Tiny garden

出逢った事に感謝した(5)

 ありがたいことにお盆休みは一週間もある。
 その一週間をまるまる実家で使い果たそうとは思っていなかった。休みが明ければ即刻通常業務に戻るから、一日二日は余裕を持って、仕事の準備をしたり、身体を休めたりしなくちゃならない。あと、実家じゃ藍子と日がな一日いちゃいちゃしているわけにもいかないので、早めに向こうへ戻って一日くらいは俺の部屋で過ごすのもいいかと思っていた。というわけで実家での滞在は四泊、五日目の朝早くに発つと決めていた。
 日程にゆとりがあれば自然と肩の力も抜けるものだ。それでなくても俺にとっては勝手知ったる実家滞在、何となく気が緩んでいるのは否定できない。気がつけば結構だらだら過ごしてきたような気がする。

「おはようございます、隆宏さん!」
 この四日間、毎朝のように藍子の明るい挨拶で目覚めている。
 それ自体は最高に幸せだったが、優しい彼女は自分に厳しく俺に甘く、いつも藍子だけが先に起き、俺を少し遅めの時間に起こしに来る。せっかく一緒のベッドで寝てるのに、寝起きにいたずらを仕掛けることができないのは何だか惜しい。
 ともかく、今は何時だ。寝ぼけ眼で枕元の携帯電話を探すと、俺の手が掴むよりも先に、ひんやり冷たくて柔らかい手が見つけて渡してくれた。
 現在の時刻は、午前九時三十五分。
「うわ、今日も寝坊した……」
 ぼやいた声が少しかすれた。八月の最中じゃ二人でくっついて寝ているだけでも汗をかくから、寝起きは砂漠の遭難者みたいに喉からからだった。それでも藍子は俺が寝やすいようにと扇風機を弱く点けておいてくれたり、風のある日には窓を開けておいてくれたりする。至れり尽くせりだ。
「もっと早く起こしてもよかったのに。お前は今日も普通に起きたんだろ?」
 ベッドに寝転がったまま聞いてみたら、カーテンを開けようとしていた彼女は振り返って、にっこり笑った。
「そうです。でも隆宏さんがあんまり気持ちよさそうに寝てるから、そっとしておこうと思って、この時間まで待ってました」
 言いながら藍子がカーテンを開ける。
 途端に目が潰れそうなほど強い太陽光が窓から差し込んできて、俺は堪らず枕に顔を埋めた。
「お買い物に出かけたお母さんから伝言です。今日はお姉さんたちが遊びに来るから、お昼はお蕎麦を取るんだそうです。だから朝ご飯食べるなら、十時くらいまでに済ませておいた方がいいって仰ってました」
 藍子の声は仕事中とさして変わらぬ歯切れのよさだ。元は俺の部屋だったこの六畳間のもう一つの窓には、扱いの難しい古いブラインドがかかっていたが、ここ数日でその操作にもすっかり慣れてしまったようだった。手間取りもせずにブラインドも開け、もう一度ベッドの傍へ戻ってくるのが物音でわかる。
 とん、と俺の傍に腰を下ろしたから、俺はすかさず顔を上げ、手を伸ばしてその腰を抱き寄せた。藍子は一瞬こちらに倒れかけたものの、片手をついてどうにか踏みとどまり、困ったような笑みを浮かべる。
「早くご飯食べないと、お昼が入らなくなっちゃいますよ」
 真っ先に俺の昼飯を心配してくれる辺り、いつも通りの藍子だった。
 そして今日までの四日間を、彼女は彼女らしい真面目さで過ごしている。
「お前こそ毎朝早起きして、無理してないか?」
 俺の言葉にも藍子はかぶりを振る。
「無理なんてしてないです」
「お客さんなんだし、少しはのんびりしててもいいんだぞ」
「いえ、そういうわけにはいかないですよ」
 これが逆の立場なら、俺ものんびり朝寝坊ってわけにはいかないだろうし、藍子がそう言うのもわかる。でもせっかくのお盆休みにまで真面目に振る舞うのも結構な負担なんじゃないか、という懸念もある。しかもただ早起きするんじゃなくて、母さんの家事なんかを自発的に手伝ったりもしている。それでうちの母さんは『本当に藍子さんはいい子ねえ』などと俺に負けず劣らずなでれでれぶりを見せているが、俺からすればそこまでやらせていいのか、一応はまだ嫁じゃないのに、と思う。
