Tiny garden

夢で逢いましょう(3)

 外の明るさに目が覚めた。
 両目を開けた時、藍子が隣にいるのをまず確かめて、当たり前のことなのにほっとする。彼女は俺の左腕に頭を乗っけて、両手を小動物的にくるんと丸めて、横向きの姿勢ですやすや眠っていた。ベッドと夏掛けをはんぶんこすると少し暑いくらいの、五月の朝。
 ブラインドの隙間から進入してくる日の光が、彼女の丸くて小さな肩を、そこから連なる細くてすべすべの腕を、白っぽく照らしている。ついさっき型から抜き出したみたいな滑らかな曲線に、つやのいい長い髪が一筋、二筋流れ落ちているのがきれいだ。化粧を落とした顔は頬の赤みがほんのり強くて、前髪や睫毛は日差しのせいで明るい色合いに見える。唇は可愛いピンク色で、少しだけかさついていて、作り物じゃなく生きてる女の子の可愛い要素を手当たり次第に集めて作りましたっていう仕上がりっぷりだ。つまり可愛い。天使のように可愛い。
「かっわいいなーお前……」
 ついつい寝顔に話しかけてしまう俺も、大概重症だ。
 でも本当に作り物の人形か彫刻ならいざ知らず、本物の人間、それもお付き合いしている女の子を可愛い可愛いと思ったって悪いことなんかないはずだ。天使のようだって思っても、もしかしたら異論のある奴もいるかもしれないが――そんなことを言う奴とは一生相容れないと思うが、ともかく誰に迷惑を掛けるわけでもない。そのくらい、俺が一人でとことん惚れ込んでたって別にいいだろ。
 自由になるのが右腕だけだったから、片っぽだけでごそごそ、枕元の目覚まし時計を探し当てる。ちりん、と鳴った硬い物体を掴み上げると、だるい腕を曲げて文字盤を覗く。時刻は午前九時半過ぎ。
「あー……」
 寝すぎた、と思わず呻く。
 今日は休みだから別に寝坊したっていいんだけど、藍子を帰してやらなきゃいけないタイムリミットまで、既に半日を切っているところが恨めしい。もう一晩泊まってってくれないかな。無理か。無理だよな、昨日だって強引に攫ってきちゃったんだし、帰さないとさすがにまずい。
 でも、帰したくない。
「いっそ軟禁してーなあ……」
 物騒な独り言だって出る。
 いいだろ、お互い同意の上だったら犯罪行為にもならない。金曜の夜に連れ帰って、そのまま土曜日曜とほとんど外に出ない生活をして、月曜はまた同伴出勤して――実に夢とロマンに溢れた週末の過ごし方だ。そうしてまんまとこの部屋に閉じ込めることができたら、暇に飽かしていちゃいちゃしまくる。もう、いちゃついてない時間は飯食ってるか寝てるか風呂入ってるか、くらいの自堕落な生活がしたい。さすがに毎回それやってたら愛想尽かされそうだが、たまにはそういうのにも憧れるんだよ。時間が来たら帰さなきゃいけない赤ずきんちゃんとの逢瀬を、どうせなら最大限に楽しみたい。ずきんを隠してしまえば家に帰さずに済む、なんてことができたらいいんだが、根本的に違う話なので無理だろう。狼さんはやはりどうしても、赤ずきんちゃんを説き伏せなくてはならない運命なのだ。
 そうなると、どうやって上手いこと軟禁を同意させるかだが。
 当の彼女は、俺のあてつけがましい独り言すら耳に入らぬ様子で、ひたすらすうすう寝息を立てている。軽くちゅーしたくらいじゃ全然起きない。耳たぶを舐めても少し唸っただけでまだ起きない。あどけない寝顔をして、一体どんな夢を見ているのやら。俺の夢を見るって言ってたけど上手くいったかな。見たにしてもきっと、無難でピュアな夢なんだろう。
 だけど視線を少し落とせば、彼女の左の胸の上、白くてふかふかと柔らかい辺りにしっかり歯形がついている。周囲にはいくつか鬱血も見える。医者じゃなくても誰が見たってすぐにわかるような痕跡を作って、いかにもやらしいことした後ですって風体で寝入っているのが、俺的にはすごく好みな光景。どんなに隙だらけの天使みたいな寝顔をしてたって、あどけなく見えたって、お前はとっくに子供じゃないんだから。赤いずきんよりも似合うものが他にもあること、とっとと気づいちゃえばいい。
