Tiny garden

夢で逢いましょう(2)

 衣料量販店には、閉店時間の十五分前に着いた。
 駆け込みの客を迎える『いらっしゃいませー』の声が高い天井にやたら響く。こんな時間じゃ他の客も皆無で、モノトーンと原色の多い棚が一層無機質に見えた。その中を藍子は、じゃあ行ってきます、の一言の後で小走りに駆けていき、俺は買い物かごを持ってのんびりと追っ駆ける。尻尾みたいに揺れてる髪を目印にして。
 こういう買い物の場合、慣れてる女の子なら普通に聞いてくれる。下着の候補をいくつか持ってきて、どの柄がいい? とか、どういうのが好み? なんて質問してくれて、二人で和気藹々と買い物をするのが恋人同士らしくて楽しいものだ。
 でも藍子の場合は俺の好みを聞くところまで考えが至らないらしく、下着コーナーの前で一人吟味を始めている。
 そもそも彼女の普段の下着からして男の好みをまるで考慮してない。こういう店で売ってるような吸水速乾などという機能的な、かつ最上級にシンプルなつるっとした肌触りの上下ばかりを着けてくる。色は主に肌色、たまに白とか薄い灰色とか。いかにしてパンツスーツやブラウスに響かせないか透かさないかを最重要課題として考えているようだ。そういえば夏場もまるで透けてなかった。仕事の時はそれでもいいけど、デートの時くらいはもうちょい色っぽいのを着けてくればいいのに、と俺は思っている。
 あれこれ考えてるうちに、彼女の背後まで追い着いた。
「決めたか?」
 声をかけると彼女はびくっとして、ぎこちなくこちらを振り向く。いたずらが見つかった子供みたいに答える。
「あ、え、えっと。今選んでるところです」
「何なら一緒に見てやろうか」
「い、いえいえいえ! 自分で選べますから大丈夫です!」
 かぶりを振って、藍子は妙にあたふたしている。俺が差し出した買い物かごを、ありがとうございますと恥ずかしそうに受け取った後で、言葉を選んだらしい口ぶりで付け加えてきた。
「あの……向こうで待っていてもらえませんか。なるべく迅速に決めますから」
 どんだけだ。思わず吹き出しそうになる。
 そこまで恥らうことでもないだろ。どうせ後で見ることになるんだから――と言うとまたもじもじしたり動揺したり叫んだりするだろうから、ここは素直に従ってやる。
「わかった。じゃあ、他の売り場見てるからな」
「お願いします」
「できれば黒がいい」
 一応の希望として、去り際に俺は告げた。
 藍子は真っ赤になったまま何も言わず、機械的に半回転してまた下着を選び始めたが、ちらっとだけ確認したら、黒のローライズに手を伸ばしてた。お前も素直でよろしい。
 そして俺が他の売り場に移動した二分後くらいに、ぱたぱた戻ってきた。
「お待たせしました!」
 両手で提げた買い物かごには下着のパックを隠すように、ポロシャツ素材のワンピースが一着入っていた。紺地に小粒のドット柄だった。好きなのか。
 そういえば彼女の私服は大抵柄物だ。好んで着てくるふんわりしたワンピースやスカートは小花柄だったり、爽やかな色合いのボーダーだったり、或いは透かし彫りみたいなレースだったりする。どれが一番ってこともなく、彼女には何でも似合うし可愛いから、結局何を着てきたって俺は見とれるしでれでれする。
 下着だって同じことで、俺は彼女の手持ちを色気がないだの、機能重視すぎるだのと思ってはみても、いざ目の当たりにすればあっさり興奮してしまう。例えば、これと似たようなのを生真面目に仕事してる真っ最中にも着けてるんだよな、みたいなことを思ったりする。欲情するポイントはどこにでもある、だから何でもいいと言えばいいのかもしれない。
 そんなことを考えていたら割と長く黙ってしまっていたようで、藍子には怪訝な顔をされた。誤魔化すつもりで尋ねる。
「それも買うのか?」
「はい。明日の着替えです」
 かごの中身を見るに、ルームウェアは今日は買わないらしい。必要ないもんな。彼女の意識改革も着々と進んではいるのかなと満足しておく。
「隆宏さんは何か買いますか?」
「いや。会計するぞ」
 告げるが早いか、俺は彼女の手から買い物かごを奪い取る。びっくりした顔を尻目にレジまで歩き出せば、焦った声が追い駆けてくる。
「あ、あの、私の買い物ですから!」
