Tiny garden

溺れるほど溢れるほど(3)

 さっきから寝室に耳障りな電子音が鳴り響いている。
 寝ぼけた頭で、ああこれは電話っぽいなと思う。
 なぜ『電話っぽい』と思ったのかと言えば、着信音が随分長いこと鳴り続けていたからで、メールではなさそうだと踏んだからだ。ついでに言うと確実に俺のじゃない、私用の携帯も会社から支給されてるやつもマナーモードにしてあるからだ。となるとこの着信音は俺の隣で多分まだ寝てる、藍子のものなんだろう。出ないのかな。つか、起きないのかな。俺は半分目が覚めかけてる。取ってきてやった方がいいだろうか。ぶっちゃけ、こんな朝っぱらから電話かけてくるなんて無粋にもほどがあると思う。スルーしたい。
 あれこれ考えてるうちにふと、――あれ。そういや藍子の電話って着信音、歌にしてなかったっけと思い当たる。彼女もそういうところは案外マメな方で、相手によって曲を細かく使い分けるという可愛らしいことをしている。ちなみに俺から電話をかけると、彼女のカラオケの十八番がサビから鳴る仕様。そういうのも特別扱いっぽくて嬉しい。愛を感じます。
 俺が夢うつつのまま藍子可愛いとか、藍子激ラブとか、そんなことを考えてる間に電子音はぱったり止み、あー切れちゃったなとわざとらしく悔やむポーズだけ取ってみる。いや、大事な用だったら困るから一応、確認だけはするけどな。したくないけど。
 まだしばらくぼうっとしながらとりあえず枕元の目覚まし時計を探す。例によって左腕は壁際に寝てる彼女にしがみつかれてる状態なので、自由になる右腕だけでそれを掴んで、ブラインドの隙間明かりにて現時刻を確認。
「……まだ七時半じゃねーか」
 平日なら遅刻になりかねない起床時刻だが、今日は土曜日だ。全く誰だよ朝のうちから、俺の彼女に電話なんてかけてきやがって。用件次第では出るとこ出るぞ。って言うか空気読め、休みの日くらい寝坊させろ。思わず舌打ちして、その後で隣に寝ているかわいこちゃんに一応、声をかけてみる。
「藍子、電話鳴ってたっぽいけど」
「んー……」
「歌じゃないやつって会社のか? 結構長く鳴ってたぞ」
「んむー……」
 起こさないで欲しいとでも言いたげに、藍子は俺の腕にしがみつく。そして柔らかい頬をすりつけてくる。名残惜しそうなその仕種と、ぷくぷくした頬っぺたにはうっかり心臓を撃ち抜かれた。
 六月最後の週末は朝っぱらから既に気温も湿度もやや高めで、ぴったりくっついてる皮膚と皮膚の間から汗が滲んでくるようなのに、それでもこうしてしがみついててくれるあたりに着信音の比じゃない愛を感じる。いやー何だこれ参ったな、藍子ちゃんってばそんなに俺と離れがたいってか。だったら今日はもう一日中ベッドから出さないでおいてやろうか。どうも今日は天気が崩れるって話らしいし、俺に軟禁されて過ごすには大変ちょうどいいお日柄ではないでしょうか。
 その為にも、障害になりそうな事柄は早めに取り除いておくに限る。
「ちょっと待ってろ。どっから電話来たか、確認してきてやるから」
 そう言って腕をそっと解くと、藍子は瞼をぴくぴくさせながらタオルケットの中に潜り込もうとする。寝ぼけてても羞恥心はあるんだろうか、仰向けになろうとしない姿がまた思わせぶりでいい。そのくせ無防備な寝顔と寝乱れた長い髪とすべすべの真っ白い背中を眺めていると、電話がかかってきたことなんて真剣にどうでもよくなる――いやよくないですよね、大事な用かもしれないですもんね、そうでなかったとしても一応確認しておかないと。あーもう離れがたいのはこっちだっての。
 誘惑には滅法弱い己の心と戦いつつ、俺はベッドを下りて寝室の隅に立てかけてある彼女のお仕事用カバンに歩み寄る。外ポケットからストラップだけが飛び出してるそれを取り、表側、テープに印字された社名と所属部署から目を逸らすがごとくフリップを開く。
 待ち受け画面にはしっかり『不在着信一件』とある。
 誰だよ。もし会社の奴だったらしばらく集中的に恨むぞ。取引先だったらまあしょうがないが、でも今日は休業日だしこんな朝早くからじゃいくら何でも非常識だ。それとも、そのくらい大事でかけてきたってことならまだ、わからなくもないものの、だとしたらせっかくの休日までふいになりそうで恐ろしい。いずれにせよ先行き不安の着信だ。
