Tiny garden

世界に背を向けたひと(2)

 おかしな話だが、小坂と飲みに行く暇はないのに霧島たちと飲む機会はそこそこあった。
 もっともそれは酒よりも飯がメインの集まりだったからだろう。夏バテの恐怖はルーキーに限った話じゃなく、むしろ若いか若くないか微妙なラインの俺たちにこそ訪れやすい。まして俺も霧島もそれから安井も、揃って独身一人暮らしと来てる。暑くて多忙なこの時期こそ、外食で楽と栄養の一挙両得といかなきゃやってられない。残業の後に無理やりねじ込んででも、明日の為に飯を食いに行く。

 そういうわけで今夜も、男だらけのむさ苦しい集まりが催された。
 会場は普通の居酒屋。ちょっとくらい騒がしい方が居心地がいい、どうせするのはろくでもない話題ばかりだ。
「石田も三十になって、もう一ヶ月だっけ。気分はどう?」
 片膝を立てて座る安井が、にやにやしながら俺に聞いてくる。
 こいつは俺と同期だし、本人も三十路へのカウントダウンを始めているにもかかわらず、たびたび俺の歳をネタにしたがる。まだ他人事だと思ってるのか、あるいは三十になる覚悟がとっくの昔にできてるから、二十代にしがみつきたかった俺を笑う気になれるのか、よくわからん。
 ただ俺の方も、三十直前にがたがた騒いでた頃よりは慣れてきた気がする。
「ああその話題、振らない方がいいですよ」
 俺が刺身をつつきながらどう返してやろうか考えていれば、先に霧島が口を開いた。酒と一緒にサラダ麺を食べている。つまみに麺類をセレクトするのはこいつくらいのものだろう。
「何で?」
 安井が聞き返す。俺も訝しく思いつつ霧島を見る。奴はしかめっつらで答えていわく、
「聞いたところによると石田先輩、小坂さんに誕生日お祝いしてもらったそうですから」
「本当に? いつの間にそんなことになってたんだ」
「ちょっと待て霧島、何でお前がそれ知ってんだよ」
 色めき立つ安井、自慢するつもりでいたのにぎょっとさせられる俺。
 霧島だけは一人冷静に、でもうんざりした顔で続ける。
「小坂さんから聞きました」
「えー? 霧島もそんなに新人さんと仲良くなってたのか」
「仲いいってほどじゃないですよ。話はしますけど」
「なるほど、お前まで若い子にでれでれしちゃってるわけだ。長谷さんに言っちゃうぞ」
「違いますって! 聞き出すつもりはなかったですし、小坂さんも俺に教えるつもりはなかったみたいなんですけど、まあ、いつもの調子でばれちゃったみたいな……」
 微妙に言いにくそうにしながらも霧島は事の真相を明かし、俺もなるほどなと納得する。それはいかにも小坂らしい露呈っぷりだ。
 俺としてもそこまで秘密にしといて欲しい話でもない。むしろそういう噂が流れて小坂が他の男に狙われなくなるなら非常に都合がいい。霧島とはちょっと仲良くしすぎじゃないかと思うが――小坂もよく言うんだよな、『霧島さんは優しくて、とってもいい方ですよね!』って。むかつくので本人には教えてやらない。
「何だよ、そういうの隠しとくなって」
 安井はなぜだかむちゃくちゃ嬉しそうな顔になる。早速食いついてきた。
「そういえば前から可愛い可愛い言ってたもんな。そっか、遂に手まで出したか」
「手出すとかそういう段階でもない。単に二人で飲みに行っただけ」
「うわ、何て白々しいコメント。下心だだ漏れのくせに」
 傍で霧島が呻いたが、無視しておく。
「でも石田から誘ったんだろ? ある程度そういうつもりで」
「いや、誘ったのはこっちでも、最初に『お祝いしたいです』って言ってくれたのは向こう」
「へえ。小坂さん、意外と積極的だな」
