Tiny garden

出逢った事に感謝した(4)

 その日は着いたばかりということもあってか、それほど遅くまでは飲まなかった。
「ずっと車乗ってきたんだし、藍子さんも疲れてるでしょ。早めに休ませてあげなさい」
 母さんがそう言ってくれたので、こっちもお言葉に甘えることにする。藍子も他人の家に泊まるんじゃいろいろ気を遣うだろうし、無理はさせない方がいいだろう。旅行に連れ出しといて具合悪くさせたりしたら、藍子のご両親に合わせる顔がない。
 もっとも彼女は彼女で別の方面で気を遣ったらしく、今は台所に立ち、うちの母さんの皿洗いを手伝っている。
「藍子さんって若いのにしっかりしてるのね。隆宏にも見習わせなきゃ」
「そ、それほどでもないです。私の方こそ、隆宏さんを見習いたいといつも思ってて……」
 そんなベタな会話が、すっかり静かになった居間まで聞こえてきた。聞こえてしまうんだから盗み聞きには当たらないはずだが、自分が話題にされてるとなると恥ずかしくなる。
 手持ち無沙汰になった俺は、ビール片手にご馳走の残りをやっつける手伝いをしている。刺身はどうにか食べきったが、ちらし寿司がなかなか減らない。さすがに作りすぎだ。しょうがないので食べられない分は明日の朝飯にしてもらおう。
 姉ちゃんは子供二人を連れ、日が暮れる前に自宅へ帰っていった。知らない人と会ったせいか、もしくは水遊びの後で眠たくなったせいか、食事もそこそこに甥っ子がぐずりだしたからだ。お義兄さんはまだお盆休みに入れていないらしく、一人で子供たちを抱えていく姉ちゃんは大変そうにも、頼もしくも見えた。母親業ってやつも楽ではないんだろうが、人間必要に駆られれば逞しくもなるもんだ。
 居間にはもう一人、唯一酒を飲み続けている父さんがいるが、こっちはラジオの野球に夢中だった。イヤホンを手で押さえつつ、妙に真面目くさった顔で中継を聞いている。贔屓のチームが戦況思わしくない時の顔だ。
 俺がじっと視線を送っていれば、父さんはやがて溜息混じりにイヤホンを外し、ラジオを切った。こっちを見て気まずげにする。
「駄目だ。今日は勝てそうにない」
「わかんないだろ。この後逆転するかもしんないし、聴いとけば?」
 一応そう言ってはみるものの、うちの父さんは負け試合を観戦するのが好きではなく、点差がついた時点で速攻テレビやラジオを消してしまう。おかげで劇的な逆転劇を見逃してきたこと数知れず。翌日のニュースを見て悔しがってる父さんを、ガキの頃から何度も見てきた。
「それで本当に負けたら、何か、縁起悪いだろ。せっかくお前が嫁さん候補連れてきてるのに」
 父さんは苦し紛れの反論をする。
 たかが贔屓チームの勝敗如きで俺と藍子の先行きを占おうとするのはやめて欲しい。そういうのなくても順調ですから。順風満帆ですから。
 ともかくもラジオを置いた父さんは、代わりに水割りのグラスを持ち上げる。そして一口飲んでから、いかにも思い出したように言った。
「そういえば隆宏、藍子さんにあれ見せたか?」
「あれって何だよ」
「机の上に置いといたろ。卒業ん時の文集とか」
「ああ……。あれ、父さんの仕業かよ。やめろって」
 既に俺の部屋ではなくなったはずの場所に仕掛けられていた、とんでもないトラップの数々。それを用意した犯人が自白を始めたようだ。思わず顔を顰めれば、父さんはむしろ嬉しそうに笑んだ。
「何で嫌がる? お前の可愛かった頃を藍子さんにも見てもらえばいいだろ」
「可愛かったって……」
 まあ、十代の頃の俺は確かに今より可愛かったかもしれん。でも確実に今より馬鹿だしアホだ。そしてもしかすれば、今の藍子よりもずっと夢見がちなロマンチストだった。
 だから恥ずかしくて藍子にはあんまり見せたくないし――もっと言ってしまえば、俺自身が見たくない、開きたくないんだよな。
「今日の為にわざわざ、押入れ掃除して出してきたんだから」
 いつの間にか皿洗いを終えた母さんが、台所から顔を覗かせる。その後ろからついてきた藍子を振り返り、
「ねえ。藍子さんだって隆宏の文集とか、昔の写真とか見たいよねえ?」
