Tiny garden

喰らわれる躯(3)

「隆宏さん、ここお風呂場ですよ!」
 この期に及んでじたばたする藍子から、意図の読めないツッコミが入った。
 何言ってんだ見りゃわかるよと内心で返しつつ、彼女の耳を甘噛みする。すると彼女は更に暴れ、湯船の湯は大時化みたいにぐらぐら大きな波を立て、派手に上がった水しぶきがバスルームの壁面に叩きつけられた。取れたてぴちぴちの魚みたいに抵抗した藍子は、俺の攻勢から顔を背けて逃れると、こっちに驚き半分、抗議の意思半分の表情を向けてきた。
「お風呂場でこういうのは、ど、どうかなって思うんです!」
 凛々しさを装いつつも声が動揺してるのが可愛い。目元がちょっと赤くなってて、目が潤んでるのも可愛い。本当に可愛くない瞬間が存在しないよなあ、としみじみ思う。
 しかし、向けられた抗議には反論せねばなるまい。
「こういうのってどういうのだよ」
 とりあえずお約束の質問を返せば、藍子は予想通り言葉に詰まった。困った様子で視線を落とす。
 知っていたけど、伏せられた睫毛が長くて、俺は一層どきどきしてくる。湿度のせいか他の理由からか、しっとり濡れているのがきれいだ。瞼のふっくらした白さも、あらぬ方を見ている瞳に水面の光がきらきら揺れているのも、何だかすごく、感覚として言葉では言い表せないほど素敵だ。
 藍子はどうしてこんなにも可愛くできてるんだろう。特注品なのか。俺専用か。
 俺の視線なんてもちろん彼女は気にしちゃいないし、今、このタイミングで何を考えてるのかなんて察することもできないに違いない。とにかく慌てた口調で言ってきた。
「わ、わかってて聞いてるんですよね、隆宏さんは」
「まあな」
 そこは素直に認める。当然だ。
「だったら、わざわざ私に言わせなくたって……」
 唇尖がらせちゃって、藍子が拗ねてる。それもまた非常に可愛い。二十四歳だってのにこんなあどけない表情しちゃって、誰の前でもこんな顔してるんじゃないといいのになって思ってしまう。俺専用だと信じたいこの可愛さ。見てるだけでこう、何だよもー、ってほっぺたぐりぐりしたくなる衝動に囚われてしまう。
 俺は基本的に衝動とか欲求とかに忠実な男なので、そういう時は自分に正直になることにしている。
「そんな拗ねんなよ、お前の可愛さはもう十分わかったから!」
 膝の上から逃げ出すつもりか腰を浮かせかけてる彼女を、しっかりと抱え直してから、俺はめいっぱい頬ずりしてやった。彼女の身体の中でもひときわの柔らかさを誇るぷくぷくの頬は、俺のひげ剃り前の頬を弾力をもって受け止めてくれ、藍子はそこでも声を上げた。ただし今回は、ちょっと痛そうに。
「ひげ痛いか?」
 聞いたら、彼女の口からはなぜか笑いが零れた。
「あ、平気です。少しちくっとしただけで」
「だったら他のことも平気って言っとけよ」
「それはまた話が違います。私はそんなつもりでお風呂に入ったわけじゃ……」
 そんなつもりってどんなつもりだよ、と聞いたら会話がループしそうなのでやめておくことにして、それにしても藍子は、ここまで来てもまだ潔癖だよなと思う。俺みたいなのと付き合ってるんだし、そろそろ諦めと言うか、学習したっていい頃じゃないか。俺と二人でいる以上は、いつ何時ぺろりと食べられちゃってもおかしくないんだという自覚を持て。
 大体、藍子が美味しそうなのが悪い。――いつもスーツで仕事してるからか、顔だけじゃなくて全身色が白くて、若さゆえにか肌はすべすべで、相変わらず胸は控えめなままだけどそれでも形だけは悪くないと俺は思ってるし、伸ばされた両脚のむちむちした感じはさすが年相応という風情で丸みがあって好みだし、ふくらはぎは本人こそ気にしているようだがまさにかぶりつきたくなるようなぷっくり具合。くるぶしは女の子らしく滑らかで、意外と小さな足はそれでも指が長く見えて、ペディキュア塗ったら似合うだろうなと思う。また爪がちっちゃくて可愛いの。それらの全パーツが南の島の海の色に染まってて、俺の膝の上に座ってるものだから。そして時々、何となくくすぐったげに身じろぎするものだから、もう本当に何にもしないのが無理って感じだ。
「だったら、風呂から上がってからならいいのか」
 俺は切羽詰まった気分で尋ねる。彼女の返答次第では、よしわかったすぐ上がるぞ急いで出るぞって楽しいバスタイムを放棄することも辞さない心積もりだった。
