Tiny garden

溺れるほど溢れるほど(2)

 今更ながら、俺って現金な性格してる。
「何かすっげーテンション上がってきた!」
 彼女を乗せて車を走らせつつ、俺は浮かれた声を上げる。
 藍子はちょうど家への連絡を済ませたところで、携帯電話をしまってから微かに笑った。
「少し、回復できました?」
「できましたできました。もうフルスロットルだ」
 好きな子が助手席にいるってだけでも上々のシチュエーションなのに、その子を連れ帰ってそのまま週末過ごせるってのは文句のつけようもない最高の状況であります。さて何をしようか、何からしようか、妄想という名の計画だってはかどってしまう。
「よかった……。さっきはぐったりしてるように見えたから、心配だったんです」
 藍子は安堵が窺える声でそう言った。

 実際、さっきまでは確実にぐったりしてたと思う。
 ぐだぐだした考えに囚われて、ついてない今日一日の残像から抜け出せなかった。
 それを打ち砕いてくれたのは優しくて可愛い彼女の存在に他ならない。

「心配させて悪かったな」
 嬉しさににやつきながら答える。心配されてる俺、非常に幸せ。
「いいんです、私は隆宏さんが元気でいてくれたらそれで」
 そして藍子が優しいことを言うから、すっかり甘やかされた俺はでれでれと妄想を垂れ流す。
「考えたんだがな」
「はい」
「今日の俺の駄目具合の理由は、ずばり最近の会ってなさ加減にある。つまるところ原因は、藍子ポイントの欠乏によるものなんじゃないか」
「え?」
 聞き慣れない単語にか、藍子が怪訝そうな声を発する。
「私、ポイントですか?」
「そうそう、藍子ポイント。お前と会うごとに蓄積されてって俺のパワーの源になります」
「あ、何かガソリン的なエネルギーなんですね」
「しかも最近燃費が悪くてな。すぐガス欠っちゃうんだわ」
 少し前まではどこの高校生かってくらいの低燃費を誇っていた俺だが、最近はどうも贅沢になりすぎて困る。毎日会うだけじゃ到底満たされない。たまにはこうして連れ帰んないと。
「ちなみにちゅー一回で百ポイント。泊まってってくれたら五千ポイントです」
「最終的にインフレを起こしそうな割り振りですね……」
「いいツッコミだ。今日の気分だと一億ポイントとかついちゃいそうだしな」
 精神的に弱ってる時の優しさなんてのはまさに効果覿面だから、今夜は藍子ポイントインフレの予感。一無量大数なんて小学生の頃にしか口にしなかったような単位まで登場しちゃいそうな気配です。でもどんなに溜め込んだって、高燃費な俺があっという間に浪費しちゃうんですがね。
 コンビニでの買い物とか給油とかDVDレンタルの度にも溜まっていけばいいのに、現実はそうもいかなくて彼女には代わりが利かない。彼女自身でしかチャージもできない。
「一ヶ月おきくらいじゃやっぱ、足りないんだよな」
 ポイントが尽きるとすぐに会いたくなる。寂しくなる。甘えたくなる。しかもどうやら中毒性まであるらしく、だんだんと減りのスピードも速くなってきてる気がする。
「だからもっと溜めさせて」
 俺の要求に藍子は、曖昧な口調で答えた。
「そう、ですね」
「お。あっさり了承したな、むしろ観念したか」
「いえ、その……そうかもな、って思ったんです。ちょっとだけ」
「ふうん」
 その後で彼女を横目に見たら、流れる街明かりを浴びて考え込む横顔が見えた。
 可愛く笑う顔も子供みたいにあどけない顔もいいが、こういう静かな表情も悪くない。何を考えてるのか想像を巡らせてみたくなる。
 今日一日の出来事を、藍子はどう振り返ってるんだろう。

