Tiny garden

不安解消方法(1)

 八月に入り、夏の繁忙期もいよいよ終盤戦。
 来週にはもう楽しい楽しいお盆休みの始まりってことで、俺の意識の半分くらいは既にそちらへ飛んでいた。何せ今年のお盆は、彼女を連れての里帰りと予定が決まっている。彼女をうちの両親に紹介するのも初めてなら、二人でちょっと遠出と言うか、小旅行に出かけるというのも初めてだ。浮き足立たないはずがない。
 もちろん彼女の方も、なかなかにわかりやすい浮き足立ちっぷりを見せてくれている。八月最初の週にはもう冷やし中華開始を告げるラーメン屋の張り紙のごとく『荷造り始めました!』というメールを貰っていて、気の早さはいい勝負だよなとこっそり思う。
 何はともあれはしゃいじゃってるのが俺一人じゃないということが嬉しくもあり、お互い年甲斐ないよなあって気恥ずかしくもあり。

 さて、今日この時間の小坂は営業課のホワイトボードの前でマジックを握っているところだ。
 自分の名前の欄の隣に『十七時より飲み会。直帰します』と書くまでは普通だが、その後、空いたスペースに可愛くグラスの絵やら、音符マークやらを描いている。落書きなんてするのは、真面目な彼女にしては珍しい行動だった。
「小坂さん、そんなに飲み会楽しみなんですか?」
 今年度の新人、春名がそれを見つけて尋ねる。
 すると小坂はにっこりして答えた。
「楽しみというわけではないんですけど、今日の飲み会が終わったらお盆休みまで特にイベントもないので、こうして予定が一個一個片づいていくのが嬉しいんです」
 本日飲み会の予定が入っているのは彼女だけ。つまり営業課の飲み会ではなく、取引先との、というわけだ。いかに食べ飲み大好き小坂でも、全面的に楽しみとは言えないらしい。
「よその会社の方との飲み会って、緊張しそうですよね」
 春名はまだ未経験だからか他社との飲み会に興味津々のようだ。突っ込んで尋ねてくるのを、先輩小坂は明るい表情で応じている。
「緊張しますよー。私、まだ慣れない感じしますもん。あんまりたくさん食べられないから、早く酔っ払わないよう気をつけなきゃですし」
 それは実体験に基づく確かな証言だ。神妙に聞く春名も、あと数ヶ月もすれば嫌でもわかるようになるだろう。
 にしても、ただでさえ暑い時期、そして繁忙期の飲み会だ。上司としては小坂が体調を崩したりしないか、悪酔いなんてしないか、とにかく心配でならない。疲れてる時に酒飲んだら案外効いたりするものだし、つまみとして出てくる脂っこいメニューで胃腸壊したりしないかも気になるし、って言うか何でこんな時期に飲み会だようちの課だって九月まで持ち越しなのにちょっと考えろよとか思わなくもない。ええもちろんこれらは全て上司としての、営業課主任として可愛い部下に対する心配です。公私混同じゃないはず。多分な。
 それに、心配って言うなら他にも要因があるし。
「お盆休み、近いですもんね。小坂さんは何かご予定あるんですか?」
 春名の問いに、小坂はそこで照れたような表情を見せた。
「あります。もうばっちり、仕事よりも予定立ててあるんです」
 それで春名は感心したのか、へええと感嘆の声を上げ、嬉しそうな小坂は意気揚々と自分の机を片づけ始める。そうして十六時二十分には帰り支度を済ませ、
「では、お先に失礼しまーす!」
 姿勢よく営業課を出て行った。
 皆の挨拶の声を聞きながら、俺はその直前までちょっと迷っていたが――後でメールで言えばいいだろと思わなくもなかったが、結局席を立ち、皆の愉快そうな視線を浴びつつ、閉じたばかりのドアを開けて廊下を歩いていくの背中に呼びかける。
「小坂、小坂」
 彼女もすぐに気づいて、ぱっと振り向いてくれた。
 それからわざわざ戻ってきてくれたので、どうしました主任、と聞かれる前に言っておく。
「帰ったら連絡」
 こそっと短く告げたら、小坂は一度瞬きしてから、いい笑顔で頷いてくれた。
「了解です」
 その笑顔と来たら可愛すぎること犬の如し。
 いつもならその可愛さも仕事への活力に変換できてしまうんだが、こういう日はかえって不安になる。お前、俺以外の奴にはそこまで可愛くしなくてもいいから、って言いたくなる。でも職場じゃそんなことは口にできないし、そもそも小坂ならどんなに忠告しても無駄で、本人の気づかないうちにほうぼうへ愛想を振り撒いてくるから困る。
「気をつけてな」
 だから俺はその言葉を、それはもう、心の底から言っておく。
 だって心配なんだよ! 俺のいないところでの飲み会とか普通に考えたら危険一杯すぎて胃が痛くなるレベル。去年なんてよりによって俺の出張中に散々飲まされ酔わされてえらいことになってたし、取引先に性質の悪い狼どもが潜んでいないとも限らない。本音で言えば俺のいないとこでは酒なんて飲んで欲しくない。そりゃあ小坂はそれなりにいける口だし、ふらふらになるまで飲んだのは去年のあの時きりだと言うし、考えすぎるのもいかんとは思うんだが、でもこればかりは気になるんだからしょうがない。
「はい。行ってきます、主任」
 小坂はもう一度大きく頷き、それから飲み会へと旅立った。
 遠ざかる背中を完全には見送らず、俺は複雑な思いで営業課へ帰還する。
 そこへ待ち構えていたみたいに春名が、
「主任、他社との飲み会の後には報告義務があるんですか?」
 と口調だけは生真面目に、でも表情は生意気に――お前それわかっててわざと聞いてんだろと突っ込みたくなる顔で質問してきた。
 今年の新人は本当にいい性格してる。
 悔し紛れに言い返そうとした俺よりも早く、そこで居合わせた霧島がやたら嬉々として口を開いた。
「違いますよ春名くん。石田先輩は主任としての立場を利用して小坂さんに報告を強要してるだけです」
「強要って、言うに事欠いて何だお前!」
「春名くんは真似しちゃ駄目です。公私混同の反面教師としてくださいね」
「おい霧島、新人にデタラメ吹き込んでんじゃねえ! 春名もそこで頷いてんな!」
 したり顔で語る霧島と、なるほどーと頷く春名に睨みを利かせつつ、俺は内心では思う。
 確かにこれは、公私の『私』に当たる心配事なのかもしれない。
 でも霧島の言い種もどうだ、酷すぎやしないか。一応上司、そして日頃からとってもお世話になってるであろう長い付き合いの先輩に対してその表現は失礼にも程があるだろ。お盆休み明けにまた幸せ太りしてたら三倍返ししてやるから覚悟してろ。
 あと、浮き足立ってるのは俺と小坂だけじゃないらしいってこともわかった。
 しょうがないよな、お盆休みだもんな。

