Tiny garden

世界を壊しつくすひと(2)

 小坂がプライド高いっていうのは、割と事実だと思う。
 安井には知られたくなかったので言わなかったが、例の二次会で俺は、小坂に告白まがいのことまで言われていたのだった。
 ――ルーキーイヤーを無事に終わらせることが出来て、私がせめて、一人でもきちんと仕事が出来るようになったら。その時は、私の気持ちを聞いていただけますか。
 告白自体は別に、いい。あいつの気持ちは実にわかりやすかった。聞いてくれという頼みも、もちろん諸手を挙げてのウェルカム大歓迎だった。
 問題は他にある。
 あいつが言うには、肝心のルーキーイヤーが終わるのは年度末の話らしい。プライドの高さゆえ、未熟な自分が恋愛にうつつを抜かすのは許せない、ということのようだ。そういう言い方はしてなかったが要はそういう意味合いだった。
 でも俺からすればぶっちゃけ長いよ、と思う。半年先の話だぞ。それまで俺はぴちぴちぷくぷくの可愛い小坂を目の前にしながらお預けを食らっていなきゃならないっていうのか。その間にも安井は早くしろちょっかい出すぞとせっついてくるだろうし、霧島は霧島で小坂が俺の影響を受けてないことに安堵しながらも、手を出せずやきもきする俺をからかったりするんだろう。想像するのも鬱陶しくて耐え難い半年間ではなかろうか。
 だから俺は決めた。抜かれるより先にあいつの骨を抜く。
 ルーキーイヤーが終わるまでなんて待ってられないくらいにしてやる。あいつが自分に課してる『待て』の命令を自分から外したくなるように。それでとっとと俺のものになっちゃえばいいんだ。

 とは言え、こっちももう少しばかり待たなければならなかった。
 これは安井にも打ち明けた通り、――営業デビューの日がやって来る。

 その日は朝から緊張していた。小坂が。
「頑張ってくださいね、小坂さん」
 霧島が声をかけると、ドアの前の小坂はぴしっと背筋を伸ばす。
「は、はいっ! 頑張ります!」
 背中に物干し竿でも入れてるみたいに直立不動のルーキー。スーツに着られているのも相変わらずで、その姿がやけにちっちゃく見えてしまうのも春先と何ら変わりなかった。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。新人さんの挨拶回りに手厳しく当たる人なんてそうそういませんから」
 小坂にはやたら優しい霧島。もっとも奴の言うことも根拠のない励ましというわけではなく、本当にそんなものだから心配は要らない。よほど酷いドジでも踏まない限りは大丈夫だ。
 大丈夫だって。――俺も、自分に言い聞かせる。
「いざとなったら『女は愛嬌』だ」
 小坂本人にはそんな言葉をかけておく。
 優しい言葉は霧島に持ってかれてしまったので、他に言うことがあるならこの程度か。
「にっちもさっちもいかなくなったら、とりあえず笑って乗り切れ。お前なら何とかなる」
 笑顔が可愛いのは小坂に限った話じゃないだろうが、それでも小坂の笑顔には大層な破壊力がある。見てるこっちまでつられて笑いたくなるような、幸せそうな顔。少なくとも俺は、既に何回もつられてる。
 小坂はじっと考えるような間を置いてから、深く頷いた。
「お言葉、心に留めておきます!」
 答える声は威勢がよかった。
 でも、顔は笑ってなかった。
「……と言いつつ、もう既に顔が笑ってないんだよな」
 人の話聞いてんのかお前、しょうがない奴。
 俺は小坂の目の前まで歩み寄ると、そのぷくぷくした頬っぺたを突っついてみた。
「ほら、笑えって」
 指先が柔らかく弾んで、
「わあっ」
 悲鳴に近い声を上げた小坂は、視線を泳がせつつ次第に俯いていく。たったそれだけの接触で恐ろしく動揺してしまったことがわかる顔つき。触ったばかりの頬っぺたはもう熱を持ったように赤くなっていて、俺の指先にはホットケーキみたいな感触が残った。美味そうだった。
 本当はもうちょい長く、たっぷり触りたかった。
 それと、せっかくだから笑った顔が見たかった。
 柔らかさを覚えている指を手の中に握り込んだ時、霧島が鋭く指摘してきた。
「何だか先輩の方が緊張してません?」
 そんなに顔に出る方なのか、俺。今まではあんまり言われたことなかったのに。それこそ小坂の影響ってところだろうか。
「してるよ。当然だ」
 誤魔化しきれそうにないので認めておく。霧島は小首を傾げるようにして俺を見る。
「俺の時もそうでしたよね。初めての営業に出た日は、先輩の方がそわそわしてましたっけ」
「しょうがないだろ。お前にも小坂にも、営業についてのあれこれを教えてやったのは俺だし。何かあったら俺の責任だ。そりゃ気にもなる」
 霧島が新人の頃は、俺は主任ではなかった。でもすぐ上の先輩ってポジションで、こっちからすれば初めてできた仕事の後輩でもあったから、あれこれ気軽に教えてやろうと思って、そうした。
 懐かしい話だ。
 まさかその後、俺が新人指導を仰せつかることになるなんて思いもしなかった。そういうのが向いてるってわけでもないと思うんだがな、よくわからない人選だ。まあ役得もあったし、文句を唱えるつもりはございません。
 ひとまずは今年度の新人に向き直る。彼女はまだ落ち着かない様子で姿勢だけはよく立ち尽くしていたが、
「そういう訳だから小坂、途中で一回は連絡寄越せよ。昼飯食う時でいいから」
 俺が頼めば、すぐにいい返答をくれた。
「了解です!」
 そして最後は精一杯の明るい挨拶もしてくれた。笑ってはいなかったが努力だけはちゃんと見て取れる挨拶だった。
「それでは、行って来ます!」
 小坂が営業課を出て行く。小さな背中を飲み込むようにしてドアが閉まり、こつこつと急いた足音がだんだん遠ざかっていく。やがて聞こえなくなる。