 さすがに察しがよくなってきたな。振り向かずに答えておく。
「買わせたのは俺だ。いいから奢られとけ」
「でも大した量でも額でもないですし、自分で払えます!」
「だったら尚のこと俺が出す。お前はサービスで返せ、サービスで」
 好きな子にはいつでも恩を売りたい。そういう男心、むしろ下心をわかって欲しい。
 
 衣料品の次はドラッグストア。こっちは閉店時間までにまだ余裕があって、のんびりと買い物ができそうだった。今後は藍子が自発的に買い物かごを持ち、真っ直ぐに化粧品コーナーへと突き進んでいく。
「ええと、これと、これと……」
 彼女は化粧水と乳液のボトルを、ろくに選びもせずにかごに並べていた。使い慣れてるメーカーなんだろうか。
 似たような商品ばかりが並ぶ棚を横目で見てみれば、こういうのはさっぱりわかんねーと早々に白旗を上げたくなる。さっぱりとしっとりの違いくらいならわかるが、何たらエキスがどうの、ビタミンがどうのと書いてるやつはどんな効果があるもんなんだろう。女の子たちは皆、ちゃんと効き目をわかった上で使ってるのか。これに比べたら髭剃りローションなんて単純明快なもんだ。
 試しに聞いてみた。
「お前の使ってるのって、何に効くやつ?」
 すぐに、不思議そうな顔をされた。
「何に……えっと、肌にですよ」
「そうじゃなくて。ほら、そこに書いてあるみたいに美白とか保湿とか」
「あ、そういうことですか。私は混合肌なので、この時期は潤いを保ちつつさっぱりする化粧水を使ってます」
 藍子はすらすら答えたが、俺はその言葉の中程で既に躓いていた。コンゴー肌って何だ。金剛? まさかな。しかし脳内辞書の変換候補にはそのくらいしか出てこないんだが、あれか。ストロングなのか。古いか。つかマジで金剛肌って何だよ丈夫なの? 硬いの? むしろ柔いじゃんぷにぷにしてんじゃん――と混乱の中に蹴落とされた俺は、苦し紛れに藍子の頬っぺたを触ってみた。親指と人差し指で軽く揉んでみる。金剛の名に似つかわしくない柔らかさが指先に伝わると、一時至福の気分を味わえた。
「何、ですか」
 戸惑いつつ、藍子は嫌がりも逃げもしない。俺ならこの頬に『焼きたて食パン肌』と名づけたいところであります。白くてふかふか。美味そう。
「あの。隆宏さんって、頬っぺた触るの好きなんですか?」
「好きなんです。……心配すんな、お前のだけだから」
 今こそ認めよう。
 俺たちはバカップルである。
「……あ、あと、歯ブラシを買います」
 やがて、ボトルがごろごろ転がるかごを抱え上げた藍子が、我に返った様子で宣言する。結構重量感のあるものらしく、そのたびにかごが傾いている。俺は黙ってそのかごを持ってやり、彼女が何か言い出す前に違うことを聞く。
「シャンプーとかはいいのか?」
「え?」
「いや、いっつも俺の使わせてるから。同じのでいいのか気になってた」
 彼女が泊まりに来ると、必ず一回は風呂に入るかシャワーを浴びる。その時に使うのは俺が普段から使用してるシャンプーにボディソープだ。別にいかにも男用ってのを買ってるわけじゃないから女の子が使っても差し支えはないが、藍子にも使い慣れてる商品があんじゃないかなと思って聞いてみた。
 藍子はそこで、少し考えるような、迷うようなそぶりを見せた。
「お借りしててご迷惑でなければ……」
「それは全くない。遠慮すんなっていつも言ってる」
「なら、今までどおりにお借りしたいです」
 浮かべた笑みには照れと嬉しさとが混在している。それがどういう意味合いのものなのかとっさには読み取れず、俺は眉根を寄せた。
「好きなんです、匂いが」
「へえ。気に入ってたのか、知らなかったな」
「はい、お借りする度にいいなって思ってて、だから」
 だから、の後には何も続けず、藍子は笑んだまま口を閉ざして、あまり自然ではない方向転換を見せた。ドラッグストアの天井からぶら下がってる看板を見ながら、歯ブラシの売り場までのんびりと歩き出す。
 俺も、今使ってるシャンプーは気に入ってる。洗いたての洗濯物みたいなさっぱりした匂い――身も蓋もない表現をするなら柔軟剤みたいな無難な匂いが、甘ったるくなくしつこくもなくていいなと思ってた。だから藍子が気に入ってくれたなら別にいいんじゃないかとも思うんだけど、別にいいんだけど、何か今の、色っぽい言い方だよなとか思ってしまう。
