Tiny garden

不安解消方法(3)

 翌日、小坂はいつもより少し遅めに出勤してきた。

 営業課に姿を見せてすぐ、先に来ていた俺のところまでわざわざやってきた。
 あまり目立たないよう会釈をしながら、抑えた声で言う。
「主任。昨日は、ありがとうございました」
 だから気にすんなって散々言ってるのに。
 声まで落としてる辺り、彼女的には頑張って人目を忍んでるつもりみたいだが、普通に目立ってますから。営業課中がこっち見てますから。後でメールの一つもくれる程度でいいのにな、律儀と言うか、何と言うか。
 俺は小坂の礼も詫びも推し留めるつもりで小さく顎を引いておく。とりあえずこの場ではもう言わなくていい、そういう気持ちで。
 それから顔を上げた彼女を短い間、観察した。顔色は昨日の帰り際ほどは悪くなく、いつも柔らかそうな頬には夏の出勤後らしい赤みが差している。スーツをぴしっと着てるところも、髪をポニーテールにしてるところも実にいつも通りの可愛い小坂だ。ただ表情だけは思いのほか浮かない感じだった。普段の元気のよさは見受けられない。
 無理もないよな。昨夜、小坂を家に連れて行った頃には午前一時を回ってた。体調よくないのに睡眠も満足に取れないんじゃ、いくらタフさがとりえの小坂でも堪えるだろう。
「具合はよくなったか?」
 聞いたところで彼女は、よくなっててもなってなくても同じ答えを寄越すだろうが、それでも聞かずにはいられなかった。
 すると小坂は予想通り、
「大丈夫です。あの、ご心配おかけしまして、すみません」
 弱々しく微笑むと、これ以上は言えないとばかり自分の席へ戻っていく。
 大丈夫です! って元気に答えてくれないだけで、俺は彼女の不調を察してしまう。そして昨夜の一件を勝手に思い起こしては、朝っぱらからむかむかしてくる。

 営業という表へ出ていく職種柄、前々から懸念していたことではあったんだが、やはり厄介な連中ってのもいたもんだ。小坂を場違いすぎる夜のお店へ連れ込んだ上、帰ろうとする彼女を引き止めた挙句に気安く手首掴むとか――まさか俺の見てないところでそれ以上のこととかされちゃってないだろうな。小坂が他の男に触られたってだけでも胃が焼けそうなほど不快な気分になるっていうのに、知らないうちに酷い目に遭っていたらと思うと、想像すらできないほど苛立ってくる。
 ささくれ立った心は一度影が落ちると不安も疑いも尽きないものだ。今日、小坂が元気ないのも、昨夜の飲み会で何か嫌な思いをしたからじゃないか。あのにやつく男どもに嫌がらせを受けて、でもそんなこと他人には言えない、なんてぐるぐる悩んでやしないだろうか。気になりだすと止まらなくなる。
 彼女が同じ職場にいると困るのは、例えばこういう時だ。俺は営業の仕事がどんなものかうんざりするほど知ってるから、だからこそ得意先の飲み会などに赴く彼女が心配で心配でしょうがない。二次会でああいう店に行くのも、男ばかりだったらさほど珍しいことでもないんだ。先方からすれば、小坂一人の為に配慮して別の店へ、なんて考えもしなかったのかもしれないし、そもそも女の子がああいう店NGって頭すらなかったのかもしれん。
 それに、俺の彼女に対してこんな風に言うのも何だが、小坂は一見ちょろそうと言うか、簡単に落ちそうな感じがするのがよくない。人の話を素直に聞いて、世間の汚い物事とか何にも知らないような顔してて、誰に対しても人懐っこくて。だからよその男が『これはいける』と誤解してもやむを得ない、のかもしれない。ものすごく許しがたいがな。
 現実の小坂がちょろいどころか、難攻不落を誇る鉄壁の小坂城であることは、他でもない俺が身にしみて実感済みだ。あいつが他の男になびくとかそういう心配を持ったことはないが、誤解したまま無謀な挑戦を仕掛けてくる奴はいるようだ。そしてそういう輩に素直で可愛い彼女が傷つけられるなんて、絶対にごめんだ。
 何もなかったんなら、本当にそれで、それだけでいい。

