Tiny garden

どうすれば返せるんだろう(6)

 一月一日。新しい年の始まりを、俺は藍子と迎えていた。
「あけましておめでとう。今年もよろしくな、藍子」
「はい……よろしくお願いします」
 寝起きの彼女は目をこすりながら返事をし、あどけない笑い声を立てる。
 実家にある俺の部屋――今となっては『元』俺の部屋だが、そのベッドの中で俺たちは新年の挨拶をする。藍子はまだ寝ぼけているようで、俺と挨拶を交わしてからも何回か、うとうととまどろんでみせた。それでいて隣に寝ていた俺の腕はぎゅっと抱え込むようにして、しがみついて離してくれないところがいとおしくて堪らない。藍子の可愛さは今年も健在のようだった。
 早速ですが今年最初の『藍子可愛い』入りました。これぞまさに可愛い初め。
「今日は、何か予定あるんですか?」
 何度目かのまどろみの後、藍子がそう尋ねてきた。
 元旦の午前六時過ぎ、実家はまだ誰も起きていないようで人の気配はないが、階下では暖房が動き始めたらしい音が響いている。今日もなかなか冷え込んでいるようで、二人でいるベッドの中と外では相当の温度差があった。寒いかな、と思っても藍子を抱き締めればぬくぬく暖かくなる。
「うちの親、いつも元日はだらだら過ごすんだよな。八時くらいに起きて、神棚きれいにして、お神酒飲んで……」
 そしておせちや雑煮を食べながらテレビ見て、たまに親戚が来てって、やっぱり酒飲んでご馳走食べて、とにかくだらだらする。元日からは滅多に出かけないのがいつもの過ごし方だった。
「酒入ると出れなくなるからな。俺たちは適当に付き合って、午後からどっか出るでもいいけど」
 俺たちの今回の帰省は結婚の挨拶だけが目的だったから、それが片づいた今となっては特にやることもない。とは言え昨夜『隆宏はろくに帰省もしない』と言われていたばかりだし、元日のうちに帰路につくのはさすがにまずいだろう。
 それなら、こっちで彼女と過ごす正月を満喫した方がいいか。
「じゃあ初詣でも行くか」
 俺が持ちかけると、藍子もようやっと目をぱっちり開けてみせる。
「いいですね。私も行きたかったんです」
 話はすんなりまとまった。もっとも、元日に満喫できることなんてそのくらいしかないよな。

 四時間後、俺は藍子を連れて市内にある神社に向かった。
 元日の朝は幸先よく、冬らしい澄んだ晴れ模様だった。風はさすがに冷たく、剥き出しの頬や耳がちりちりと痛みを覚えるほどだ。時折、粉砂糖みたいな風花が宙を舞い、乾いたアスファルトの上を滑るように飛んでいった。
「今年の冬も寒いな」
 俺が思わずぼやくと、
「こう寒いと、身が引き締まる思いがしますね」
 コートをがっちり着込んだ藍子も同意を示した。
 ふと見れば、いくらも歩かないうちから彼女の頬も耳もすっかり赤くなっている。俺がその可愛い顔を見て笑うと、コートの襟元を飾るフェイクファーに鼻先まで埋めて、恨めしそうにこっちを見上げた。
「笑わないでください。どういう顔になってるかは、見なくたってわかってます」
「いや、これでも心配してんだよ。これからしばらく外にいるのに、寒くないのかってな」
「歩いていれば暖かくなりますから大丈夫ですよ」
 だから平気だと言いたげに、藍子は繋いだ手に力を込めてくる。その手には毛糸で編まれた厚手の手袋が填められていて、直に握っているとこちらまでぽかぽかと暖かくなった。それならずっと手を繋いでいなければな。
「隆宏さんと一緒に初詣へ行けて、嬉しいです」
 寒そうな顔をしながらも彼女が笑うので、俺も何だかこの冷え込みが清々しいもののように思えてくる。寒いは寒いが、気分は不思議と悪くなく、むしろ晴れがましい。
 大体冬なんだから寒いのは当たり前だ。俺たちはこれから、冬のこの時期しかできないことをしに行くのだ。寒さに臆するようではいけないだろう。
「去年は一緒に行けなかったからな」