 手伝いとかさせる為に連れて来たんでもないよな、とか。
 今回の最大の目的は彼女のお披露目だったはずで、そっちはもう十分に果たせたはずだ。俺はお盆と年末年始くらいしか帰ってこられないし、それでいて藍子とは折を見てなるべく早く結婚したいと思っていたし、だから面通しをさっさと済ませておくに越したことはない。
 そうなると他の目的、つまり俺たちにとって初めてとなる旅行を楽しめたかどうか、という点が気になってくる。
 もっとも、明日の朝にはもう帰ることになっているし、今更な思いでもあるんだが――藍子はこの小旅行を楽しめているんだろうか。俺は藍子さえいれば何もなくても十分楽しいが、特に見るべきものもない町に連れてこられて、規則正しく早寝早起きをして、お客さんらしくもなく家事もこなしてと、そういう過ごし方でもちゃんと楽しめているだろうか。ちょこちょこ外出もしたものの、ここは郊外のショッピングセンターを覗いて、お盆らしく墓参りもして、あとはお土産を買いに駅に立ち寄ればもう弾が尽きるような中途半端な町だった。おかげで藍子は俺の卒業文集、撮り貯められたアルバム、うちの母さん秘蔵の母子手帳に至るまで読破してしまったそうだ。
 旅先で相手の頼れる一面を知ってますます惚れ直してもらう、という定番パターンは、まだ果たせていないように思う。それどころか恥ずかしい過去ばっかり知られてる。俺のかつての将来の夢とか、変顔で写ってる写真とか、出生体重なんてどうでもいいことばかりだ。
「じゃあ私、先に降りて、お洗濯物干してきますね」
 俺が完全に目覚めるのを待って、藍子がベッドから立ち上がる。俺も慌てて起き上がった。
「なら、俺も手伝う」
「少ししかないですから大丈夫ですよ。私と隆宏さんの分だけですし」
「いいから。すぐ行くから待ってろ」
 強めに告げると、彼女は俺の顔をじっと見てから、心なしか嬉しそうに答える。
「わかりました、待ってます」
 そして部屋を出ていく後ろ姿を、俺はついにやにやしながら見送る。何か今の会話、新婚さんっぽいよな、などと思いつつ。
 いや、そういうこと言ってる場合じゃないな。急がねば。

 八月半ばの昼前時ともなれば、外気は直火のような日差しに蒸されて、息苦しくなるほど暑い。
 実家のベランダ前に設置された物干し竿に、俺と藍子は肩を並べて洗濯物を干していく。洗いたての衣類の冷たさと洗剤のいい匂いが、この蒸し暑さの中で唯一爽やかに感じられる。
「今日もお洗濯日和ですね」
 もちろん、そう言って笑う藍子も実に爽やかで、そして可愛い。
「早めに乾いてくれるのはいいよな」
 俺が同調すれば彼女は小さく頷く。
「そうですよね。旅先だとどうしても着るものが足りなくなっちゃって」
 夏場だし、俺も藍子も着替えには余裕をもって荷造りしてきたつもりだったが、真夏日続きだと洗濯物はどうしようもなく増えてしまう。俺はいざとなれば適当なのを買いに走ればいいやという気持ちでいたが、藍子にとっては着替え一つとっても気が抜けないもののようで、最大の心配事でもあったらしい。初日の夜に真顔で正座して、『隆宏さん、こちらで洗濯機はお借りできますか?』と尋ねられてしまった。当たり前だが実家で洗濯機を借りるのに気兼ねはいらない。二人で毎日使わせてもらっている。
 今日の彼女は水色のプリントTシャツと、膝下丈のジーンズというカジュアルな格好だった。それはそれで今時の子っぽくてよく似合ってるし、可愛いし、俺としては不満もない。だが藍子はそれを、よそ様のお宅で着るにはカジュアルすぎたかも……などと思っているようだ。ついさっき洗ったばかりの半袖のブラウスを乾かして、できれば今日の夜にも着たいと言っていた。
 今夜はまた親族一同で実家に集まって、軽く酒でも飲むかという話になっていた。親族と言ってもうちの親と俺たち、そして姉ちゃん家族だけなんだが、姉ちゃんの旦那が今日になってようやくお盆休みに入れたらしく、どうにか来られることになったというわけだ。俺と藍子は明日には帰るところだったから、集まるにもちょうどよかった。
