Tiny garden

喰らわれる躯(1)

「俺の誕生日祝いということで」
「はい」
「朝っぱらから何ですが、一緒にお風呂に入ってもらえませんでしょうか」
「はい……え!?」
 いつものメンツで飲みに出かけた夜が明け、日曜日の朝が来た。
 当たり前のように俺の部屋へ泊まっていった藍子の寝起きの頭目がけて、俺はすこぶる楽しい提案を繰り出してみた。
 Tシャツ一枚の彼女は目をこすりながら一旦は頷きかけて、すぐに我に返ってしまう。
「えっ、な、何でですか?」
 何でですかってこともなくないか。既にお付き合いしてる仲だというのに。
「一緒に入れば楽しいからだろ」
 即座に俺が答えると、藍子は困ったような顔になる。
 ベッドの上にぺたんと女の子座りした姿は相変わらずの隙だらけっぷりで、シャツの裾から伸びた太腿も膝も朝日につやつや輝いている。フル稼働する扇風機が長い髪をなびかせて、唇にかかり張りつく髪を指先で払う仕種が可愛い。
 もちろん今までに藍子が可愛くなかった瞬間なんぞ一時たりとも存在しなかったんだが、今朝もまた一段と可愛い。こんな可愛い子と一緒にお風呂に入りたいと願う、それは間違った欲求だろうか。いや違う、自然の摂理というやつだ。
 それにほら、俺、誕生日だし。
 いざとなればその印籠を持ち出すことも辞さない覚悟の俺に、藍子は髪を気にしながら聞き返してくる。
「楽しいかなあ……あの、落ち着かなかったりしませんか?」
「確かにうちの風呂、二人で入るにはちょっと狭いかもな。まあ、そこは我慢してもらうとして」
 一人暮らしのバスルームに余分なスペースがあるはずもなく、面積は実に標準並みだ。それでも藍子と二人、背中流しっこする程度の余裕ならあるはずだし、湯船だって工夫をすれば一緒に浸かれる。全く問題はない。
「あ、いえ、面積の問題ではなくて!」
 藍子も素早く否定してきたので、今度は責め方を変えてみる。
「じゃあ何だよ。俺と一緒じゃ楽しくないって?」
 ちょっと意地悪かな、と思える質問をすると、彼女はたちまち言いにくそうに俯いた。
「そういうことでもないんですけど……」
「何だ。はっきり言え」
「……やっぱり、恥ずかしい、かなって……」
 そのままずぶずぶと、つむじが見えるくらいに深く俯いてみせる。
 しかし、何を今更恥ずかしがることがあるのか、と俺は思う。少なくとも今、Tシャツたった一枚という守備力の低さで俺の目の前にいるくせに、脚も膝も剥き出しの格好をしているくせに、何が恥ずかしいのか。当然、そのシャツの中身だって見たことがあるし、しかも一度や二度じゃなく記憶中枢にも網膜にも焼きつくくらいじっくり眺めて堪能したし、もちろん昨夜だって見たし、つまり俺たちはとっくの昔にそういう間柄であるにもかかわらず彼女の返答は今更すぎて、何と言うか、反応に困る。
 気持ちがわからん、とまでは言わない。
 こういう間柄になっていようと、一線どころか二線、三線と越えてようと、現代に生きる貴重なやまとなでしこの藍子ちゃんにはいつまで経っても恥ずかしいんだろうし、慣れないものなんだろう。ましてこっちは一緒に風呂に入る、というセンテンスに額面以上の意味を込めているのもあって、まじりっけなし純度百パーセントの下心をもってして誘いをかけているから、それが彼女にも伝わっているということかもしれない。まあ、わかってくれてるなら話は早いってもんだけどな。
 藍子なら、本当に何にもわかってなくて純粋に一緒に風呂に入るだけだと思ってて、でも好きな人の前で身体洗ったりするの恥ずかしいな、なんて考えてたりしそうで――いや、でも、出会った頃ならともかくもう二十四だし、いろいろあったし、もうピュアなばかりの女の子でもないし、大丈夫だろうと思いたいんだが……胸に一抹の不安が過ぎる。
