Tiny garden

不安解消方法(2)

「いづらいなら何とか言って、抜けて来い」
 過保護だという自覚はありつつ、俺は小坂をそそのかす。
「今なら俺も動けるし、迎えに行くから」
 酒飲んでなくてよかった。今ならまだ車で行ける。
 着替えだけはもう一回しなくちゃならないけどな。Tシャツにハーパンでは夜の街なんか繰り出せるものか。
『い、いえ、いいです! お疲れのところに出てきていただくのはさすがに、申し訳ないですから!』
 彼女は精一杯潜めた声で、それでも強めに言い切った。
 今更、そんなつまらん遠慮するような仲じゃないだろうに。俺はあえて突っついてやる。
「何言ってんだ、端からそのつもりで電話したんだろ?」
『そういうわけでは……』
 彼女は困ったように言葉を区切った後、
『私、ただ、主任の声が聞きたかっただけです』
 さりげなく爆弾発言をかました。
『来たことないようなお店で、なかなか帰れなくて、ちょっと挫けそうになってたから、そういう時に主任の声が聞けたらもう少し頑張れるかなって思って、それで電話しただけなんです』
 と言うか、そこから更に続いた台詞はもう全然さりげなくも何ともないただの爆弾だった。
 そんなのを電話越しに囁くような声で聞かされた俺は、それでなくても近頃こと不意打ちには滅法弱いとあって、恥ずかしながら多少なりとも動揺した。本当にこいつは、こっちがそれっぽいこと言った時はやたらもじもじするくせに、奇襲攻撃みたいにいきなりこんな風に言ってくることがあるから困る。とても困る。
 が、言った本人の方がより激しくうろたえたようだ。間を置かずに慌てた声が追いかけてきた。
『あ……あの、違うんです。いえ、違わないですけど、何て言うか……』
「違わないなら、何だよ。はっきり言え」
『すみません! とにかく、主任に励ましてもらえたら後は全然、私一人で帰れますから』
 自分から言い出しておきながら、どうして急にトーンダウンするんだよ、可愛い奴め。
 とは言え俺はその発言に釣られただけじゃなく、それこそ端から迎えに行くつもりでいた。先程からの説明を聞くに、どうも上手い口実でもない限り、そう簡単には抜けられなさそうな気配だからだ。
「ちゃんと出て来れそうか?」
 一応尋ねてみる。
 まだ励ましてやってもないというのに、小坂はもう気持ちを切り替えたようで、やたら勇ましく語る。
『頑張ります。皆さんノリノリなので、乗り切れてない私がいたら水を差すだけだと思いますし、お暇の際はその辺りを重点に突いていこうかと計画しているところです』
 取引先の皆さんは小坂の困惑をよそに、随分と楽しんでしまっているらしい。男しかいない職場なのかね。よっぽど潤いも華もない日常をお過ごしなんだろうか、かわいそうに。
 それにしたって、小坂みたいなのをそういう夜のお店に連れてっちゃうのは、やっぱどうかと思うよ。あんな真面目な性格の奴に、しかも女の子だらけの店なんて楽しめるわけないだろ。――いや、野郎だらけの店なんてもっと駄目だけどな! 絶対駄目だ!
「帰るって言ったら引き止められたりしないか」
『今まではそんな調子でした。でももうじき日付変わりますし、明日のこと考えたらもういい加減帰らないといけませんから』
 そうだよ。他社の営業、しかも嫁入り前のお嬢さんなんだから、その辺は配慮して欲しいよな。これだから男ってやつは揃いも揃って気が回らんと言うか、デリカシーに欠けるのばかりだ。まあ俺はその中でも例外中の例外と言いますか、我ながら非常に気の利く男ですがね。
「だったら、仕事入ったからって出てくればいい」
 そして気の利く俺は、小坂にそう入れ知恵してやった。
『え、仕事……ですか?』
「そうだ。急遽会社から連絡来て呼ばれて、戻んなきゃいけなくなったって言ってやれ。俺もしっかりスーツ着て迎えに行けば、万が一見られても誤魔化し利くしな」
 電話を肩に挟んで指示しながら、俺は既にシャツとネクタイを取り出している。耳にくっついた電話からは小坂の戸惑う声が聞こえる。
『で、でも、こんな時間ですよ? 主任に出てきていただくのも申し訳ないですし、仕事の連絡があるっていうのも不自然かなって……』
「そこはお前の腕の見せ所だ。何だったら俺を悪者にしていい」
 ある意味、悪い上司の発言だよなと実際思う。部下に嘘つかせようってんだからな。
「こわーい上司に呼び戻されて、すぐにでも帰社しないと後でめちゃくちゃ怒られるからって言ってやれ。口実は何でもいい、システムのトラブルでも明日の打ち合わせでも。先方だってそういう理由だったら引き止められないだろ」