 でもそこで、藍子は俺の胸に自分の背を、そして頭を顎の辺りに預けるように寄りかかってきた。ちゃぷんと波の音がする。洗い立ての肌がくっつくと吸いつくような感触があって、湯温とよく似た体温を直に味わう。
 珍しく甘えるようなそぶりにときめいたのもつかの間、
「私は、もうちょっとのんびりしてたいです」
 藍子はそんな風に、実際のんびりした物言いで口にした。
 もう一度、俺をしっかり見上げてくる。和やかな笑顔が浮かんでいる。
「最初は……恥ずかしかったですけど。それはもうものすごく居た堪れなかったですけど、落ち着いてみたらこういうのも悪くないのかなって思えてきて」
 何だよ、ちゃっかり落ち着いてやがった。
 そりゃさっきまでみたいに、シュールな突っ伏しっぷりのままでいられるのも困る。けどそれにしたって慣れるの早すぎだろ。もうちょいどぎまぎしてりゃいいのに。あと個人的には、もっと違う方面で早く慣れて欲しいですよ。
「隆宏さんはのんびりするの、嫌いですか」
 逆にそう聞かれて、俺は唸った。
「嫌いじゃないけどな。こういう状況でのんびりする気になるもんか?」
「なります。こうしてちょうどいい温度のお湯に、二人でぷかぷか浸かっていると……」
 笑んだまま、藍子はうっとり目を閉じる。
「何だかすごく安らぐって言うか。いい湯だなあって思います」
 なぜこの状況でそんなほのぼのコメントが出るんだ、お前の頭は。
 どうしたもんかと見守る俺の眼下、穏やかな面持ちの彼女が、やがて深く息をつく。
 落ち着くを通り越してこれは、寝落ちるんじゃないかって予感がひしひしとしてきたので、俺は再びそのほっぺたにめり込むほどぐりぐりしてやった。
「何を安らぎきってんだよお前は! 俺の膝の上だぞ!」
「わあ、ごめんなさい! あっ、いた、痛いです!」
「うるさい、散々人のこと弄んどいて! お前なんかこうだ!」
「痛いですってば! それに弄んでなんてないです!」
「さっき俺を、素敵だの格好いいだの言ったろ!」
「言いましたけど……別に、いい加減な発言ではないです。本当ですもん!」
 最後の一言は若干照れ含みだったものの、だったら俺は藍子に問いたい。お前曰く『素敵で格好いい人』がお前を真剣に欲しているというのに、どうしてお前はそいつの膝の上で、しかも美味しそうな全裸で寝落ちかけることができるのか! これを弄んでると言わずして何と言うか!
 悔しかったのでもう一回、その耳にかぶりついてやる。
 藍子も負けじと身を捩り、上半身を捻ってこっちを睨む。
「くすぐったいです」
 とは言え藍子の『睨む』なんて和訳すれば『漠然とした抗議の意思を見せつつも犬のようにじっと可愛く見つめてくる』程度の意味合いしかなく、俺はその眼差しを脅威だと思ったことはない。ぐらっと来たことは何度となくありますが。
 そして彼女は、相変わらず『くすぐったい』とそうじゃない感覚とを言い間違える。その二つの違いも間にある大きな隔たりもしっかり理解しているはずなのに、まるでわかってないみたいにごっちゃにした言い方をするのは、正直に申告するのが恥ずかしいからなんだろう。そこを言っちゃって欲しいと思う男心は一向に理解されない。
 藍子は彼女流の睨みを利かせてしばらく俺を見上げていたが、ふと急に、はっとひらめいた顔つきになった。その後でいかにも得意そうに口を開く。
「そういえば、確か隆宏さんも耳くすぐったがりなんですよね」
「ん? そんな話したっけ、俺」
「しました。以前、膝枕をした時に」
 言われてみればあの時、そういう打ち明け話をしたような。耳掃除をしてもらうかどうか、みたいなことも話題になってたよな。そういえばまだしてもらってないな、後で頼もう。
 するすると記憶の糸を手繰り寄せている俺の右耳に、ふと何かが温いものが触れた。
 目をやれば、藍子が腕を伸ばして俺の耳たぶをつまんでいるところだった。しかもふにふに揉んでいた。しかも、相当に得意げな顔で。
 何してんだろう、疑問に思う俺に彼女は言う。
「くすぐったいですか?」
 親指と人差し指で挟み込むようにして一生懸命俺の耳たぶを揉む藍子。
 ぴんと来ないままの俺は素直に答える。
「……いや、全然」