「服、足りないなら買いに行くか?」
 一応聞いてはみたが、藍子は考えるようにしながら晴れ渡った夏空を見上げる。
「多分、大丈夫だと思います。この分なら乾いちゃいますよ」
「遠慮はしなくていいんだからな。買い物行くならいつでも車出す」
「はい。もし必要になったら、お願いします」
 そんな会話を交わしつつ、互いの洗濯物を無事干し終えたところで、ブロック塀をくぐって姉ちゃんが現われた。世の子連れのお母さんたちが提げてるようなでかいバッグと、更に紙袋も持っている。当然のように姪と甥も一緒だったが、お義兄さんの姿はない。
「こんにちは」
 真っ先に藍子が会釈をすると、姉ちゃんもにっこり笑う。
「こんにちは。……ほら、あんたたちも。藍子お姉ちゃんにご挨拶は?」
 すぐに、姉ちゃんの隣に立つ姪が照れたような顔をした。
「こんにちは」
「……こんにちは」
 甥の方はまだもじもじと小声だったが、姉ちゃんの腕に掴まりつつもじっと藍子の方を見ている。あれから墓参りの時にも一度会ったせいか、少しずつ慣れてきているみたいだ。幼稚園に入る前は今以上に人見知りが酷く、たまに帰省してくる程度の俺にはなかなか懐いてくれなかった。慣れた頃にはもう帰らなくちゃいけない、なんてのが何回か続いてたな。
 藍子が、今度は子供たちに向かって屈むようにして、こんにちはと応える。慣れてきたのがわかるのか、二人を見る顔が嬉しそうだった。
「お義兄さんは? 一緒に来なかったのか?」
 姿がないので俺が尋ねると、たちまち姉ちゃんは苦笑いを浮かべた。
「まだ寝てる。昨日も帰り遅かったんだ」
 元々仕事が忙しい人だとは聞いていたが、それでなくてもお盆前後はどこの会社だって忙しいものだ。うちなんてまだ一週間休めるだけましな方なのかもしれない。贅沢は言えないなとつくづく思う。
「あのねー、お父さん全然起きないの。すっごいいびきかいてた!」
 姪が屈託のない口調で言う。
 姉ちゃんは姪の被ってる麦藁帽子のてっぺんを、ぽんぽんと軽く叩いた。
「ほら、家にいるとこの子たちうるさいし、寝ててもちょっかいかけようとするから、早めにこっち連れてきたんだ。遊ばせとこうと思って」
 物干し竿のすぐ近くにはビニールプールが、膨らませて水を張った状態で置かれている。きっと孫が来るってんでうちの親が出してったんだろう。いつから水入れてたのかはわからないが、この気温だ。いい感じに温くなってる頃合かもしれない。
「隆宏たちは、仲良く洗濯? もう新婚さんみたいだね」
 姉ちゃんが冷やかしにかかる。途端、俺よりも藍子が照れ始める。
「いえ、それほどでも……」
 真っ赤になって恥ずかしがる藍子は見てて可愛いのでいい。向こうも満更でもないってことですかね。
「洗濯しないと着るもんなくなるからな。ローテーション維持すんのも大変だよ」
 俺の言葉に姉ちゃんは、初めて思い当たったみたいな顔をした。
「ああ、旅行に来てるんじゃそうだよね」
「この暑さじゃ汗だってかくし、着替えの消費も速いしな」
「そっかそっか……。かと言って、買い足してたら荷物になるもんね」
 得心したように頷く姉ちゃんが、その後でぱっと表情を明るくする。
 弟の俺にはわかる。こればかりは子供の頃から変わらない、何かいいことを思いついた時の顔つきだ。
 でもそれが実際にいいことだったケースがどれほどあったか……母さんに隠れてテレビゲームしようと持ちかけてきた時、母さんが隠してたとっておきのおやつを見つけてきた時、怖い話の本を図書館で借りてきて、内容は気になるけど見るのは怖いからって俺に読ませようとした時――俺のメモリーに刻まれた姉ちゃんの『ひらめき顔』にはそんなろくでもないイメージしかなかった。
 でも、姉ちゃんはもういい大人だし、いい母親だ。多分だが、いい妻でもあるんじゃないかと思う。俺の不安をよそに、大人になった姉ちゃんは藍子に向かって言う。
「それだったら藍子ちゃん、今日は浴衣着てみない?」