『そんな、主任を悪く言うなんて』
 ここまで言っても小坂はどことなく及び腰だったが、
「いいから。下手に『この店合わないので帰りたいです』オーラ出してたら、先方の心証も悪いだろ。仕事でどうしても抜けなきゃなりません、の方が楽勝だし手っ取り早いよ」
 誑かすようにしつこく勧めたら、少ししてから諦め混じりに言われた。
『わかりました。でも、すみません、主任』
 浮かべているであろう済まなそうな顔も、小さくなった姿もまるで目に浮かぶようだ。俺はちょっと笑ってしまった。
「気にするなよ」
『気にします。私、いつも助けていただいてばかりで』
 小坂はそう言うが、俺としてはこういう局面で、真っ先に他でもない俺へ連絡してくれるのが嬉しい。去年までの彼女なら誰にも助けを求められず、一人で右往左往してたんじゃないかって気がするから。困った時に、誰よりも早く頭に浮かんだのが俺の存在だったっていうなら、それはもう手放しで嬉しいもんだ。
「励まして欲しかったんだろ? 顔合わせたらいくらでも、してやるから」
 俺が約束すると、今度は小坂がちょっとだけ、笑ってくれた。
『……嬉しいです。じゃあ、それを励みに頑張ります』
 それから俺は小坂から現在位置、つまりその店の場所を聞き、通話を終えた。
 すぐに身支度を整えて部屋を出ると、慌しく車を動かし、目的地へと向かう。小坂が言っていたとおりにもうじき日付の変わる頃、道は割と空いていた。

 平日夜はコインパーキングもがらがらで、駐車場探しには手間取らなかった。
 繁華街も週末に比べれば人出は多くなく、フルパワーで光るネオンが何だか暑苦しく見える。八月の真夜中はじめじめと湿度も高くて、彼女の為でもなけりゃスーツなんて着て歩きたくもない。それでも小坂が待っているからと、店までできる限り急いだ。
 やがて立ち並ぶ雑居ビルのうちの一つに、彼女から聞いていた店名の記された看板を見つけて――これがまた見紛うことなきキャバクラ、という明け透けな店の名前だったもんだから、俺も免疫ないわけじゃないけどついつい苦笑してしまう。やっぱ女の子を連れて入るようなとこじゃないって。そこはもうちょい選ぼうぜ、仕事で来るにしてもだ。
 そして小坂は既に店を出ていたようで、そのビルの真ん前にいた。
 ただし、一人じゃなかった。
 近づいていくうちにわかった。茶髪にスーツ姿の若い男が一緒で、小坂はそいつに対して猛烈な勢いでぺこぺこ頭を下げていた。男の方は別段怒っているとか、感情的になっているようなそぶりもないようだったが、どういうつもりなのか小坂の手首を掴んで、放すまいとしている、らしい。小坂が何度頭を下げても、何か話しかけても、笑うばかりで一向に手を外そうとしない。ネオンサインの光がぎらぎら照りつけるせいか、男の取り繕うような笑顔が白く浮かび上がって、むかつくほど鮮やかに映った。
 その光景が全部目視できるようになった直前まで、俺は彼女との当初の打ち合わせどおりに『こわーい上司』の演技でもしていこうかと考えていた。あいつがそういう風に先方に吹き込めるとは到底思ってなかったが、こんな時間に呼び戻すって時点で相当な鬼だ。だからそれらしい顔でもしていようかと、企んではいた。
 だが小坂を捕まえてるその男を目の当たりにした瞬間、演技の必要なんて全くなくなった。
 ――馴れ馴れしく触んじゃねえ、ガキが。
「あっ、主任!」
 直に小坂がこちらへ気づいた。その時の声がどことなく安心したように聞こえたのは、俺の勘違いじゃないだろう。
 俺も小坂にだけ控えめに笑いかけた後、視線を男の方へ転じる。あいにくと面識のないその男は、遠目で見た印象に違わず俺よりも年下のようで、恐らく霧島よりも若いんじゃないだろうか。いかにもチャラそうな、でも柄が悪いとまではいかない、さほど物珍しくもないタイプのリーマンといった印象だ。大分酔っ払っているのか顔は赤いが、足元が覚束ないほどではないようだ。
 そいつは俺を見るや否や驚いたように目を剥いて、口を開く。
「え、主任さん? 本当に?」
 どういう意味の疑問系だよ。
 俺はもうこの時点で十分にむかむかしていたから、
「営業課主任の石田と申します。……うちの小坂が、何か?」
 挨拶をしてからその男の、小坂の可愛い手首を掴んでいる目障りな片手に視線をやる。
 男も察したようで、急いで小坂の手を解放すると、酔っ払いらしい口調で言った。