 そんな調子でそわそわと仕事を済ませ、俺が帰宅したのは午後九時。
 小坂からの連絡はまだメールの一通もない。五時からの飲み会が引けてないってことはあんまりないだろうから、二次会にも呼ばれたんだろうか。そりゃ営業に若くて可愛い女の子が来たら宴席も華やぐし、引き止めちゃうよな……と思いながらも非常に気になってる自分がいる。その若くて可愛い女の子は俺のですから! 売約済みですから! って乗り込んでいきたい衝動をぐっと堪えて、まずは飯にする。
 着替えて適当に飯食って、その日のニュースをチェックしてたら、いつの間にか時計は午後十時を回っていた。
 それでも小坂からの連絡は、まだない。
 十時になっても連絡ないってことは、二次会に行ったんだろうな。うん。
 そんなに心配することじゃないってわかってますよ、当然。あいつだっていい大人だし、自分の望まない誘いはしっかり断ってくれるだろうし、俺がやきもきしてたって何にもならんこともわかってる。信じて待つのがベストだ。俺はかつてノーベル忍耐賞にもセルフノミネートされた男。このくらいどうってことありませんとも。
 しかし一人、懊悩煩悶しながら過ごすのも不毛だ。
 その時ふと、小坂から貰った『荷造り始めました』のメールを思い出し、じゃあ俺も旅行の支度でもするかと考えた。まだ来週の話ではあるが、お盆休み直前の土壇場で仕事が立て込まないとも限らない。最悪、当日はカバン引っ掴んですぐ出発できるくらいに用意をしておくのも無駄ではないだろう。行き先は実家だし、とんでもねー秘境に行くわけでもないから足りないものがあればすぐ買いに出れるんだが、まあ一応。
 クローゼットから出張用のキャリートランクと、使い古したスポーツバッグとを引っ張り出す。少し悩んで、今回は車で行くんだからとスポーツバッグの方を選ぶ。それから入り用そうな品々をリストアップして、今のうちからしまっておいても支障のないものだけしまい始める。
 旅の用意をしながらも、俺はちょくちょく時計を見、そして携帯電話を見る。連絡ないなー、遅いなーと内心もやもやしていたから、支度はそれほど捗らなかった。そうこうしているうちに十一時を迎え、あいつまさかもう帰って寝ちゃったとかじゃないだろうな、むしろそうであって欲しい、じゃないといくらなんでも遅すぎる――といらいらし出した時に、ようやく。
 電話が鳴った。