「浴衣、ですか?」
 慎重に聞き返す藍子に対し、姉ちゃんはうきうきと説明を始める。
「うん、うちにあるんだ。私のなんだけど、もう何年も着てなくて。いつもお祭りの時とか、着たいなーとは思ってたんだけど、子供連れて浴衣も着てってのはちょっと辛くてね」
 それから持参してきた紙袋を持ち上げた。がさがさ鳴る袋の中身は衣類と、どうやら花火のようだ。袋がちらっと覗いていた。
「うちの子たちも今日はお風呂入れたら浴衣着せようと思ってたんだ。お盆だし、夜は花火やりたいって言ってたし。だから藍子ちゃんもよかったらどうかなって」
 そう言ってから姉ちゃんは、俺の方を見て更に続けた。
「毎年ちゃんとクリーニングに出してるし、今年もまだ一度も着てないから、お古と言えどきれいだからね。さすがに柄は今風じゃないかもしれないけど……藍子ちゃんなら何着ても似合いそうだし、大丈夫じゃないかな。ね、隆宏?」
 ここぞとばかりに俺は全力同意を示す。
「ああ、ブラウス乾くかどうか心配するくらいならそっちの方がいいだろ。せっかくだから着せてもらえ」
「えっ。そ、そうでしょうか……」
 藍子は戸惑い気味に俺の反応をうかがっている。浴衣自体に拒否反応はないようだが、行儀と礼儀を重んじるなら遠慮すべきなんじゃないか、と葛藤しているふうに見える。これはもう一押し、二押し必要かもしれない。
 俺からすれば、まだ見たことがなかった藍子の浴衣姿は見たいに決まっている。大体、女の子が着る浴衣を嫌いな男はそうそういないし、ましてや付き合ってる子が着てたりしたら、かけがえのないこの夏一番の思い出として脳内に刻み込んで永久保存する。うっかり消去しちゃわないようにバックアップまで取るレベルだ。俺は学生時代から、可愛い子の浴衣姿を見る為だけに花火大会に出かけていたといっても過言ではなかった。社会人になってからはそういう機会すら遠のいてしまったが、神は善良なる市民を見放しはしないようだ。
 藍子なら本当に似合うと思うんだよな。うなじきれいだし、なで肩だし、いい腰してるし。というわけで着せない選択肢はもはやない。むしろどうにかして説き伏せたい。
「お前なら絶対似合う。俺も見てみたいし、遠慮すんなって」
 もう一押しすれば、藍子はどぎまぎしてるみたいに目を泳がせた。それから遠慮がちに、姉ちゃんへと問いかける。
「あの、ご迷惑じゃないですか?」
 即座に姉ちゃんはからっと笑い、
「全然! 浴衣だって若い子に着てもらった方が喜ぶだろうし、旅先で浴衣ってのもそれらしくていいでしょ? 着付けわかんなかったら手伝うから、遠慮なんてしなくていいよ」
 と明るく言ってくれたので、ようやく藍子の心も決まったようだった。
「じゃあ、是非お借りしたいです。私ももう二年くらい着てないんです」
「そうなんだ。だったらちょうどよかったね」
「はいっ。機会をいただけて嬉しいです」
「任せて、後で持ってくるね。私もどうせなら、弟の喜ぶ顔が見たいし」
 そう言って、姉ちゃんは年甲斐もなく冷やかすように微笑んだ。
 俺としては姉ちゃんごときに冷やかされてもどうってことなく、浴衣好きだし藍子も大好きなんだからしょうがないだろと開き直れるが、藍子はそうでもないらしい。
「な、何か、すみません……」
 頬を赤らめたかと思うと、俺に向かって唐突に謝り出した。
「何で謝るんだよ」
 俺に突っ込まれれば藍子はますます小さくなって、呟くように答える。
「その、隆宏さんに喜んでもらえるのかなって思ったら、急に恥ずかしくなって……」
 女心ってやつはややこしくも可愛いものだ。まごつく藍子の姿は抱き締めたくなるほど可愛くて、いざ彼女が浴衣を着たら、最大限の賛辞をもって誉め尽くしてやろうと俺は思う。きっとその言葉も惜しくないくらいよく似合ってるに違いない。
 しかしこのまま行くと、惚れ直すのは俺の方だけってことになりそうだが――どうしようか。
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