Tiny garden

世界を壊しつくすひと(4)

 小坂はその日、六時過ぎに上がった。
 帰り際の挨拶は普通に見えた。わざわざ俺のところまで来て、お先に失礼します、と言ってくれた。だが目を合わせてくれなかったどころか顔さえ見てもくれず、プラマイゼロ、むしろマイナスだと思った。こっち来てくれた時は元気になったかと期待してしまったから、かえってへこんだ。
 そうなると俺も何事もなかったようになんて振る舞えない。お疲れ、と短く返して、帰っていく小坂の背をこっそり目で追った。いつも以上にちっちゃく見える姿がドアの向こうに消えてしまってから、今日は駄目だな、と思ってしまう。
 朝からずっと仕事が手につかなかったし、昼頃からは別の意味でつかなくなってしまった。そういえば昼飯だってまだだ。食欲もあんまりないが、食べないわけにもいかない。こんな日はとっとと帰って、スーパーで半額の刺身でも買って、適当に酒でも飲んでからふて寝を決め込むのが一番いい。こういう時、独身生活って侘しいなとつくづく思う。炊飯器のスイッチだって自分で入れなきゃならない。めんどいから刺身じゃなくて寿司にすっかな。今なら海苔巻きでもいいや。

 今日の出来事から逃げるようにタイムカードをスキャンして、自分の机でぼちぼち帰り支度を始める。
 すると、
「先輩、帰るんですか?」
 近づいてくる気配と共に霧島の声がした。
 そちらに視線を向けると、奴はすかさず何か続けたそうな顔になる。気遣わしげだがどことなく、言いたいことがあるんだと主張している表情。そういう顔はもう今日一日でうんざりするほど見てきたから、霧島にまで言われたかないと俺は機先を制しておく。
「小坂の話なら明日にしろ」
「え?」
「今日はもう、聞き飽きた」
 正直に打ち明ける。
 霧島はそこで力のない笑い方をした。
「先輩の考えてるようなことじゃないですよ」
「……本当か? なら、聞いてやっても」
「小坂さんの気持ち、俺にはわかるような気がするんです」
 ほらやっぱりあいつの話じゃないか。俺は鼻の頭に皺を寄せてやったが、霧島は気にしたそぶりもなくさらりと続けた。
「叱られておいてよかったって、後からでも思ってくれますよ」
 どういう風の吹き回しか、今日は妙に優しく取り成された。
「小坂さんにとっては多分、先輩にも頭下げさせちゃったっていうのが一番きつかったんだと思います。でも結構、何だかんだでタフな子ですから。先輩に叱られた以上、次は叱られないようにって逆に奮起してくれるはずですよ」
「だといいんだがな」
 俺は肩を竦める。あいつが心身ともに案外タフだっていうのは霧島に言われるまでもなく知っていたし、プライドの高さも今日また思い知らされた。それらがいい方向に働けば間違いなく奮起してくれるだろう。
 よくない方向に働かなきゃいいんだが。
「だから、先輩も元気出してくださいよ。明日には立ち直ってないと、また小坂さんまでへこんじゃいます。『主任が元気ないの、自分のせいなんだ』って思っちゃいますよ」
 霧島に励まされると複雑な気分になる。お前その余裕はなんだ、一山越えた男の自信てやつか。
「俺は別に元気だって」
「嘘つくならもうちょい虚勢張りましょうよ、先輩」
「……張れてたらとっくに張ってるっての」
 そう言い返しつつもちょっと笑えてきた。
 後輩に気遣われてるのも情けないし、やっちゃったもんはもうどうしようもないし。明日に備えて気持ち切り替えないとってようやく思えてきた。
 よし決めた。明日には普通に挨拶をしよう。小坂が目を合わせてくれなくても、こっちは穴の開くほどじーっと見つめてやろう。叱ったのは俺だ。でもその俺が今日のミスを、明日慰めてやってもいいはずだ。アフターフォローまでできてこそ営業課員ってものだ。
 そして今日言い忘れた――例のご褒美について、多分あいつもそれどころじゃなくて放ったらかしにしてそうだから、改めて言おう。もう開けていいって。あれは本当は、こういう時にこそ必要なものだったのかもしれない。今言っても遅いが、それなら明日は必ず言う。
 もしかしたら、気づいてくれてるかもしれないし。
「先輩も、よかったら食べます? 飴」
 急に霧島がスーツのポケットから個包装のキャンディを取り出す。どこの焼肉屋だよと俺は吹いた。
「要らないよ。……まさか小坂にもやったのか、それ」
「あげましたよ。小坂さんは快く受け取ってくれました」
「俺はいいや、飴って気分でもなし」
 他の男がやったなら抜け目ないなと言うところだが、霧島だとこのド天然めと言いたくなるから不思議だ。ポッケに飴常駐してんのかこいつは。しかも絶対自分で食べる用だよな。
「じゃあ、飲みに行きます?」
 更に霧島はそんなことを言い出す。俺はまた笑うしかなく、
「お前に優しくされると後が怖い」
「俺は先輩と違いますから。下心がなくても人に優しくできるんです」
 言ったなこの野郎。
 俺だって女の子にばっか優しいわけでもないだろ。ないよな?