「色気のないデートだったがな……あいつ飲み会のノリで乾杯の音頭取ろうとするし、俺に社会人としての訓辞みたいなの求めてくるし。色っぽい話題しろって言ってやったら、初デートが高校時代だとか言うし。またそれがろくでもない失敗談なんだよなあ」
 笑ったけど。
 三十歳になった憂鬱もちょっと吹っ飛ぶくらいその晩は笑った。色気がなかろうと楽しいデートには違いなかった。あいつはあいつで相当てんぱってたし――本人が言うには 『好きな人がいるとテンション上がって、態度でわかっちゃうタイプ』だそうだ。わかりやすいことこの上ない。
「何でもあいつ、俺の誕生日を厳かに、真面目に祝うつもりでいたらしいんだよ」
「厳かにと来たか」
「おかしいだろ? デートって自覚も当初はなかったみたいだし、指摘したらすごく慌ててた。もうあたふたして、恥ずかしそうにしちゃってな。まあそれはそれで可愛かったし、若い子と飲んでるなって感じでよかったけどな」
「甘酸っぱいなー」
 俺の話を聞いた安井も吹き出していた。それから座り直して、興味深そうに話を進めてくる。
「しっかし小坂さん、話聞いてる分にも可愛いな。今時珍しい類の子じゃないか? 真面目で素直で」
「そうですね、いい子ですよ」
 霧島もそれには同意したが、すぐに絶望的な表情を作り、嘆き始める。
「そんないたいけな子に嬉々として手を出そうとする先輩はどうかと思いますが」
「まだ出してないって言ってんだろ」
 一応反論はした。反々論された。
「もうじき出す気満々じゃないですか!」
「て言うか、いたいけな子に一から十まで教えちゃうのが楽しいんだろ。わかってないな」
「ああやっぱり変態だ。先輩は変態だ」
 うるさいっての。理解できないならしなくていい。
「俺はわかるけどな」
 霧島とは対照的に、安井は機嫌よく笑っている。
「何にも染まってない子って、ロマンがあるよな。全部自分のものにできそうって言うか」
「だよな。ほら見ろ霧島、安井はわかってる」
「だから今度飲みにも連れて来いよ。俺も話してみたいな、小坂さんと」
 そう言った時の安井がやたらいい笑顔で、ついでに含むような物言いでもあったから、俺は数秒考えてから一転態度を翻した。
「断る」
「何で?」
「言っとくが、俺が目つけてんだからな。お前はちょっかいかけんなよ」
「まだ手出してないんだろ? だったら石田にそれ言う権利はないな」
 本気なのかからかいたがってるのかわからない調子で安井は主張する。絶対駄目だ。
「それに、先にそう言ったのはお前の方じゃないか。『早い者勝ちだから目つけてるとか関係ない』って」
「……俺? そんなこと、言ったっけ」
 指摘されてもあいにく覚えがない。我ながら言いそうなことではあると思ったが、いつ言ったんだか。つか俺に記憶のないことをどうして安井が覚えてんだ。
 思い当たらなかったので、奴が答えを言うのを待つ。安井も俺の記憶力を当てにする気はなかったらしくあっさり教えてくれた。
「ほら、俺が秘書課の子たちと合コンやろうって持ちかけた時」
 そんなことが、
「あ? ……あー、ってお前それいつの話だよ」
 大分前にはあったな。本当に昔の話だ。
「何ですかそれ、初耳です」
 秘書課に彼女がいる霧島が、寝耳に水とばかりの驚きっぷりを見せる。そりゃお前は知らないだろうと思う。
「何年前だっけ、石田が当時の彼女と別れた頃」
「確か、三年前。結構長く付き合ってたんだがな」
「え! それも初耳ですよ先輩」
 だからお前には言ってなかったんだってば。
「そういえばちょうど今くらいの時期だったな。花火大会が間近に迫った八月」
「そうそう、お蔭で俺は花火が余計大嫌いになったよ、フリーになるわ合コン自体も流れるわで散々だった」
 その前から花火自体そんなに好きじゃなかったんだけどな。見たい奴の気もわかるが、そもそもあれがなきゃ小坂だってへこんでなかったんだしな……っていうのはさすがに逆恨みか。