 しばらくしてから、課内ではあちらこちらから溜息が零れていた。
 皆、営業課の新マスコットの動向が気になってしょうがないらしい。俺も朝から尋ねられっぱなしだ。『小坂さん大丈夫そう?』とか『小坂さんを元気づけてあげてね』とか『実は主任が一番緊張してるでしょ』とか――最後のは、事実に近いかもしれない。
 そして霧島も、ご多分に漏れず小坂を気にかけている。
「右手と右足、一緒に出てましたね……」
 ああ馬鹿。そういうのは気づいても黙ってろよ、余計心配になってくるだろ!
 大丈夫かな小坂。挨拶回りの前にそこらで転んだりしてないかな。
「先輩、ついていきたいんじゃないですか」
「そんなこと言ったって、いつまで経っても俺同伴じゃさすがに過保護すぎるだろ」
「あ、過保護って自覚はあったんですか」
「……そこまでじゃねーし」
 別に甘やかしてるつもりとか全然ないですー。たまに上司の権限最大利用とかはしちゃうけど、それでも公私の区別はまあまあつけてるつもりだ。小坂は甘やかされるのを潔しとしない性格だろうし――プライベートではどうか、わからないけどな。
「今日、仕事手につきます?」
 霧島の方はもう伝染性緊張症からあっさり解き放たれていて、俺を冷やかすような真似すらしてきた。俺はまだその名残に捕まっちゃってる状態だ。嘘もつけない。
「つかないって言ったらお前、俺の分の仕事もやってくれるか?」
「お断りです」
「じゃあ聞くなよ。手につこうがつくまいがやるしかないんだから」
 手をひらひらさせてから、俺は自分の席に戻る。椅子を引いて一度は座りかけて、ふと閃いた。
「あ、霧島。俺ちょっと出てくるわ」
「は?」
「五分くらいで戻る」
「いや、え? 五分ってどこ行くんですか。トイレですか」
 そう思ってんならわざわざ聞くなよと思う。わざとだよな絶対。
 だからやっぱり、正直に言った。
「何て言うか、見送りに……」
 霧島含む営業課の連中には、なぜかどっと笑われた。
 しょうがないだろ! 気になるんだから!