 薄い夏掛けの中に手を突っ込むと、その下に隠れている彼女の腰のラインが簡単に見つかる。丸みがあって手触りのいい腰骨付近を撫で回しつつ、この辺も子供の身体つきではないよな、としみじみ思う。あのシンプルすぎる下着よりもっと似合うのが絶対あるから、今度は俺に選ばせて欲しいもんだ。何なら黙って買ってきとこうか、サイズはもう知ってるし。
「ん……」
 結構派手に撫でさすっていたせいか、藍子が微かな声を漏らした。瞼がぴくぴく動いて、やがてぼんやりと開く。
 焦点の合わない目が俺を見る。
「おはよう、藍子」
 声をかけると、目をこすりながら応じてきた。
「あ、おはよーございます……」
「ぐっすり寝てたな。疲れてたか」
 疲れさせた当の本人が聞くのも何だが、ともあれ藍子はゆっくり頷く。
「はい……今、何時ですか」
「九時半過ぎ」
「もう……? すみません、起きるの遅くて」
「別にいいよ、休みなんだし」
 寝顔を見てるのも楽しいし眼福だし、それはそれで幸せなひとときになる。もっとも俺の方が先に起きた場合、そっと寝かせておくなんて真似はしない。あちこち撫でたり触ったりとちょっかいかけまくることになるので、その点だけは留意すべし。
 今も、彼女の腰やら背中やらをさわさわと撫でまくっている。藍子は寝起きのせいか反応が薄く、時々まどろむような顔つきに戻る。そうして『あ、起きなきゃ』みたいな表情になって目をぱちぱちさせ始めるのが愛くるしい。おはようからおやすみまで一日通してもれなく全て可愛いんだから、片時も目を離せなくて困る。
 起きるのを手伝ってやろうと思って、下りた瞼に軽くキスしてみた。彼女がえへへと、半分寝ぼけたような笑い声を立てる。
「明るいから恥ずかしいです」
「この程度で今更恥ずかしがるなよ。それよりお前は? おはようのちゅーは?」
「え……あ、明るいから、あの」
 藍子がもじもじと夏掛けに潜り込もうとしたから、すかさず両腕で捕まえた。体重掛けて押さえ込んでから顔を覗いてみる。寝ている時よりも真っ赤な頬っぺたが見えた。
「お前もいい加減慣れろよ。俺はこういうの進んでしたい男なんだから」
「な、慣れたいとは思ってるんですけど、急に言われるとっ」
 そうは言ってもファーストキスから半年以上経ってるわけだし、場数だけならめちゃくちゃ踏んでる。そろそろ慣れてもいい頃だ。――もっとも、場数のうち九割は俺の方からで、藍子がしてくれたことはこうやって催促したケース以外皆無だった。ちょっと寂しい。
「してくんないとまた拗ねるぞ。ほら早く」
 急かすと、彼女はようやく観念したそぶりを見せた。
「じゃ、じゃあ、目をつむってください」
 それで俺はおとなしく目を閉じたが、にやにや笑いを引っ込めるのには少し手間取った。そのせいか、それとも別の理由からか、彼女の気配が近づいてくるまでにも大分時間がかかった。ようやく微かな空気と光の動きを感じて、そっと目を開けてみたら、藍子は水が苦手な子が初めて顔をつけて泳ぐ時みたいな目のつむり方をしていて、しかもその状態から俺にキスしようとしていた。慣れてない奴がそんなことをして外さないわけがない。彼女の唇は震えながら、俺の下唇と顎の間に触れた。
「惜しいな」
 率直に感想を述べると、はっと俺を見た藍子が恥じ入るように呟く。
「練習します。家で」
「いや練習なら俺でしろよ俺で」
「え、でも、恥ずかしいですから……」
「ちゅーの自主練習とかそっちの方が恥ずかしいだろ!」
 って言うか何ですんの。枕? 藍子がそういう練習を家でしてる光景って、想像すると間抜けで可愛いんだけど、何かこう、悔しい気持ちもあるような……枕とするくらいなら俺とすればいい話だ。何万回でも何億回でも付き合っちゃるぜ。
「習うより慣れろって言うだろ。とにかく、慣れろ」
「頑張ってみます……」
 俺の言葉に彼女は一度俯きかけたが、その後急に明るい表情になった。それから俺に向かって思い出したように、
「そうだ。私、昨日、隆宏さんの夢を見ました」
「俺の? へえ、上手くいったのか」
 試してみるとは言ってたが、本当に見られるとはすごいな。それだけ、俺について考えてくれた、ってことか?
