Tiny garden

溺れるほど溢れるほど(1)

 一年のうちに何度かは、何をやっても駄目な日ってのがはあるもんだ。
 その日、俺は朝からついてなかった。梅雨明け前のせいか、どうにもすっきりしない目覚めだった。起きてから気づいたが、炊飯器のスイッチを入れ忘れてて朝飯抜きになった。しょうがないからコンビニ寄って行こうと思って早めに出たら、マンションの駐車場でガム踏んづけて手間取った。朝飯抜きのまま出勤したら金曜日ってこともあってやたらと忙しく、おまけに昨日と同じネクタイを締めてきちゃった事実に気づいたのは正午過ぎ。こういうのって指摘されても恥ずかしいが誰も突っ込んでくれないのもそれはそれで恥ずかしい。そりゃ同僚のネクタイの柄なんていちいち注意払う暇もないだろうが、自分で気づいた後のやり場のない感情ったらない。笑われた方がまだましだ。こんな調子で朝からずっと、ケチのつき通しってかもはや大出血サービス状態。
 極めつけはデジカメだ。仕事で毎日使うというほどではなく、でも入用の時は割とあるって程度のそのアイテムを、昨日に限って俺は『たまには画像の整理でもしとくか』って気分になって自宅で弄り、そしてそのまま居間のパソコンデスクの上に置きっぱにしてきてしまった。そんな時に限って『この間の展示会の写真、用意できませんか』とか『サンプル画像をスキャンして送って欲しいんですが』みたいな連絡が俺のところに来たりする。こっちだって朝からずっと飯食えないくらい忙しいし週末らしくたっぷり仕事あるし、春名に仕事教える時間だって欲しいし、こんな時に限ってデジカメ持ってきてねーしで久々にてんぱった。せめてデジカメを家まで取ってくる暇があればいくつかの問題はすっきり解決するんだが、でも現状で会社出て家まで帰る余裕もない、こっちだって片づけなきゃなんない仕事もある。さてどうする、空腹と焦りにきりきりと締め上げられる思考からどうにかこうにか捻り出した一つの光明は――。
 小坂に、俺の部屋まで行ってもらえないか。

 彼女の顔が浮かんだ瞬間、真っ先に過ぎったのは罪悪感だった。今まで散々彼女に合鍵を使うよう急かしておいて、よりによってこんな時に使わせるのか。それは上司としても恋人としても間違った判断じゃないのか。彼女だって営業に出てる真っ最中だしきっと忙しいし、そりゃ俺が頼んだら絶対に断らないだろうが、だとしても。
 でも、彼女は俺の部屋に入れる。合鍵を持ってくれてる。そして彼女の今日の営業ルート範囲内に俺の部屋があって、俺が取りに帰るよりも場合によっては早いかもしれない。もし彼女に頼めたら、それはもうすごく、助かる。
 春名にできる範囲の仕事を任せて、一旦廊下へ出た。あまり人通りのない端の方まで歩いてって、携帯電話から彼女の番号を呼び出す。少し迷ったが、すぐに縋るような気持ちで通話ボタンを押していた。
『……はい』
 彼女には、割とすぐ繋がった。運転中ではなかったのかもしれない。
「小坂、悪いな急に。今、話しても平気か?」
『大丈夫です。あの、何かあったんですか?』
 俺が早口なせいか、向こうも割と焦り気味に応じてきた。どこかしら心配そうにも聞こえてきたにもかかわらず、電話してよかったと場違いにほっとしてしまう。
 単に声が聞きたかっただけとか、そういうわけでは決してないんだが、でもこの声は何だか心に染みる。特に今日みたいないろいろきつい日は。
「そういうんじゃない。……お前、今どの辺にいる?」
 尋ねると、彼女はコンビニの店名で答える。やはり俺の部屋のすぐ近くにいてくれた。
「そうか。今日はその辺回るって予定にあったから、いるんじゃないかと思ってた」
 俺は更にほっとしながら続ける。
「悪い、頼みがある。俺の部屋に寄って、取ってきてもらいたいものがあるんだ、頼めるか?」