 どっちにしたって俺は、藍子の反応如何でたやすく引っ込むほどのか弱い下心なんぞ持ち合わせてはいない。
 そして、誕生日という絶好の機会、もしくは免罪符をみすみす使い逃すような男でもないつもりだ。
「入るぞ、風呂」
 有無を言わさず促すと、藍子はばっと顔を上げ、すぐに合った目をわずかに逸らした。
「え……本当に、なんですか」
「本当に本気で。何だよ、嫌なのか?」
「嫌、とかでもないんです、けど……やっぱり……」
「嫌じゃないなら入るぞ」
「ぎゃ、逆に質問なんですけど、どうしてそんなに入りたがるんですか!?」
 視線を合わせない彼女に、上擦った声で質問された。その口調は心底理解できないといった風だ。
 わかんないもんかな、恋人同士で過ごすバスタイムの楽しさってやつは。
「楽しいからに決まってんだろ」
 俺は同じ理由を繰り返す。
 それで藍子が反論したげに首を捻ったから、すかさず言ってやった。
「お前と一緒だったら何やったって楽しいんだよ。飯食うのでも酒飲むのでも、二人でその辺歩くだけでも、こんな風にくっだらない話してるだけでも」
 こんなやり取り、傍から見れば不毛な議論でしかないと思う。痴話喧嘩、にも達してないようなじゃれ合いでしかない会話だ。他人に聞かれたらよそでやれと言われそうな、安井や霧島が聞いてたら容赦なく物でも投げられそうな夫婦漫才だ。
 でも俺は、どうやって藍子の言い分を丸呑みしてやろうとか、先回りして逃げ道塞いどこうとか、こう言われたらこんな風に返してやろうとか考えるのも結構好きだし楽しかったりするんだ。俺の言葉で一喜一憂一慌てする藍子が可愛くてしょうがない。そりゃ脳内シミュレーションだって捗るわ。
 一緒にやったら楽しいと思うことを、せっかくだから全部試してみたい。
 そうして可愛い反応をくれる彼女を、一番近くで見ていたい。
 ここ最近の俺の行動原理なんて所詮そんなもんだ。単純明快で実にわかりやすい。
「俺だってこういう性格だし、三十一だし、例えば他の奴と足並み揃えてそれなりに盛り上がるくらいはできるよ。でも、何やっても楽しくて、何にもしなくても一緒にいるだけで幸せだって相手は、世界でお前しかいない」
 お蔭様で去年からずっと、退屈一つしていない。
 それって相当すごいことだって俺としては思うんだが、藍子にとってはどうなんだろう。いつの間にかこっちをじっと見つめて、やけに神妙に聞き入っている。何かしらの思うところがあればいいんだけどな。
「だから、風呂だって一緒に入りたい。絶対楽しいと思う」
 重ねて強調すると、彼女はようやく思案の姿勢を見せた。眉根を寄せて考え込むみたいに顎を引く。
「隆宏さんにそう言われると、私……」
「ころっと参っちゃうだろ? そうだよな、他でもない俺の頼みだもんな」
「こ、断りにくいです、とっても」
 断るな断るな。端からお前に逃げ道なんてない。
「そうだ、忘れてもらっちゃ困る。昨日と今日は俺の誕生日祝いって名目だったろ」
 ここぞとばかり、俺は葵の紋どころを取り出し、
「お祝い、してくれるんだよな?」
 畳みかけてみたら、藍子は黙り、縋るような子犬の目で俺を見た。
 俺も、飼い主になった気分で彼女を見下ろす。最後の最後でその目に負けて、甘い顔をするような真似は今日はしません。それで何度お預けを食らったか。
「祝ってくれ、藍子」
 駄目押しの一言で、やっと藍子は頷いた。
「う、わ、……わかりました」
 勝った。
 遂に、めでたく、堅牢強固な羞恥心を誇る藍子を、二人一緒のバスタイムに引っ張り込むことができそうです。いや、すごいな誕生日パワー。いっそ毎日が誕生日だったらいいのに。
 せっかくだし、後で他にも何かしてもらおう。何がいいかな。夢膨らむなー。