 マンションの駐車場に車を停めて、二人で俺の部屋まで向かう。
「その辺。今朝俺がガム踏んづけた。気をつけろ」
 もうとっくに乾いてんじゃないかと思いつつ忠告すれば、
「気をつけますっ」
 彼女はぴょんぴょん飛び跳ねて、水銀灯に照らし出された路上のガムの痕跡を迂回する。それがまた犬みたいに可愛くて、殺伐とした朝の記憶までそれなりに明るく塗り替えていく。藍子だったら、ガム踏んづけた俺にもちょっと前向きな励ましをかけてくれたんじゃないかな、とか。どんだけ甘えたいんだ俺は。
 重い鞄を提げて、エレベーターに乗り込めばあっという間に部屋の前。ここまで来ると気も逸る。
 いそいそと鍵を開けると、
「あっ、もう開けちゃいました?」
 ワンテンポ以上遅れて藍子が、スーツの内ポケットに手を突っ込んだところだった。
 俺はドアノブに手をかけた状態で藍子のそのポーズを見て、疲労のせいか鈍る頭で少しばかり考えてから思い出した。
 ――そうだったよ、初合鍵。使わせちゃったんだよな。
「開けたかったか?」
 逆に聞き返すと、えへっと笑って首を竦める。
「せっかくなので今後は、積極的に使っていきたいなと思って」
「じゃあ次の機会があったら頼む」
「わかりました。明日とか、お出かけする時にはお任せください」
 張り切って答えた藍子を、先に玄関へと入れる。彼女は結んだ髪をゆらゆら揺らしながら中に入り、すぐに照明を点けてくれた。
 ぱちんと、視界が切り替わるみたいに明るくなる。

 彼女の後ろ姿も、つやつやした揺れる髪も、その結び目の下に覗くうなじも、くまなく白く照らされる。
 彼女を見て最初に抱くのは『可愛い』って感想だが、時々『きれい』だとも思う。
 それは一般的な、美人って意味じゃなくて――いや藍子を美人じゃないって言ったら各方面から贅沢者めとシュプレヒコール食らいそうだが、俺はあえて可愛い子だと言いたい――彼女のきれいさは、まっさらって意味だ。
 藍子はれっきとした大人だし、無邪気なだけじゃないし、彼女なりにずるいところや誤魔化したがるところや逃げを打つ手段なんかも身につけているが、それでも透き通ってるみたいにきれいな子だなって思うのは、俺の方が汚れてしまっているからだ。
 彼女の優しさに付け込んで、これからいろいろしようと考えてるくらいには。

「……隆宏さん?」
 ドアを開けっ放しにしていたら、その藍子が可愛らしく小首を傾げた。
「ああ、悪い。何でもない」
 俺もすかさず玄関に立ち入りつつ、彼女を連れ帰ったことに一応の満足を覚えつつも、ついさっきの彼女の言動に、今日一日引きずってた冴えない気分を否応なしに蘇らせてしまう。
 合鍵、使おうって計画立ててくれたんだよな。台無しにしちゃったな。
 俺自身の失敗とか、ついてない出来事とかはしょうがないって思えるし、藍子に慰めてもらえば気持ちも晴れる。だが彼女に対してしくじったって思う事柄はどう埋め合わせていいものか、未だ掴めない。合鍵の件だって藍子は露骨にがっかりしてみせたりもしないし、この先だって絶対に俺を責めないだろうと断言できるが、だからこそ俺はぐずぐずと気にしてしまう。彼女の優しさに甘えているうちに、彼女に寄りかかってるうちに、いつか越えちゃいけないボーダーラインまで踏み越えてしまうんじゃないかって。
 藍子は、俺をどこまで許してくれるだろう。受け止めてくれるだろう。
 甘えたい欲求にももはや歯止めがかからない。彼女が好きで好きで仕方がなくて、彼女に対してしたいこと、してもらいたいことがたくさんあって、そのどこまでが許容範囲なのかを測りかねている。手探りで進むしかない期間なんて、もうとっくに過ぎたと思ったのにな。
 ――いいや。今夜はもう、甘え尽くすってくらいで。
「エアコン、点けちゃってもいいですか?」
 靴を脱ごうとしながら、彼女はふと顔を上げて俺を見た。

 蛍光灯の明かりの下、紙のように白い顔と光を映す黒い瞳と、少し乾いた桜色の唇が目に留まる。
 仕事の後の彼女はいつも乾いた唇をしている。勤務中は割と隙なく口紅を塗っておいてるようなのに、タイムカードを通した後はどうしても油断が生じるらしい。わざと、ではないと思う。そこまであざとい真似ができる子じゃない。
 どちらにしたって、俺はまんまと嵌ってしまう。