 と尋ねれば、藍子は即座に頷いた。
「はい、とっても!」
「ほら見なさい。彼女のお願いはちゃんと聞いてあげなきゃ駄目でしょう?」
 そういう言い方をされると困る。
 実際、逆の立場だったら俺も『見たい!』って即答してただろうけどな。そう思えば藍子の反応はやむを得ない。しょうがね、俺も覚悟決めますか。
「わかった。じゃ、部屋行くか」
 缶ビールの残りを飲み干して立ち上がると、藍子は足取り軽くついてきた。二階へ上がる階段の踊り場で一度振り向いたら、すっげえ目をきらきらさせてた。可愛くも実に犬っぽいお嬢さんである。

 部屋に入るが早いか、藍子は真っ直ぐ俺の勉強机へと歩み寄り、文集の一冊を手に取った。俺はそれを横目に見ながら部屋のドアを静かに閉める。彼女が早速ページを開こうとしていたから、苦笑しつつ声をかけた。
「座って読めよ。結構重いぞ、それ」
「そうします」
 藍子は答え、床に座ろうとする。だから俺はすかさずベッドに腰を下ろし、隣に座るようにと幾何学模様のカバーを叩いた。にこっとした藍子が言われた通りにする。
 でも隣に座らせたのは少し失敗だったかもしれない。見下ろせば彼女が広げた文集の中身が望んでもいないのに覗けた。文集は本当に重かったと見えて、藍子は膝の上にそれを置くようにしてページをめくる。冒頭の、行事写真などが並んでいる辺りをつぶさに眺めている。その辺りはまだ無害だったような気がする――むしろ巻末にある部活動紹介辺りが若干やばい。俺の個人の作文が載ってるページはもっとやばい。
 そこへ辿り着く前に邪魔してやろうと思い、俺は藍子の耳元へ息を吹きかける。
「わっ」
 あんまり色っぽくない声を上げ、藍子はびくっと肩を震わせた。にやにやする俺をびっくりした顔で見る。
「何するんですか」
「往生際悪く邪魔してやろうと思って」
「駄目ですよ、もう。時間の問題です。年貢の納め時です」
 そう言って藍子は行事写真のページを抜け、三年一組のクラス紹介にまで辿り着く。集合写真をざっと眺めた辺りで次のページをめくり、そこから一ページごとに生徒一人ひとりのプロフィールと作文掲載が続くと把握してから、俺に向かって尋ねた。
「隆宏さんは高三の時、何組だったんですか?」
「内緒です!」
 俺の答えを聞くとちょっとむくれて、
「どうしてですか?」
 と更に尋ねてくる。
「黙秘権を行使します!」
「あ、意地悪。じゃあ一クラスずつ探していきます」
 もっと粘るかと思ったら、藍子はあっさり引き下がった。重たい文集の裏表紙を一度持ち上げるようにして、ページを一気に飛ばし、今度は二組の集合写真を検分し始める。写真の下にはご丁寧にも名前が並んでいて、たとえ当時の顔に面影がなくても容易に人探しができるシステムなのが小憎らしい。
 藍子は集合写真と名前の羅列とを見比べながら、ここでも丹念に俺を探している。その眼差しは真剣だが、唇は少し微笑んでいた。そんなに飲んでいないはずなのに頬がほんのり赤いのは、やっぱり車移動の疲れのせいだろうか。
 何となく、その頬っぺたにキスしてみる。
 今度はさっきよりも驚かなかったものの、藍子はやっぱりこちらを見た。何か言いたそうに軽く開いた赤い唇にもキスして、そのまま更に距離を詰めるように額と額をくっつけたら、俺を見つめていた瞳がたちまちぼうっとした目つきになる。
 可愛い。
 俺も疲れてるんだろうか、あるいは浮かれてるのかもしれないが、ちょっとそういう気分になったりする。ぎしっと音を立てるベッドの上、このまま押し倒していただいてしまおうかと企てる。そうしたら藍子ももう文集を読んでいられなくなるだろうし、一石二鳥だ。
 しかしながら、俺よりも藍子の理性ははるかに強靭だった。直におずおずと視線を外し、恥ずかしそうに訴えてきた。
「あの、私、読んでますから……」
「何だ藍子、俺より文集を取るのか」
「昔の隆宏さんを見てみたくて読んでるんですよ」
 もっともな反論の後、彼女はまた文集に目を戻す。企みが不発に終わり、俺は二重の意味でがっかりする。