 勝負がついた途端、脳内シミュレーションマシンを働かせ始めた俺に対し、
「でも恥ずかしいので、あんまり見ないでくださいね」
 藍子はせめてもの抵抗とばかりにそんなことを言う。俺がその手の約束を守った例がないと、身に染みてわかっているはずなのに。
 しかし、今回は大いなる譲歩を引き出した後だ。ちょっとくらいは藍子にも配慮してやろうかなと、もじもじしている姿を見て思う。認めよう、俺も結局は甘い飼い主さんなのである。
「じゃ、こうしよう。風呂はお前が先に入っていい」
 俺の提案に、藍子が目を瞬かせる。
「一緒に入るんじゃないんですね」
「そっちがご希望ならそうしてやってもいいぞ」
「い、いえ! そうでもないです!」
 ないですか、そうですか。
 この野郎、いつかそっちから誘わせてやるからな。
 内心の不満はひとまず置いて、続ける。
「お前が先に入って、一通り洗って、湯船入ったら呼んでくれ。俺が入る」
 初めてですし、このくらいは譲ってやる。本当は洗うところから介入したい気分だったんだが、今の反応を見るにどうにも無理そうだ。それもまあ、追々は。
「それでどうだ?」
 一応、本人にも確かめてみる。
 藍子はほんのちょっと、幾分かはほっとした様子で、でもまだ恥じらいは残した声音でたどたどしく返事をした。
「は、はい。それなら恐らく、どうにか……」
 しかし一度は頷きかけた後、急に何事か思い当たった顔つきになる。
「あ! それじゃあもしかして、私の後に隆宏さんがいらっしゃるってこと、ですか」
「もしかしても何もそう言ってるだろ」
「え、っと、まさか……ふ、服を、着ないでですか」
 風呂場に何しに行くと思ってんだ、この二十四歳は。だから今更恥ずかしがるような仲でもないだろって。
「何だ、海パンでもはいてけってか?」
 疑問を受けたこっちは冗談のつもりで言ったにもかかわらず、直後に彼女の表情はぱあっと明るくなって、
「それすごく名案だと思います!」
 などとのたまったので、俺は黙って彼女にデコピンを放った。
 俺たちは着実に夫婦どつき漫才の道を歩み始めている。

 そして今。
 俺は海パンなどはいておらず、バスルームのすりガラス戸の前で待機中だ。
 室内からはシャワーの水音が聞こえてきて、傍らにいると熱い湯気とボディソープの匂いとがはっきり感じられた。普通の神経なら朝とは言え七月の暑い最中、蒸し蒸しとしたバスルームの真ん前になんて突っ立ってないものだが、俺は既に普通の神経じゃないので別に気にならない。
 それよりも、すりガラスというのが実にもどかしい。映画だったら直立の姿勢でなまめかしくシャワーを浴びてるものなのに、藍子と来たらそういったサービス精神は皆無で、風呂場の椅子にちょこんと座ってシャワーを浴びてる。それでも目を凝らせばおぼろげながらも柔らかい曲線のシルエットを推し量ることができて、大体この辺かな、と当たりもつく。
 現在は髪を洗っているところのようで、前傾姿勢になって長い髪をブラシで梳いてるらしいのが何となくわかった。そういうのは女らしくていいなと思うし、でもどうせなら直に見たかったよなとも思う。髪洗う時、藍子はどんな顔するんだろう。気持ちよさそうにうっとり目を閉じてるのか、意外とがちがちにつむってたりするのか。泳ぐのは得意って言ってたから水が目に入るくらいは平気そうだが、はてさて。
 そうしてガラス戸一枚越しの彼女に思いを馳せつつ、呼ばれるのを待ちつつ、俺は浮つきすぎてどっかに飛んでいきそうな気分を抑え切れずにいる。
 と言うか、楽しみでむちゃくちゃどきどきするんですが。
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