 駐車場にはまだ小坂の乗る社用車があった。
 間に合った、急いだ甲斐があったと思う反面、まだ出発してなかったのかよ大丈夫か、まさか本当に転んだのか、なんて別の心配が頭をもたげ出す。今日の俺はもう駄目かもしれない。
 小坂は運転席にいた。エンジンもかけずにじっとしていた。俺が近づいてってもまるで気づいていない。ミラーどころかフロントガラスさえ見えてない。
 とりあえず、運転席の窓をこつこつ叩いてみる。
 途端、小坂は目に見えてわかるほどびくりと震え上がった。それからこっちを見上げて目を丸くして、慌てふためきつつ窓を開けてきた。地下駐車場のオレンジっぽい光が、不安に強張る顔に落ちている。
 そういう顔見ると、こっちは苦笑したくなる。笑えって散々言ってるのに。
「まだ顔が硬いな。いざって時には笑えるか?」
 俺が尋ねると小坂は重々しく頷く。
「はい」
 さっきから返事ばかりいいけど、本当だろうな。無理した笑いは相手にだってわかっちゃうんだから、そこは是非頑張って欲しいもんだ。笑った顔の方が絶対、いいから。
 それから小坂は不思議そうな口調で、
「あの、主任。どうしてこちらへ……?」
 聞いてきた。
 これも、嘘はつけなかった。ついても意味ない。
「見送りだ」
「え」
 運転席の姿が静止画像みたいに固まる。
「様子を見に来た。だから言ってるだろ、心配してるって」
 柄でもないか。俺がどんなに気を揉んだって、最終的には小坂一人でやんなきゃいけないことには違いない。俺にできることはもうそんなに多くない。
 ただ、上手くいって欲しかった。上手くなくてもいいから、後で落ち込むような失敗はして欲しくなかった。俺の願いはそれだけだ。真面目な奴が失敗するとどれだけへこむかってこと、実は大分前から身に染みて知ってたんだ。小坂もきっとそうなるだろうから、失敗なんてない方がいい。
 俺はスーツのポケットから、昨日用意していたポチ袋を取り出す。今年の正月、甥っ子姪っ子にお年玉をやった時の残りで、偶然なのか運命なのかはさておき白い犬の絵柄だった。まあこの犬は如才ない印象があるし、俺の好みだけで言えば小坂の方が可愛いけどな。
「持ってけ。お守り代わりに」
 それを小坂に手渡すと、目を瞬かせながら受け取られた。
「は、はい。えっと、これ……何ですか?」
「中身は秘密。言っとくが現金じゃない」
 中に何か入れてもまだ薄いポチ袋を、小坂は怪訝そうに引っ繰り返したりしている。でも外から見たくらいじゃ中はわからないだろうし、予想もついてないはずだ。
 そこにはご褒美が入ってる。
 本当は退勤後に渡そうかと思ってたが、どうせなら俺の代わりに連れてってもらうのがいいかと考え直して、あげることにした。
「まだ開けるなよ。中身を見るのは今日の仕事が終わってからだ」
 俺は手品師みたいに含んだ物言いで念を押す。
「じゃないと小坂の場合、仕事が手につかなくなりそうだからな」
 小坂にとってはご褒美になり得るだろうもので、俺にとっては小坂を骨抜きにするもの――と言うか、手段が入っている。いずれ渡さなくちゃいけないと思っていたから今日はいい機会だった。
「ありがとうございます。帰りに開けてみます」
 礼を述べた小坂は袋の中身が気になって気になってしょうがないという様子だったが、ひとまずそれを丁寧に、大切そうにカバンへしまってくれた。そして意を決した顔つきでシートベルトを締める。
 そろそろ時間か。
「気をつけてな、小坂」
 俺は未練を断ち切り、運転席の窓から離れた。
「はい!」
 小坂が会釈をして、窓を閉めてしまう。光が映り込むガラスの中、いくらかは落ち着いた手つきでエンジンをかけ、ハンドルを握る。その一挙一動を俺は最後まで見守った。
 社用車が駐車場を抜け、テールランプが見えなくなるまでずっと、見送っていた。

 あいつ、最後まで笑ってくれなかったな。
 営業課まで引き返す道、俺はまだ不安を引きずっていた。――例のジンクスをこんな時に気にしてしまいそうになり、急いで追い払う。今日はしょうがないだろ、小坂だって無理には笑えなかったんだから。
 戻ってきたときに笑ってくれたらそれでいい。全部帳消しだ。
 そう考えていた。
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