 俺も呟きながら、でも、行けなくもなかったなと去年の出来事を思い起こしてみる。三が日のうちから彼女を誘って、霧島の家へお邪魔していた。霧島と霧島の奥さん――当時はまだぎりぎり結婚前だったが――、そして安井と五人でうどんパーティをした。
 ああそういえば、当時はまだ付き合ってもなかったんだよな。いろいろ思い出してきた。俺はこのとぼけた犬のようなお嬢さんに手を焼いて散々振り回され弄ばれた挙句、危うく告白の返事を年度末まで持ち越されるところだった。それでもめげずにあれこれと策を弄したおかげかどうか、藍子は霧島の家からの帰り道で、またしても不意打ちのようにいきなりいい返事をくれた。それならそれで普通に言ってくれればいいのに、運転中、しかも冗談めいたやりとりの最中に言われたものだから、俺の脳内は奇襲を受けて指揮系統に混乱をきたした。あの時の俺の反応はさぞかし無様だったことだろう。
 あれからもう一年か。結構いろいろあったが、振り返ってみたらあっという間だった。
「もうすぐ一年になるよな」
 歩きながら水を向けてみる。
 彼女のことだからすぐにはぴんと来ないんじゃないかと思っていたらまさにその通りのようだった。しばらくぼんやりしてから急に閃いたらしく、忘れていたことを恥じ入るみたいにちょっと笑んだ。
「あっ、そういえばそうでしたね」
「何だよ。忘れてんなよ」
 今度はこっちが恨みがましい目を向けてやる。
 俺の苦節の日々は今でこそそれを補って余りあるほど報われているものの、だからと言ってきれいさっぱり忘れられるのは気に食わない。まして俺にお預けを食らわせた当の本人にだからな。さすがにこいつめ、ってなるわ。
「ごめんなさい。言われたらすぐ思い出せたんですけど……!」
 藍子は慌てた様子で謝ってきた。
「でも驚いてます。一年ってすごく早く、あっという間に過ぎちゃうんですね」
「それだけ楽しかったってことだろ」
 俺がそう言うと彼女はいたく納得したようだ。
「そうですね、去年はとてもいい年でした。今年もいい年でありたいです」
 全くだ。
 だが俺としては藍子と一緒に迎えた年明けというだけでも、素晴らしく幸先のいいスタートだった。当然、今年もいい年になるだろう。

 どこだってそんなもんだろうが、俺の生まれ故郷の街にも神社がたくさんある。初詣に行くとなると、どこにしようか少し迷うくらいには数多く建っている。
 そのうち敷地の大きな有名どころは、正月ともなればもれなく混み合う。縁日のように露店が並んでたこ焼きやらわたあめやらお面やらが売られるようになるし、そのせいで参道は買い物をする人と参拝に向かう人、そして参拝を終えて帰ってきた人でごった返す。そういう中を人並みに揉まれながら歩くのも初詣の醍醐味だとは思うが、今日は藍子がいるので彼女が押し合い圧し合いに巻き込まれるような状況は避け、なるべく安全なところで初詣をしたかった。
 そこで俺たちが向かったのは、実家から程近いところにある古くて小さな神社だった。古い住宅街の一角にひょっこり建っているその神社は本当に小さく、鳥居から拝殿までの距離は二十メートルあるかないか。それでも入ってすぐのところにはちゃんと社務所もあるし、大きな神社みたいに可愛い巫女さんはいないが、お金を入れて勝手に引くタイプのおみくじも用意されている。少なくとも初詣に必要そうなものは全部揃っているわけだ。
「いつも、ここに参拝してるんですか?」
 境内に入り、藍子は興味深そうに辺りを見回した。背の高い木々に囲まれた境内は、そのおかげかいくらか風も弱く穏やかに感じられた。見渡してみれば他の参拝客はほんの数グループというところで、拝殿前には行列のできる気配もなく、俺たちもスムーズに参拝を終えられそうだった。
「こっちに住んでた頃はな。近いし、歩いて来られるし」
 俺も小さな頃は、大きな神社の参道に並ぶ露店にとてつもない魅力を感じていた。しかしある程度歳を取ってしまうと露店の魅力に人混みの鬱陶しさが勝ってしまい、そこまでして行くほどでもないよな……と思ってしまうようになる。