「それに、こういうのは他人事じゃないです」
 霧島がちらっと笑んだので、わかってるじゃん、と思う。
 そしてとりあえず、飲みには行こうと思って帰り支度を再開した。今日は炊飯器のスイッチ入れんのもめんどいくらいだ。気持ち悪いくらい優しい霧島と酒を飲むのも、まあ悪くないかもしれない。何だったら安井に声かけてもいいか。俺がへこんでる理由、聞かれたら答えるのが億劫だが。
 そんなことを考えていたら、唐突に社用携帯が鳴った。
 俺はそれを片手で開き、ふとディスプレイの『安井』の表記にあれっと思う。今となっては営業課員でもないあいつが、内線でも私用の携帯でもなく、俺の社用の携帯に掛けてくるのは珍しい。何だろなと首を捻りながら通話ボタンを押す。
『お疲れ。俺だけど』
 安井の声がした。
「……こっちに掛けてくるなんて珍しいな」
 びっくりはしたから、まずそう言った。虫の知らせと言うほどでもないが、こんな時のいつもと違う事柄は無性に気になったりするものだ。
 が、奴はそれには答えなかった。明るく笑っている。
『どうした? 元気ないみたいだな』
 お前、人が元気なかったら笑っちゃうのかよ。いやこれでもさっきよりか大分立ち直れたほうなんですがね。あれこれ思ったが隠し通せない自覚も例によってあったから、とりあえず答えておく。
「今日はちょっとな。少しくたびれてる」
 傍で霧島が短く笑う。笑い事じゃねーよ。
 とは言え復活しかけた俺も、何となく笑いかけたところに、
『そうか。実のところ、俺はその理由を察してる』
「――あ? 何でだよ」
 安井の発言に、唸るような声が出た。
 察してる? 何をだ。どうしてだ。
「まさかお前の耳にまで入ってんのか」
 営業課新人のうっかりミスがもう人事にまで広まっちゃってるのか。誰だよ言い触らした奴、それはさすがに小坂がかわいそうだろ。
 俺が顔をしかめた時、安井は予想とは違うことを平然と答えた。
『まあな。――ここに、小坂さんがいるんだ』
「小坂が!?」
 今度はやたら大きな声が出た。霧島も笑みを引っ込め、眉根を寄せている。
 小坂が安井のとこに……ってことは人事課に? え、何だそれ。もしかしてそれって。
『驚いたか? 俺も驚いたよ。まるでこの世の終わりみたいな顔でいたから、つい見かねて声を掛けて、さっきまで慰めていたところだ』
 この世の終わりみたいな顔の小坂は、今日既に見た。容易に思い浮かべられた。
 あいつ、元気ないにしても挨拶はちゃんとしてったから、今日は駄目でも明日は大丈夫なんじゃないかって思ってたのに。明日になればまた普通に出社してきて、普通に話せるんじゃないかって考えてたのに。そんなに、そんなに落ち込んでるのか。
 ああもう、一人で帰すんじゃなかった。
「小坂、何か言ってるか?」
『ん?』
「だから……その、俺に叱られたとか。俺にきついこと言われたとか」
『いや、聞いてない。聞けたもんじゃない。落ち込んでて酷いんだ、俺も宥めるので精一杯だ』
 考えていた以上の様子に、思わず奥歯を噛み締めた。
 どうして深く考えなかったんだ。確かにあいつはタフだが、プライドだって高いが、それら全部を凌駕するほどに真面目すぎる奴だ。自分を追い詰めるかもしれないって一度は考えたのに、結局は大丈夫だろうなんて気楽に構えて、あまつさえ今日のことは忘れて酒でも飲むかなんて気分になってたわけだ。その間にも小坂はこの世の終わりみたいな顔で、あのちっちゃい背中を丸めて一人で帰ろうとしてたのに。声を掛けた安井にさえ事情を打ち明けられないくらい、更に更に落ち込んでたっていうのに――馬鹿だ、俺。