『構いません。何を取ってくればいいんですか?』
 小坂の答えには迷いがなかった。そういう奴だと知ってるから頼もうと思ったし、頼むのを少し躊躇もした。でも、嬉しい。
「助かる。取ってきて欲しいのはデジカメだ、パソコンの脇にあるはずだからすぐわかる」
『了解です』
「お前も忙しいのに、申し訳ない。できれば夕方くらいまでに持ってきてもらいたいんだが……」
『わかりました。ここからなら五分で行けますし、すぐにお届けもできると思います』
 いい返事の後に車のエンジンをかける音が聞こえて、俺は本気でときめいた。お前も決して忙しくないはずがないのにこの快い反応、なんていい奴なんだ小坂。嫁にしたい。絶対するけど。
「ありがとう小坂! お前本当いい奴だな!」
『そ、それほどでもないですよ。困った時はお互い様です』
「いやマジで感謝してる! 助かった! 愛してる!」
『え……ええ!?』
 迸る感情のままに感謝を述べた後、しかしこれだけ手間かけさせるんだから何か礼をせねばと思い、最後に言い添えておく。
「そうだ、冷蔵庫に入ってる飲み物適当に持ってっていいからな。暑いから気をつけろよ!」
 タイミングよく食料を買い込んで、冷蔵庫に詰めてあった。彼女の好きそうな甘い飲み物もちゃんと用意しておいたから、きっと喜んで持ってってもらえるだろう。
 電話を切った後の俺はやっぱりほっとした気分で、だがちくちくするような罪悪感も少しは残っていた。結局、初合鍵がこれか……と思うと冴えない感じだ。でも彼女がデジカメを持ってきてくれるのはありがたいし、これで滞っていた仕事もいくらかはスムーズに流れていくはずだ。
 何より、辛くて忙しい時にあの声を聞けたのが、精神的にもすごく助かった。

 電話の後、小坂は一時間もしないうちに俺の元へデジカメを届けてくれた。
 だが余計な頼み事をしたせいで彼女の今日の帰りはいつもより遅く、営業が終わって帰社したのは午後六時過ぎ。しかも大分くたびれた様子で戻ってきたから、顔を見た瞬間に駆け寄ってしまった。他の連中には笑われたが、しょうがあるまい。
「お疲れ、小坂」
「あっ、主任」
 机の上にカバンを置いた小坂が、俺を見て軽く微笑む。疲れてるはずなのにこの表情、まさに癒しの象徴だ。
「今日、悪かったな。お前も忙しいのに」
 俺は声を落として詫びる。今更隠す必要もない仲とは言え、さすがに『合鍵を渡してた彼女に部屋までデジカメを取ってきてもらいました』なんて公私混同もいいとこだから、おおっぴらには言えない。それは彼女もわかっているのだろう、同じようにひそひそ声で応じてきた。
「お役に立てたなら嬉しいです」
「立てた。つかマジで助かった、でもごめんな」
「そんな、謝らないでください」
 平謝りの俺にも小坂は優しい。そうやって優しいのもわかってるから、頼み事をしやすくもしにくくもある。何か頼んでしまった後で、黙ってるけど本当は大変だったんじゃないかなって思うこともある。あのかさばるOHPを運んできた時もそうだったっけ。
「今度、何かで礼するから」
 まだまだ長々と謝りたい気持ちもあったが、お互いまだ勤務中、まして小坂の仕事を俺が邪魔した経緯もある。お詫びの続きは退勤後にってことで、とりあえず切り上げようと考えた。課の連中が、また主任が小坂さん構ってるよ休みの日に思う存分やればいいのに、などと噂し始めたのもあるし。
「え?」
 と、小坂が軽く目を瞠って、それから慌ててかぶりを振る。
「あ、あの、そういうのもお気になさらないでください」
「そっちこそ気にすんな。考えとくよ、適当なの」
「いえ、そんな……」
 断ろうとする彼女の様子がおかしい。視線が俺の目ではなく、もう少し下に向けられている。話している相手のネクタイの結び目を見る、というのも彼女が遵守しそうなビジネスマナーの一つなのかもしれないが、俺に対してはいっつも真っ直ぐ視線を向けてくるだけに、若干の違和感が――。