 画面に『小坂藍子』の名前が表示されても、それを確かめた瞬間、携帯に飛びついてむちゃくちゃほっとしてしまったとしても、そんな気持ちを声に出すのは格好悪い。
 だから俺は一呼吸置いて、三十一歳らしく実に落ち着き払って通話ボタンを押し、応答した。
「もしもし」
『――あっ、主任。お疲れ様です』
 あれ、と思ったのは彼女が俺を『主任』と呼んだからだ。そう呼ぶということはまだ出先からかけてきてるんだろう。お蔭で俺は随分待ってたのにと少しばかり寂しくなり、同時にこんな遅くまでいて、明日も勤務なのに大丈夫かと心配にもなる。
「お疲れ。お前はまだ出先か?」
 念の為に確認すると、押し殺したような声が返ってきた。
『そうです、あの……』
 小坂はどことなくためらいがちな物言いで、ついでに言えば声のボリュームもかなり絞ってあった。まるで周囲を気にするみたいに。
『あの、私、まだ帰れてなくて……』
 別に勘が鋭くなくたって、その様子が普通じゃないことは掴めた。
 まさか、何かあったのか。俺は急き込んで尋ねる。
「どうした、抜けて来れないのか?」
『は、はい。実は』
 ひそひそ声のまま、はっきりとは言わない辺り、小坂の近くには誰か取引先の人間がいるのかもしれない。
 そしてそう打ち明けてくるからには、いくら温厚な彼女でももういい加減帰りたいと思ってるんだろう。明日だって営業日だから当然だ。
「適当言って帰って来いよ。明日仕事だから、ってだけでも十分だろ」
 俺がそう入れ知恵してやった瞬間、だった。
 電話の向こうで、それまでノイズのようだった音が急激に膨れ上がった。聞こえてきたのは女の子の声だ、それも大勢の黄色い歓声、もしくは楽しげな笑い声。それには劣るものの店内BGMと思しきユーロビートの重低音も拾えて、まるで香水の匂いが立ち込めてそうなその雰囲気にはっとする。
 何だこれ。どうして小坂が、こんな時間までそんな場所に?
 膨れ上がった音が、ドアを閉ざすようにまた聞こえなくなった後、俺はすぐさま小坂へ尋ねた。
「お前、今、どこにいる?」
 小坂はおずおずと答えてくる。
『何か、あの……何て言うか、きれいなお姉さんのたくさんいるお店です……』
 ――やっぱりか。
 俺は密かに頭を抱える。何でお前がそんな、全くもって方向性の違うお店に。
「飲み会で行ったのか?」
『そ、そうなんです。二次会で、いいお店があるからって連れてきていただいて』
 いや、そういうのって男にとってはいいお店かもしれないが、二十代前半の女の子にはそうじゃないだろ。しかもよりによって小坂みたいな真面目さが売りの女の子連れてくなんて、何考えてんだ、そいつら。
『私、こういうところ初めてで。雰囲気に呑まれちゃってるって言うか、どうしていいのかわからなくて……』
 説明する彼女の声音は気後れしているそぶりで、実に呑まれてる感ありありだった。そのせいだろうか、途中で抜けて来られなかったのは。
『取引先の皆さんはすごく楽しんでいらっしゃるようですし、お店のお姉さんたちは、おとなしくしてる私にも優しくて、帰りたいとは言い出しにくい空気だったんです。でも――』
 そこで彼女は落ち込んだように溜息をつき、
『でも私、自分で言うのもなんですけど、ものすごく場違いだなって思ってます』
 と続けた。
 俺もその点は同意だ。場違いなこと甚だしいだろうと想像がつく。
 そして大事なポイントが一つ。状況がどうあれ、客観的に見てさほど危機っぽくなかろうと、これは小坂からのSOSだということだ。仕事の飲み会で中座して電話をかけてくるほどなんだから、彼女にとっては何とも困った事態なんだろう。
 だとしたら俺は、彼女を助けなければいけない。
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