 ものすごく、自分の浅慮さに腹が立った。
『お前は? もう上がりか?』
「帰ろうかって思ってたとこだ、それで、小坂は!」
『そうか。だったら、すぐにでも来てやった方がいい』
 つい早口になる俺を安井は急き立てるように、
『俺の手には負えない。きっとお前じゃないと駄目だ。帰り支度なんていいからとりあえず早く来い』
「わかったすぐ行く!」
 俺は開けっ放しのカバンもそのままに、目を瞬かせている霧島も放置して営業課を飛び出ようとして――気づいて確かめた。
「ところでお前どこにいる? 人事? 人事でいいのか?」
『ああ、そうだったな。いるのは第三会議室だ』
 それを聞いた時点で、走るのに邪魔な電話を切る。携帯を握り締めてすぐ駆け出した。
「あ、ちょっと先輩!」
 霧島が叫ぶのが背中に聞こえた。悪いが、今は説明してる暇もなかった。
 一刻も早く小坂の元へ行きたかった。

 叱ったのが悪いわけじゃない。
 俺は言わなくちゃいけないことを言った、それは確かだ。でも正しい言葉で言えたかどうかは自分でも判断つきかねた。別にあんなにも繰り返し言うことなかったんじゃないかとか、もっと優しい口調で言ってもよかったんじゃないかとか、小坂にこんなくだらないミスなんかして欲しくなくてつい感情的になってしまったんじゃないかとか、考えなくはなかった。それにアフターフォローはもっと早くに、今日のうちにやったってよかっただろうし、せっかく挨拶してくれたんだから本当に、何事もなかったみたいに明るく答えてやるべきだったかもしれない。
 小坂の気持ちも考えないで、ほとぼりが醒めるまで待とうなんて馬鹿らしい短絡的な考えを持っていた。
 そうじゃないだろ。小坂は俺には叱られたくなかったんだ。他の誰よりも、だ。
 俺は小坂のそういう好意も、プライドの高さも知っていて、いつもは利用しようとさえしていたくせに、こんな時に限って向き合いもしないばかりか見て見ぬふりをした。
 昔と同じだ。
 俺の名前を消しゴムに書いたあの女子が、先生に消しゴムを使われて泣いて、その後で他の女子をつてに酷いことを言ってきた時も――石田くんの顔見ると思い出すから、もう話しかけないでって言われて、それで俺はすごくショックだったのに、いくらも経たないうちに『じゃあしょうがないよな』とも思った。向こうが嫌なら仕方ない。口を利かないことで向こうも傷つかないしこっちも泣かれる心配ないなら、それが一番だよなって。そうして相手の意思を汲み取ったつもりでいたが――本当は、向き合うべきだったんじゃないだろうか。
 三十になっても俺はまだ、他人が向けてくるそういう感情から目を背け、向き合えないのか。何でもしょうがないで片づけて、受け流して、去る者は追わずで終わらせるのが一番だって思い続けているのか。

 小坂がもし、営業を続けたくないとか、辞めたいとか言い出したら、その時は絶対に止めよう。
 こういう時こそ誉めてやるべきだ。小坂がどのくらい頑張ってきたかってこと、俺が見てきた分だけ全部話そう。その融通の利かない真面目さは時々厄介だが、仕事においては長所でもあるんだって教えてやろう。それからお前がいると営業課の空気がまるで違って、明るく華やかに見えるってことも、お前の笑顔はそれこそ例のジンクス相当の力を持ってて、俺はそいつに随分と元気づけられてきたってことも。