 一人暮らしの玄関口がそれほど広いはずがなく、鞄を足元に置いて彼女の肩を掴むと、俺の肩は脇の下駄箱にぶつかった。
 ぺたん、と上がり框に座り込んだ藍子が、あ、と微かな声を零した。
 直後、俺は膝をつき、とりあえずのポイント補充として唇を合わせる。
 乾いた彼女の唇は、外の気温と同じくらいに温くて、でもとても柔らかかった。
「ん……」
 キスだけなら、藍子は嫌がらない。まだ嬉々として受け止めるというほどではないが、少なくとも逃げたり拒んだりはしない。舌で唇を押し割ろうとすると初めて、ほんのわずかな抵抗を見せる。及び腰と言うか、まだ怖がっているみたいに。
 まだエアコンを点けていないせいで、玄関は酷く蒸し暑い。唇を合わせたままで彼女の耳をなぞってみたら、指先が汗でつうっと滑った。首筋も舐めてみたら水っぽく、でも思ったよりしょっぱくは感じなかった。
 甘ったるい、いい匂いがする。
 でも暑い。とにかく暑い。こっちも上着を脱いで、ネクタイまで解きたくなる。両方ともその辺に放って、すぐにどうでもよくなる。
「あの、待ってくださいっ」
 本格的に抵抗されだしたのもこの辺りからで、藍子は身体を捩りながら逃れようとした。
 俺は俺でこのまま押し倒す気満々だったから、二十四歳の女の子の腕力なんてものともせず、彼女に体重をかけてフォールの体勢に持ち込む。順調にジャケットのボタンを外して開き、あらわになった白いブラウスの上から胸を撫でると、そこで彼女には唸られた。
「だ、駄目ですよ! シャワー浴びないと」
「あ、そういう理由なのか」
 てっきり玄関では駄目って言われるのかと思った。つい笑うと、俺の影の中にすっぽり覆われてしまった藍子が、組み敷かれた態勢のまますごく困った面持ちになる。
「え、だって、仕事の後ですから。汗かいちゃってますし、それに」
「シャワー浴びた後ならいいのか」
「……いい、ってわけでも、ないですけど」
 もごもごと言いにくそうに藍子は、だが俺の目をじっと見上げたままで続けた。
「それで、隆宏さんが元気になってくれるなら、私は……」

 泊まってってくれたら五千ポイント。
 別にそれを真に受けたってことじゃないだろうが、藍子は誤魔化しでもなくそう思っているようだった。
 彼女は元々こういうことに潔癖で、既に俺の部屋に何度も泊まってその度に美味しくいただかれてしまっているにもかかわらず、毎度のように後ろめたさや抵抗感を覚えているらしい。
 それは女の子にありがちな形だけの抵抗――やめてと言われて本当にやめたらがっかりされるという理不尽な類のあれとはまた違っていて、単に性分なんだろうなと密かに思っている。真面目な子が、例えば本気で子供を作るみたいな真っ当な理由もなくこういう、やらしいことに没頭するっていうのはハードル高いもんなんだろうな、とか。
 でもそのハードルを飛び越えさせてみたいな、ってのも密かに考えていたことではある。彼女の方からもじもじ誘ってくるようになったら、多分俺は心の中で祝杯を挙げると思う。それが見たかったんだよ! って具合に。
 まさかそれを、こんな形で半ば達成するとは思わなかったが。

「俺の為ならそこまでするって?」
 甘え尽くすつもりで尋ねれば、彼女はこわごわ答える。
「わ、私にできることなら、ですけど」
「言ったな。本当にやってもらうからな」
 俺は、好きな子に優しくされたらそこに付け込むような人間だ。遠慮はしない。
 ブラウスのボタンを上から四番目くらいまで一息に外した。彼女は今日もキャミソールを着ていて、それを押しのけたら今度は白くて柔らかい部分を覆うつるっとしたベージュのブラジャーが覗いた。仰向けでいるとかろうじて存在するか、しないかくらいの谷間は首筋と同じような女の子らしい匂いがして、汗ばんでいることなんて気にせずしばらく顔を埋めていたくなる。
 埋まるほどあるかどうかという点についてはあえて言及しないが、でも片っぽに頬をくっつけるようにすると、奥ゆかしいサイズでもちゃんと柔らかいなって改めて思う。しっとりした熱い肌の向こう、心臓の音は少し速い。
「お風呂入ってないのに……」
 藍子は拗ねるように言ったが、決して俺を退けようとはしなかった。
「昨日も?」
「いえ、昨日は入りましたけど、今日も暑かったですし、汗かいてますし」
「知ってる」
「だったら後にしてください! 今は駄目です!」
 彼女の訴えに合わせて胸の奥が震える。声が響いて聞こえる。
 いよいよ可愛くなって俺は、片方の柔らかいところに思いっきり唇を押しつけて、
「わあ、やだ、やめてください!」
 あんまり色っぽくない声が上がった。これはポーズじゃなくて本気でやめて欲しがってる声だと思ったが、ともかく藍子の抗議を無視して、今夜一つ目の鬱血を残してみる。約束したからな、っていう押印。
「後で、してくれるんだよな?」
 一応確認すると、藍子は光の映った黒い瞳を潤ませて、呟く。
「隆宏さん、ずるい」
 何を今更。
「だってお前が優しくしてくれるんだもんな。嫌ならそう言えよ」
「嫌ってわけじゃ……」
 そこで彼女は息をついて、言葉を選ぶようにゆっくりと、俺の目を見て言い直した。
「私、隆宏さんに元気になって欲しいのは本当なんです。こういう風にお付き合いとかしたことないから、どうやって優しくすればいいのかわからないけど……あの、これで、いいんですよね?」