「藍子、やっぱ電話が――」
 俺がもう一度声をかけようとしたら、携帯電話も再びぴりり、ぴりりと電子音を発し、
「あれ、電話?」
 のっそり、という表現がぴったりな鈍い動きで、藍子が身を起こした。俺は渋々ランプの明滅する携帯電話を彼女に差し出し、彼女はまだ開ききってない目でそれを見つめた後、ゆっくりと受け取って通話ボタンを押し、耳に当てた。
「お、おはよーございます、小坂です……」
 ぎりぎり呂律は回せましたって感じの口調がまた可愛くって堪らない。
 思わずにやける俺だったが、通話先の声を聞いたらしい藍子は直後、スイッチが入ったみたいにぴんと背筋を伸ばして、
「――あっ、あの、お世話になっております! いえ大丈夫です!」
 一転、仕事中のはきはきした口調に変わる。
「はい、今日は休業日ですが、でも大丈夫ですよ! もう起きてましたし……ええと、どのようなご用件ですか?」
 どうも通話相手は取引先らしい。ついさっきまで起きたくないって態度でうだうだしてたくせに、藍子もこういう時は迷わず嘘をつくんだな。おかしいような、親しみが持てて可愛く感じるような。
「え、ああ、以前と同じご注文ですか? それでしたらええと、今日は休業日で機械も動いておりませんから、申し訳ないですが月曜日に発注かけることになります」
 にやつく俺とは対照的に、彼女の表情はきりりと真剣だった。まるで勤務中のようだ。
「なので中三日で、仕上がりは金曜日になりますけど、よろしいでしょうか?」
 それにしても。
 仕事の電話を、素っ裸でしてるってのもなかなか物珍しい光景だな。
 寝起きの彼女は昨晩と同じように一糸纏わぬ姿ってやつで、でもそれを俺に晒すのは未だに、毎回のように恥ずかしがるくせに、今はあんまり気にかけてもいられない模様。胸すら隠さずベッドの上にぺたんと座って、やたらといい姿勢と真面目な面構えではきはき通話している彼女は、それはもう無防備で大盤振る舞いで眼福なことこの上ないのだが、さすがにかわいそうかなと思えてくるのも事実。こっちがその気になったところで、手を出そうにも出せない状況だから、かもしれない。
 例えば、お仕事用のスーツを着たままでなだれ込む、的なシチュエーションは俺は大好物な方です。昨日はし損ねたが、藍子がOLやってるうちに一度はこなしておきたい着衣シチュ。しかしながら好物とは正反対の現在の光景――すなわち全裸で仕事中という、若干シュールなこの状況には何と言うか意外にも、ときめきを感じない。結局、一緒になって俺まで勤務中の気分を思い出してしまうからだ。発注だの何だのって仕事しか連想させないフレーズの数々、今日くらいは忘れときたかったのに。
 忍びなくなった俺は柄にもなく神妙な気分で、彼女にタオルケットを掛けてやった。今は許す、いいから隠せと肩を包み込んでやる。彼女も俺に頭を下げつつ、タオルケットの合わせ目を胸元に引き込む。
 電話の向こうからはやや張り上げるような大きな声が漏れ聞こえていた。
 藍子も負けじと声を上げる。
「いいえ、中、三日! です! 仕上がりは金曜日です!」
 どうやら相手は耳の遠い人物、もしかするとお年寄りなんだろうか。だから朝早いのか。
「そうですそうです! 月曜日に発注かけますので!」
 藍子は時々聞き返される説明をそれでも丁寧に、しかしいつもより大きな声で続け、
「――はい。それでは改めてご連絡いたしますので! はい、こちらこそよろしくお願いいたします。失礼します!」
 最後の挨拶まではきはきと締めくくってから電話を切り、深い息をつく。肩を落としたからさすがに疲れたのかと思いきや、すぐに身にまとったタオルケットを引きずりつつ、ベッドを這うようにして下りた。そのままずるずると匍匐前進みたいにして自分のカバンへと近づき、中から手帳を取り出した。ペンを走らせる藍子の後ろ姿をベッドから見守りつつ、俺も思わず溜息をついた。
 仕事人間の夫を持つ妻の気持ちってやつが、ちょっとだけわかった気がします。