「大体夏の暑い時にどんすかどんすかうるさいだよ。仕事中の人間の気持ちも考えろっての」
「情緒がないですね、先輩」
「お前に言われるとむかつくな……そりゃ霧島くんはいいですよねー。花火にはいーい思い出がありますもんねー」
「あっ、まだ根に持ってるんですかそれ。いいじゃないですかもう」
 その忌まわしき三年前。まだ営業課の窓から花火が見れた頃、霧島は営業課に長谷さんを招いて彼女に花火を見せてやったりしたのだった。あんまり男になびかない感じだった長谷さんが霧島の誘いには乗ったって言うんだから営業課一同の動揺ったら半端なかった。当時、受付の長谷ゆきのと言えばその可愛さでちょっとしたアイドル的存在であり、彼女に笑いかけてもらえたらいいことがある、なんてジンクスまで流行っちゃったくらいの人気者だったからだ。
 俺と安井が合コンを企画した背景というか、ぶっちゃけ本命も長谷さんだったわけで、早い者勝ち云々もその時に出た台詞だったのだが……それも霧島という油揚げ泥棒のせいでお流れになりましたとさ。おしまい。
 まあ俺としちゃ、根に持つってほどでもなかったんだが。
 ちらっと安井に目をくれれば、奴は空きそうなグラスの底を眺めている。
「安井、何か頼むか」
「ん、そろそろ酒はいいや。食べ物だけで」
「じゃあ俺もそうします。締めにラーメンを……」
「お前また麺かよ!」

 適当に炭水化物を注文して、運ばれてきたそれらを食いながらろくでもない話は続く。
「それで先輩、何で振られたんですか」
「何だよ、俺の方が振られたって決めつけんな」
「違うんですか?」
「違わないですけどね! ……結婚してって言われて、すぐにしなかったから」
 突っ込まれるのも面倒なので、言った後で俺はジョッキに残っていた温いビールを呷る。
 実際ありがちすぎてネタにもしにくい話だ。だが世の中は得てしてそういう陳腐な出来事ばかり起こるもので、まさか自分の身に起こるなんてと逆に予想も想像もつかない。俺は当時二十七で、付き合ってた相手は二十六。世間的に見てもまあそろそろという時期だったのかもしれない。でもその頃はまだ家庭を持つなんて重たいことは考えたくなかったし、元々俺は軽薄かつ適当な大人だから、向こうの望みを叶えてやれなかった。
「それで別れちゃったんですか」
「まあな。それはもうあっさりと潔く見切りつけられた」
「その人は今どうしてるんですか? 連絡取ったりとかは」
「いや、もう結婚してるし。お蔭でこっちは身軽なもんです」
 別れた次の年には『結婚しました』ってハガキが届いてた。そんなものだ。ショートボブの似合う、結構気の強い子だった。可愛かったな。
「何だか切ない話ですね」
 身につまされたというわけではないはずだが、霧島は神妙な顔をしていた。
「長く付き合ってたのに、そんなことが別れる理由になるんですか」
 だからそんなもんなんだって。そもそもこいつが長谷さんと仲良くなり始めてからも三年経つってとこか。なら、むしろこいつらがそろそろ、なのかもしれない。
「他にも理由あったのかもしれないがな。大体そんなことって言っても、歳食えば当たり前の話ではあるだろ。俺だって今後はそういうの念頭に置いて、お付き合いしてかなきゃなんないだろうし」
 三十歳ってのはその点でも実に憂鬱な時期だ。実家に電話すれば親からも『まだなの?』的なことを言われるし、職場でもちらほらそんな話題を向けられたりする。まして同じ課の後輩に先を越されるのはほぼ確定しているわけだし、いろいろ、めんどい。
 だからと言ってあの時結婚しとけばよかったとは思いたくなかった。たとえ負け惜しみ込みだろうと。それに、今が身軽なお蔭で可愛い子にちょっかいもかけられるしな。