 俺がやらしいことばかり考えてるからなんだろうが、でも想像してしまう。藍子が俺の部屋に泊まりに来て、お互いばらばらにだけどシャワー浴びたりして、その後にベッドなりソファーなり床の上なりで抱き合ってる時、髪から同じシャンプーの匂いがするのを感じ取って、それをいい記憶として彼女の中で留めておいてくれてるのか、とか。俺の部屋に来て同じ匂いを嗅ぐ度に、前のことを思い出したりするのか。いつも真面目で、こういうことには未だに疎くて堅い彼女が、でもちょっとした時にそういう記憶を蘇らせてたり、染み着くように覚えたりしてるのかって思うと。
 これは、しばらくシャンプー変えられない。
 部屋に戻る前から早々に、俺はもうむらむらし始めていた。仕方あるまい、彼女のいない寂しさも、彼女がいる時の嬉しさや幸福感も、そもそも彼女のことが好きで好きで超大好きでって気持ち自体が性欲とは切り離せない代物なんだから。それが藍子にとっても同じだったらもっといいのにと思う。そこに至るにはまだもうちょっと足りない気もする。
 視線を投げれば、藍子はドラッグストアの店内のはるか向こうで足を止めていて、俺は誘蛾灯に引かれるみたいにそちらへふらふら進み出す。夜の店内にそぐわない賑やかな有線放送が頭の中に鳴り響く。不快だとは全く思わないが、もっと静かなところへ行きたい。なるべく早く。
 彼女は中腰の姿勢で歯ブラシを選んでいた。これは使い慣れてるものがないのか、あるいはいつも違うものを購入していたりするのか、二、三本を手にとってあれこれ迷っているようだった。俺の気配に気づくと顔だけを上げ、待ち構えていたように尋ねた。
「晩ご飯、どうしましょうか」
 欲求に忠実なのは俺だけでもなかった。その方向性はものすごく彼女らしいけど。
「お前は何がいい?」
 逆に聞き返しつつ、そういえばさっきは作るって言ってくれてたよな、と思い出す。カレーか豚汁の二択。なら、俺は後者がいい。でも今から買い物して作って食べて、ってなると結構遅くなっちゃうよな。作るのは明日にしてもらって、今日のところは適当に済まそうか。泊まりだとそういう余裕、あるいは希望が存在するから幸せだ。
 俺の考えがまとまった頃に、藍子も答えた。
「ええと、今日は軽くでいいです」
 それはらしくもない答え。夜遅くでも晩飯平らげてデザートも上等、という彼女の食欲はどこへ行ってしまったのか。
「珍しいな。食欲ないのか」
「そういうわけでもないんですけど、ほら、もう遅いですし」
「じゃあダイエットか」
 二つ目の推測は結構いい線いってたらしい。藍子はぐっと言葉に詰まり、そんな必要ないだろってありふれた台詞を口にしかけた俺に対し、更なる真相を告白してきた。
「来週、健康診断なので……夜だけでも気をつけようかなって」
「お前なあ、それは泥縄って言うんだぞ」
「うっ……。で、でも、数字でばっちり出ると気になっちゃうんですよ」
「気にすんなよ。そして正直に、ありのままの小坂藍子を測ってもらえ」
「見栄くらい張りたいんです、私だって!」
 藍子も実に真っ当な女心の持ち主らしい。しかし、見栄だけでいいのか。結局は泥縄でしかないのか。そういう女心は、俺にはよくわからない。

 正直に言えば、彼女は決して痩せてる方ではない。胸以外。
 身体の前面だけを見れば全体的に柔らかく肉がついてる。小さな胸の半分から下、重力に逆らうように多少膨らんでるラインがすっと直線に戻る辺りは、肋骨の形が触れてみるまでわからないくらいには肉づきがよくて、でもそのむっちりしてる感じが触り心地も抱き心地もよくて俺的には最高だ。
 押し並べて女の子はダイエットが趣味と言うか、ライフワークみたいなところがあるから、藍子がそういうことを考え出すのも別段おかしくはない。ましてここ数ヶ月は生の、何にも着てない姿を他人に――俺に見られてるわけだし、いくら食いしん坊とは言えどほんのちょっと気にする時だってあるのかもしれない。でも今のところ、俺は彼女がダイエットしたいと言い出したらやんわり止めたい気分でいる。女の子は柔らかいくらいがちょうどいいんだよ。