「……あ、すみません。すっかり起こしてしまって」
 手帳と携帯をカバンにしまってから、藍子はようやく俺の方を振り返る。
 俺は黙って傍にある扇風機のスイッチを入れてから、彼女を手招きで呼び寄せた。タオルケットを羽織ったままで戻ってきた藍子を、とりあえず膝の上に座らせる。
「こんな時間から仕事の電話か」
「すみません。お世話になってるお店の方からで」
 尋ねると、藍子は本当にすまなそうに頷く。長い髪が扇風機の温い風に吹かれて、俺の胸や腹や太腿に触れる。ちょっとくすぐったい。
「しかし世話になってるっつったって、朝早すぎるだろ。そもそも今日休みだし」
「そうなんですけど……おじいさんとおばあさんの二人でやってるお店なので、朝早いんです」
 そこで藍子は首を竦めて笑い、
「前なんて、出勤中にお電話いただいたことがありますよ。電車に乗ってなくてよかったです」
 全く苦にしてない調子で言うから。
 それはさすがにどうよと、上司としては思わなくもない。そりゃ俺だってありますよ、休業日にいきなり得意先から電話来て、『ちょっと来てもらえます?』なんて当たり前のような口調で呼び出された経験は数知れず。基本BtoBがメインの営業とは言え、取引相手は暦通りに休む企業ばかりじゃない。それはわかってるが、例えば急ぎでないならせめて週明けまで待つとか、こっちの休業日をちょっと調べてみたりなんかして、休日はちゃんと休みたい俺の事情なんかも時々でいいから汲んでくれたらありがたいんですがね――なーんてことはもちろん相手に言えないどころかおくびにも出せず、一度呼び出されたら愛想よくすっ飛んでいかなきゃならんのが営業マンの悲しい性。たまーにだけ休日の電話に出ないこともありますが、そこは、それこそ汲んでいただきたい。
「できないことはできないってちゃんと言わないと、お前が潰れるぞ」
 他人のことはあんまり言えないが、ともあれ俺は、
「頑張るのはいいが、安請け合いばかりはするなよ。藍子みたいなタイプは特に心配だ」
 説教にならないように気を配りつつ、彼女に告げた。
 お互いこういう仕事してなければ、『俺と会う時は電源切っとけ!』なんて言えたのかもしれない。しかし俺が彼女にそんなことを言えるはずはなく、また彼女から同じように言われても困る。せいぜい音鳴らないように設定しておくくらいしかできない。だから、こんな朝っぱらから仕事の電話が来てたって、しょうがないと言えばしょうがないことではある。
 別に藍子を責めるつもりはないし、先方だって悪気があって土曜の朝から電話したわけではないんだし、いいんだけど。別に、仕事の電話ごときでやきもちとか焼いたりもしないけどな。出鼻を挫かれた感はある。できれば先に目覚まして、寝起きでうだうだ言ってる可愛い彼女を襲ってやろうと思ってたのに。
 彼女はものすごく心当たりのありそうな、ぎくりとした顔つきで俺を見上げていた。それから沈んだ声で答える。
「気をつけます、すみません」
「いや、俺もお前のことは言えないし、謝ることじゃない」
 こっちから笑いかけると藍子もちょっとだけ笑ったが、すぐに真面目な顔に戻って、
「でも予定より早く起こしてしまいましたから。せっかくのお休みなのに」
「まあな……。次からはなるべく営業時間内にしてねって言っといてくれ」
「わ、わかりました。一応言ってみます」
 でも藍子なら、この先もこんな調子なんだろうなと思っておく。そういうところも嫌いじゃないし何より理解できてしまうから困る。
 ただ、何にせよ出鼻の挫かれ感はマジで半端ない。さっきまでの寝ぼけたそぶりはどこへやら、藍子はすっかり仕事モードの表情になってしまっているし――まだ服着てないでタオルケット一枚に包まってるだけなのに。そして防御力ゼロで俺の膝の上に乗っかってる彼女を目の前にしても、俺も思いのほか気分が盛り上がらないと申しますか、むしろ俺の方が仕事モードから抜け出せないでいる。とりあえず気持ち切り替えないとどうしようもなさそう。
「ちょっと早いが、飯にするか」
 俺はしょげた彼女の頭を抱きかかえて、軽く頬ずりをする。強くするとざらざらで痛がらせると思うから。
「早起きした分、今日は余裕持って過ごせそうだな」