「昨日、寝る直前に一生懸命考えたんです。隆宏さんのことを」
 藍子は得意げに語る。ちゅーとかは恥ずかしがるくせに、そういう台詞はためらいもなく言っちゃうんだなこいつは。俺の方がこそばゆくなる。ただでさえ可愛いのにそこまで一途とか、大盤振る舞いにも程がある。
「そしたら本当に見れました! すごくないですか、これ!」
 彼女が何やらとてもはしゃいでいる様子なので、俺も気恥ずかしさはともかく、彼女の見た夢の内容が気になってきた。改めて彼女を抱き締めつつ、続きを促してみる。
「それで、どんな夢だった?」
「車で、エスカレーターに乗ってました」
 ん? エスカレーター?
 聞き違いかと思いきやそうでもないらしく、
「隆宏さんの車に、二人で乗ってるんです。隆宏さんが運転席で、私が助手席」
「それはまあ、いつもの光景だよな」
「はい。でも隆宏さんが、エスカレーターを車で下りようって言うんです」
「一応聞くけど、エレベーターじゃなくってか」
「エスカレーターでした。下りる時、結構バウンドしてました」
「どんな冒険野郎だよ……」
 それはもう普通に怖い夢の範疇じゃないのか。普通びびる。俺は呆れたが、藍子は至って真面目な顔をしている。
「私も止めたんです。絶対危ないから、やめた方がいいって」
「そりゃそうだ。俺だってしない」
「でも隆宏さんは大丈夫だって笑ってましたよ。危なくないからって」
「普通に危ないって」
「それで下りてみたんですけど、そしたら道幅が車にぴったりで、意外に平気だったんです」
「けど、バウンドしてたんだろ」
「してましたけど、怪我もなく階下まで辿り着くことができました。隆宏さん、笑ってました」
「笑えねーよ、俺だってこえーよ」
 ちょっとしたアクション映画みたいな夢だ。金曜の夜にふさわしいチョイスではあったか。
 しかしその……藍子の中の俺の印象が垣間見えたようで、いささか不満と言うか、複雑な気分でもあるな。こいつは俺のことをよっぽど無茶ばかりする男だと思ってるんだろうか。いや俺なんて実に模範的かつ紳士的ないち社会人ですよ。そりゃさっきは軟禁とか口走っちゃったりもしましたが、あれはものの例えと申しますか、あくまで双方合意の上でそういうことをしたいなという願望でありまして。
「お前、俺のことをそんな風に思ってたのか」
 自分の欲望を棚に上げてから俺は尋ねた。
 すると藍子は、こくんと頷いた。
「今にして思うと、すごく納得のいく夢です」
「納得するなよ! 俺そんな無茶とかしないし、お前を危ない目にも遭わせない」
 お付き合いしてから、いやむしろお付き合いする以前からずっとお前を大事に大事にしてるじゃないか。そういうのわかってないんだな、とがっかりする俺に、彼女はなぜか微笑む。
「わかってます。多分そのエスカレーターは、車で下りることのできるエスカレーターだったんです」
「はあ?」
 そんなものがあるのかと突っ込みたくなったが、そもそも夢の中の話だ。荒唐無稽で当たり前、世の中のルールが通用する場所ではない。
「私は二十四年生きてても、まだまだ知らないこととか考えもしなかったことが一杯ありますし、今までもありました」
 と、素っ裸でベッドにいるという状況にそぐわず、やたら生真面目な口調で彼女が語る。
「何の話だよ」
「夢の話です」
「夢が、お前のずれてる具合とどう関係あるって?」
「あります。私は隆宏さんから、今まで知らなかったこと、考えもしなかったことをたくさん学びました」
 俺を置いてけぼりにして、藍子は尚も語る。ずれてる自覚はあったのか。
「そういうことを教わる度に、私は『本当にそれが常識なのかなあ』とか、『無茶じゃないのかなあ』とか、『皆も同じなのかなあ』って思っちゃうんです。そうやって今まで知らなかったことを、なかなか認められなかったりして」
 そこで彼女はちょっとはにかんで、
「でもそれは、夢の中のエスカレーターと同じなんです。私が知らなかっただけで、車で下りることのできるエスカレーターも、夢にならちゃんとあったんです」
「……つまり?」
「つまり、私にとっての隆宏さんは、私の知らなかった常識を教えてくれる人なんです」
 彼女の夢解釈が正しいのかどうかはわからない。
 少なくとも彼女は真剣に真面目に、そういう意味合いだと思い込んで受け止めたようだが――俺が無茶みたいな常識を教える存在だって。それはあれか、例えば合鍵を使えとか、挨拶代わりのちゅーを習慣化しろとか、あるいはもっとディープな知識の数々だろうか。当たり前のように毎回歯形をつけたりするとか、そういうことを。
