Tiny garden

喰らわれる躯(2)

 やがて蛇口を閉める音が響き、シャワーが止まった。
 俺は柄にもなく息を殺したくなったが、バスルームの中でも似たような、微かに呑み込むような気配があった。短い溜息の後、すりガラスの向こうで肌色の人影が樹脂製の椅子から立ち上がり、覚悟を決めたように動く。

 数十分前に湯を張ったばかりの浴槽に、足先からゆっくりと浸かる音がする。片足ずつ慎重に、聞き耳を立てられていることを感づいているのか静かに入る。
全身を沈める水音がしても、定員超過を見越して少なめにしたお蔭か、彼女が浸かりきったくらいじゃ湯は溢れもしなかったらしい。あのむっちりした体積全部が柔らかい湯に包まれていると想像するだけで、無性に動悸が速くなる。見てみたい。
 ぴちゃんと、雫が滴った。洗ったばかりの髪からだろうか。
 髪の長い彼女は入浴時、ピンクのタオル地に水玉模様のターバンみたいなものを頭に巻いて、髪が湯に落ちないようにしているらしい。らしい、というのは今までそのターバンを実際に使用しているところを見せてもらってないから言うのであって、俺が見たことあるのは、泊まっていった彼女が他の洗濯物と一緒にターバンも洗って、干している場面だけだった。でも今日こそはばっちり拝ませてもらえるはずだ。
 呼吸を抑え続けている俺の耳にはバスルームの物音がくまなく聞こえてくる。藍子が湯船でちょっと身じろぎをしただけで、水面がさざ波立つのがわかる。こっちの心までそわそわと揺り動かされてしまうから困る。

 ところで、いつになったら呼んでくれるのか。
 俺はてっきり、彼女が洗い終えて湯に浸かったすぐ後に呼ばれるものとばかり思っていたから、シャワーの音が止んだ時には、遂に来たかと身構えてしまったというのに。藍子はまだ声をかけてこない。湯船の中でじっとしている。
 まだか。こっちは今か今かと待ち構えているのに、このままバスルームの外でお預け状態なんてことはないだろうな。のんびりいい湯加減を堪能するような余裕は、彼女の性格だったらないとは思うが――いや、なくはないな。藍子なら。

 そろそろ焦れてきたので、俺の方から声をかける。
「終わったか、藍子」
「はっ、はい! どうにか済みました!」
 彼女の声はバスルームの中で反響し、ついでになぜか湯の揺れる派手な水音がした。俺がここで待機してたのは知ってるくせに、そんなに驚くことか。
 期待を込めてもう一度聞いてみた。
「じゃあ、入ってもいいか」
 すると藍子は返事をするよりも前に、深呼吸をしてみせた。
 そして、気合を入れたにしては弱々しく、か細い声で言った。
「……ど、どうぞ」
 最後の最後まで抵抗されるんじゃないかと思ってたので、あっさり承諾されたのが意外と言えば意外だ。
 ともあれこれ以上待ちぼうける理由はない。俺はいそいそと服を脱ぎ、晴れがましい気分でバスルームのガラス戸を引き開ける。

 途端、立ち込める高い湿度と熱気とが容赦なく全身を襲い、夏だなあと場違いに思う。
 うちのバスルームには横長の引き違い窓がついていて、朝風呂ともなればそこから照明も要らないほどの明るい光が差し込んでくる。朝日の中で入浴なんて、いかにも休みの日っぽくていい。
 入浴剤に夏らしいクール系を選んだから、浴槽の湯の色は南の島の海みたいなアクアブルーだ。さっきの驚きの余韻からか未だに波打っている水面は、朝日を受けてちかちかと眩しく光っている。その中に身を浸している、しっとり濡れた彼女の姿も同じように。
 ――水面すれすれまで深く顔を伏せてなければ、すごくきれいだって思うとこなんだがな。
 水に顔をつける練習でもするのかってくらい項垂れた藍子は、まず間違いなく俺の姿が目に入らないようにしているつもりなんだろう。浴槽の壁面にぴたりと背中をくっつけているせいでそれはものすごく苦しそうな、そして若干シュールな光景に見えた。
 例の水玉模様のターバンは彼女の髪をしっかりまとめ上げていたが、それを身につけた彼女がどんな感じなのかはまだよく掴めない。とりあえず、後ろの髪は黒ゴムで束ねてるのがわかった。あと、うなじが白いのもよくわかった。
「もう見慣れてるだろ」
 呆れ半分で言ってやっても、彼女はその体勢を頑として崩さなかった。

