄目ですけど? ――まさか、ヌードならアリか!」
「ナシです! 何言ってるんですか!」
「えー? 何ならいいんだよ。水着か?」
「それもナシです!」
 藍子は咎めるように俺を睨んでから、唇を尖らせつつ言った。
「この後、ゲーセン行きますよね? 一緒にプリクラ撮りましょうか」
 そして彼女の提案は、調子に乗りかけていた俺を逆にうろたえさせた。
「えっ……藍子ちゃん、俺、三十一歳なんですが」
 まさかこの歳になってプリクラとか、撮ろうって話が持ち上がるとすら思わなかった。前に撮ったのだって軽く十年近く前だったはずだ――いや、十年はさすがに経ってないか。だが誰と撮ったかって話をすると藍子が悲しむだろうからそこは触れないでおく。
 何にせよ、他人から撮ろうって持ちかけられたのも久々だった。撮ってどうするんだ。形に残すってことはやっぱ貼るのか。俺とお前のラブラブツーショットを貼れっていうのか、これ見よがしに。そこまでやったらいよいよバカップルみたいじゃないか――ってもう手遅れですよね! 今更ですよね!
 藍子は全く動じることもなく言い切った。
「大丈夫ですよ。私、お父さんと撮ったことあります。年齢なんて関係ないです」

 そういえば付き合う前、安井に言われてたな。
『今に石田も交換日記やら、船の舳先でタイタニックごっこをするようになる』とか何とか。
 その時はさすがにねーよと思ったが、そこまでではないにせよ大分こっぱずかしいお付き合いはしてるよな。
 しかも今ではそういうのが悪い気しない、むしろ楽しいと思ってるんだから、つくづく恋の魔力は恐ろしい。
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