 それらを踏まえて考えれば、下りのエスカレーターなんて実に意味深な例えじゃないか。もうちょっといい思いさせてるつもりだったが、藍子にとってはまだまだ怖かったり、ありえないようなことばっかりされてるって意味なんだろうな。若葉マークが外れる気配は当面なし。だからこそ教えがいもあるってもんだ。
「これからも教えてやるよ、いろいろと」
 さらさらの髪を指で梳きながら、俺は藍子の耳元に囁く。
「とりあえず次の機会は、金曜の夜から来て土曜日曜って泊まってくのはどうだ」
「え、いいんですか? そんなに長居しても」
 藍子の反応は意外にも好感触。逆に聞き返してきた。
「いくらでも長居してくれ。お前がいてくれると俺も楽しいし、寂しくない」
「私も、隆宏さんと長く一緒にいられたら嬉しいです」
 ちょっと目を潤ませながらそんな殊勝なことを言う藍子が可愛い。うっかり鼻息が荒くなるくらい可愛い。いや、抱き合ってて顔も近いって状況で鼻息荒いのはまずいから、とっさに彼女の髪に顔を埋めた。そしたら例のシャンプーの匂いはまだ残ってて、そのせいで余計むらむらしてきた。朝っぱらから何やってんだ俺。
「何か楽しそうですよね。旅行に行くみたいで」
 俺の興奮とは次元の違うはしゃぎ方を、藍子はしている。それ聞いて、あー旅行ってのもいいなーと思ってしまったが、出かけないのもいいしな。どうせなら両方やりたい。どっち先にしよう。つくづく贅沢な悩みだ。
 どっちにしても、エスカレーターよりはいい思いをさせてやろう。

 結局、その日は昼頃までのんびりまったり過ごした。
 昼過ぎくらいにようやく外へ買い物に出た。藍子が手料理を披露してくれると言うので――カレーと豚汁の二択と改めて言われたので、俺はやはり後者を選んだ。そうして二人で近所のスーパーまで出かけて、『じゃがいもとさつまいもだったらどっちがいいですか?』とか、『うちは大根入れるんですけど、隆宏さんは平気ですか?』とか、『こんにゃくは白と黒どっち派ですか?』なんてことをいちいち聞いてもらいながら仲良く買い物をした。俺がカートを押して、藍子がそこにじゃがいもの袋や、四分の一サイズの大根や、黒い方のこんにゃくやらを入れていく。彼女は昨日買ったポロワンピースを着ていて、その気合の入ってない普段着の格好がいかにも日常的風景って感じで、これはこれでなかなかいいもんだと思う。
 気分は既に新婚さんだ。――合鍵使えだの軟禁したいだのって思っても、要はそこに尽きる。結婚しちゃえば俺の願望はきれいにまるごと叶ってしまう。藍子とだったらこんな近所での買い物だって十分に楽しくてわくわくするんだし、手っ取り早く嫁に来てくれないかな。
 もっとも、その前に済ませなきゃいけないことは山とあるんだけどな。ひとまず藍子は料理のレパートリーを増やした方がいい。カレーと豚汁だけとか、悲しいかな俺の方がまだ品数作れてしまうレベル。一人暮らし歴の長さが切ない今日この頃だ。

 とは言え、藍子の作ってくれた豚汁は美味かった。じゃがいもがごろごろ大きくて、薄切りの豚肉は柔らかくて、ごま油の風味がほんのり効いた、実に懐かしい定番の味だった。
 何より彼女の初! 手料理! である。付き合ってる子の作った料理を食べるなんて男のロマンの最もたるものだし、俺の為だけに作ってくれるというのも非常にポイントが高い。俺の部屋の台所に立つ可愛い可愛い後ろ姿を覗く度、何度エプロンを買っておけばと思ったことか。そして味もなかなかと来ればこれはもう。昨日の夜はコンビニ弁当、今朝は今朝でそうめんと適当に済ませたメニューが続いただけあって、俺は予想最高気温二十九度という暑さの中でもがつがつと豚汁を食べた。もちろん藍子もいい食べっぷりを見せてくれていた。ご飯もちゃっかりお替わりしていたが、健康診断はいいのか。俺はそういうお前でもいいけど。
「これなら是非毎日食いたい」
 と、俺がベタ中のベタな台詞を口にすれば、
「そんなに気に入ってもらえて、私も嬉しいです!」
 藍子は笑顔で完璧にスルーしてみせた。この赤ずきんちゃんマジ手強い。
 しかしそうかと思えば急にもじもじし始めて、居住まいを正す。それから恐る恐る口を開く。
「あの……一つ、ご相談したいことがあるんですけど」
「何だ?」
 その改まった様子に俺は戸惑う。眉を顰めれば、彼女はちょっと困ったように笑んだ。