 励ますつもりで言ってやったら、藍子は何だか嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます。……あと、おはようございます」
「あ、言ってなかったっけ。おはよう、藍子」
 土曜の朝はこんな風に、予定外の早さで始まった。

 天気予報によると、今日は午後から雨のようだ。
 朝飯を済ませた午前九時頃には、既にベランダから見渡せる空がどんより灰色に染まっていた。俺は携帯電話でその予報を確認してから、ちらと視線を隣へ走らせる。
 藍子はソファーに、俺の隣に座って、先程からずっと新聞を読んでいる。また生真面目そうな横顔をして、テレビ欄以外の箇所も実に熱心に読みふけっているようだ。社会人としては正しいあり方かもしれないが、こっちを向いてくれりゃいいのにとさっきからこっそり思っている。
 昨日の夜、何の準備もさせないまま連れ帰ってしまったから、彼女が今来ているのは以前購入したあのポロワンピースだ。下着もまだ見てはいないが知っている、同じく合鍵の件で俺が拗ねた時、攫って帰る途中で買ったやつ。上下共に黒なのは知ってる。それを着けると彼女の肌が、より白く見えるのも知ってる。全部、こういう機会の為に俺の部屋に置いておいた。
 ぶっちゃけ彼女に限っては、何を着ても可愛いと思っている。もちろん何も着てなくても可愛いが、こういう気合の入ってない格好というのもそれはそれで隙があっていいものだ。髪もいつものようにきっちり結んでいるのではなく、右よりの随分下の方で緩く結んでいたりするのが可愛い。手を出したくなる。ポロシャツ素材なんてのもまたよくよく考えれば堪らないくらいにしどけなく、編み目のぼこぼこした感じが隙間だらけに見えて、そのうちのどっかに目を近づけたら中が覗けてしまうのではないかと偏執的な妄想に耽りたくなる。覗きたい。いや普通に考えて直接見た方が早いよな。じゃあ脱がせたい。むしろまくりたい。そんなことをぐるぐると考えながら、俺は新聞を読む藍子を横目で眺めている。
 朝は結局邪魔が入ったから――困ったもんだ、仕事のこと忘れたいって思ってる時に限ってこれだもんな。挫かれた分は取り返さねば。
 今からは、彼女は俺だけのものだ。
「やっぱ午後から雨だそうだ」
 溜息をついてから、俺はそう切り出した。携帯電話をローテーブルの上に置き、新聞越しに彼女の顔を覗き込んでみる。
「降水確率八十パーセント。これは降るな」
 ちらっとこっちを見た彼女が、そこで寂しそうに眉尻を下げた。
「残念ですね、せっかくのお休みなのに」
 俺は別に残念でもないがな。絶好の軟禁日和じゃないか。
「まあいいだろ、のんびり過ごすのだって悪くない」
 もう今日はどこにも行きたくない。彼女と二人、現実の面倒くさいこと全てがどうでもよくなるくらいにいちゃいちゃしたい。飽きるほどしたい。実際、飽きることなんてないような気もするが、だったら時間の許す限りまで。
「のんびり、しましょうか」
 多分、のんびりするっていうのを文字通りの意味だと思ってるんだろうが、ともかく藍子はすんなりと聞き返してきた。構えたところもなければ、やらしい想像ばかりしている俺に気づいて非難めいた視線を返してくることもない。相変わらずピュアな女の子である。
 わかってないよなあと内心呟きつつ、俺は彼女の肩に頭を乗せてみる。いい匂いがする。
「こうなると思って、食料はしっかり買い込んどいた」
「お天気が悪くなるのを見込んでってことですか?」
「一応な。雨の日は買い物出るのも億劫だし」
 金曜日の諸々がなくたって、この週末は彼女を連れ込んでいる予定だった。そして俺は彼女を外に出さず、めくるめく愛と欲望の二日間を過ごしてやろうと目論んでいたわけだ。ここ数ヶ月はすっかり自堕落な家デートが定番になってしまったが、付き合ってからわずか半年、しかも月イチペースでしか会えてないとなれば毎度のように突っ走っちゃう男心もやむを得ないというものだ。
「ここんとこ忙しかったし、今回はどこも出ないでゆっくりするってことで」
 でも自分でそう言ったら、たちまち昨日の『諸々』まで一気に蘇ってしまって、俺はそれなりにへこんだ。
