Tiny garden

世界を壊しつくすひと(3)

 その日の昼前、電話が鳴った。
 営業課で仕事をしつつもものすごくそわそわしていた俺は、小坂からかなと思ってすぐに飛びついた。もっとも、態度はいかにも落ち着き払って感じを最大限装った。そうしたらディスプレイに表示された名前が小坂の社用電話ではなく、得意先の――それも小坂が今日、立ち寄る予定の一件だったから、今度は自然と高揚が冷めた。
 嫌な予感がした。
『ああ、主任さん? いつもお世話になっておりますー』
 電話の相手は、笑っていた。苦笑いにも、吹き出すのを堪えているようにも聞こえた。
『実はさっき御社の新人さん、小坂さんが来てったんですけどね』
 やっぱりか。
 何をやった小坂。いや、まだやらかしたと決まったわけじゃない。でかい失敗じゃないといい、祈るような気持ちで俺は次の言葉を待つ。
『何か、携帯電話忘れてっちゃったみたいなんだわ』
「電話ですか? うわ……すみません、とんだご迷惑を」
 何やってんだ小坂。それは一番忘れてっちゃ駄目なもんだろ。
『いやいいのいいの、こっちでちゃんと預かってますから。小坂さん帰った後に忘れてったの気づいてね、慌てて追い駆けたんですけどもう車出ちゃった後でね』
 追い駆けてくれたのか……悪いことした。そうまで聞くともういてもたってもいられない。小坂は気づいてるんだろうか、早く取りに戻らせなければ。
「申し訳ないです、そこまでしていただいて」
『いいんですって! ただ小坂さんに連絡しようにもね、電話うちにあるからどうしようかって……』
 相手がそこまで話した時、電話の向こうではおかしそうな複数の笑い声がした。他社の新人がやらかしたうっかりミスを、先方は上手いこと笑い飛ばしてくれているようだ。小坂に対する印象自体は悪くもないらしい。
 だがこっちは笑い飛ばすこともできまい。
「大変ご迷惑をおかけしました。至急小坂に取りに伺わせます」
 俺はそう言った後で、当の小坂と連絡を取る手段がないことに気づく。
 いや、たった今言われたばかりだったよな。俺も結構うろたえてるのか。ああもう何だよこれ、八方ふさがりじゃないか。
「ああっと、じゃあその、小坂と連絡が取れ次第すぐに――」
『大丈夫ですよ、うちの業務時間内ならいつでも来ていただければ、すぐお渡しできますから』
「お忙しいところを申し訳ありません。間に合わなければ私が伺いますので」
『そんなに謝らなくても……迷惑でも何でもないですからあんまりお気になさらず!』
 先方はあくまでも明るい声で続ける。
『小坂さん、礼儀正しくていい子じゃないですか。こういうミスは誰にでもあるものですし、まして営業初日でしょ? 緊張もしますって。だからほら、主任さんもね、ね?』
 はっきりとは言われなかったが、多分、叱らないでやってということなんだろう。俺の声からそういう気配を察したか、あるいは先方でも、新人が同じことやらかしたらやっぱり叱るだろうしと思っているのか。そりゃ何も言わないわけにはいかない。何か、言ってやらなければならない。叱るなと頼まれたって、駄目だ。
 ともあれ俺は平謝りに平謝りを重ねて、新人の失態を詫びた。
 それから――打つ手もないまま、ひたすら小坂からの連絡を待つ。