「いや、すみません。彼女が、主任さんが迎えに来るって言うから、こんな時間じゃありえないだろうと思って、てっきり冗談なんだと……」
 それで尚も引き止めにかかってた、ってとこか? ふざけんな。
 内心で歯軋りする俺の隣に、解放された小坂がすすっと並んだ。カバンを手に、帰り支度も万端の彼女は、男に対してもう一度頭を下げる。
「あの、先程はちゃんと説明できなくて申し訳ないです。でも本当に仕事が入ってしまいまして、戻らなくてはいけないので……すみませんが私はこれで、失礼いたします」
 小坂は酔いの全く窺えないはきはきした話し方をしていた。これでちゃんと説明ができてないとは思えないんだがな。仕事というのは確かに嘘だが、どうして信じてもらえなかったのかという点も、後々の為に精査する必要がありそうだ。
「どうもご心配までおかけしたようですみません。お騒がせしました」
 俺も一応、頭を下げる。
 よっぽど嫌味ったらしく言ってやろうかと思ったが、それじゃ小坂の顔を潰すことになるだろうし、第一大人気ない。まあ後者の方はとうに手遅れかもしれないが、ひとまず礼儀は保ったつもりだ。はらわたは煮えくり返ってるものの。
「い、いえ、こちらこそ失礼しました」
 茶髪の男は酔いも覚めたのか、やけに早口にそう言うと、逃げるようにビルの中へ戻っていった。店内ではまだ同僚たちが盛り上がってるところなんだろうから、のこのこ出てこないで内輪で楽しんでりゃいいのに。
 そうして邪魔者も消え、ビルの前で二人きりになる。
 途端、苛立つ俺よりも先に、小坂が深い溜息をついた。
「よかった……」
 呟いて胸を撫で下ろしていたから、何事かと俺は眉を顰める。
「ずっと引き止められてて困ってたんです。仕事があって、って言っても冗談みたいに聞こえたのか、どうしてか信じてもらえなくて」
 くたびれきった顔の小坂が答えた。
 しかし恐らくそれは、信じてもらえなかったわけではないだろう。普通は嘘だとわかっても引き止めてやらないのがマナーってもんだ。若い子の拙い口実と思って、押し切れるつもりでいたのか。あるいは口実が事実でも構わんから口説いてしまえと思ったか。どっちにしろ腹立たしい。
「ちゃんと言ったか? 主任が怒ると恐ろしいので帰りますって」
「言えないです、それは」
 小坂は後ろめたそうにかぶりを振る。その後で、また溜息を零す。
「でもそれ以外はちゃんとお話ししたつもりだったので、逆にいろいろ言われてしまって、もうどうしていいのかわからなくて……主任が来てくださらなかったら、ずっとここで押し問答を続けてたかもです」
 押し問答で済めばまだましなんだがな。『じゃあ場所を移して』とか言われてたらどうする気だったんだ、お前。
 って言うか電話じゃわからなかったが思いっきり危機的状況だったじゃねーか。どう見てもあいつに狙われてたし。そこは真っ先に俺に言っとくとこだろ! もっとわかりやすく言われてたらもっとすっ飛んできてたのに!
 ――という荒れ狂う思いは、今はどうにか封じておく。
 危機管理の意識改革は落ち着いた時にでもじっくりとしよう。今回は間に合ってよかった、無事切り抜けられてよかったって思っておく。もう遅い時間だし、お互い明日も仕事があるし、お盆休みを控えた一番忙しい時だ。見るからに疲れてる彼女を早く家へ送り届けてやらないと。
「ありがとうございます、主任」
 名前じゃなくて役職呼びだけど、感謝を込めた言葉は貰えたし、今日のところはよしとしよう。
「ああ。……車、近くのパーキングに停めてあるから、行くか」
「はい」
 俺が促すと小坂は顎を引き、やっとのことで笑ってくれた。
 でもその笑い方には明らかに疲労が滲み出ていて、ふと見ればはっとするほど顔色が蒼白だった。最初は眩しすぎる繁華街の照明のせいかと思ったが、どうも、そうではないようだ。
「ところでお前、顔色悪いけど、大丈夫か?」
 心配になって俺は尋ねる。
 小坂は一度目を逸らしたが、誤魔化しきれないと踏んだんだろうか。こめかみを押さえながら打ち明けてきた。
「実はちょっと、頭が痛くて……人の多いところにいたせいだと思うんですけど」
「な、何だよ。それこそ真っ先に言えよそういうことは!」
 俺は大急ぎで小坂を連れ、駐車場へ取って返し、そのまま車で彼女の家まで送っていった。
 何分慌てていたのと、彼女が本当に具合悪そうなのもあって、その晩はあまり話もできずに過ぎてしまった。
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