 ぴんと来た。
 俺はまさに彼女が注視していたネクタイを両手で隠すようにして、
「気づいた?」
 小坂はさっきよりも激しく首を振り、
「い、いえ何にも!」
「何だよ気づいたなら言ってくれよ、ツッコミ待ちなんだから」
「待ってるんですか!?」
 だってお前、こういうのってスルーされ続けてる方がかえって辛いってか気まずいじゃんよ。気づいたなら即座に言って欲しい。そして笑い飛ばして欲しい。
「じ、実はその、朝からあれって思ってたんです。昨日も見た柄だなあって」
「朝からかよ! それはむしろ言うべきだろ部下として!」
 つか俺が気づくより早いじゃねーか! そこは上司相手であろうと勇気出して率先して言って欲しかったですよマジで。お前が言ってくれたら俺も、あーやっちゃったえへへ、ですっきり笑い飛ばして、もう少し精神的にましな一日を送れてたかもしれないのに。
 お前にこそ、言って欲しかったのに。
「でも、お気に入りだから着けてるのかもしれないし、もしかしたら主任なりの深謀遠慮があるのかもって……」
 まるで自分のことみたいに小坂がもじもじするから、突っ込んで欲しい俺の気持ちはちっとも満たされない。小坂にツッコミを期待する方が間違ってるのか。徹頭徹尾ボケだもんな。
 大体ネクタイごときに深謀遠慮なんてあるわけねーだろ。それともあれか、実はやって欲しいのか『ネクタイの柄がストライプだったら今夜はお前を連れて帰るサイン』みたいなのを。よーしわかった今度本気でやっちゃうぞ。その時は気づけよちゃんと。
 恥ずかしそうな小坂を目の前にして、俺が別方向の妄想を滾らせ始めた時、
「先輩。小坂さんの仕事の邪魔をしちゃ駄目ですよ」
 たまたま傍を通りがかった霧島が、呆れたように口を挟んできた。
 ナイスタイミングとばかり、俺はターゲットを奴に変えてみる。
「な、な、霧島、俺のネクタイにちょっと突っ込んでくれ」
「はあ?」
 急なフリに霧島は眉を顰め、割と必死な俺と、まだもじもじしている小坂とを見比べる。それから俺のネクタイに、眼鏡越しの冷たい視線を送って、
「……しましまですね」
「いやそうじゃなくて!」
 何だようちの課、ボケしかいないのか。まさかのツッコミ俺だけってオチか。
「実は俺、昨日と同じネクタイしてきちゃったんだよ」
「へえ。気づきませんでした」
「困るなーそういうの。ずっとツッコミ待ちだったのに誰も言ってくんないし」
「って言うか、先輩のネクタイの柄なんていちいち見てませんよ」
 ですよねー。
 至極真っ当な意見を貰って、はっちゃける隙もないまま俺は一人寂しく自分の席に戻る。今日の俺、本当に空回りまくってる気がする。
 そして席に着いた時、俺の机の真横で資料を読み込んでいた春名が顔を上げ、
「あの。……俺も、朝から気がついてたんですが」
「お前も気づいてたのかよ! 言えよ!」
「いや、だって、何か意味があって同じの着けてきたのかなとも思ったんですよ」
 もごもごと春名が言い訳をするので、俺は身体を張ったボケをまるごとむげにされた気分で一層へこんだ。
 今日は何をやっても駄目な日だ。実にしょっぱい、この展開。

 そんなこんなで退勤できたのは午後十時の五分前。
「……今日は本当に、悪かった」
 いつものように助手席に乗せた彼女へと、再び平謝りタイムを開始する。ちなみに上がりの時間がほぼ一緒だったのも、いつものように俺が合わせたからです。今日みたいな日は特にそうすべきだろ。
「どうして謝るんですか?」
 シートベルトを締めながら藍子が聞き返してくる。俺に向けてくる笑顔は相変わらず天使みたいに清らかだし、ネクタイの結び目なんて見ずに俺の目をじっと見つめてくるところもいい。ついついでれっとしてしまう。