 俺の不安を煽るみたいに、今日の小坂は始終活力に欠けていた。
 一日中一緒にいられるような仕事ではないから、朝、業務開始までの短い時間と、外回りから戻ってきてまた出て行くその合間の様子だけしか見ていないが、それだけでも確実にわかってしまうほど元気がなかった。挨拶の声も誰かに声をかけられた時の表情もいつもよりパワーダウンしていてほんのり暗く、作業の途中で物思いに耽るみたいに手を止めて少しの間俯いてしまうこともたびたびあった。
 そんな小坂に気づいたのは俺だけじゃなかったようで、例えば春名は気にして何度も言葉をかけていた。
「小坂さん、何か元気なくないですか? 夏バテですか?」
「あ、そういうんじゃないですけど……大丈夫ですよ」
 答えにくそうな小坂が両手を振ると、春名はますます心配になったらしい。大型犬みたいにしきりと彼女について回っていた。
「本当に大丈夫なんですか? あんまり無理しないでください、俺すっごく心配なんです!」
「春名くんのお気持ちは嬉しいですけど、平気ですから」
 同じ犬キャラとあってか、小坂は後輩の扱いが上手いようだ。すっかり手懐けられた春名はそれでも小坂が気になるらしく、彼女が営業課にいる間はそっちに意識を取られている有様だった。
 今年度ルーキーのそういう態度にももやもやしなくはなかったが――でも俺も、小坂が気になる。今は何を差し置いても気がかりだった。
 そして同じ職場だと面倒なのはこの点においてもそうで、課の連中はほぼもれなく彼女の浮かない様子に気づいてしまい、それだけならまだしも事あるごとに俺へも水を向けてくる。そりゃまあ、俺と小坂の関係がどういうものかは課内でも周知の事実だし、いいニュースとかで質問責めにあうなら問題はない。むしろ優越感に浸れていいものだ。ただ昨夜みたいな出来事があって、小坂本人はそれでも忙しそうに営業に出て行って話をする暇もなくて、残って仕事する俺自身がやきもきしてる時に、小坂さん何かあったんですかとか、元気ないみたいですけどとか、主任何かご存じないんですかとか、入れ替わり立ち代わり聞かれるのは辛い。とても辛い。
 だから、
「石田先輩、小坂さんはどうかしたんですか?」
 営業課内で最も遠慮の要らない相手にそう聞かれた時は、思いっきり嫌な顔をしてやった。
「知らん」
「知らんって……何ですか、そんな言い方」
 霧島が眉を顰めたので、確かに酷かったなと俺は我ながら珍しく反省する。これじゃただの八つ当たりだ。
「いや、悪い。本人は大丈夫だって言ってるんだがな、どうにも」
 でも『知らない』ってのは嘘でもないから困ってる。
 多分、昨日の出来事が尾を引いてるんだとは思う。でもそれが単に疲労のせいでの低調なのか、他に要因があるのか、見てるだけでは全く掴めないから。
「先輩も知らないんですか。まあ、小坂さんなら無理を押してしまいそうな気もします」
 腑に落ちたように唸った霧島が、その後で、
「昨日の飲み会のせいですかね」
 こちらも珍しく鋭い推察を見せた。
 俺は愕然とした。まさか昨夜のあれを知ってたのか。小坂がどんな目に遭ったか俺には言えなくて、でも黙っているのも辛くて、打ち明ける相手に口の堅そうな生真面目な奴を選んだなどという経緯があったりして――と、一人想像をエスカレートさせて肝を冷やす。
「忙しい時期で元々体調よくなかったのにお酒飲んだから、調子を崩したのかもしれないですね」
 だが、霧島は別に知ってたわけでもないらしい。当然みたいに続けた。
「去年だって小坂さん、よその飲み会で気分悪くしてましたし、まだ不慣れなところもあるのかなって思ってたんです。お酒に弱くないと、かえって油断してしまうとも聞きますし」
 そうなんだよな。去年も外で飲んでいろいろあって……ってなって、しかも本人はそれにあまり危機感持ってなかったようだから、俺が一人で気を揉む結果になってしまっている。
 やっぱ早いうちに言って聞かせよう。でないとあいつの身の安全的にも、俺の精神衛生上もよろしくない。
「小坂さんに元気がないと、何か電気消えちゃったみたいな気分になりますね」
 そんな言葉を残して、霧島もまた忙しそうに営業へ出かけていった。
 霧島ってつくづく真面目で、後輩には優しい奴なんだよな。俺にもたまには優しくしろよって思うんだが――いや、稀に何度か優しくされた時は薄ら怖い感じがしたので、いつもどおりがちょうどいいなと思い直す。遠慮がないのもお互い様だ。
 ただそういう奴だから、昨日の出来事は断じて言うまい、とも思っている。