 それ、俺に聞いちゃうのかよ。
 いいんですよねって言われて駄目だとは言いたくないし、しかし全肯定するのも気が引ける。少なくとも俺が全くの第三者で、女友達なんかからこの手の相談を受けた状況だったら駄目だって言ってるけどな。そりゃお前、彼氏を付け上がらせるだけだよって言ってやってると思う。でもこの場合の彼氏は、他でもない俺だ。付け上がるのも付け入るのも大好きな当の本人に、そうやって真面目に聞いちゃう藍子は、確かに俺よりきれいでまっさらな人間なんだろう。
 そしてものすごく、際限なく優しい子だ。

「俺には、それでもいいけどな」
 急に不安になってきて、俺は自分で外した彼女のブラウスのボタンを留めてやりながら釘を差す。
「他の奴にはそこまで優しくするなよ。俺だけならよし」
「もちろん、隆宏さんだけです」
 藍子は真剣な面持ちで頷いたが、この件に関しては追々しっかり言い聞かせておこうと密かに決めた。こんなに優しくていい子は本来なら可及的速やかに結婚して悪い虫が寄りつかないよう表に出さないのに限るんだが、そうもいかない上に営業なんていう危なっかしい職種だからこっちも注意を払わねばなるまい。
 本当、俺だけにしといてください。俺も最近は甘えすぎって自覚あるし、特に今夜は調子乗りすぎってくらいはっちゃけちゃってるけど、それもやっぱりお前だけだから。あと、明日以降はもうちょい抑えるから。
 ただ、今夜だけは。
「じゃあ、もう一個お願い」
 俺が申し出ると、まだ押し倒されてる姿勢の彼女は若干怯えたような顔つきをしたが、
「……膝枕、して」
 そう続けた途端、あからさまに安堵された。
「そのくらいでしたらいくらでも! ここでしますか?」
「いや、ここではちょっと。つかお前、何でそんなほっとしてんだ」
「えっと、それなら普通にできそうだし、よかったなって思って」
「普通にって何だよ……」
 藍子は俺に、どんなことさせられるって考えてたんだろう。
 やっぱ今夜くらいは調子に乗って付け込んどこうかな、と俺は俺で思いましたとさ。