「あー……昨日の場合は、忙しくさせたのは俺のせいだったな」
「気にしないでください」
「しつこいようだけど、手間かけさせて悪かった」
 藍子は本当に気にしていないようだったが、だからこそ気になる部分もあるわけで。昨日はいろいろありすぎて振り返るのも面倒くさいけど、ただこのソファーで膝枕してもらったんだよな、それが何だか幸せな記憶過ぎてやばい、とか。俺はあの時、この子にずっと寄りかかってたい、甘えたいって思ったけど、藍子はどうだったんだろう。七つも年上から甘えられて、どんな風に思ったのか。そういうの、重いって感じてないかな、とか。
「急に入用になったから、持ってきてくれてすごく助かったんだけどな。お前も仕事中なのに無茶言ったかと思って。俺、繊細だからそういうの気にしちゃうんだよな」
 俺があえて冗談っぽく言えば、藍子も素直な表情で答えてくれた。
「無茶だったらその時にそう言ってます」
「本当か?」
「本当です」
「お前なら多少無茶でも取りに行ってくれそうな気がする。だから余計にな」
 まだ新聞を持ったままの彼女を、じいっと観察してみる。柔らかそうな頬のラインはまだ少しあどけなく見えるし、表情自体はいつだってとても優しい。俺を好き放題甘やかしてくれるけど、それは好きでやってるってよりもただ単に優しい、いい子だからってだけじゃないかって、いつも思う。甘やかし慣れてるって気もするんだよな、お姉さんだから。
 他人事でもないのに、そんなに甘やかしてていいのか、って聞いてみたくもなる。
 結局、違う聞き方をしたけど。
「最近の俺、ちょっとお前に甘えてない?」 
 俺の問いに彼女は、考えもしなかったって顔で答える。
「そんなことないと思いますけど」
「いいんだぞ正直に言ったって。遠慮とかすんな」
「してないです」
「いいや、してる。藍子はそういうとこ、まだまだガード堅いもんな」
 そう言い返すと、彼女はそうかなあと言いたげに首を傾げた。納得いってないらしい顔が可愛くて、その頬を指先で撫でてみる。見た目の通りに柔らかくて、ぷくぷくしている。
 そりゃあ当然、甘やかしてくれんのは嬉しいんだけどな。寄りかからせてくれるのも俺のわがままに付き合ってくれるのも本当にありがたくて幸せで、逆にすげなく撥ねつけられたりしたら年甲斐もなくへこんじゃうだろうなって予感もしてんだけどな。でも藍子には、俺と本音で向き合って欲しいって気持ちもある。仕事なんかでも相手に優しくて、何か頼まれると断れないって風の彼女が、でも俺に対しては遠慮も何もなく素直な態度でいてくれたらって、そういうことも思ったりする。
 一番いいのは素直な態度で、本心から、俺を甘やかしたいって思ってくれることだ。――いや我ながら都合の良すぎる希望だこと。
「散々合鍵使えって言っといて、結局こんな形で使わせたってのも悪かったしさ」
 それで前に拗ねてしまった経緯もあるから、合鍵の件はしばらく引きずりそうな気もする。使ってもらえないで拗ねて、使わせといてへこむって、つくづくガキみたいな困った思考だ。
「私が合鍵持っててよかったですよね」
 でも、藍子はそう言った。作ったように明るい口調で、ものすっごく気を遣ってくれてるのがわかる表情で。よかったですよね、ってこのタイミングで言えちゃうところもすごいなって思うし、その気遣いも言葉も俺の為って点はまさに愛を感じた。
 優しい子だと、何度目になるかわからないくらい、思った。
「まあ、よかった……んだろうけどな」
 ぼそぼそ答えながらもどうしていいのかわからなくなる、俺。
 ああもう、好きだ。藍子が好きで好きで仕方なくて胸が痛いし頭がぐらぐらする。俺のこの三十年、と十一ヶ月の人生の全ては彼女と出会い、そして過ごしていく為にこそあり続けたんじゃないかって、ちょっとイタいことまで考えてしまう。こんなに優しい子とめぐりあわせてくれた運命に感謝したい気分。しかも向こうも俺のことめっちゃくちゃ好きでいてくれてるとかさ、幸せすぎて心拍数とか血圧とかいろいろやばい。そのうちでろでろに溶けて形状を保っていられなくなるんじゃないかってくらい、彼女にめろめろなんです。