「じゃあ、小坂さんとは結婚を考えてるんですか?」
 次に霧島がそんなことを言い出したので、俺よりも早く安井が吹いた。
「い、いや霧島くんね。石田はまだ手も出してないって言ってんのに」
「けど、手を出すってそういうことじゃないんですか? 先輩だってたった今『考えてかなきゃ』って言ったばかりですよ」
 真面目な奴だから、なのか。霧島は小坂の件に関してはあれこれ物申したいらしい。
 茶化してもしょうがないのでこっちも正直に答える。
「そりゃまあ、いざって時は責任取るつもりくらいはあるよ。でも結婚とかはなあ……むしろ向こうが考えてないだろ」
 小坂なんてまだ二十三だし、仮にお付き合いなんてことになっても、すぐに籍入れるなんて考えたりはしないだろ。ああでも真面目さで言えば小坂も霧島とどっこいだから、将来的には、なんて思ったりもするかもな。本当のこと言うと、もっと歳の近い奴と一緒になる方が小坂の為にはなるんだろうが、……いや。考えないでおく。
 それよりももっと明るい妄想にしよう。小坂は多分いい嫁になる。日常的にてんぱって、ちょっとしたことではしゃいだり沈んだり恥ずかしがって真っ赤になったりして、傍で見てる分には退屈しない結婚生活になる。確かにそういうのも悪くないな、うん。
「小坂さんのこと、好きなんですよね?」
 霧島の問いに、俺は苦笑しつつ答える。
「好きだよ。じゃなきゃ連れ歩いたりしないって」
「……そうかなあ」
 納得のいかない顔をされてしまった。でも多分、俺がどう答えてもこいつは理解なんてしないだろう。
「何か先輩の言う『好き』って、随分軽く聞こえるんですよね。うちに来た新人がたとえば小坂さんじゃなくても、好きになってたんじゃないかなって」
「そんな仮定の話なんて知るか」
 営業課の新人が彼女じゃなかったら――そんなのは考えたって意味もない。
 ただ、霧島の言いたいこともわからなくはなかった。俺だって、俺じゃない三十前後の男が新入社員を口説いてるって聞いたら『おいおいそりゃ犯罪だろ』って思うよ。職権乱用だよなって。
 でも手を伸ばせば触れるような近くに可愛い新人がいて、しかもそいつが他の誰よりも真っ先に俺の名前を挙げてくれるくらい俺に懐いてて、仕事じゃなくデートの誘いでものこのこついてきてくれるんだから、そりゃ好きにもなるし、期待だってしちゃうだろ。それを軽いと言われるのは、確かにしょうがない。
 好みかって聞かれると、実のところそれほどでもなかった。小坂を可愛いとは思ってる。でもやっぱいろんな局面で若いなって苦笑したくなるし、もうちょっと落ち着いてくれててもいいよな。あと、慣れてない感じはいい時も、悪い時もある。恋愛と仕事を両立させることにいちいち悩むなとも思う。いいから黙って、とことん落ちてくれればいいのに。
 多少の不満はあれど、小坂が猫にかつお節レベルで魅力的なことには変わりない。そういった不満点もほとんどは若さゆえのものだろうし、付き合っていくうちにこなれていくはずだ。だから結局は何の問題もない。
「お前こそこないだから突っかかってきてるけど、何が不満なんだよ」
 逆に聞いてやれば、霧島は一瞬詰まってから、
「……それは。小坂さんは、俺にとっても可愛い後輩ですから」
 と答えたが、その答えも自分で納得いかなかったらしい。後で首を捻っていた。
「そんなの杞憂だよ。まだ小坂さんも、石田のものになっちゃうなんて決まってないんだし」
 安井にはそう言われた。
 自分でも散々思ってたことだが、他人に言われると若干、腹が立った。
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