 小坂からは、午後二時になろうかという頃にようやく連絡があった。
 それまで俺が抱いていた行き詰まり感と言ったら半端なかった。こちらから連絡は取れないわ、忘れ物が重大すぎるわ、向こうはいつでもいいと言ってくれたものの待たせていることに変わりはないわでとにかく、焦れていた。
 大体あいつだって、電話もなしに営業回るなんて無鉄砲な真似をする。すぐ気がついてくれればいいのに。一縷の望みは出がけに告げた、『途中で一回は連絡寄越せ』という言葉だけだった。それだって電話が手元になけりゃどうにもなんないわけだ。いっそ営業に出てる辺りを探しに行こうかとすら思ったが、行き違いになったらあまりにもお粗末だ。
 だから電話が鳴った瞬間、さっきよりも素早く飛びついた。
 昼飯も食わずに待ち続けた電話から、緊張を孕んだ声がまず聞こえた。
『あの、主任! 私、小坂です』
 フィルターを通したような曇った音。妙に遠く感じる。
「小坂か? ようやっと連絡寄越しやがったな」
 溜息が出た。遅いよ、もっと早く掛けてこい。
「お前、今どこから掛けてる」
『公衆電話です、あの実は私――』
「さっき連絡があったぞ。お前が携帯忘れてったって、取引先からな」
 問いを遮るように告げると、小坂が息を呑むのがわかった。
 次に大きく息をつき、
『よかった……』
 気の抜けた呟きが聞こえる。
 あんまりにも場違いな言葉で、こっちは頭を抱えたくなる。
 もしかすると、電話のないことには早くから気づいていたのかもしれない。それであちこち探し回って、もしかしたら取引先のどこかへ忘れてきたのかと察したものの、電話がないから問い合わせもできずに右往左往していたのかもしれない。公衆電話だって昨今数が減ってしまったからそうそう見つかりもしなかっただろう。小坂は小坂できっと大変だった、それはわかる。
 だが、安心していられる場合じゃない。
「よくない。あんな大事なものを忘れてくるなんて、何してるんだ」
 俺がそう言った時、居合わせた課内の連中が揃ってこちらを振り向いた。
 優しい口調にはできなかった。自覚はある。
「たまたまよその会社に置いてきたからまだましだったものの、これが外に落としてたらえらいことになってたぞ。いくら初日で緊張してたからって、不注意にも程がある。しっかりしろ、小坂」
 そもそも優しく言ってやるようなことでもない。これは言わなくちゃいけない注意だし、叱らなくちゃいけない失態だ。そうは思っていても――。
『すみません、今すぐ引き取りに伺ってきます』
 小坂の声はたちまち萎れた。落ち込んでいるだけではなく、急いているのもよくわかる言い方だった。内心でも焦っていることだろう、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになりながら真面目な奴なりに、責任の取り方まで考えていることだろう。
 こういう奴の、こんな時の考え方は手に取るようにわかってしまう。
「当たり前だ。行ったらきっちり頭下げて来い。先方だって就業時間中なのに、お前の忘れてった電話の面倒まで見てくれてるんだからな」
 優しい相手でよかったし、見つけてもらえたのも本当によかった。だからこそ小坂にはちゃんと詫びと、お礼とを言ってきて欲しかった。何よりもまずそれからだ。
『本当にすみません、主任』
 なのに小坂は俺に謝ってくる。
 しゅんと項垂れた姿が目の前にいなくたって頭に浮かぶ。他人事みたいに、かわいそうだな、とは思わなくもない。思ったってどうしようもないが。
 相手が違うだろ、馬鹿。
「俺に謝ってどうする」
『……はい』
 振り絞るように小坂は答えた。
「こっちも言いたいことは山ほどあるけどな、とりあえず電話を引き取って来い」
『はい』
「詫びも忘れるなよ。お仕事中にご迷惑をお掛けしましたってちゃんと言えよ」
『はい』
「得意先に手間取らせるなんて、営業の人間として一番やっちゃいけないことだ。それ念頭に置いてしっかり謝れ」
『はい』
 返事だけはしっかりしていたが、いつもの元気のよさは全く失われていた。
 俺は受話器を置くと思わず舌打ちする。もう既に酷くくたびれていた。これからもっと気の重い、やらなくちゃいけないことがあるのに。
 それから面を上げれば、課内に居合わせた連中は物問いたげな、そして何か言いたげな顔でこっちを見ていた。実際、いろいろ言われるんだろうなと思った。

 わかってる。
 誰にでもあるようなミスだ、小坂に限った話じゃない。叱るな、と宥めてくる人間の言い分もわかる。
 でも誰でも犯しかねないうっかりミスだからこそ、日頃から気を配って、なるべくやらないようにって心がけるべきだ。ルーキーのうちに、責任の重くならないうちに、ここできっちり注意でもしておけば、次から気をつけるようになってくれるはず。真面目な奴だからな。
 でも、真面目な奴だからこそ何が悪かったかはもう理解しているはずだ。そういう奴にわざわざ傷跡を抉るような注意をするのはかえってよくないんじゃないか。俺に言われたら小坂はきっと落ち込むだろう。あいつの真面目さがこういう時にどこまで強く作用するか、俺はまだ測りかねている。もし、俺が叱ったことで責任を感じるあまり、立ち直れないなんてことになったら――。
 でも。やはり、言わないわけにはいかない。迷惑を被ったのが俺ならまだしも、取引先とあってはケアレスミスなんて単語だけでは片づけられない。まして携帯電話なんて失くせば悪用されかねないものを落としてくるなんて。
 一人で、いろんなことを考えた。
 いくら考えても、小坂に対して取るべき最善の態度は思いつけなかった。
 ただ違う意味での結論は出た。俺はこういうのは向いてない。そもそもこんな適当かつ不真面目な人間に新社会人の指導をさせるのが間違ってる。叱る方がまるで模範的じゃないのに、叱られる奴の方がずっとずっと真面目で熱心と来てるのに。
 相変わらず、誉めることしか考えてない――安井の言葉がふと脳裏を翳めて、やっぱそういう意味で言ったのかなと今更思った。