 三年二組一同をチェックして、石田少年がそこにいないとわかると、次もまたページが飛んだ。うっかり行きすぎて少し戻って、三組の集合写真に到着する。ここまで来ると俺はいよいよそわそわしてきて、藍子の耳たぶに噛みついたり、わざと指が耳に触れるように髪を梳いてみたり、ダイレクトに肩を抱き寄せたりとあらゆる妨害策を講じてみたが、無駄だった。
「もう、いたずらしないでください」
 くすぐったそうに首を竦めた藍子が、直後、あっと小さく声を上げた。俺が何かしたからではなく、何かを見つけたからだ。
「いました、隆宏さん」
 カラーの集合写真は鮮明な写りで、十年以上も前の、面影があるかないかな俺の姿もはっきりと写し出している。当時高校三年生、十八歳の石田少年は、寒空の下で撮られた写真だというのにやたら日に焼けた顔をしている。あと集合写真なのにめっちゃ笑ってる。
「スポーツ少年って感じですね。可愛いなあ」
 藍子が誉めてくれたからと言って、俺の気恥ずかしさは和らがない。むしろ一層加速した。
「お前、もう読むのやめない?」
「いえ、せっかくですからプロフィールも見たいです」
 やんわり頼んでみても聞き入れてもらえず、藍子は俺のプロフィールが載ったページを探し始める。自慢じゃないが出席番号ではいつもトップスリー以内だった俺は、いくらも進まないうちにそのページを見つけられてしまった。そこに出てくる雑な字のプロフィールと作文がちらっと視界に入っただけで、三十過ぎの俺の目は呆気なく眩みそうだった。この頃は酷い金釘流で、大学入ってから直すのにものすごく苦労した覚えがある。
「……ワンゲル部、だったんですね」
 プロフィールを読み進める藍子が、意外そうに呟いた。その意外そうな態度が俺には逆に驚きだった。
「似合わないか?」
「そんなことないです。スポーツやってそうだなあとは思いましたし」
 藍子はそう言ってから、俺の顔を見て小首を傾げる。
「でも隆宏さんは、チームスポーツの人っぽいかなって。どちらかと言えばですけど」
「こう見えても協調性はあるからなー俺」
「そうですよね」
 俺が冗談のつもりで言ったことでも、藍子は本気にして受け取るのが困る。今も真面目に頷いていた。ボケ度なら向こうはぴっちぴちの天然物、一枚も二枚も上手だ。
 仕方なく、俺も真面目に答えておく。
「その頃は登山にハマってたんだよな。何か、面白くてさ」
「ふうん」
「あ、でもお前の推測もそう外れじゃない。俺、中学の頃はサッカー部だったし」
「そうなんですか? 格好いいですね! 見てみたかったなあ……」
 藍子もごく一般的な女の子と同様、サッカー少年に対する好感度は高めらしい。机の上にある別の文集――今度は俺の中学の卒業文集に目をやったから、そっちも見せることになるのかなと覚悟はしておく。まあ、『格好いい』と言われて気持ちが揺れたことは決して否定いたしません。
 現実には石田少年は、格好いいどころか実にいい加減な人物だった。
「小学校の頃は野球やってた。リトルリーグ」
 俺が打ち明けると、藍子は聞き返そうとするみたいに目を瞠った。
「えっと……いろいろ、してたんですね。スポーツ」
「まあな。持て余してたから身体動かすのは好きだったんだが、いかんせん飽きっぽくてな」
 うちの父さんは野球ファンだったから、俺も野球は好きだった。でも中学の野球部は皆して坊主頭だったし、サッカーの方が女子に人気あったからそっちに気持ちが靡いてしまった。
 そして高校に入ったら、今度は山登りに目覚めた。美人の先輩マネージャーにつられたとか、体験入部してみたら女子部員の方が多かったからとか、そういう理由も多少あったにせよ俺にしては長続きした方だった。何せ大学に入ってからも、社会人になってからの何年間かも市民登山サークルに入って活動してはいたからだ。登山前の準備の楽しさとか、登りきってからの達成感なんかは俺の性格にぴったり合っていたと今でも思う。
 しかし有体な話ながら、俺は迂闊にもそのサークルで彼女を作ってしまった為、例の事情で振られた後はサークル自体抜けざるを得なくなった。向こうは早々に、サークル内の別の相手と結婚していたから、そこは俺が空気を読まなきゃいけなかった。