 俺の部屋に帰って、適当に飯を済ませて――藍子は春雨スープを食べてた。なんて涙ぐましい泥縄っぷりだ――それからお互いにシャワーを浴びた。彼女がルームウェアを買ってこなかったのを俺はわざとと言うか、意図的なものだと思っていたが、どうもそうではなかったらしい。彼女は風呂上がりに、下着の上にバスタオルを巻いて現れるという奇行に出た。そして困り果てたそぶりで俺に助けを求めてきたので、俺は大爆笑しながらTシャツを貸してやった。その後、ものの一時間もしないうちに脱がせてしまったけど。
 今は寝室に連れ込んで、ベッドに押し倒して、買ってきたばかりの下着姿を鑑賞したり肉づきのいい辺りを撫で回したり痩せてる部分がどうにかして解消されないもんかとあれこれ試してみたりしているところだ。黒い下着は相変わらずシンプルすぎるデザインだったが、彼女をより色白にきれいに見せてもいて、似合うと言ったら消え入りそうな声でありがとうございます、と言われた。それも、最終的にはひん剥いちゃうんだけど。
 五月の夜は気が早いくらい蒸し暑く、例のシャンプーの匂いに混ざって彼女の真新しい汗の匂いもしていた。彼女は無闇に恥ずかしがるけど、俺はその匂いが好きだった。
「……今、思い出したんですけど」
 ふと呟かれた言葉と、ちょうど舌を這わせていた頚動脈の辺りとが震えた。
「夢を見る方法って、どんなことだったんですか?」
 藍子が尋ねた。
 近頃の彼女は、こういう時にもよく喋る。以前よりも慣れてきたというのもあるんだろうが、どちらかと言うと緊張を紛らわす方法を覚えただけなのかもしれない。恥ずかしい格好で恥ずかしいことをされてる事実をまだまだ自力では受け止めきれないらしく、あまり場にそぐわない話題を持ってきては、俺といろいろ会話をしたがる。俺も余裕のある時はなるべく乗ってやるようにしている。
「どんなって?」
「前に、隆宏さんが言ってた話です。初夢の話をした時に」
「ああ、俺の話か」
 今年の元旦、日付が変わった直後という狙い済ましたタイミングで彼女に電話をかけた時、そんな話をしたような記憶がある。俺はその方法で上手いこと藍子の出てくる初夢を見ることには成功したが、内容にはちっとも満足できなかった。今年もひたすら仕事に明け暮れろって意味か。お断りだ、せっかく可愛い彼女ができたって言うのに。
「どうしたら自分の見たい夢が見られるのか、知りたいです」
 藍子は俺の目を覗き込むようにする。組み伏せられてる態勢でもこうして俺を、真っ直ぐに見てくるところは成長が窺える。しばらく見つめているとやがて、長い睫毛を伏せてしまうものの。
「知ってどうする。俺の夢でも見てくれるのか?」
 冗談半分に尋ね返したら、たちまちくすぐったそうな表情になった。
「見たいです。隆宏さんが出てくる夢」
「見たことないのか」
「ありますよ。でも出てくるって言うよりは……」
 合間に耳たぶを軽く噛むと彼女は首を竦め、それでも尚、続けた。
「出てこないけど、いるのはわかるって感じなんです」
「何だそりゃ」
「何て言えばいいのかな……隆宏さんがここにいるって、わかってるんです。姿は見えなくても、夢の中で傍にいなくても、いるんだなあっていうのは知ってて、それで私も夢の中で普通に行動してる、っていう風な夢です」
 それは確かに俺の夢ではないよなあと、俺はつい苦笑した。藍子の見る夢も案外日常的で、面白みのないものなんだろうか。それにしたって何かこう、もう少し出番くらいくれたっていいだろうが。
「さっきも言ったが、俺はよく、お前の夢を見る。それもちゃんとお前が出てくるやつだ」
「やっぱり、仕事中の夢ですか?」
「残念ながらな。たまには脱げよ、夢の中でも」
「わ、私に言われても……」
 そうだよな。無茶な話だ。
 でも夢なんて自分一人で見る為のものなのに、それすらままならないってのはどういうことなんだろう。
「それで、どうやって見てるんですか?」
 突っ込んで尋ねてくる彼女。前は気恥ずかしくて打ち明ける気にもならなかったが、こんな時に誤魔化すのも気分じゃなくて、正直に言ってやった。
「方法は一つ。寝る前に、お前のことを考える」
 藍子もまた正直にきょとんとして、
「それだけ、ですか?」
「それだけとか言うなよ。夢に見るくらいだから生半可な考えっぷりじゃないってことだろ」
「じゃあ……ものすごく、考えるってことですか?」