 小坂が帰社したのは午後四時近くだった。予定時間を大幅にはみ出しての初営業は、笑顔どころか手がつけられないくらいの沈んだ顔で終わったようだった。
 それでも俺は小坂に話をしなければならない。営業課の連中が息を詰める中、俺は戻ってきたばかりの彼女を呼ぶ。彼女はのこのこと俺の席まで歩いてくる。責任に押し潰されそうに見えた。
 叱らなきゃいけないのか、俺が。
 投げやりに覚悟を決める。口を開く。
「気をつけろ、小坂」
 見上げる先、姿勢よく直立する小坂が倒れるような勢いで頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
 だから、謝る相手が違うってさっき言った。わかってないのか。
「俺に謝ることじゃないって言っただろ」
「でも――」
 顔を上げた小坂が反論しようとする。思わずむっとしたのが顔に出たか、小坂は一度口を噤んだ。
 しかし反論自体は引っ込めることもできなかったらしく、少ししてから意外と強気に言い返してきた。
「先方に、伺いました。主任が私の分までお詫びしてくださったって。私のことで主任にまでご面倒をお掛けしたのは事実です、だから」
「そんなのは当然だ」
 こっちも語気を強めて、言葉を遮ってやる。
「これも言ったはずだがな、お前の失敗は俺の責任だ。今のお前はそういう身分なんだ。だからお前がよそに迷惑を掛けたら俺が謝るのは当然だし、お前がそれを気に病む必要もない」
 責任を負うこと自体は何にも辛くない。当たり前だと思ってる。
 俺はこういう性分だから引きずることもなければ落ち込み続けることもない。立ち直りも切り替えも早い方だと自負している。だから俺が他人に何を言われようが、叱られようが、頭下げ続けることになろうが別にいい。
 問題は、立ち直りも切り替えも早くない、引きずりがちな真面目な奴への対処法を、未だに持ち得ていないということだ。もう何年も経つのに。
 小坂はじっと俺を見ている。面持ちは今にも『申し訳ありません』と言い出しそうなほど沈痛だった。唇をぐっと結んでいるのだって、もう謝らないように心がけているせいかもしれない。間違いなく、自分が怒られたことよりも、俺までもが先方に頭を下げたことの方が堪えているはずだ。これだけ顔を合わせてれば見当もつく。
「強いて言うなら、二度と同じミスはするな」
 そろそろ締めくくろうと思って、俺はそう言った。
「お前が上の人間に頭下げさせて悪いって思うなら、二度と失敗しなきゃいいだけの話だ。以後気をつけろ」
「……はい」
 苦しげに、小坂は答えた。
 肩が少し震えていた。そのうち泣き出すんじゃないかとこっちが気がかりだったが、結局泣きはしなかった。
「それと、得意先には迷惑を掛けるな。これだけは今後も絶対に守れ」
「はい」
 小坂がもう一度、重々しくも頷いたから、俺は戻っていいと告げた。それで小坂はとぼとぼと自分の席まで戻って行き、書類に取りかかり始めた。

 いつも、小坂のいる営業課は明かりが点いてるみたいに華があった。
 だが今日ばかりは全体的に暗く沈んでいて、こんなに静かだったっけと驚かされるほどだった。
 小坂に話しかける奴もちらほらいた。代わる代わる励ますような声を掛けて、その度に彼女は割かし気丈に、礼儀正しく接していたようだ。俺はその光景を横目で見ていた。
 俺は、小坂が帰ってくる前からいろいろ言われていた。『あんまり怒らないでやって』とか、『大目に見てあげなよ』とか、『災難みたいなミスだよ、かわいそうじゃない』とか――言いたいことはわかるし、俺もこういう立場でなければ同じことを言ってたはずだ。
 でも、こういう立場だから思う。
 叱るのも仕事のうちなんだから、しょうがないだろ。
PREV← →NEXT 目次
▲top