 とりあえず藍子の顔を上げさせることは諦め、一通り洗ってしまうことにする。
 何と言っても一番楽しいのは湯船に入った後だ。その前に済ませなきゃならん手間はさっさと片づけるに限る。俺は普段よりも迅速に身体を洗い、それから頭を洗った。
 しかし、洗髪の途中でやけに視線を感じた。シャンプーを泡立てながら首は動かさないよう横目で見たら、さっきまであれほど深く俯いてた藍子が、どういうわけかこっちに目を向けていた。しげしげと物珍しげに、動物でも観察するみたいに。例のターバンは彼女の前髪まで巻き込んでいて、額を晒しているのが新鮮だ。
 しっかり見てんじゃないかと思い、俺は指摘してやろうかどうか、迷った。ここで一声かけたら藍子ははっとして、再び目を背けてしまうだろう。俺にだって一応、気恥ずかしさがないわけでもないし――こういう関係であっても、髪洗ってる隙だらけのところを穴でも開くみたいにしげしげ見られたらそりゃ、何見てんだよとは思うもんだ。男が女の子を観察してるのならまだわかるが、逆は何と言うか、見て面白いかと聞きたくなる。別にいいもんなんてないだろ。
 そんなことを考えながら目の端でちらちら窺ってたら、そのうち彼女と視線が合った。
 途端、藍子は大きな瞳をより大きく見開いて、慌てた動きで面を下げる。ぎこちないその動作がどこの小動物だよってほど可愛くて、つい堪えきれずに笑ってしまうと、
「……ごめんなさい」
 本当に申し訳なさそうな謝罪が、少ししてから聞こえた。
 謝って欲しいってことでもないんだがな。そんなに興味があるんなら、お互い後でじっくり見せ合う、でいいだろ。こんな、窮屈そうに座って髪洗ってるところとかじゃなくて。

 俺も全部洗い終えて、シャワーを止めて、水滴がぽたぽた落ちる前髪をかき上げる。
 軽くタオルで拭いてから振り向くと、藍子は相変わらず伏せったままでいた。あの後、いつからいつまでそうしていたのかは不明だ。何度か、そこはかとなく視線を感じたような気がしなくもなかったが、追及したら長くなりそうなのでやめておく。
 それから、湯船に乗り込んだ。
 顔も上げてないのに俺の動作を察してか、藍子は伸ばしていた脚を畳んで三角座りになる。俺も彼女の足を踏まないよう、さっきの彼女と同じように静かに入る。もちろんこの湯船は二人で向き合って座れるほど広くもないので、お互いに落ち着くためには姿勢を変える必要がある。
 俺はこっちを見ない彼女の脇の下に両手を入れ、
「きゃっ」
 小さく声が上がるのは構わず、抱き上げた。
 水の浮力のお蔭で藍子は軽々と俺の腕の中に、そして膝の上に収まり、後ろから肩を抱き締めたら観念したようにもたれかかってきた。肉づきがよろしいと都合いいのはこういう時で、膝の上に座られても柔らかいばかりだ。骨が痛くないのがいい。
 束ねた髪は湿っていて、頬を寄せると少し冷たい。嗅ぎ慣れたシャンプーの香りも彼女の髪からだと、何だか格段に上等なものみたいに感じるから不思議だ。
「暑くないか?」
 長風呂になる可能性を考慮して、一応温めにしておいた。とは言え七月の、しかも日差しがたっぷり差し込んでくる風呂の中だ。何にもしないうちからのぼせられちゃ困る。
 俺の問いに、彼女は振り向いて答える。
「大丈夫です」
 重なって座っているから、そうされると顔が近いなと思う。
 今更距離を気にする仲ですらないんだが、こういう時にちゃんと俺を見るようになったのは進歩だ。以前の藍子ならさっきまでみたいに顔を伏せるばかりで、俺の方なんて見向きもしなかっただろう。ちゃんと視線を合わせてくれるのが嬉しい。
 もっとも、未だに緊張していないわけではないらしい。こっちを見ていてくれたのはほんの十秒間ほどで、そんな短い間ですら彼女は瞬きが多かった。それでもその隙に軽くキスするくらいはできたし、前を向いてしまった後で彼女はあどけなく笑ってもみせた。
「やっぱりちょっと、恥ずかしいです」
 バスルームで聞く藍子の声は、微かに響いていた。
「ちょっとなら耐えられるだろ」
 俺がそう言ったら、身体を揺すってもう一度笑う。
「あ、ちょっとっていうのはそういう意味じゃなくて……でも、いいです。今日はもう少し、このままでも」
 わずかにでも慣れてきたのか、開き直ったのか。藍子は案外、いざって時には肝が据わってたりするんだよな。その『いざ』がものすごく希少なのが問題なのです。
 どっちにしても、いいと言ってもらった以上は遠慮する必要もないだろう。
「今日だけじゃなくて、いつもやってくれるともっといいのにな」
「駄目ですよ。今だってすごくどきどきしてて……」
 それで俺は彼女の心臓がある辺りに触れてみたものの、手のひらの感覚だけでは鼓動の速さはわからなかった。彼女は一瞬身を硬くしてから、逃げようとするみたいに動いた。
「駄目ですってば」
「そんなこと言ったって」
 すぐ目の前にお前がいるんだから、何の手出しもせず見てるだけってのもありえないだろ。