「そうだな。ものすごく、お前で頭一杯になって、他のことなんか全然入ってこないほどだ」
「そのくらい、私のこと、考えてくださってるんですね」
 ふと、彼女の表情がが柔らかくなる。
 小さくて形のきれいな唇がそっと微笑んで、感激と言うには控えめな、静かな感情の動きが光を湛えた瞳の奥に窺えた。慈愛、と表現すると大げさだしそもそも今の欲望まみれの状況にはまるでそぐわないが、でもそう言う方がしっくり来る。彼女は時々、こうやって百パーセントの信頼と愛情をもって俺を見る。そしてそんな風に優しい顔をされると、俺は急に、案の定気恥ずかしくなる。言わなきゃよかったとこっそり思った。
 だから彼女の胸を揉んだ。
「わ、わあ! 何するんですかいきなり!」
「何ってこともないだろこんな状態でいるんだから!」
「や、でも予告なしは駄目って言いました! いつも言ってます!」
「いつもはお前の方が不意を打ってくるくせに!」
「知らないですもん、そんなの……!」
「いいからおとなしくしろ、大きくなるかもしれないだろ!」
「……な、ならなかったら、隆宏さんは嫌ですか?」
「……嫌じゃない。小さくても、別に」
 よくわからない小競り合いはそう長くも続かない。直に、心身ともにくたびれたらしい藍子が抵抗をやめ、くたっとなったところを、両腕で支えるように抱き締めておく。
 かすれた彼女の声が耳元に聞こえた。
「試してみます、今日」
 その声も色っぽくてぐっと来たが、それ以上に、俺のことをそんなに考えてくれる気になってるところが胸に来た。最初は『それだけですか』って言われちゃったが、でも俺が藍子のいないときに藍子のことを考えてる度合いなんてもう半端じゃないわけだ。本当にものすごい、わけだ。三大欲求のうち食欲と睡眠欲が容易く退けられるほどで、そのくせ胸がきりきり痛んで、何であいつが傍にいないのかなーっていろんな観点から考えたくなる。寂しい、苦しい、切ない、辛い、そういう負の感情もちゃんとあって、俺全部で藍子を好きになってるし、欲しくもなってる。そういう気持ちを全部、まるごと、藍子も味わってくれるんだろうか。
 同じ気持ちになって欲しいような、欲しくないような。
 藍子がいる時の俺はひたすら幸せで、満たされていた。彼女に対する多少の不満、例えば合鍵を使ってくれないとかそういうのはこうして二人でいれば実に取るに足らない事柄であって、傍で話をしたり、見つめ合ったり、触れ合ったりしていたら本当にどうでもよくなってしまう。肌と肌とぴったり重ねていると、汗ばんでいるところからそのままどろどろに溶けて、くっついてしまいそうな感じさえ覚える。本当に溶けてしまえばいい。そうしてずっと帰らないで俺のすぐ傍にいてくれたら。
「夢でも会えたらいいですよね」
 俺の胸中なんて知らない藍子が、そんな可愛いことを可愛い声で言う。
 答える代わりに、左胸の上辺りをゆっくりと噛んだ。彼女は痛がらず、ただびくりとした。瞬間、軽く目をつむったのも見た。
 彼女の身体は柔らかくて美味しい。毎日だって食べちゃいたい。
「あんまり可愛いこと言うと、今日は本格的に歯形つけるぞ」
「え、何ですかそれ……」
「跡が残ったら困るだろ? 来週、健康診断なのに」
 俺の言葉に彼女は純粋そうな瞬きをしてから、ちょっと笑った。
「お医者さんがびっくりしちゃうかもですね。何でこんなところに、歯形ついてるのかなあって」
 何でって。
 可能性としてはそりゃ、一つくらいしか考えつかないだろ。医者がお前ほど純粋だとは限らないぞ。多分お見通しだ。
 でも、それを教えたが最後、次に噛みつくのは全力で拒まれそうな気がする。鬱血もアウトと言われそうだ。だから今は黙っておいて、明日くらいにその隠し方でも教えてやろう。
 もう一度、今度はさっきよりも強く歯を立てる。それで俺にしがみついてきた彼女が、また気を紛らわすみたいに口を開いた。
「あの、思うんですけど」
「何だよ」
「隆宏さんって、私のこと犬っぽいって言いますけど、むしろ私よりもずっと――」
 その先は言わせなかった。さすがにお前には言われたくない。
 でもせっかくお墨つきを貰ったようなので、遠慮なく更に噛みついてやった。
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