 すると藍子は軽くショックを受けたようで、更に揉む速度を上げてくる。
「こ、これでも駄目ですか?」
「駄目って言うか、あんま感覚ない」
「え、でも、耳くすぐったがりだって……」
「そうだけど、これは何か違うだろ。耳から血採る時みたいだし」
 採血する時ってこんな感じだよなと、藍子の揉み方を見てると思う。
 って言うか何で一心不乱に揉んでんだ。仕返しのつもりなのか。
「じゃあ、両方だったらどうですか!?」
 俺の膝の上で彼女はぐるりと横を向き、ついに俺の両耳に手をかけた。そうして両方の耳たぶを同時に、同じようにも揉みしだき始めた。初めのうちはやはりどや顔で、しかし俺の無反応を見てか次第に不安そうになりながら、必死になって揉んでいる。時々、あれ、おかしいなって顔でちらちら窺ってくる。
 その、身体的にはダメージ皆無の攻撃を受けながら、俺は思う。
「お前って、こういうことには学習能力ないよなあ……」
 いつも俺にどんな風にされてるか、ちゃんと覚えてたらこういうやり方はしないだろうと思うのに。
 でも俺も相当いかれてるって自覚あるんだけど、これも彼女流の愛撫なんだろうって思ったら何だかいとおしくて堪らなくなってくるから妙だ。だって可愛いんだもんな、この、俺をくすぐったがらせようと必死のそぶりとか、学習能力ない割にこれが効くんだと思い込んで繰り出してきた初めのうちの得意げな感じとか、そんな調子で中身は時々あどけないのに身体はしっかり大人なところとか――俺の脆い理性なんてたやすく吹っ飛んでしまう。
「じゃあ、どんな風にしたら効くのか実地で教えてやろうか」
 俺は、俺の耳にかかっていた彼女の両手を外しながらそう持ちかけ、
「え? ……い、いいです、私は別に――」
 気づくのがちょっとだけ遅れた彼女は逃げ損ねて、まんまと実地練習のいい見本になってくれた。
 相変わらずお風呂場だからどうこう、とは言ってたが、その声が結構響くことに気づいてからは、それなりにおとなしくなっていた。

 つまり、勝負で言ったら今回は、弄ばれつつも俺の勝ち。
「毎日が誕生日でもいいのになー」
 風呂上がりにスポーツドリンクを味わいながら、俺は満足した思いで呟く。
 藍子はのぼせてしまったのかまだ赤い顔で、表情はどことなく釈然としていないようだ。バスタオルを肩に羽織り、湿り気を含んだ長い髪を下ろしたままで、俺が差し出したペットボトルをこくっと一口飲む。それからかすれた声で言った。
「隆宏さんは、やっぱりそういうつもりで、一緒にお風呂に入ろうなんて言ったんですか?」
「そういうつもりって、どういう意味だよ」
 質問にはお約束で返す。被害に遭った後でも藍子は言いにくそうに口を尖らせていて、その顔を見てるとつい、本音だって漏れる。
「お前、やっぱ可愛いよなあ」
「……からかわないでください」
 いや、本当だって。その騙されやすいところも、学習能力には欠けるところも、時々俺を弄んで振り回してみせるところだって全部可愛くてしょうがない。もちろん、どういう状況下であろうとも、俺の意図や下心を読み違えてたって、とことん俺を好きでいてくれてはいるんだってところもだ。
 俺はやっぱり、成長したお前も見てみたいって思ってる。そう簡単には騙されなくなって、知恵も経験も身について、もしかしたら意図的に俺を弄んだりするようになるかもしれないお前を。でも、今の二十四歳のお前だって捨てがたいと思う。まだまだ物足りないところもあるけど、やっぱりどこを取っても可愛いし、これでも二十三歳の頃のお前よりはずっと大人で成長してるんだから。俺の思惑までは気づけなかったようだが、それでも男と一緒に風呂に入るなんて真似、今のお前じゃなきゃできなかったに違いない。
「弄ばれてるのは、私の方じゃないかなって思うんです」
 藍子はまだ不満げだ。バスタオルを被ってこっちを見ているから、俺はペットボトルを置いて、その髪を拭いてやりながら尋ねる。
「でも、楽しかっただろ?」
 二十四歳の彼女は真っ赤な顔のまま、頑として答えてはくれなかった。
 だからこれはまたそのうちに――二十五歳になった彼女にでも聞いてみようと思う。それまでは地道に、実地で学習するとしましょうか。
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