 そんな彼女が俺の為、合鍵を使う計画を立ててくれたっていうのに。
「お前だっていろいろ、前もって計画してたんだろ?」
 その点について触れても、藍子はひたすらかぶりを振るばかりだ。
「それは別にいいんです。私は隆宏さんのお役に立てたら、それで十分です」
 しかも泣かせる台詞つき。あーやばい結婚したい。
「でもなあ……」
 結婚はするけど、それはそれとして今回のお詫びは何か別のことをしといてやりたい。埋め合わせに何かないか、と考える俺に、彼女はふと、
「昨日は、いいこともありましたし」
 そんな言葉を口にした。
「いいこと? って何だ」
 問い返しても藍子は答えない。込み上げてくる笑みを必死に堪えているように見えたが、俺にはまずその『いいこと』の心当たりがそれほどなく、彼女の何か言いたげな、そのくせ完全黙秘ってな態度が引っかかった。
 昨日起きたいいことと言えば――まず、藍子を玄関で押し倒した。未遂に終わったけど。あと、膝枕してもらった。でもこれは俺にとってのいいことであって、彼女にとっては別にそこまででもないよな恐らく。その後もいくつか俺的にいいこと、楽しいことはしましたが、でもそれらを指して『いいこと』だと、藍子は言いそうにないと思った。
「どうしてにやにやしてんだよ」
 わからなくて尋ねてみる。
 すると彼女は、もじもじしながら言った。
「な、何でもないです。あの、いただいた紅茶、美味しかったです」
「ああ、冷蔵庫の? それがいいことなのか?」
 それだけ? いくら何でも欲なさすぎるだろ。自分自身と比較してしまってついおののいた俺に対し、
「そうです。そういうことにしておいてください」
 藍子は言葉を濁し、直に新聞で顔を隠してしまう。恥らうような態度が引っかかる。
 ええー、何この反応。ってことはあれだよな、冷蔵庫に入ってた紅茶のペットボトルはあくまでフェイクで、それ以外のいいことが昨日、あったって意味だよな。何だそれ。はっきり言わない辺りが非っ常に意味深長に思えてくるんですが、それは単に俺の脳細胞が桃色だからってだけですか。それともこれはもしかしてもしかするんですか。彼女なりに精一杯色っぽい発言だったりするんですか!
「お、何だ? 彼氏に隠し事ですか藍子ちゃん」
 俺は彼女が隠れている新聞を下から潜り、
「どこから顔出してるんですか!」
「新聞よりも俺を見てってアピールだよ。つか、どうなんだ? 何か隠してんだろ?」
 真っ赤になってる彼女の顔の、鼻先辺りまでずいっと詰め寄る。その際、膝頭に手を置いたら、藍子はびくっと肩を跳ねさせた。
「別に隠してるってほどでは……あ、あの、それよりも、膝に、手が」
 ああ、そういえば昨日、膝もくすぐったがってたっけ。俺が置いた手を彼女がそっと退けようとするから、すかさず撫で回してやる。
「この丸っこくてつるつるで可愛い膝がどうした」
「わあ、ちょっ、手を置かないでください。って言うか撫でないでくださいっ」
「いいだろ別に。膝が駄目ならどこならいいんだ」
「どこがいいとかじゃなくてです! やだ、くすぐったいですから……!」
 どうやら彼女は膝が本当に駄目らしく、いくらかも攻めないうちに呆気なく陥落した。手にしていた新聞を取り落とすくらいに脱力したから、がら空きの両手を握ったまま押し倒そうとしたら、逃げたがるそぶりで必死に押し返そうとしてくる。でも肩を掴んでしまいさえすればこっちのもので、軽く体重を掛けただけで彼女の身体はぐらりと後ろに倒れた。後頭部がソファーの背もたれに沈む時、ぼすん、と重い音がした。
 顔を顰めた藍子が、しかし既に俺の真下にいる。
「このくらい慣れろよもう、相変わらずくすぐったがり屋さんなんだからなー」
 朝のしくじりを挽回するチャンス到来。
 見下ろす視界と俺の影の中、ちょっと悔しそうにする彼女が可愛い。いつもの素直な顔とか真面目な顔もいいけど、『私、そんなつもりじゃないのに……』的な顔も本当堪りません。そういう顔にこそむしろ煽られちゃうんだってことを知っといた方がいい気もするが、何はともあれちゅーしたい。って言うか迷わず、した。