 密着して後ろから眺めると、白く光る肩のつるりとした丸さや、アクアブルーの水面がそういう服みたいに張りついて見える胸元、伸ばした脚の柔らかそうな感じがよくわかる。ターバンからはほつれた髪が一筋揺れていて、そこから思い出したようなタイミングで雫が落ちると、ぴちゃんと小さな水音がして波紋がうっすら広がった。
 藍子はもう一度こっちを振り返った。
 今度は笑ってなくて、心なしか俺の表情、あるいは出方を探っているような面持ちだ。

 その胸のうちが透けて見えるようで、俺はつい、からかう口調になってしまう。
「しげしげと見るなよ、さっきみたいに」
「え、や、それはその」
 たちまち表情が一新して、あたふたした藍子は視線を宙に彷徨わせる。そしてたどたどしく弁解を始めた。
「何か、見たことなくて、すごく新鮮で。つい……」
「そんなもんかね」
 俺は男の髪洗ってる姿なんて、観察して愉快なものだとも思わんが。むしろ見苦しくないか。
「面白かったか?」
 そう尋ねてみたら、照れながら答えられた。
「面白いって言うか、隆宏さんは髪を洗ってても素敵です」
「は? どういうことだよ」
「ですから、格好いい人は髪を洗う仕種も格好いいんだなあって」
「馬鹿。誉めすぎだ」
 ストレートに誉められたので何か、むずむずした。
 そりゃ藍子に『格好いい』って言われて悪い気なんぞ全くしないものの、俺にはどうしても洗髪時の格好よさってやつが理解できないし、録画でもしない限り自分じゃ見ることもできないしな。
「だったら俺も、お前の髪洗ってるとこ見たいんだけど」
 誉められついでに要求しておく。
 すぐさま、藍子はかぶりを振る。
「駄目です」
「何で断るんだよ。お前は見といて俺には見せないとかずるいだろ」
「だってそんな、お見せして面白いものでもないですよ」
「面白いかどうか判断するのは俺。お前が決めることじゃない」
 俺は彼女の反論を封じてから、その顔を覗き込んでやる。距離を詰めても藍子は逃げたりしなくなった。でも見開いた目の睫毛が震えていて、どぎまぎしているのが手に取るようにわかる。
「それにお前、さっきから駄目って言ってばっか」
「そ……そうでしょうか」
「省みろよ自分の言動を。ダメダメ言われちゃってる俺のかわいそうさを」
 藍子はこういうところが割かし単純な人間で、俺にそう促されると素直にも考え始めてしまうものだから、俺はしてやったりという気持ちと、でも俺以外の人間には絶対騙されんなよという心配とで頭がショートしそうになる。
 衝動的に、彼女を強く抱き締めた。
「聞くのは俺の頼みだけでいいから」
 囁いてから可愛い耳に噛みついたら、腕の中からは驚きの声が上がった。
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