 さておき、膝枕だ。
 エアコンの入った居間のソファーに、藍子がちょこんと座って、俺がその膝の上に頭を預けて横向きに寝転がる。
 彼女の膝は適度に硬くて温かくて気持ちがいい。飯も食わずシャワーも浴びず仕事帰りの格好のまま――お互い上着は脱いでたし俺はネクタイまで外してたけど、とにかく着替えもせずにしばらく、そうしていた。
「俺、重くないか?」
「ちっとも重くないです」
「いや、頭以外にもさ」
 俺の質問を藍子は計りかねたみたいで、えっ、と不思議そうな声が頭上で聞こえた。
 でも俺が黙っていたら、そのうちに何か掴んだのか、とりあえずもう一度言ってくれた。
「重くないですよ」
 優しい子だ、と思う。
「私の方こそ、高くないですか?」
「ん? 高いって何が」
「膝です」
 俺に落ちた彼女の影がもじもじと身じろぎをする。
「私、脚細くないから……」
 太いから、じゃなくて、細くないから。
 その物言いはいかにも複雑な女心によるもので、いつも素直な藍子が言うとにやにやしたくなるくらい可愛いんだが、それはそれとして俺はこの脚が好きだ。確かに細くはないがパンツスーツの時には生地がぱっつんぱっつんになってて、全体的にむっちりしている感じが堪らない。胸がない割に腰から下は女らしい体型って言うのがいい。そそる。
 まあ、今は膝枕の話だ。
「別に高くない。ちょうどいい」
「よかったです」
 彼女が少し笑う。それから俺の髪を梳くように撫でてくれる。
 いつもはそんなこと、抱き合った後ですらしてくれないから、これが母性本能ってやつかと心中で戦慄してみる。
 いや嬉しいんだ、嬉しいんだけどな。不意打ちでされたから心臓がやばい。痛い。
 こっそりうろたえる俺に、今度は別の言葉が降ってくる。
「そうだ。耳掃除でもしましょうか?」
「お、お前が?」
「私、こう見えても得意なんです。妹のもよくやってました」
 耳掃除が得意ってのもなかなか聞かない話だが、それよりも! 何その超優しいお姉さん!
 現実にいるのかそんなサービスのいい姉ってやつは。一体どう上手いことやったらそんなお姉さんの下に生まれてこられるんだろう、世の中はつくづく不公平である。
「俺の耳、汚れてる?」
 聞き返すと藍子はわざわざ俺の耳の中を覗き込んできて――きゃー恥ずかしい! と生娘っぽい反応でもしようかと思ったが我ながら気持ち悪いのでやめた。彼女の指が耳たぶにそっと触れると、そんなことを考える余裕もなくなるくらい、ぞくっとした。
「あ、結構きれいですよ。今度にしますか?」
「そうすっかな……俺も耳くすぐったがりだし、心の準備しとかないとやばい」
「そうなんですか?」
「ふーっとかされたらもう、身悶えるぞ。本っ当駄目なんだ耳は」
 それで俺の耳から慌てたように手を離してしまうのが藍子らしいところで、彼女が男に生まれてたら、女の子のポーズ的拒否を真に受けた挙句『優しすぎる』って理由で振られるタイプだろうなと思ってみる。でも藍子はめでたく女の子として生まれてきたし、羨ましいくらいに理想的なお姉さんだし、俺にとっても素晴らしい彼女である。優しすぎて困ることなんてない、対象が俺限定なら。
 俺は、幸せながらも困ってるけど。
 藍子のいない人生なんてもはや考えられないくらいで困る。
「俺もう、お前なしで生きてける自信ないわ」
 世にも情けない声で零した俺の顔を、藍子はやたらびっくりした様子で覗き込んできた。控えめでありつつも柔らかい胸が、俺の耳にぷにっと乗っかったのはここだけの話。
「え? 何ですか、それ」
「や、だからさ。もし俺がお前に振られたりとかしたら」
「そんなことないです。絶対ないです」
 珍しく彼女が語気を強めたので、俺は密かに胸を撫で下ろす。こんな夜には何よりも、そういう真面目な言葉が一番よく効いた。
 そしてあんまり深刻な流れにならないよう、がらっと明るい口調で応じた。
「耳掃除の時、お前の膝によだれ垂らしても怒んないか?」
 丸っこくて可愛い彼女の膝をさすってみる。
「わっ、くすぐったいです」
「あれ、何お前。膝も駄目なのか」
 それには答えず俺の手をそっと避けた藍子が、その後でぽつりと言った。
「怒らないですよ」
「マジでか。何で?」
「だって、妹もよくやってましたから。耳掃除の時」
 俺もこんなお姉さんが欲しかったんですが、何をどう間違ってしまったんですか神様。
 あ、その分こんな可愛い彼女で満足しろってことですかね。ならいいです、文句ないです。

 それから俺たちは、昨日の晩から水に漬かってすっかり柔らかめに炊き上がったご飯をお茶漬けにして平らげ、日付が変わる直前くらいまでにはお互いシャワーも済ませた。一緒に入ろうって言ったのは頑なに拒まれてしまったが、それ以外はすごく優しくしてくれたし、俺もその優しさを心ゆくまで堪能した。
 いつも俺より先に眠ってしまう彼女の寝顔を眺めつつ、幸せってこういうことを言うんだよな、なんてしみじみしたり。いやもう本当、藍子なしの人生とかないわ。無価値だ。これからは二人で生きる道しか全く考えられません。
 今日はいろんなことあったけど、後悔もなくはないけど、それでも寝つく瞬間はものすごく、幸せだった。多分夢の中でだって幸せだった。それがずっとずっと続くものだと思っていた。

 ――翌朝早く、電話に叩き起こされるまでは。
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