 募る不安を解消する手立てもないまま、俺はお盆休み前の仕事に没頭した。
 その結果、昼飯を食うタイミングをものの見事に逃してしまい、はたと気づいて社員食堂へ駆け込んだのは午後三時半。買い置きのカップ麺を携えて空き放題のテーブルの一つへ着こうとした俺を、遠くから手招きする姿があった。
 人事課長殿だった。
 三つ向こうのテーブルで笑顔を見せる奴を認めた瞬間、何かもう俺は脱力して、ああこれは絶対耳に入ってるわ……と思ったが、逃げを打つのも往生際が悪いというもの。しょうがなく席を移動して安井の真正面に座ってやる。
 安井も今日の昼飯はカップ麺らしい。俺の表情を見てなぜか嬉しそうにしている。
「わざと別のテーブルに座るから、避けられてるのかと思ったよ」
「何が楽しくて男とペアランチなんてしなきゃなんないんだよ」
 負け惜しみの気分で俺は言い返す。
「そう? 俺は美味くなりそうな予感がしてるけど」
 からかい含みの視線を向けてくる安井がものすごくむかつく。
 悔しいのでこっちから打って出てやることにする。
「小坂の話か?」
 熱湯を湛えたカップ麺容器の上に割り箸を置き、俺はそう切り出した。
 もう既にずるずる食べてる安井は、そこで笑みを消した。
「何かあった?」
 逆に聞かれたので肩を竦めておく。あったと言えばあったし、知らないと言えば本当に知らなかった。
「俺との間には何もないです。むしろ超仲良し」
 安井は俺の言葉を疑ったわけでもないようだが、腑に落ちてない顔つきで言ってきた。
「今日、廊下でちょっと話したんだけど、元気ないように見えたから。また石田が何かやらかしたのかと思った」
 またって何だよ。いつだって俺は小坂を大事にしてるよ。当たり前だろ!
 でも、やっぱり目立つよな。あいつが元気ないっていうのは。ちょっと話しただけの安井がそう思うってくらいだから。
 俺は少し思案して、カップ麺の待ち時間三分が終わる前に口を開く。
「安井」
「ん?」
「これ、霧島には言わないでくれ」
 蓋を開けながら前置きすると、安井には訝しそうにされた。
「何で?」
「マジギレされそうだから」
「……了解。何したんだ、石田」
 だから何でそんな楽しそうなんだよ。そして何で、俺のせいだって思うんだよ。
 俺は腹いせにできたてのラーメンを、とりあえず人心地つくまで食べて、その間ずっとうずうずしているらしい安井を放ったらかしにしてやった。
 それでも、結局は打ち明けたんだが。
「小坂が昨日、得意先の飲み会に出てな」
「へえ」
「そこの二次会で、キャバクラに連れてかれたんだそうだ」
 さしもの安井もそれには驚いたらしい。意外そうに聞き返してきた。
「小坂さんを? どうして?」
「だよな、そう思うよな! そのセンスおかしいって!」
「女の子が行って面白いとこじゃないのに。まして小坂さんなんて、開き直って楽しめる性質でもないだろ」
 どうやら、なかったようです。『お姉さん優しかった』とは言ってたがな。
 しかし安井はうんざりした顔になって、納得したように言葉を継ぐ。
「ああでも、たまにいないか? そういう系統の人脈自慢したがる奴。俺は顔広いんだぜって、小坂さんに自慢したくて連れてったとかじゃないか」
「にしたって、小坂相手じゃ有効とは思えん」
「それか、そういうお店に免疫ない子が怯えてびくびくしてるところを観賞したい趣味だったか、だろうな」
 何だか知らんが人事課長殿は、その手の心理を妙に理解してるっぽいこと言うじゃないか。
 持ちかけといてなんだが、そんな安井に俺は引いた。
「うわ、お前から同類の匂いがするわ。何でわかっちゃうんだよそんな目論見」
「失礼なこと言うな。俺はただ、そうかなって推察しただけだよ」
「普通できねーよ。品行方正な隆宏くんには想像もつきませんでした!」
「品行方正って言葉も薄っぺらくなったもんだな」
 相変わらず好き勝手言いやがるわこいつ。
 ただ、安井が同類かどうかはともかく、こうやって冷静に推察できる相手なのはありがたい。同じことを霧島に話したら、あいつはものすごく怒ると思う。女の子に対してそういうのはセクハラじゃないですか、などと先方に乗り込んでいきかねない勢いで腹を立てるはずだ。でもそれは小坂の望むことじゃないだろうから、俺はこの件を霧島の耳には入れたくなかった。
 そして俺自身も、この件の全貌を把握してるわけじゃない。
「それで元気なかったんだとしたら、小坂さん、意外と繊細なんだな」
 安井は相変わらず好き放題言ってくる。俺はちょっと顔を顰める。
「意外って何だよ。あいつは結構繊細だろ」
「そうかな、俺はしたたかな子だと思ってたけど」
「……小坂がか?」
 あいつがしたたかって、全くもってそぐわない表現に思えた。そりゃ丈夫だとは思ってるけどさ。しょっちゅう何かでへこむくせに、たまに驚くほどポジティブだったりするし。
 でも小坂の神経が太かろうと細かろうと、いきなり大人のお店に連れてかれるとかいう展開は度肝を抜かれるんじゃないだろうか。――そうでないなら、まさか、本当に。
「そういう経緯があるなら、ちゃんと気を配ってやれよ。それも上司の仕事だろ」
 随分と偉そうに言う安井が、そこで例によって楽しげに笑った。
「お前まで仕事が手につかない、なんてことになるなよ、石田」
 見透かされてる気がするわ。気分悪い。
「なってねえよ」
 すかさず俺は否定したものの、多少なりとも仕事に差し障りがあったのは事実だから、ついでに愚痴っておいた。
「ただ、課の連中がやたら気にしてくるんだよな。皆して小坂のこと、俺に聞いてきてさ」
 そしたら安井はいきなりげらげら爆笑して、
「何言うんだよ、自分で部下に手出しといて!」
 まるで何ヶ月も前から用意してたみたいに言い放ったので、俺は閉口した。
 ええもうわかってますって、社内恋愛ってこういうもんなんですよね。覚悟もないのに手出したとは思われたくないし、頑張りますとも!
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