 そうなると近場の神社は俄然便利だ。やろうと思ったこともないが、百度参りをするんであっても手軽にできてしまいそうなこの距離感。
「確かにすごく近かったですね」
 頬も耳たぶも真っ赤な彼女を、寒空の下、さほど歩かせずにも済む。
「高校入試の合格祈願もここで済ませたくらいだ。見事合格したから、間違いなくご利益はあるぞ」
「すごい。霊験あらたかなんですね」
 そんな会話を交わしつつ、俺たちはまず手水舎に立ち寄り柄杓を使って身を清めた。それから二人並んで拝殿へ向かった。
 賽銭箱にお賽銭を入れ、拝殿前にぶら下がった鈴を鳴らす。鈴の音は大して揺さぶらなくても豪快な音を立ててくれる。藍子と肩を並べて参拝をする。
 いつもお願い事は手短に済ませている。なぜかと言うと、神様にお願いしてまで叶えたい願いはあまりないからだ。仕事については俺自身が責任持ってやらなきゃいけない部分だろうし、健康についても自分で管理すべきところだと思っている。かといって、この歳になってまで『藍子と上手くいきますように!』などというお願いをするのもさすがにどうかと思う。神様だって三十路男の煩悩に塗れた恋愛相談なんぞ聞きたくもないだろう。そういうわけだから、毎年同じような願い事をしている。
 今年一年、いい年でありますように。
 ――いや、今年の場合は少し違うな。今年『も』いい年でありますように、と言うべきだろう。
 去年はおかげさまで最高の年になりました。いいご縁もあったし、幸せでした。
 そして今年は、ご縁のあった可愛い彼女と結婚します。どうか末永く、幸せでいられますように。
「……隆宏さん、すごく一生懸命お願いしてましたね」
 参拝を終え、拝殿前を離れたところで藍子が言った。
「え、嘘だろ。そこまでじゃない。結構手短に済ませたつもりだったのに」
「熱心でしたよ。たくさんお願いしたいことがあったのかな、って思いました」
 俺が動揺を見せたのがツボに入ったんだろうか、藍子はそこでおかしそうにころころ笑った。
 そんなに懸命になってただろうか。お願い事自体は今回も短めに、ほんのちょっとにしたつもりだったのにな。
 だがよく考えてみれば、お願いの他に報告もしていた。熱心なそぶりになってしまったのはそのせいだったのかもしれない。
「ほら、結婚式、神前でやるって話だったからさ」
 俺は照れ隠し半分、でも残りの半分は割と本気で打ち明けた。
「前もって報告しとこうと思ったんだよ。結婚しますのでよろしくって」
 ここの神社で式を挙げるわけじゃないし、今回お参りした神様と結婚式担当の神様はまた別だろう。でもそれならそれで、神様ネットワークを使って結婚式担当の神様の耳に入れておいてくれるとありがたい。神様、俺はこの通り努力もするし感謝もする極めて真っ当な人間ですから、どうか藍子とずっと幸せでいさせてください。
 もちろん俺も、藍子を何より大切にしていくつもりです。
「ご利益、今回もありそうですね」
 藍子が前向きなことを言ってくれたので、俺もその気になっておく。
「そうだな。来年、またお礼を言いに来ないといけないようだ」
 その後俺たちは一緒におみくじを引いた。おみくじは昔と変わらず無人販売で、お金を入れたら箱の中から自分で引き当てる仕組みだ。祈りを込めて引いてみたところ、早速ご利益があったのかどうか、なんと二人揃って大吉だった。
「わあ、お揃いですね!」
 新年早々、目をきらきらさせて無邪気にはしゃぐ藍子が可愛い。
「やっぱり縁起がいいのは嬉しいよな」
「そうですね! 悪いよりはいい方が嬉しいですもん」
 縁起は気にしすぎるのもよくないが、いいことなら前向きに捉えておく方が気分もいい。今回はありがたい結果が出たのだから、能天気に喜んでおこう。
 おまけに俺のおみくじは、縁談の項目にこう記されていた。
『良縁なり調う』
 俺はもう、こういうのはいいことが書いてある場合のみ鵜呑みにしてしまう性格なので、これも当たり前ながら鵜呑みにします。神様ありがとう。
PREV← →NEXT 目次
▲top