「あ、相談って言うか、提案なんですけど」
「だから何だよ。ちゃんと聞いてやるから話せよ」
「はい。……今度、うちにご飯を食べに来ませんか?」
 頷いてからそう、彼女は言い、俺は聞き返すのも間抜けだと思いつつ、さすがに瞬きはした。
「あー……それってつまり」
「い、いえ、そこまで真剣な話ではないです! もう本当に、気軽にお越しいただきたいんです!」
 俺の推測を蹴り飛ばすように藍子は強くかぶりを振る。
「何て言うか、とりあえずご飯なんです! 食べる為の席と言うだけで!」
 とりあえずご飯って言われてもなあ。藍子の家に行くってことは、いくら気軽に見積もっても最低限度のご挨拶は必要なわけだろ。まして、
「それ、親御さんが言ったんだろ? 俺を一回連れてこいって」
「……そうです。でもあの、うちの両親の言うことはあんまり気にしないでください」
「気にするよ。親御さんだって、いい加減な男に娘はやれんって思ってんだろ」
 行くからにはびしっと、いい加減じゃないところを見せなきゃならない。俺は意気込んだが、藍子は何となく微妙な面持ちだ。
「そこは大丈夫です。うちの両親はそんな風には思ってないですから」
「何でそう言い切れる?」
「えっと、とにかく、大丈夫なんです。気負いなく気兼ねなくお越しください」
 彼女は押し切るように断言した後、ちょっと憂鬱そうな口ぶりで、
「あの……先にお話ししておきますけど、すごくうるさいです、うちの両親」
「厳しい人なのか」
「いえ、あの、口数が多いっていう意味です」
「ああ、なるほど」
「だから隆宏さんが来たら、きっと根掘り葉掘り聞いてくると思います。でもそういうのは適当に受け流してくださって結構ですから。私も話を逸らすの手伝いますから!」
 むしろ藍子がおかしな方向に意気込んでる気がする。
 根掘り葉掘り聞かれたら……別に困るってほどでもないしな。真剣交際ってとこはきっちりアピールしとかなきゃいけないだろうし、適当に流す方がまずいんじゃないのか。でも藍子がそう言うんだから、よっぽど突っ込んで聞かれちゃうんだろうか。こればっかりは実際に顔合わせないとわからんな。
「私はただ、隆宏さんにうちのご飯を食べてもらいたいだけなんです」
 藍子は熱っぽく訴えてくる。
「一人暮らしだときっと、賑やかなご飯ってあんまりないでしょうし……あ、霧島さんのところではよく一緒にご馳走になってますけど、でもそういう賑やかなのを、他でもできたらいいかなって……ど、どうでしょうか」
 彼女の意図するところはあくまでも食事を一緒にする、という点のみで、挨拶をさせたいわけではないらしい。しかしそれはあくまでも彼女の認識であって、親御さんが俺を招きたがる意図はまた別にあるんだろう。行くからには両方の顔を立てねばならない。なかなか難しいな。
 当然、行かないなんて選択肢はありえないが。
「そういうことならいつでも呼んでくれ」
 俺がなるべく軽く答えると、彼女もほっとしたようだ。表情が柔らかくなる。
「はい! じゃあ、日付とかまた後日打ち合わせしましょう」
「わかった、俺はいつでもいいからな」
「了解です。……あっ、豚汁のお替わり、お持ちしましょうか」
 お椀が空になったのを目敏く見つけて、藍子が尋ねてきた。俺もまだ余裕があったので、貰うことにする。
「いただく。さっきの半分くらいでいい」
「はいっ」
 機敏に立ち上がって、お椀を二つ手に台所へと向かう藍子。来週の健康診断……は、まあ言わないとして、その背中を見送ってこっそりと笑っておく。
 ついに来たか。ご挨拶の機会が。
 さすがに楽しみだとまでは言えない。俺だって一応、緊張はする。でもそこは営業課員のはしくれとして、無難にそして平穏無事に乗り切ってみせるつもりだ。
 何よりそいつをこなさなければ、彼女はいつまで経っても嫁に来てくれないだろう。
「お待たせしました!」
 やがて藍子が、豚汁を注いだお椀を持って戻ってくる。それを受け取りながら礼を言うと、彼女は嬉しそうに笑ってくれる。何て幸せな時間。
 そういえば俺は、昨夜、夢を見てなかった。そりゃ現実がこんなに幸せなら夢なんて必要ないよな。しかも今以上にまだまだ幸せになれそうって言うんだからやばい。最高すぎる。
 夢で会う必要もない毎日が、一刻も早く来てくれたらいい。
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