 明日からまた頑張って、名誉挽回すればいい。小坂なら絶対できるから。その為なら俺も力を貸す。可能な限りのことは何だってする。
 俺は、こんな形でお前を失くしたくない。 

 第三会議室まで走る距離が、今までにないほど長く感じた。
 遮ってる壁ごとぶっ壊したくなるような衝動に駆られながらもとにかく急いで、形振り構わず走って、ようやくそのドアが見えてきた――ほとんど体当たりで開けた。
「小坂っ!」
 ここに来るまで、あいつに言おうと思っていたことの全部をぶつけるように名前を呼ぶ。
「は、はいっ!」
 それで、ないかもしれないと思ってた返事があった。
 俺に呼ばれたからか、小坂はパイプ椅子からものすごい勢いで立ち上がった。その様子とついさっきの返事と、それから彼女の表情を見て、俺は肩で息をしながら違和感を覚える。
 この世の終わりみたいな顔ではなかった。
 むしろ、気の抜けた顔だった。ぽかんとしていた。元気があるかないか以前に、何で俺がここに、しかも大慌てで飛び込んできたんだろうってすごく不思議そうにしていた。
 想像していたのと全然、違った。
「あ……あれ?」
 飛んできたせいで、発した声ががさがさだった。
「小坂、お前、落ち込んでたんじゃ……」
 でもそこは何よりも先に確かめときたいとこだったから、まず俺は尋ねた。
 すると小坂は何かひらめいたような顔をして、すぐに視線を他方へやる。その先にいたのは――。
 殺風景な会議室を震わせる、げらげらとおかしそうな笑い声の主。
 あと、まさについさっき俺に電話を掛けてきた相手。
「お、三分以内に来たか。飛ばし過ぎじゃないのか、石田」
 安井はわざわざ携帯電話を開き、俺の到着時刻を確かめていた。タイムを計っていたらしい。ひとしきり笑ってから場違いすぎる穏やかさで言い添えてくる。
「しかし部下思いだな、お前。この速さで駆けつけるなんて、まさに上司の鑑だよ」
 それで気づいた。
 気づいたって言うか――あああ何だこれ! 小坂がやばいって言うから飛んできたのにどういうことだよこれ! やばいどころか思ってた以上に通常営業だしお前はげらっげら笑ってるし俺はカバンやら霧島やら放ったらかしで来ちゃったのに何だよもう! しかもここに来るまですっごいぐだぐだした考えとか格好悪い思い出とか恥ずかしい台詞とかで頭一杯になってたのに!
「――安井。お前、引っ掛けやがったな」
「人聞きの悪い」
 羞恥心に打ちのめされる俺に対し、安井は落ち着き払って応じる。
「半分は嘘じゃなかったんだ。俺は確かに小坂さんを慰めてたよ。な、小坂さん?」
 水を向けられた小坂がびくりとする。なぜか言いにくそうに答えていた。
「え、えっと、それはそうですけど」
 彼女はその後、気まずげでも心配そうでもある面持ちで俺を見てきたから、安井が俺を引っ掛けたってことにも気づいたばかりなんだろうなと察した。そうして察した彼女の目に、血相変えて現れた俺がどう映ったかは――いやもう駄目だ見ないで俺を見ないで! 恥ずかしすぎてしばらく立ち直れないレベルだわこれ。て言うか安井もそんなに三十歳の俺が恥ずかしさにもじもじしてるとこ見たかったのか。だったらよかったな願い叶って! お望み通りもじもじしてやってるよちくしょう。
 そして俺、ある意味すっごくちょろい男じゃないかって、今思った。
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