 しかしだ、今日はでれでれしている場合じゃない。口元を無理やり引き締めて応じる。
「どうしてって、お前の仕事の邪魔しちゃったからだよ」
「邪魔なんてことないですよ、全然」
「そんな訳あるか。営業中に家まで行かせるとかさ、よくないとは思ったんだ」
「でも結果オーライですよね? 私の仕事も今日中には済みましたし、お互い日付の変わる前に帰れますし」
 ふふっと、息を漏らすような笑い声。
 笑い飛ばすという表現が的確なのかどうかはわからないが、彼女が俺にこれ以上謝らせまいとしている意思を、その柔らかい表情からは感じ取れた。本当に藍子は、俺の心を和ませたり弾ませたり上向かせたりするのが上手い。当人にはそんな意識なんてあまりないんだろうけど。
 俺が最も気にしているのも、結局はそこだ。
「それはそうなんだがなあ……」
 車も出さずエンジンもかけず、ハンドルにのしかかるようにして俺は頬杖を突く。薄暗い駐車場にぼんやりと視線を走らせ、内心を彼女に切り出すべきかどうか、迷う。
 近頃の俺は、藍子に甘えてやしないか。気になるのはそこだ。
 別に、甘えちゃいけないってこともないだろう。七歳差とは言えお付き合いを始めてしまった以上、どっちかに負担が偏りすぎないよう平等であるのが筋だろうし、いつだったか霧島に言われたように気持ち的には両成敗みたいなところもあるし、たまには俺が藍子に甘えるのだってありっちゃありだと思う。
 ただ、俺の場合はその甘えの度合いがちょっと極端だと言うか――辛い時に顔が浮かんじゃうだの声を聞きたいだの、うっかりミスを的確に突っ込んで欲しいだのと、依存的な欲求ばかりが増えつつあるような気がする。それも以前よりも高い頻度で。
 何と言うか俺、藍子なしじゃ生きられない身体になっちゃったって言うか。
 それも元からと言えば元からだが、しかしそれにしたって最近は酷い。仕事のモチベーションも目的も、全部彼女の為みたいな感じになりつつある。例えば今週乗り切ったら休みだし、ちょっと無理してでも会えないかなとか。ボーナス出たしそのうち何か買ってやろうかなとかいっそ二人でどっか遠くに行こうかなとか。俺がめちゃくちゃ頑張って業績上がったら藍子が誉めてくれるんじゃないかなとか、何かにつけて彼女と結びつけて考えてしまう。もちろん忙しい時辛い時だってそうで、デジカメを届けてもらうアイディアを思いついたのも実行したのも、それが彼女絡みだったからに他ならない。それが有効な手立てだった、他にいい代案なんて思いつかなかったと口実らしきことを唱えてみても、結局彼女と接点を持ちたいが為の案だったことには変わりない。
 そういう自分を、ちょっとやばいんじゃないの、と思ってしまう。恋人に依存するのも多少なら悪くないが、度が過ぎると悲惨なことになる。藍子はこの通り天使みたいに優しくてひたむきで可愛いから、俺の無茶な頼みでも大抵は聞き入れてくれるし、一緒になって無茶もしてくれる。だからと言ってそれに甘え続けていては、そのうち『やだこのおっさん重すぎ』なんて振られてしまうかもしれない。そういうことを口走る彼女は未だに全くもって想像もつかないが、何にせよ三十にもなって、って言うかもうじき三十一になるのに、重い男と思われて彼女にうざがられるのだけは本当に避けたい。手遅れかもしれないがだったら今のうちに改善しときたい。
 でも、今更我慢して適度な距離を保ったりするなんてことができるかっつったら。
「……元気ないですね、隆宏さん」
 ふと、藍子がそう言って、俺もようやく我に返る。
 視線を移すと助手席の彼女はすごく心配そうにしていて、俺はその心配そうな感じを不謹慎にも嬉しく思ってしまう。何だかんだで気にしてくれてんだよな、なんて。そういえばネクタイの柄だって気づいてくれてたし、霧島も言ってたけど普通はそんなとこ見ないもんだし、それを見てくれてる藍子ちゃんってば俺のことそんなに好きなのねみたいな。いや実際俺たちって普通にラブラブじゃねとか思ったりして。