 そんなに山あり谷ありな人生を送ってきたつもりはなかったが、こうして顧みれば結構、いろいろあったな。自業自得な失敗談も含めて。
 おかげで今の幸せがある、と思いたいところだ。
「あっ」
 藍子が隣で、また小さく声を上げた。俺がしみじみ過去を思い出している間にどうやら俺の作文まで読み終えたらしい。いかにも納得したような笑顔になる。
「もしかして、レスキュー隊員になりたくて登山を始めたんですか?」
「……何だよその得意げな顔。年上をからかうもんじゃありませんよ」
 俺が照れ隠しに柔らかい脇腹をくすぐると、藍子は身を捩ってころころ笑った。それでも文集は決して手放さず、俺のページを開いたまんまで尚も言い募る。
「か、からかったんじゃないですよ。やめてください、くすぐったい」
「ほらほら、下にはうちの親がいるんだぞ。あんまり大声出すと聞こえちゃうぞ」
「だったら余計やめてくださいっ。も、もう、聞こえたら恥ずかしいですよ……」
 ただくすぐられただけなのに妙に恥ずかしげな藍子が、乱れた息を整えながら続ける。
「私は、誰かの役に立ちたくてレスキュー隊員になりたいっていうのが、すごく隆宏さんっぽいなあって思ったんです」
 文集に載せた作文のテーマは『将来の夢』で、そこには俺だけじゃなく、ほとんどのクラスメイトたちが夢いっぱい幸せいっぱいの未来予想図を描いていた。あの頃のクラスの連中のうち、本当に夢を叶えられた奴は何人いるだろう。
 俺にとってもあの頃の夢は割と本気だったし、高校時代は誰かの為になるような仕事をしたいと心から思っていた。当時の俺は、普通のサラリーマンなんて誰の為にもならない、誰の役にも立てない、一番地味でつまらない職業だと考えていた。
「あの頃は、何にでもなれるって思ってたんだよな。全能感、っていうのか」
 努力さえすればどんな夢にも手が届く。そう思っていた。
「だから、進路決める前にはいろいろ試したな。うちの高校の進路指導室にそういう職業紹介のビデオがあってさ、レスキュー隊のとこは友達とテープ擦り切れるほど繰り返し見たし、体験訓練にも参加した。消防署行って、ロープ渡りとか壁登りもした」
「へえ」
 藍子の感心したような相槌が、嬉しくも、少し切なくもある。
「あと、そっちもアリかなと思って自衛隊も見てきた。ヘリに乗せてもらってさ、それがもうめちゃくちゃ速いのな。一瞬、ヘリのパイロットもいいかなと思ったくらい」
「すごい。活動的だったんですね」
 でもそういうフットワークの軽さのも、若さゆえの全能感、何でもできるって思い込みのなせる業だったのかもしれない。
 そこまでいろいろ試しておきながら、俺は推薦が取れそうという軽い理由からとりあえず大学に進んだ。進学してから決めればいいや、なんてのんきに構えてた。そうしてふと気づいたら、俺はかつて一番なりたくなかった職業を進路として希望していて、ただの普通のサラリーマンになる為に必死になって就活した。
 高校時代の夢や憧れをいつ、どこで置いてきたのかはわからない。でも不思議と今の自分に後悔はないし、人生ってそんなもんだとさえ思っている。俺たちの仕事はそうそう他人に感謝されるもんでもないし、誰かの役に、直接立つってこともあんまりないけど、でもそういうサラリーマンだって日本社会を支えてたり、経済回してたり、もっと小さい視点で言えば家庭くらいはしっかり守ってたりするんだってこと、今は十分わかってる。
 しかし、挫折する前にやめとくって辺りはいかにも俺らしい駄目っぷりだ。
「……藍子は、何か夢とか、なりたいものってあったのか」
 俺が尋ねると、彼女は文集から顔を上げ、無邪気な子供みたいに笑ってみせた。
「はい。私、小さな頃はケーキ屋さんになりたかったんです」
 何だそれ、そっちの方がよっぽど『らしい』夢じゃないか。
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