 仕事の後よりもずっとしっとりした感触。かさついてることもない。お手入れ済みの彼女の下唇を軽く噛んで、それから口を離して囁きかける。
「昨日のお詫びもかねてサービスするから、今日はどこも出かけずにのーんびりしような、二人で」
 そうだ、サービスしよう。甘えさせてもらって、寄りかからせてもらったお礼に、今日の俺は藍子に尽くして尽くして尽くし通すから嫌とは言わず遠慮なくサービスされちゃうがいい。おねだりは大歓迎ですが拒否権はありません。
 もう一回、まだ軽くキスしておくと、
「……食料、買い込んだって言ってましたよね?」
 不意に藍子が、そんなことを聞いてきた。
「あ?」
 一瞬何のことかわからず、気づいてからも何で急に食料の話だよと思い、まあでも藍子だからなと苦笑しつつ応じておく。
「ああ、言ったけど。何だ、まさかもう昼飯の話か」
「そうです。今日のお昼ご飯についてなんですけど」
「おいおいまだ九時過ぎだぞ、本っ当にお前は色気より食い気なんだから」
 しかも押し倒されてる状況で飯の話とかな。藍子らしいけど、ムードとかガン無視だよなあ。朝飯食べたばっかだし、俺としては今はお前を食べちゃいたいのに。
「隆宏さんの用意した食料の中に、ぶりの切り身はありますか?」
 全く空気を読まずに藍子は、俺に質問をぶつけてくる。
「ないよ。そんなもん常備しとかないだろ普通」
「確かにそうですね」
 真面目に頷く彼女。更に続けて曰く、
「実は新レパートリー、ぶりの照り焼きなんです。今日のお昼ご飯にどうかなって思って」
「へえ、美味そうだな」
 照り焼きってのはなかなかいいチョイスだ。自分では作らないし、外でもあんまりありつけない家庭的な味。ご飯が進む味でもある。しかも前々から練習してたって言う彼女の新レパートリー。美味しくないはずがあるまい。
「美味しかったです」
 藍子は自ら太鼓判を押す。そして、
「なので是非、隆宏さんにも食べてもらいたくて」
 実にいきいきと、目を輝かせながら訴えかけてくる。
 いや待て、何だこの流れ。おねだり大歓迎ってさっきは確かに思ったけど、そういうおねだりはちょっと……そりゃ食べたいけど! 藍子の手料理は本当魅力的だけど、このタイミングで言うかみたいな。むしろ狙ってぶつけてきたのか?
 嫌だ、とは言いづらい。嫌って言うか、今はちょっと違う気分なんだよなってところ。でも藍子は懇願の眼差しで俺を見上げてくるし、俺はそういう目にもいささか弱くて心がぐらんぐらんしてるしで困る。藍子可愛い、マジ可愛い。でも時々、やっぱ俺のこと弄んでない?
「ってことは、結局買い物出る必要あんのか……」
 ねだられちゃしょうがない。俺が力を抜くと、待ち構えてたみたいに藍子がそこから抜け出そうとし、あまつさえ、
「あ、もし面倒なら私が行ってきますよ」
 なんてことをぬかしやがったので、こいつめ、と思う。
「いや面倒とかじゃなくてですね。食べたいですけどね、新レパートリー」
「合鍵持ってますから、おつかいだってできます」
 だからおつかいは昨日で懲りたんだっての。俺はお前と一緒にいたい。そりゃやりたいことしてもらいたいことは山とありますし、買い物行く気分じゃなかったってのはまごうことなき事実だが、だからと言ってお前を一人にはさせない。断じて離すものか。
「せっかく二人でいるんだから単独行動は禁止。しょうがない、一緒に行くぞ」
 やむなく起き上がった俺は、ソファーの下に落ちていた新聞を拾い上げ、若干恨みがましい思いで畳む。
「ただ何か、逃げ道に使われた気がするんだよな」
 優しいだけじゃなくていい、ってのもさっき思ったことだが、こうも華麗に跳ね返ってくると皮肉なもんだと歯軋りしたくなる。
 やっぱ優しいだけでもいいです! 俺のことを優しさだけでめためたに甘やかしてくれるだけでいい! 俺ももうぐだぐだした事柄は考えずにお前の優しさに溺れてしまうことにするから――だってお前、七つ年下に重くずぶずぶ甘えてるより、七つ年下に手玉に取られて散々弄ばれてるって状況の方が断然格好悪いだろ。
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