 春名も気づいてたって事実は、今は置いとくことにする。あいつはだってほら、新人指導中につき俺と顔を合わせる時間もほかの人間よりべらぼうに多いし。だからだよ、うん。
「ん、まあな」
 俺は一度曖昧に答えてから、隠す必要もないかと首を竦めた。
「今日、ちょっと上手くいかないことだらけでさ。へこんでた」
「デジカメの件ですか? それでしたら私――」
「それもあるけど、他にもな。ネクタイ、昨日と同じにしちゃったのもあるし」
 軽く笑ってみると、彼女はつられたように短く笑ったが、すぐに気遣わしげな顔に戻った。
「すみません、朝から気づいてたのに……」
「いや、いいんだそれはもう。その他にもいろいろあったんだよ」
 指折り数えると随分ある。
「昨日の夜、炊飯器のスイッチ入れ忘れたし。起きて飯食おうとしたらまだ米で、すんげーびびった。で、しょうがないからコンビニで何か買ってこうと思ったら、出掛けにガム踏んづけて取るのに時間食ったし。おまけに休み前だから忙しくて昼飯食ったの夕方だぜ夕方。そりゃ能率だって落ちるわって時に、持ってきてないデジカメがあっちこっちからラブコールされるんだもんな」
 ケチの大出血サービスみたいな日だった。
 いいことなんて全然なくて、あるとしてもそれは全部藍子に関わることだけだった。そうして俺はついてなくて辛くて忙しい日の救いを彼女だけに求めて、彼女はそれをできる範囲内では無条件に受け止めてくれているようだが。
 本当にそれでいいのか。
 今日みたいなついてなくてしょっぱい日は一年のうちに何度かあるだろう。でもそれ以上に辛い日も忙しい日も人生送ってりゃ一度や二度はあるはずで、その時に俺は今以上の救いや無茶や無条件の愛情を、彼女に求めずにいられるだろうか。今以上に依存して、寄りかかってしまったとしたら、彼女は俺を受け止めきれるだろうか。多分、本当にぎりぎりのところまでは『重い』なんて言ってくれないだろう彼女に、負担をかけないだけの距離を取らなければならないはずだ。
 でも。俺の中の甘えたい欲求は大分のっぴきならないところまで来ている。
 なぜって、久しぶりだからだ。寄りかかれる相手がいるという状況。単にお付き合いしている子がいるってだけじゃない、久しぶりに俺が甘えられて、年甲斐もなく寂しいだの何だのって言えちゃう相手ができてしまった。そりゃ心の安全装置もあっさり外れて歯止めかかんなくなっちゃうだろ。
「明日、伺いますから」
 励ましのつもりなんだろうか。藍子は明るい声でそう言った。
 それも久しぶりだった。ほぼ一ヶ月ぶりに二人きりで、俺の部屋で会う約束をしていた。その為に食料だってざっと買い込んどいたし、彼女用の飲み物なんかも用意しといたわけだ。
「そっか、明日だったよな。来てくれるの」
「はいっ」
「そうなんだよな……」
 明日になればまた会える。今日のことを若干引きずりつつも、いつものノリで甘えたりいちゃいちゃしたりする休日がもうすぐ来る。あと二時間で明日になる。だから、気持ちを切り替えてしまえばいいのに。
「あの、何時頃にしましょうか。約束」
 一向に車を出そうとしない俺を不審がっているんだろうか。藍子の口調はどこか落ち着きがない。早く帰りたいのかもしれない。俺が隣にいるのに。
 明日になれば会えるって、知ってんだけどさ。
「……藍子」
「はい」
「明日じゃなくて、今から来るってのは駄目か?」
 俺にしては控えめな聞き方をしたと思う。
 そこに気がついたかどうかはわからないが、彼女はさほど驚いたそぶりもなく、やがて小さく頷いてくれた。
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